第172話 翼の決断
苦悩する時間も与えてはくれないのか、冬子は火の玉と氷の玉をアトランダムに投げつけて来た。精密機器を巻き添えにし、そこから出火。フロアは次第に火の海に呑まれていく。ここに留まれば焼け死ぬというのは本能的に分かっているだろう。だから、冬子はまもなく建物外へ脱出するはず。
そうなってしまってはもはや手の施しようがない。町中を縦横無尽に飛び回られては、追いつくまでの間に甚大な被害をもたらしてしまう。
どちらにせよ、この場で手をこまねいていては、建物が焼け落ちるのと共に一巻の終わりだ。ここでどうにかして解決できるとすれば、考えられる方法は一つ。
冬子の暴走を解除するしかない。
「百合、人間が異人になるのであれば、その逆もできるはずだよな」
孝に渡。この両者は異人へと変貌したが、その後人間に戻ることができた。ならば、冬子もまた戻すことができるかもしれない。
でも、どうすれば戻せるのか、その条件が不明瞭なのだ。なので、百合がそれについての情報を握っているとするなら、そいつにすべてを託すしかない。
「確かに異人を人間に戻すことはできる。しかし、今の冬子にそれが通じるとは思えない」
「どうしてだよ。方法があるのなら、冬子を異世界に追放なんてしなくてもいいだろ」
喚いていると、百合は肩をすくめ、俺へと耳打ちをしてきた。
その内容とは、異人を人間へと戻す具体的な方法であった。
孝と渡が元に戻った事例を思い起こしてみると、百合が話した条件に合致する。渡の場合はこれに含めていいのか疑問視されるが、現状ではそんなことに悩んでいる場合ではない。
方法を知ったはいいが、自我が崩壊している冬子に通用するとは到底考えられないのだ。でも、これを実行しないと、冬子を見殺しよりもひどい目に遭わせることになる。
冬子は、執拗に壁を殴りつけていた。さほど労することもなく大穴が穿たれ、陽光が降り注ぐ。もはや逡巡する時間さえ許されない。俺は金属片を掴むと、冬子へと投げつけた。
背中にそれが命中すると、冬子はゆっくりと憎悪の眼差しを向けた。すくみ上りそうになるが、負けじと鼓舞して挑発する。
「冬子、お前の相手はこの俺だ。ここから出たいのなら俺を倒してからにしろ。それとも、俺に勝つ自信がないのか、雑魚」
正気の冬子にこんなことを言ったら即座に始末される。この罵詈雑言を受け取ったらしく、冬子は方向転換して襲撃を開始した。
「百合、すまないけど、少しの間だけ冬子の動きを止めてくれ」
「何をする気ですか。構いませんが、本当に少しの間しか止めることはできませんよ」
百合の右手から透明にほど近い糸が伸び、冬子の体に巻きついていった。異の主を捕縛した時に使ったものと同じ技だ。
異の主が力づくで破ったのだから、当然冬子もしばらくしたら自力で解除してくるだろう。でも、それは計算のうち。百合にある交渉を持ち掛けるだけの時間が稼げればそれでいいのだ。
「今更彼女の動きを封じたところで策はあるのですか。あまりに無益であれば、彼女をすぐにでも追放します」
「その決断はもう少し待ってくれ。ちゃんと策はある。それにはお前にお願いがあるんだ」
「私ができることには限りがありますが、どうする気ですか」
「俺に空白の能力を細胞注射してほしいんだ」
百合が固まったのも無理はないだろう。でも、冬子を説得するにはどうしてもこの能力が必要なのだ。俺が真顔で懇願すると、百合は肩をすくめた。
「この状況で彼女を鎮圧できるとすれば、空白を使うしかありませんね。しかし、この能力は非常にリスクが高いのです。
まず、異の主との戦いにより、攻撃を軽減するぐらいの効力しか発揮できなくなっています。過信していると、一方的に嬲り殺されかねません。
そして、副作用でどうなるかが予想もつきません。記憶を消す作用も弱まっているとはいえ、下手をすると、あなたが人間であるという記憶すら消去されるかもしれないのです」
その勧告にはさすがにたじろいだ。能力を消されるのならまだしも、俺が人間であることすら危うくなるというのか。
それでも、ここでやらなければ、無益な争いが繰り返されるだけだ。異世界に追放された冬子は、当然人間の世界を恨むだろう。そこから先どうするか。十中八九、異の主と同じことを繰り返すに違いない。
そんな大義名分なんか関係なしに、なぜだか分からないけど、冬子を見捨てたくない。ここで彼女を失ったら一生後悔する気がしてならないのだ。
「まもなく、冬子は私の捕縛の術を破り、進撃を開始するでしょう。もし、決断がつかないのであれば、術を解かれた瞬間に、新たな異世界の構築を開始します」
「その必要はない」
百合の発言を遮るように大声を上げた。覚悟を決めた俺は、深々と頭を下げた。
「俺に空白を細胞注射してくれ。頼む」
百合がどんな表情をしているのかは分からない。でも、つかつかと俺の方に歩み寄ってきているというのは分かる。百合は俺の顔に手を添えると、ゆっくりと持ち上げた。
「あなたに覚悟があるというのなら、この能力を授けます。ですが、決して無理はなさらぬよう」
そして、目をつむってそっと唇を重ねるのであった。