第91話 最後の障壁
自動車並の速度を出すことができたのはあの一瞬だけだったようである。現在は、前と同じく自転車ぐらいの速度で飛行している。あの突進攻撃の直後、一気に倦怠感が襲ってきたから、調子を立て直すのに数十秒滞空することになった。どうやら、少しの間だけ、急激に飛行速度を上げることもできるようになったようだ。攻撃後の隙が大きいから使いどころはよく考えないといけないな。
残り時間も十分を切った時、ようやく通常視野でもやを捉えることができた。テイルの尻尾が時たま邪魔になるが、百合をぶら下げているおかげか、彼女が勝手に無効化してくれている。このままならどうにか間に合いそうだが、心なしかもやがどんどん小さくなっているように見えた。
そして、もやへとたどり着こうかというとき、俺は愕然とした。ここにきて、もやの前にアブノーマルが立ちふさがったのだ。それも二体。もやは徐々に消えかかっている。こうなってはアブノーマルと交戦する時間すら惜しい。こうなったら打開策は一つ。もう一度発動できるかは分からないが、あの急速発進を試すしかない。
「百合、しっかり俺に掴まってろよ」
「何をする気」
「もう一度、あの体当たりを使う」
言うが早いか、俺は足を蹴り上げる。空気の流れが俺を後押しする。これならいけそうだ。しかし、
「待って」
いきなり百合が口出しした。しかも、「降りて」という無茶な要求までしてくる。
「降りろって、テイルたちが追ってきているんだぞ。しかも、アブノーマルが立ちふさがっているし」
前門の虎後門の狼じゃないか。このままもやへと高速飛行で突撃したほうが安全に帰ることができそうである。
しかし、百合は口調を強めて「降りて」と降下を強要してくる。納得がいかないが、彼女なりに目算があるのだろう。俺はしぶしぶ百合の意見に従うことにした。
俺が高度を下げると、アブノーマル二体は進路を譲るように脇へ移動した。どういうことだ。もやを通せんぼするのなら分かるが、その逆なんて予想外だった。
減速したことで、当然テイルも追いついてくる。
「最後で油断したな。ここで仕留めてやる」
その宣言を実行せんと、尻尾が伸ばされる。ここで拘束されたら確実にタイムアウトだ。俺は再度飛行しようとするが、それより前にありえないことが起こった。
接近してくる尻尾へアブノーマルが進み出たのだ。尻尾はアブノーマルに巻き付き、そのまま締め上げる。あの行動は、まるで俺の身代わりになったようなものだったぞ。
更に、もう一体のアブノーマルも、仲間を尻尾から救おうと懸命に引きはがそうとしている。唖然と佇む俺に、百合が解説してくれた。
「彼らは私の仲間。たぶん、マスタッシュが手配してくれた」
「仲間ってことは、あのもやを守ってくれていたのか」
あのもやは人間の世界へと繋がりっぱなしになっている。すでにかなりの数の異人が人間の世界に現れているに違いない。それを阻止するガーディアンの役割を担ってくれていたのなら、かなり心強い。
「私とマスタッシュのほかにも、共存を望む異人はいる。たとえば、ちょっと前に倒されてしまったけど、セパレートもそうだった」
それについては多くは語ることができない。いや、口が裂けても語れない。
最初に身代わりになったアブノーマルは締め付けに耐え切れず、ぐったりと脱力してしまっている。すぐに放り投げられ、もう一体のアブノーマルがテイルの魔の触手の餌食となる。彼らには酷だが、このわずかな時間を利用させてもらうしかない。
俺がもやへと突入しようとすると、百合が立ちふさがった。
「異人が何回か通り過ぎたせいで、もやの座標が狂っている。このままでは、どこに飛ばされるか分からない」
「まさか、とんでもないところに辿りつくかもしれないってことか」
異世界から帰ったら異世界だったじゃ冗談ではない。最後の最後にとんでもない問題が発生してしまった。
「でも、座標を直すくらいなら、少しの時間があればできる」
「そうなのか。じゃあ、さっそくやってくれ」
それほど心配することもなかったようだ。でも、もやは今にも消えかかっている。それに、テイルがホーンをけしかけ、こちらへと突撃させてくる。もはや少しの時間でさえ待つことができない。
百合は、もやの中に手だけを入れて、呪文を詠唱し始めた。俺は超低空飛行でホーンの懐に潜り込み、体当たりをお見舞いする。両者ともに吹っ飛ばされるが、俺はなんとか滞空して持ちこたえる。
「逃がさんぞ、貴様ら」
二体目のアブノーマルも葬り去ったテイルは、その尻尾をこちらへと這わせてくる。あれに捉えられたら、タイムアウトは必至だ。もやも、通ることができるかどうかぐらいまで縮小している。まだか、早くしてくれ。
「終わったわ」
その言葉が耳に届いた瞬間、俺は百合を抱きかかえてもやへとダイブした。そのわずか数秒後に尻尾も侵入してきたが、すぐに引っこんでいった。おそらく、テイルはあのまま地団太を踏んでいることであろう。
もやの中に突入したはいいが、これで妙なところに出たら本末転倒だ。
「なあ、百合。本当に大丈夫か」
不安になって尋ねたものの、返答より先に高速移動に襲われた。俺自身が自動車並の速度で移動できるようになったおかげか、以前と比べると体が慣れてきた。しかし、悠長に会話できるかというと、そんな余裕はない。そもそも、もやが濃くなってきているので、百合の姿さえ視認できないのだ。
短いですが、これにて異の世界探索編は終了です。




