第58話 大阪からの訪問者
公立千木大学社会学部。学部棟第3講義室では「ジェンダー論」についての講義が始まろうとしていた。
男尊女卑がまかり通っているこの世の中で、男女平等はいかにして達成すべきか。
なんて、かっこよく自分が受けている講義について語ってみたけど、まともに聞いている人はどれくらいいるか。私を含め、単位を稼ぐために受けているって人がほとんどだろうし。
私もまた、必要最低出席日数をクリアするため、仕方なしに講義に出ていた。最近、事務所の方に入り浸りになっていて、こっちの方が疎かになりつつあったのだ。所長は口酸っぱく「大学生なんだから、もっと勉強してください」って言うけどさ。
高校までの教室に毛が生えたぐらいの面積の講義室にはちらほらと空席が目立つ。私の隣もまた然り。友人の江里菜からは「ごめん、バイトで講義に行けない。レポート課題出されたら教えて」というメールだけが残されていた。白状者め。まあいっか、私もこれと同じようなことを江里菜に押し付けているし。
講義開始まであと数分。あとは教授を待つだけという雰囲気の中、講義室の後ろのドアが勢いよく開け放たれた。そして、一人の男が駆け込んでくる。風邪か伊達かは分からないが、白いマスクをつけている。髪をオールバックでまとめ、迷彩柄のジャケットにジーンズと、野性味あふれる恰好だ。こいつ、どこかで遭難してたんじゃないのか。
「遅れると思ったさかい、間に合ってよかった」
その男は、無遠慮に私の隣に腰掛けた。間近で見ると、ボブさんほどじゃないが、かなりの筋肉質だ。それに大阪弁ってことは、地方出身者か。大学を機に一人暮らししている人もいるから、大して珍しくはない。
謎の大阪弁男が入ってきてからすぐに、教授も入室した。そこから1時間半は、睡魔との戦い。もっとも、隣は早々に寝息を立てていた。何しに来たのよ、こいつ。
特にレポート課題も出されなかったし、無事に講義は終了。この後は授業を入れてないし、事務所に顔を出すかな。今から行けば、冬子とかも帰宅している頃だろうし。
「なんや、もう終わったんか」
マスクを濡らしつつ、隣の謎の男が顔を上げる。大きく伸びをして、真っ白なノートを片づける。探偵のバイトをしているせいか、こういう不審な動向をされると、気になって仕方がない。
怪訝な目で観察していたせいだろうか。バッタリと、その男と視線が重なり合った。慌てて顔を逸らすが、後の祭りだった。
「ちょうどええ、あんさんに聞きたいことがある。あんさん、ここらの地理には詳しい方か」
「詳しいっていうか、それなりには」
生まれてこの方引っ越したことがないから、こいつよりは詳しいと言える自信はある。
「ちょうどよかった。こっちに来て日が浅いさかい、なかなか地理が覚えられんであかんわ」
「もしかして、大学を機に一人暮らししているとか」
「せや。よう分かったな」
賞賛の拍手を送られるが、実に簡単な推理だ。私の周りでも、地方から出てきている人が少なくない。
「ほんで、本題やけど、牧野台って知っとるか」
「牧野台なら、千木線でここから7駅先だぞ」
「意外と近いな」
「っていうか、あんた牧野台に何か用でもあるの」
正直、あそこは特別目立った観光施設はない。あるとしたら、最近郊外に建てられた大型のショッピングセンターぐらいだ。
興味本位からそんな質問をしてみたのだが、彼の返答に私は度肝を抜かれることになった。
「いやな、夏木探偵事務所ってとこを探してるんや」
「夏木探偵事務所だって」
まさか、こんなところでその単語が出るとは思わなかった。あの事務所は、言っては悪いが、牧野台周辺ぐらいでしか認知度がない。それを、わざわざ県外出身者のこの男が探しているなんて。
「どうかしたんか」
私が絶句していると、男は不審そうに声をかけてきた。
「あ、いや、ちょっと驚いただけだ。まさか、私のバイト先を探してるなんて」
「偶然やな。そこでバイトしている人と出会えるなんて。ちょうどよかった、そこまで案内してくれへんか」
うっかりこぼした失言に、私は口を覆った。悩むまでもなく不審者と断定できそうなこの男を、簡単に事務所まで招いていいものだろうか。
だが、ここで断ったりしたら逆に怪しまれる。それに、もしかしたら、仕事の依頼をしに来たかもしれない。そうだったら、所長の仕事を潰すのは申し訳ないな。
「分かった、案内したげる。ちょうど、私もバイトに行こうとしていたところなんだ」
「おおきに。いやあ、助かったわ。たどり着けへんかったら、どないしようと思っとったところだったんや」
馴れ馴れしく肩を叩いてくる。正直うざいが、これが大阪人のスキンシップというものなのか。たぶん、こいつだけのオリジナルだと思うけど。
「そういや、名前聞いてなかったな。お互い呼び合うのに困るやろ。わいは、牙城渡っていうんや。あんさんは」
「尾崎聖奈」
「聖奈はんか。よろしゅうな」
単に事務所まで案内するだけなのに、よろしくもクソもないが。でも、これからお客さんになってくれるかもしれないからな。とりあえず、差し出された手を握っておく。
大学の最寄り駅弥生坂は、構内を出てすぐにある。千木大学だから、千木駅の近くにあるのではと思われるかもしれない。確かに、理科系の学部が集まる千木キャンパスは千木駅が最寄り駅だが、私が普段通っている弥生坂キャンパスは、その名の通りこの弥生坂駅の近くにあるのだ。
次の電車まではあと5分くらいあるか。
「悪い。ちょっと所長に連絡入れていいか」
「かまへんよ」
私は、ホームの隅に移動し、事務所に電話をかけた。
何度かコールが鳴らされたのち、所長が電話口に出た。
「もしもし、所長。ごめん、ちょっとしたトラブルがあって。なんかさ、事務所を探しているって言う変な男と出会ったのよ」
私は、渡のことを横目で確認しながら、その特徴を伝えた。
「で、名前は牙城渡っていうんだけど。……え、端から事務所に来る約束になっていたって。そんなの聞いてないんだけど。は? 言い忘れた?」
あの抜け作め。しかし、所長が語る、約束していた来訪者と牙城渡の特徴は見事に一致していた。エセ大阪弁をしゃべる、マスクをつけたワイルドなオールバック男って、どう考えても私の数メートル先にいるあいつしかいないじゃない。
「分かった。できるだけ早くいく」
そう締めくくると、通話を切り、渡と合流した。
それにしても、単なる相談者ではなく、あっち関係での来訪者だったとは。その事実を聞かされ、私は彼がしているマスクが気になって仕方がなくなるのであった。