第38話 奈落の底の亡霊
私が異人の存在を知ってから1か月後。ついに、運命のあの日が訪れてしまう。
世間としては、ゴールデンウィークの真っただ中だ。学校や会社が休みということで、こぞって行楽に出かける。私たちもその例に漏れず、父の運転する軽乗用車でハイキングに来ていた。私が本ばかり読んでいるので、「少しは運動しないと体に毒だ」と是が非でもアウトドアに連れ出したかったらしい。
しかも、登山愛好者に聞き込みし、初心者向けに人気がある隣県の山を割り出すほどの熱の入りようだった。
もっとも、登山で一番初めに根を上げたのは、提案した父当人であった。私と母は異人の力を得ているためか、人並み以上に体力があるので、当然といえば当然だ。
山頂でお昼ご飯を食べたのち、下山。空が紅暮色に変わる頃合いに麓までたどり着いた私たちは、あとは家まで帰るのみとなった。
国道までは、曲がりくねった山道が続く。行きは少し早めに出たので、すんなりたどり着いたが、帰りは渋滞に巻き込まれるかもしれないと父は目測を立てていた。行きでも1時間ぐらいかかったから、それ以上は覚悟した方がいいということか。
斜面とカーブが連続しているせいで車酔いしそうだ。私は車窓から流れゆく景色を眺めていた。紅から漆黒に移り変わるにつれ、広がりゆく木々も影に覆われていく。窓にもたれかかっていると、ついうたた寝しそうになった。
このまま何事もなく国道に達する。車内にいる誰もが、それが当たり前だと信じ切っていた。だが、悲劇は突然として訪れる。
「危ない!!」
父が叫び声をあげ、急ブレーキを踏む。とっさにフロントガラスを見やると、そこには人影が写っていた。薄闇にまぎれたその姿は、言うならば亡霊。現実にはありえないだろうが、そんな感想を抱いたのには根拠がある。それを視界に入れた時、とてつもない悪寒が走ったのだ。
ふと、体が大きく引っ張られる。いや、車体そのものが斜めに傾いている。そもそも、地を走っているという感覚がない。
あの亡霊を避けるために父はハンドルを大きく切ったらしく、そのせいでガードレールを突き破ったようだ。急ブレーキもむなしく、私たちを乗せた車は奈落の底へ吸い込まれていく。
車内は絶叫に包まれる。もはや完全に操縦不能となった乗用車は、ひたすらに幹へと突っ込もうとしている。母は身を乗り出し、フロントガラスへと手を広げた。冷房など機能停止しているにも関わらず、冷気が充満していく。
やがて、樹木に激突すると思われた矢先、フロントガラスを突き破り、雪玉が放たれた。それから絶えることなく、雪玉が連射される。車内から吹雪が放たれているようだった。力加減で氷の塊ではなく、それに至る以前の雪を作り出しているのだろう。現実ではありえない勢いで、樹木に雪が降り積もっていく。
「冬子、椅子にしっかりと捕まってなさい」
母の命令に従い、運転席の座椅子を掴む。そして、激突音とともに、乗用車は雪の障壁にぶつかった。
普通なら、車体前方がへしゃげ、爆発炎上といったところだろう。けれども、積雪が緩衝材の役割を果たし、なんとかそれは免れた。とはいえ、全身に走った激痛で、頭がクラクラする。父に至っては、発動したエアバッグにもたれてぐったりしていた。
車から這い出て、周囲を伺う。母は気を失っている父をなんとか助け出そうとしていた。私も手伝い、車から引っ張り出す。顔を上げると、断崖絶壁がそびえ立っていた。あそこから車に乗ったまま落下したら普通は即死だ。母がとっさに氷の力を使ってくれなかったら、私たちもまた例外ではなかったかもしれない。
「ようやく見つけたぞ、ブリザードよ」
雑木林の奥より声がする。ふと、全身に衝撃が走る。不吉な存在が近づいてくる。確証はないがそんな予感がしていた。体の震えが止まらない。私はとっさに母にしがみついた。
静寂したその谷に響く足音。あやまたずして現れた影に私は声を上げた。谷底へと落下する直前に目撃した亡霊。それと同一のものが迫ってきているのだ。
一瞥すると、それは人間の男のようだった。白装束をまとい、金色の瞳を輝かせている。その瞳と呼応しているかのように、腰までかかる金色の金髪をなびかせる。かなりの長身でスリムな体型をしていた。
「そんな。まさか、あんたがここに」
母は激しく動揺していた。この男からは軒並みならない威圧感が放たれている。それは分かるが、それにしても、母が表立っておののいているのは初めてのことだった。
「そなた、異人の掟はわきまえておるな」
「そのつもりよ」
異人。少し前に両親より知らされた、異世界からの侵略者の名だ。それがこんな見ず知らずの男の口から出るなんて、にわかには信じがたかった。
「我々異人は、人間にその存在を知られてはならない。それゆえ、そなたを探し出すのは殊の外難航を極めた。この地域にいると絞り込めたのも、つい最近のことであったからな。加えて、人間世界からであれば、異人の接近を察知することができる。それを利用して、我々との接触を避けてきたのだろう」
「お見通しってわけね」
「そして、最も意外であったのは、人間の男をかどわかしていたことだ。人間社会に紛れるとは姑息なことをしてくれる。だが、その行為が意味することを分かっているだろうな」
後半は恫喝するような口調になっていた。私は身をすくめる。母がそっと手を差し出した。
「冬子、できるだけ遠くに隠れてなさい」
母の体にしがみつこうとしたが、その手で追い払われた。その手からは汗がしたたり落ちていた。私は幾度となく振り返りつつも、木の陰に身を隠した。
「人間世界へと落ちぶれた裏切り者よ。我が直々に成敗してくれよう」
男が動く。しかし、そう思った時にはすでに母の目前へと移動していた。速い。母は氷の玉を発動しようとするが、その手首を握られる。
男はそのまま母を持ち上げた。裾からのぞく腕は、いつのまにやら筋骨隆々としていた。
「剛腕。このまま首をへし折ってやろうか」
母は苦悶の表情を浮かべるも、氷の玉を発生させ、それを男の胸にぶつける。途端、腕から解放され、母はせき込む。
「こんなものか。最上位種、氷の女王と恐れられた女が落ちぶれたものだ。まあ、無理はないか。こんな機械をかばうという愚行を犯したのだからな」
その視線の先にはフロントがへしゃげた乗用車がある。父はそれに寄りかかるようにして寝かされている。
男は髪の毛を数本引っこ抜くと「頭髪」と呟いた。すると、その髪の毛が針のように硬化した。
「私が車をかばったですって。冗談もいいところね」
「ではなぜ、あのような力を使った」
「決まってるじゃない。家族を守るためよ」
「愚かな」
そう言い捨てると、針と化した髪の毛をダーツを投げる要領で構える。その標的を悟った母は、目を見開いた。すぐさま男の腕に寄りすがるが、簡単に振り払われる。
「家族。つまりは、そなたをたぶらかした人間のことであろう。理由はどうあれ、異人であるそなたが人間を守るなどもってのほか。よって、簡単には殺さん」
氷の玉をぶつけられるが、男はひたすらにとある一点を見据えるだけだ。
その先にあるのは、間違いなく私の父だった。