第85話 絶対零水
念のため、瞳の能力を使って湖の位置を確認してみる。マスタッシュから教えてもらった方角に、それっぽいものが見えてきた。最初にこの能力を使って百合を発見した時よりも少し近いくらいだ。そうなると、走って十五分ぐらいか。水をくんで元のところまで戻るとすると、本当にギリギリの時間になりそうだ。
一応、百合を先頭に、俺がその後を追走するという隊列だ。呆けているイメージとは裏腹に、百合はけっこう足が速い。ハイペースでマラソンをしてどうにか追いつけるくらいだ。純粋な最上位種異人だけあり、身体能力もそれだけハイスペックなのだろう。
「ねえ」
先導している百合が突然声をかけてきた。
「翼は、なんで、その冬子だっけ、彼女を助けようとするの」
「どうしてって、そりゃ熱を出して苦しんでいたら助けようとするのは当たり前だろ」
「人間というのはそういうものなの」
驚いたというか、感心しているような素振りだった。
「百合もさ、たとえばマスタッシュが熱を出したりしたら、助けようとは思わないのか」
「どうだろう。でも、たとえ戦って怪我をしても、放っておかれるのがオチ。ここでは、そういった弱者は淘汰される」
「なんかそれ、悲しいな」
「そうなの」
百合はただ首を傾げるばかりだった。
関わったことのある最上位種異人はそんなに多くないが、少なくとも彼らに感情はありそうだ。百合は何を考えているかよく分からないが、ブラッドは明らかな怒りをぶつけたりしてきた。しかし、どうにも俺たち人間とは感性が違うらしい。なんというか、殺伐とした戦闘狂というか。博愛だの、そんな類の感情を置き去りにしてしまったみたいだ。
そんなやつらに共存を説くとなると、戦争している軍人に「相手国と仲良くしましょう」と説教するようなものか。そんなたいそれたことを実行できる自信はとてもじゃないがない。
思案しながら走っていると、制限時間の半分が経過しようとしていた。ペースを上げたいところだが、帰り道を考えると無闇に体力を消耗するのは得策ではない。
ただ、目的地に関すると、それらしき湖が能力を使わなくても視野に入る距離まで近づいてきた。
「あれが絶対零水を汲むことができる湖」
百合も断言している。更に、心なしか空気がひんやりとしてきた。氷点下の水が流れるだけあり、この近辺は特段気温が低いのだろう。真冬とまではいかないが、薄手のシャツぐらいしか着ていないのではさすがに肌寒い。人間の世界では夏真っ盛りだから、上着なんて持ってきているわけがない。
やがて、問題の湖までたどり着いた。能力を使っていないと、向こう岸が見えないぐらいの面積がある。周囲は木々で覆われており、目を凝らせば水底が見えそうなほど透き通っている。ここに斧を投げ込めば、女神さまが登場しそうな雰囲気さえ漂う。
この水が氷点下だとはにわかには信じがたいが、試しに指先だけ水の中に突っ込んでみる。すると、その瞬間、あまりの冷たさに慌てて水から引き上げるはめになった。一瞬しか浸かっていないのに、しもやけになるかと思ったぞ。水というよりも、冷凍庫の中に指を突っ込んでいるみたいだった。どうやら、水温氷点下というのはあながち間違いではないらしい。
俺は、恐る恐る水筒の中に水を汲んでいく。下手に水そのものに触れると、衝撃で水筒を水没させてしまいそうだ。この湖に飛び込んで水泳しろなんて、真冬の洞爺湖で寒中水泳をしろと強要されているみたいなのだぞ。いや、水温はそれ以下だから、条件はそれよりも過酷だ。
手を震わせつつも、水筒の中を湖の水で一杯にする。そこで一息つくが、蓋もきちんと閉めておく。途中でこぼしたなんてことになったら、今までの努力が水の泡だ。水だけに。
「後は帰るだけか。ところで百合、お前の力で俺を人間の世界に送ることってできないか。瞳には悪いけど、この場で確実に元の世界に戻れるのならそうしたいし」
「構わない。けれども、狙った場所に転移するのは、発動までに時間がかかる。それでもいい」
「走って元の場所に戻るよりは断然早いはずだ。やってくれ」
百合は指を鳴らすと白いもやを発生させた。ただ、手のひら大ぐらいの大きさしかなく、これをくぐれというとかなり無理がある。そこから成長させていくつもりだろうが、その広がり方があまりにもゆったりすぎる。時間がかかると言われても、これで一時間くらい待たされたら本末転倒だぞ。
「これって、どれくらいかかりそうなんだ」
「人間の時間だと十分くらい」
できれば四十秒で支度してほしかった。素直に走って帰るよりは断然早いけどさ。
けれども、このまま何事もなく術を完成させてくれるほど世の中甘くはなかった。もやが顔の大きさぐらいまで達した時、あの悪寒が駆け巡った。まさか、こんな時に異人か。
その予感を現実化するかのように、岩陰からぬらりと不気味な人影が姿を現した。もはやおなじみとなったマネキン人形。またもアブノーマルか。
しかし、額にあるものが目に入るや、俺は愕然とした。そこにはカブトムシを連想させる立派な角が生えていたのだ。拳三つ分ぐらいの不釣り合いな角を突き出し、俺たちを威嚇している。
「冗談だろ、ここまで来て異人、それも上位種に見つかるなんて」
「あれは角ね。あの角で突かれるとものすごく痛い」
淡々と解説している場合ではない。それに、あの角が武器というのは明白だ。さて、どうする。百合の術が完成するまで後八分ぐらい。それまで耐え抜けば、人間の世界へとおさらばできる。相手がこいつ単体なら、俺が飛翔して注意を惹きつければなんとか時間は稼ぐことができそうだ。
そんな目算を立てていたが、それはすぐさま瓦解することとなった。