第77話 熱を出した冬子
共存を望む異人百合。彼女のことを冬子たちに話そうと画策するが、なかなかいい機会がない。試しに冬子に「人間と共存しようとしている異人がいるとしたらどうする」なんてメールを送ったが、「寝言は寝ていいなさい」と軽くあしらわれてしまった。
さっさと所長に連絡して事務所に行けばいいのかもしれないが、高校生の夏休みには夏期講習という余分な行事が含まれている。半日だけとはいえ、休み期間中でも数日は学校に行かなくてはならないのだ。篠原のように、午後から部活があるやつはまだいい(それでも、勉強してから部活はかったるいと嘆いていた)が、俺のように帰宅部の人間は、無闇に数時間を潰されるため、鬱陶しいことこのうえない。
とはいえ、そんな迷惑行事も今日で終了し、これから数週間は完全に毎日が日曜日になる。八月の終わりにまた待ち受けているものの、気にしたら負けであろう。
ところで、この夏期講習で気になったことがあったとすれば、最終日に冬子が休んだことである。先生は「体調不良で休み」と説明していたが、あいつも風邪を引いたりすることがあるんだな。イアンモールに出かけた時に咳をしていたが、それが悪化したのかもしれない。
その時は、特に気にも留めていなかったが、これが思わぬ事態を巻き起こすことになるのだった。
それが表面化したのは、夏期講習終了の翌日のことであった。土曜日の朝という、最もゴロゴロしていたい時間帯に、突然電話が鳴らされたのだ。寝ぼけ眼をこすりつつディスプレイを表示させると、そこには「所長さん」の文字があった。
このパターンは、一か月ほど前にも経験した。あれと同じであれば、今回も一筋縄ではいかない事件に巻き込まれる可能性が高い。まさか、ブラッドが復讐しに来たんじゃないよな。
そんな懸念を抱きつつも、俺は通話ボタンを押す。
「もしもし。こんな朝早くにどうしたんですか」
「おはようございます、翼君。大変なことが起きてしまいました」
「大変なことってなんですか」
あくびをしながら体を伸ばす。我ながら危機感を感じさせない間の抜けた返答ではあったが、次の所長の言葉は俺を覚醒させるのに十分すぎる破壊力を秘めていた。
「お嬢さんが死にそうなのです」
「おいおいおいおい。死にそうって、冗談も大概にしてくださいよ」
「いえ、下手をすれば冗談では済まないかもしれません。ちょっと前からお嬢さんは調子を崩していましたが、昨日急に高熱を出して寝込んでしまいました。夏期講習を休んだのはそのためです。そして、その熱が今日になってもまったく下がる気配がないのです」
「夏風邪をこじらせたってことか。病院には行ったんですか」
「それが、行きたくても行けない状態にあるんですよ」
どういうことだ。風邪を引いたなら、とっとと医者に診せればいいんじゃないか。それができないって、まずいことでもあるのだろうか。
疑念が渦巻く中、俺はお見舞いがてら事務所まで出かけることにした。話によると、渡や聖奈も駆けつけているらしい。それにしても、ただ風邪を引いただけなのに、ここまで大仰に騒ぎ立てるとは。電車に揺られつつも、俺は頭がいっぱいになり、三駅先のくせについ乗り過ごしてしまいそうになった。
いつも通りの道を行き、事務所までたどり着く。そこにはすでに、渡と聖奈が待ち構えていた。
案内されたのは、事務所と隣接しているという冬子の部屋であった。六畳ほどのスペースに、勉強机や本棚、ベッドが設置されている。女の子の部屋に通されるのは初めてだが、思ったよりも緊張感はなかった。部屋全体が質素で、女の子めいたファンシーグッズが皆無というのが要因だろうか。床も整然としていて、本棚に並べられている本も、それぞれの巻数や作者別にきちんと分類されていた。
なお、「この部屋の空気を吸ったのはわいの方が先なんやで」と渡からくだらない自慢をされたが、深く取り合わないことにする。
ベッドに寝かされている冬子は、タオルケット一枚をかけられているだけにも関わらず、かなり暑苦しそうだった。夏だからそうだろうと思うかもしれないが、この部屋はクーラーが作動しており、俺たちにとっては少し肌寒いくらいなのである。
冬子は荒い息遣いであるものの、不思議と咳を発することはなかった。熱風邪なのだろうか。傍目からすると、本当にただの風邪だとしか思えない。所長が仰々しく騒ぐ理由が正直よく分からないのだ。
「見たところ熱を出しているだけのようですが、早く医者に診せた方がいいんじゃないですか」
「阿保やな、あんさん。それができへんからこうしてわいらが呼ばれとるんや」
その言い草にむかっ腹が立ったが、仲裁するかのように、聖奈が体温計を割り込ませてきた。
一般家庭でよく使われる電子表示タイプの体温計だ。特に変わった点はないようだが。唯一あるとしたら、表示が「四十二度」のまま停止していることぐらいか。
「今朝、所長が冬子の体温を測ったものだ。四十二度を指して、そのまま壊れたらしい」
体温計が壊れるって、もともと故障していたかもしれないじゃないか。だが、それだけで騒ぐほど、所長たちは愚かではなかった。
もしやと思い、冬子の脇に温度計を置いてみたらしい。その通り、冬子と一緒に温度計が添い寝していた。かなりシュールな絵面ではあるし、渡が「温度計め、羨ましいことしおって、始末したる」と呟いているのが鬱陶しかったが、それが表示している温度を前に、俺は愕然とした。
その温度計は五十度を指したまま停止していたのである。