第173話 空白の副作用
異人の力を受け継ぐときは、全身に多大なる悪寒が走る。しかし、百合との接吻の後に訪れたのは快楽であった。空中遊泳しているかのような解放感に浮足立ってくる。俺はどうしてこんなところにいるんだ。それに、外は極寒にも関わらず、ここはとてつもなく暑い。
そりゃ、火事になっているから暑いに決まっているか。いや、火事だったら逃げないと。ちょうど壁が空いているし。
でも、なぜだか逃げちゃいけない気がする。足が一向に動こうとしないのだ。怖くてすくんでいるのではない。ここで為すべきことがあったはず。
思い悩んでいると、真正面からストレートジャブを入れられた。誰だよ、いきなり殴って来る無法者は。しかも、女、それも女子高生ぐらいの娘じゃないか。
彼女とすれ違いざま、その瞳を目撃する。紅と蒼。人類にしては珍しい配色だ。こんな眼をした人物がいたような……。アニメの世界の話か。いや、もっと近接的だった。それこそ、毎日のように出会っている人物だったと思う。
更に回し蹴りを喰らい、俺はたたらを踏む。肉薄して執拗に拳を振るう少女。理不尽な暴力に耐え忍んでいると、痺れを切らしたのか自ら距離をとる。
そして、右手を広げるや、炎に囲まれているにも関わらず、涼しげな風が俺の体を撫でた。この冷気、どことなく懐かしい。ここ最近になって、しょっちゅう体感しているような。それを放つオッドアイの少女。そうなると、あいつは……。
「冬子か」
そう叫ぶと、彼女は身を震わせ、冷気を鎮静化させた。百合じゃあるまいし、こんなお惚けを披露してどうする。己を叱咤するかのように、顔を叩く。俺は異の主により暴走させられている冬子を説得しようとしていたんだ。それなのに、その相手の事すら忘れそうになるなんて。
「その様子だと、すでに副作用が発揮されているようですね」
愕然としていると、百合が声をかける。
「空白により攻撃を軽減するたび、記憶を失うリスクが高まります。説得したいのなら、できる限り攻撃を受けないようにすることです」
頭がぼやっとしてきて、なかなか内容が入ってこなかったが、要するに、冬子の攻撃を受けてはまずいってことだろ。
出鱈目に暴行を続ける冬子に対し、俺は翼と瞳を駆使して逃げに徹する。
「もうやめるんだ、冬子。異の主は仇なんじゃないのか。そんなやつに屈服してどうする」
いくら呼びかけようと、停止する素振りすら見せない。一度収めた冷気も再度発現させ、躊躇なくつららを投射する。
本来なら凍傷になりそうな一撃だったが、雪合戦で雪玉をぶつけられた程度の威力しか感じない。空白能力の効果は絶大のようである。
その判明、弊害がないわけではなかった。接近して剛腕と頭髪のサーベルで交互に攻撃してくる冬子。牽制のために、爪を繰り出そうとする。しかし、いくら爪を伸ばそうとしても、両手とも変化が生じないのだ。
そもそも、どうやって爪を自動的に伸ばしていたんだ。今までは半ば無意識に能力を発動できていたのに。勝手に爪を伸ばす方法を知っている方が異常だが、そこはこの場で言及することではない。重要なのは、突然爪が使えなくなったということだ。
ならばと、距離をとって尻尾を発動させようとする。だが、こちらもまた臀部に変化する兆しがない。そこを逆に、冬子の尻尾が足払いをかける。俺はとっさに翼を広げて天へと逃れる。
これで一安心。そう思ったが、異変はついにこの翼にも及んだのだ。俺の意思と反し、勝手に羽が飛び散っていく。もはや高度を維持することすら困難になり、強制的に地上へと引き寄せられる。必死にもがくが、重力に抵抗することなど土台無理であった。
そして、落下地点には冬子が待ち構えていた。角を発動した額で頭突きを放ち、それをまともに受けた俺はそのままはね飛ばされる。
上位種異人のホーンの技を鑑みると、高速道路を走る乗用車により交通事故を起こされたぐらいの被害は出ているはずだ。実際は、不時着の際に腰を打っただけで、胸は少しヒリヒリするだけだ。
冬子の猛攻をことごとく軽減してはいるものの、能力が思うように発動できない。俺の中で何が起きているというのだ。
「やはり、危惧した通りですね。あなたより感じられる異人の気配が急激に弱くなっています」
「それってつまり」
「空白は異人の能力を無効化する能力。それを体内に有している場合、当然のごとく、他に持っている異人の能力も無効化されてしまいます」
もはや、異人の能力を使うことはできない。嘘だと思い、再度爪を伸ばそうとしても、一向に伸びる気配がない。
慌てふためいていると、冬子が血しぶきの弾丸を放ってくる。俺はとっさに地面を蹴りあげる。すると、翼が広がり、わずかな間ではあるが滞空することができた。安堵して気を抜くと、すぐに落下してしまったが。
「どうやら、直近で手に入れてなじみの薄い能力から消えているようです」
「翼は俺が最初に手に入れて、一番よく使っていた能力。だから、副作用が及ぶのが遅いってわけか」
そうはいっても、持ちうるすべての能力が消えるのも時間の問題だ。その一方で、冬子はほとんどすべての異人の能力を駆使して襲ってくる。
おまけに、気を抜くと立ち続けることさえ危うくなってくる。そのうえ、自分がしようとしていることすら、あやふやになる。自我を保つことすら困難なのに、そんな状態で我を失っているやつを正気に戻そうとしているのだ。まさに、狂気の沙汰ではないか。