第71話 ハンバーガーパニック
ああ、そうなんだ。そりゃ、大変……。
「ウソだろ」
「ウソを言ったら泥棒になるって聞いたことがある」
そのことわざはどうでもいい。考えてみれば、この瞬間までお金を使う機会がなかった。あのバスも、無料の送迎シャトルバスだったし。
「お客様、如何なされました」
店員がスマイルを維持したまま催促してくる。心なしか、後列のおばちゃんが地団太踏んでいるような。まさか、ここまで来て「お金を持ってないから注文しない」なんて打ち明けるわけにもいくまい。それに、せっかく注文したダブルバーガーを棒に振るのも惜しい。
「仕方ない。特別に好きなのをおごってやる」
「そう」
俺がこっそり耳打ちしたとたん、百合はゆっくりとメニューの一番上を指差した。その先にあったのは「ゴールデンバーガー」。某ビジュアル系ロックバンドがプロデュースした特別商品で、単価は通常のハンバーガーのおよそ十倍。俺のダブルバーガーと比べても二倍ぐらいの差がある。
財布を持つ手が震えたが、ここで「もっと安いのにしてくれ」なんて懇願するわけにもいくまい。そんな真似をしたら、男がすたるというものだ。
結局、なけなしの小遣いを使い、ダブルバーガーとゴールデンバーガーを注文した。こいつ、確信犯じゃないのか。
向かい合うように座ったテーブルの上でも、そのゴールデンバーガーは異様な存在感を発揮していた。パンズが金色に近い色というだけでも珍しいのに、パティやらトマトやらレタスやらチーズやら、ハンバーガーの定番の具材がこれでもかというぐらい挟まれている。それだけボリューミーであり、こんな小柄な少女よりか、メタボ体型のおっさんが好んで食べそうな代物だった。
「こんなすごいのを頼むなんて、百合はひょっとしてハンバーガーが好きなのか」
「そうでもないわ」
「じゃあ、なんでこんなのを頼んだんだ」
「なんとなく」
そんな理由で、最高級品を選ばれたらたまったものじゃない。
案の定、俺が食べ終わった時、ゴールデンバーガーは半分以上残されていた。持ち上げるものの、すぐに崩れ落ちそうになり、おっかなびっくり少しずつ食べているのだ。よほど顎が大きくないと、あんなのは一口でかぶりつけそうにない。
手暇になって、彼女の食事風景を観察していると、唐突に口の前にハンバーガーが迫ってきた。
「食べる?」
「い、いや、いいのか」
超巨大なパンズを前に俺はたじろぐ。正直、食べかけのハンバーガーを出されても困るが、食べかけというのが曲者だった。だって、このハンバーガー、数秒前まで百合が食べていたものだろ。そいつを食べろってことは……。
「ものすごく食べたそうにしてる」
「食べたそうというか、そういうわけじゃないんだけどな。それに、こんなにたくさん食べられないし」
「それもそうね」
すると、百合はハンバーガーを引っこめ、四分の一ぐらいをちぎり出した。少しだったら食べられるとの判断だろうか。その破片をまた突き出してくる。
ここまでやられたら食べないわけにはいかない。俺が口を開けると、その中にパンズを入れられる。そいつは、俺の口の中の大部分を制圧した。パティやらトマトやらカオスな具材に混じって、甘ったるい味がするのは気のせいだろうか。
俺が咀嚼していると、百合は満足そうにハンバーガーをかじりつこうとする。だが、中途半端にちぎったのが仇となった。形態を維持できなかったパティが崩壊を始めたのだ。
俺が声を上げた時はもう遅かった。にじみ出てきたケチャップやらソースが白いワンピースにしたたり落ちたのだ。純白の生地に嫌が上でも目立つ二直線。
「おいおい、大丈夫か」
「台無し」
半ば自業自得とはいえ、百合は頬を膨らませ、俺を睨んでくる。俺のせいではないはずだが。
紙ナプキンでふき取るも、シミになってしまったようだ。これはクリーニングに出さないと無理だな。
「これは早く着替えた方がいいな。でも、家が分からないんだろ。どうしたものか」
「服ならこの下にあった」
「呉服店ならあるけどな。まさか、俺に着替えを買えっていうんじゃないだろうな。さすがにそんなお金はないぞ」
見ず知らずの少女にハンバーガーをおごったうえ、服までプレゼントするってどんだけお人よしなんだ。孤児院に寄付してた虎のマスクの人ならやりかねないが、俺はそこまで善人ではない。
だが、百合は洋服に興味津々なようで、急かすように下の階へ行くよう促してくる。俺は肩をすくめるが、彼女が能動的に興味を持ったのだ。ひょっとしたら、これが記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。
フロアを歩いていると、今まで以上に視線が集中する。白いワンピースにケチャップのシミをつけた少女と並んで歩いていたら誰しも振り返るだろう。おまけに、百合は「はぐれないように手を握っている」という約束を律儀に守っている。
エスカレーターを降り、2階の婦人服売り場へとたどり着く。まだ夏物に力を入れているのか、色とりどりの涼しげな衣装が目立つ。そんな中、俺はとある存在に過剰な警戒心を抱く羽目になった。
なんということはない。百合と色違いのワンピースを着用したマネキン人形だ。これまで、これがカマドウマみたいに這いずり回っているのを目撃してきただけに、急に動き出さないかつい身構えてしまう。
売り場内をあちらこちら歩き回った末、
「翼、あれも見てみたい」
百合はとある一点を指差した。くたびれてきた俺が胡乱げに視線を移すと、そのまま固まってしまった。
そこにあったのは、女性用の下着売り場だったのだ。