第75話 人間世界に訪問した百合
「人間のことを知りたい」
「……え?」
漠然としすぎて、理解が追い付きませんでした。
「私は、ある目的のために人間のことをもっと知る必要がある。だから、いろいろ教えてほしい」
「ちょっと待ってください。人間のことを教えるのは構いませんけど、それでどうするつもりですか。まさか、その情報をもとに、よからぬことをするんじゃ」
「どうだったかはよく覚えていない」
「覚えていないって、あなた」
「でも、悪いことはしない。むしろ、異人と人間の双方のためになる」
服の裾を握って、まじまじと訴えかけてきます。正直、あまり気が進まないのですが、彼女には異人から助けてもらった恩があります。それを無為にするわけにはいきません。また、彼女の協力がなければ脱出できないというのも確かです。
「……分かりました。でも、教えるにしても、実際に私たちの世界を見ながらの方が都合がいいですよね。だから、まずは戻してもらえませんか」
「いいわよ」
深く考えることなく、彼女は承諾した。とっさの思い付きにしてはよくできた誘導尋問だと思います。これで、元の世界に帰るという目的は果たせるわけですから。
彼女が指を鳴らすと、辺りに白いもやが立ち込め始めました。これは既視感があります。マネキン人形みたいな異人が私を連れ去った時に生じさせたものと同質です。
けれども、そのもやは彼女の顔の付近を漂ったまま、なかなか大きくなりません。
「他人を意図した場所に送るには時間がかかる」
そういう言い分でした。カップラーメンが三個ぐらい作れそうな時間をかけて、ようやく、人間が通ることができるぐらいにもやが成長しました。
「これをくぐれば元の世界に戻れる」
彼女に促され、私は慎重にもやの中を進んでいきます。次第に視界が白く覆われ、自分がどの方向に進んでいるのかも分からなくなってきました。
異の世界に拉致された時は気絶していたので気が付きませんが、空間を移動するときはかなりの高速移動をしているようです。ジェットコースターに乗っている気分とでも言うのでしょうか。おまけに、まともに周囲を視認できないので、私は訳も分からず悲鳴を上げるばかりでした。
ようやく解放された先は、あの空地でした。空は薄暗くなっていますが、化け物と遭遇した時からするとそんなに時間が経っていないはずです。まだ、異世界にいるのではと半信半疑でしたが、少し歩いてみると見知った住宅街にたどり着きました。通り過ぎる人々は、もちろんあんな化け物なんかじゃありません。とりあえず、元の世界に戻ることはできたようです。
あの少女にお礼を言おうと、私は振り返りました。しかし、少女はいつのまにやら姿を消しています。自分から人間について教えてほしいと懇願しておいて、勝手に消えるなんて不可解な人です。とにかく、あまり遅くなると親に心配をかけるので、私は帰路に着くことにしました。
何事もなく家までたどり着き、そのまま二階の自分の部屋に直行します。一時間足らずの出来事とはいえ、この世のものとは思えない体験をしたのです。どっと疲れが出て、買い物してきた服を放り出してベッドに倒れ伏しました。
「お待たせ」
そんな私の前に突然出現した少女の顔。私はけたたましい悲鳴をあげながら、ベッドから転げ落ちます。
「瞳、そんなに騒いでどうしたの」
下の階から母親が不審そうに声をかけてきました。
「な、なんでもないです。えっと、あれが出たの、あの、ゴキブリが」
「ゴキブリ? 二階にまで出るなんて、あんた勝手にお菓子でも食べたんじゃないの。さっさと退治しておきなさい」
まったく、淡泊で失礼な母親です。それよりも、この少女です。白い服に白髪と、あの異空間で出会った少女と特徴が一致しています。いや、一致どころか、ご本人でしょう。
「あなた、どうやってこんなところに」
「一度、異の世界に戻って、あなたの気配を追ってきた。異人は、人間に存在を知られてはならないって掟がある。だから、人間の世界ではあまり長い時間は滞在できない」
「存在を知られてはならないわりには、公然と私と接していますよね」
「少なくとも、ここらの人間全員に知られなければ大丈夫だと思う」
つまり、「異人」という存在が、私たちの社会に広まってしまったらアウトということですね。個々人の間で知っているだけ、あくまで噂の域を出ないうちはセーフということでしょうか。
「ところで、さっきのゴキブリって何」
「ゴキブリは、害虫ですよ。カサカサ動く気持ち悪い奴」
「アブノーマルみたいなのかしら。あれもカサカサ動くわ」
その言葉通り、アブノーマルがカマドウマみたいな動きで移動するのを目撃したのは、これよりずっと後のことです。
「ゴキブリについてはなんとなく分かった。他にはない」
「そうですね。それよりも、あなたの名前が分からないと、どうにもやりにくいですし、まずは名前を聞いてもいいですか」
タイミングを逃して、ずっと聞き損ねていました。すると、彼女はとぼけた顔で切り返してきます。
「名乗るときは、まず自分からって聞いたことがある」
それは私も聞いたことがあります。でも、このタイミングでそれを持ち出されると、ちょっと頭にきます。
「私は、瞳です。で、あなたは」
「……なんだっけ」
さすがに殴りたくなりましたが、彼女はあくまでも命の恩人です。それに、できれば野蛮なことはしたくありません。
「でも、前に人間の世界に来た時に、名乗っていた名前ならある。確か、百合」
「百合、ですか」
真っ白な彼女にはぴったりの名前です。自称なのか、他称なのかははっきりしませんが。
その後も、色々と質問してくる彼女の相手をしましたが、どうにも彼女は記憶喪失の部分があるようです。会話の途中で「覚えていない」と連発してとぼけるので、そう思っただけですが。ただ、彼女の知っていることは、異の世界のことにしろ、人間の世界のことにしろ、断片的でしかないというのは確かなようです。