第69話 記憶喪失の少女
冗談も大概にしてくれ。少し前も、ただのクラスメイトだと思っていた瞳から突然「異人」という単語を聞いたばかりだ。それなのに、今度は見ず知らずの少女からいきなり異人だと指摘されるなんて。
「もしかして、異人のこと知ってるのか」
「さあ、どうかしら」
ここは白を切るところじゃないだろう。あなた、さっきはっきりと「異人」って名指ししましたよね。
「えっと、どうして私はここにいるんだっけ」
「いや、それを俺に聞かれても困る」
「あなたはどうしてここに」
「どうしてって、あの化け物を見つけたからさ、追っ払ってやろうと思って」
「なぜだか知らないけど、それはあまりよくない気がする」
助けてやったのに、なぜ糾弾されなくてはならない。ツッコミたくなったが、ほけほけしている彼女を前にしていると、そんな気も削がれる。
それに、彼女の応答がかなりちぐはぐだ。正直、まともに会話できる気がしない。
「ともかくさ、ここにいると、またあの化け物に襲われるかもしれないから、さっさと帰った方がいいぞ」
未だに体がうずく。追手を呼んだのならいい加減出現してもいいはずだが、そんな気配もない。
彼女の方はというと、首を傾げて、
「どこに」
どうしようもない疑問をぶつけてきた。
「どこにって、自分の家に帰ればいいんじゃないか」
「そうか。でも、どうやって」
「知らないよ」
つい声を張り上げてしまう。怯えだした彼女を、俺は慌ててなだめる。言い方が悪いが、彼女が正常な精神状態でないことは、もはや小学生でも分かる。ちょっと待てよ。もしかして、彼女は……。ふと思いついたことがあり、俺はこんな質問をぶつけてみた。
「いきなりこんなことを聞くのも失礼かもしれないが、君の名前は」
「名前を聞くときは、自分から名乗るものって、聞いたことがある」
その返答は予想外だった。俺はたじろいだが、素直に応答することにした。
「俺は、翼って言うんだ。で、君の名前は」
これで、答えざるを得なかっただろう。だが、彼女の返答はうすうす予期していたとはいえ、面食うものだった。
「さあ、知らないわ」
もはや、確定してもいいだろう。
彼女は記憶喪失である。
異人についてもみ消そうと苦労する以前の問題だった。いや、それをはるかに超越する問題を抱えてしまったかもしれない。
「でも、花の名前だった記憶はある」
唐突にヒントを提示された。俺がたじろいでいるのもお構いなしだ。
人名で、なおかつ花の名前か。
「たとえば、桜とか」
「違うわ」
最もあり得そうな名前だと思ったが、違うのか。しかも、即答されたぞ。
「ひょっとして、ひまわりじゃないよな」
「……違うわ」
なぜ、今度は少し間が空いた。冗談で、日本一有名な春日部の五歳児の妹の名前を言ってみたのだが。
人名になりそうな花というと、意外と思いつかない。コスモスとかだと、完全にドキュンネームになってしまうし。思考の助けになるかと、彼女を観察してみる。相変わらず白い。見事なまでに全身を白一色で統一している。もしかしなくても、白が好きじゃないのか。
そうなると、白い花か。それで頭に浮かんできたのが一つだけあった。
「もしかして、百合とか」
彼女の目が見開いた。明らかに反応を示している。
「そう、かもしれない」
ぼそりと呟く。そのまま、俺を直視している。まじまじと見つめられて気恥ずかしいが、彼女にとっては、それどころじゃないのだろう。
「じゃあ、これから百合って呼ぶけどいいか」
「構わない」
「それで、話は戻るけど、本当に自分の家を覚えていないのか」
「どこだったかしら。遠いって記憶はある」
遠いだけでは、全く見当もつかない。極論を言えば、北海道もアメリカも同じ遠いの範疇に入ってしまう。
「自宅じゃなくてもいいから、何か覚えていることってあるか」
「うーん」
そのままだんまりを決める。俺は頭をかきむしりながら返答を待った。
正直、記憶喪失の少女の相手をしてやる義理はないのだが、中途半端に関わってしまった意地のようなものがあった。こうなったら、記憶の片りんだけでも取り戻させてやろう。異人のことを忘れさせるという当初の目的が迷子になっている気もするが。
ただ、俺は心療内科の医師ではないので、記憶喪失の治療法なんて知らない。むしろ、一介の男子高校生がそんなこと知っているはずがない。そんなやつがいたら、天才と褒めたたえてやる。
漫画とかアニメとかでよくやる手法だが、俺もそれに賭けてみることにした。
「えっと、もしよかったら、少しこの辺りを一緒に歩いてみないか」
そう言ったとたん、百合に細い目で睨まれる。
「べ、別に、誘拐するとか、そんなんじゃなくてさ。ほら、よくあるだろ。強く思い出に残っていることをまた体験すると、その拍子に記憶が戻るとかさ。何がきっかけになるか分からないけど、ひょっとしたら、これによって、記憶喪失が治ったりなんて」
「いいわよ、別に」
素っ気なく承諾される。一人でしどろもどろ説明していたのがあほらしくなるぐらいだ。こうして、記憶喪失の謎の少女百合を引き連れた俺の休日が始まるのだった。




