第83話 異人最上位種「口髭~マスタッシュ~」
幸い、俺の近辺に他の個体はいないようだ。ならば、ここは撃退しておいた方が得策だ。俺は上着を脱ぐと、それを腰に巻いて縛り付ける。そして、翼を出現させると、地面を蹴って天へと舞い上がる。
ここで調子に乗って高度を上げすぎると本末転倒だ。能力を発動するのは、空からの勢いを味方にして、手っ取り早く奴を撃退するためなのだ。
俺は空中で旋回すると、アブノーマルの首筋めがけ、回転脚を叩き込んだ。もちろん、それで倒せるはずもなく、アブノーマルは俺を引きずりおろそうと手を伸ばしてくる。俺が上昇して回避すると予測しているのか、その手は天をめがけている。
だが、その読みは外れだ。俺は高度を落とし、地表すれすれを滑空する。そして、がら空きになったアブノーマルの腹に頭突きをお見舞いした。その勢いで、アブノーマルは尻もちをつく。お前に恨みはないが、うろちょろされると困るんだ。非情なのは承知の上だが、しばらく眠ってもらう。俺は上昇し、呆けているアブノーマルの脳天にかかと落としを炸裂させた。
酩酊したようにアブノーマルはふらついていたが、やがて大の字に突っ伏した。もともといた世界で気絶したせいか、霧散することはない。起き上がってこないか不安だったが、こいつに徒に構っている余裕はない。「すまねぇな」とだけ言い残し、俺は再び走り出した。
少しばかり時間をロスしたが、当初の目的地が近づいてきた。物置小屋ぐらいの大きさがある巨大な岩石。その一辺に、人が通り抜けられるように穴が穿かれている。人工的に作られた洞穴とでもしておこうか。おそらく、異人たちの住居なのだろう。
百合がこの洞穴の中に入っていったのは確認済みだ。人間の居住区のようにインターフォンがついているわけではない。むしろ、入り口のドアさえ存在しないのだ。勝手に侵入したら、住居侵入罪が成立してしまうが、それを心配している場合ではない。すでに、二十分以上制限時間が経過してしまっている。
「失礼します」
とりあえず、中に響かせるようにして、侵入を宣言する。それに気が付いて百合が迎えに出てくれれば世話はないが、彼女にそんなおもてなしを期待すべくもなかった。さすがに上半身裸のままで来訪するほど無礼ではないので、腰に巻き付けてあった上着を着る。
洞穴の中は、大きな広間になっていて、中央に吊るされている松明が唯一の光源であるようだった。机にベッドに椅子と、生活に必要最低限の家具しか取り揃えられていない。内部の構造はその広間のみらしく、当然のことながら、侵入と同時に百合と鉢合わせすることとなった。
「……誰?」
「翼だよ。覚えてないのか」
「ああ。ハンバーガーの人」
俺の印象ってそれかよ。それに、第一声が「誰」って、こいつ記憶喪失というよりも、究極にもの覚えが悪いだけなんじゃないのか。
百合は、俺の世界で見た時と同じく白のワンピースを着用していた。ちゃんとクリーニングしたのかどうかは知らないが、ケチャップのシミは消えていた。
「見知らぬ顔じゃな」
百合のそばに、俺にとっても見知らぬ顔の老人が鎮座していた。齢百年はゆうに超えていそうなじい様だ。顔はしわくちゃで、腰が曲がっているせいか、百合よりも身長が低い。ほとんど禿げかけた頭髪とは対照的に存在感を放っていたのは、口元を覆う白い剛毛だ。クリスマスにプレゼントを配り歩くおっさんも腰を抜かすほど立派な髭を生やしていたのだ。
「ブランクよ、知り合いか」
「えっと、人間で、異人の協力者」
「もしや、瞳というお嬢さんのお仲間かの」
口髭をなぶりながら、好々爺とした笑みを浮かべる。瞳って、こんなところまで名が知れているのか。っていうか、俺、いつの間にか協力者にされているし。
「えっと、失礼ですがあなたは」
「申し遅れたかの。わしはマスタッシュ。異人最上位種『口髭』と言った方が分かりやすいかの」
予想はしていたが、百合と同じく最上位種の異人か。ここが異の世界である以上驚くべきことではないが。
それよりも、スルーしかけたが気にかかることがあった。
「マスタッシュさん。さっき、百合のことをブランクって呼んだのですが、それって、百合の本名ですか」
「察しがいいのう。そなたらの世界では百合と呼ばれているようじゃが、彼女の正式な名はブランクというのじゃ。なぜ、そんな名がつけられているかはよう分からんが。なぜなら、彼女が戦っているところを見たことないからのう」
「基本的に戦うのは嫌い。大抵逃げている」
とどのつまり、百合の能力は不明というわけだ。ブランクを日本語に直すとしたら「空白」かな。これがどう戦闘に役に立つのか皆目見当がつかない。
「ちなみに、マスタッシュさんはどんな能力を持っているのですか」
「わしはこれじゃよ」
そういうと、口髭が勝手にうねりだした。それは白蛇のごとくうねりながら、俺の体に這い寄ってくる。完全に不意打ちを食らった俺は、それに腕やら首やらを絡め取られてしまう。必死にもがくが、頑丈なロープで束縛されたかのようで、全く振りほどくことができない。
四苦八苦していると、白髭がするすると退散していった。マスタッシュは「カッカッカッ」と笑い声をあげると、
「わしはごらんのとおり、この髭を自在に操れるのじゃ。一度絡みついたら、そう簡単には外せんぞい」
そう自慢してきた。伸縮自在ってところは聖奈の尻尾と似ているが、こっちは束縛に特化した能力みたいだ。それに、あれだけの量の髭を縦横無尽に動かされたら、かわしきれるものではない。異人の最上位種だけあり、できるだけ敵に回したくない相手だ。