第171話 苦渋の決断
鼻や口を塞いでいたとしても、耳の穴、果ては素肌のわずかな毛穴からもそのもやは侵入してくる。俺も経験したことがあるから、その気持ち悪さは十分に察せられる。身の毛もよだつ所業に、冬子は耐え切れず悲鳴を上げる。
俺はそのもやを払おうと手を振るうが、それを巧みに回避し、なおも冬子の体内へ侵攻していく。ついには、すべてのもやが冬子へと取り込まれてしまったのである。
その途端、彼女から発せられる悪寒が急激に強烈になった。冬子が炎や氷を発動するときに悪寒の度合いが強くなるが、今の彼女からはその時よりもはるかに強大な覇気が感ぜられる。それに、この気配は覚えがある。それもそのはず。つい数分前まで味わっていた異の主のものと酷似しているのだ。
「どうだ。これこそ我が奥の手ぞ」
その声は冬子の口から放たれているのに、冬子のものとは思えないほど低く、身震いすら起こさせる代物であった。いや、これは冬子の声ではない。まさかとは思うが、
「異の主なのか」
その問いには答えず、歯を剥き出しにするばかり。その後、冬子の声で咆哮し、すぐまた異の主の声音に戻る。
「思った通り。いくら異人の血を受け継いでいたとしても、我が総合の力は制御しきれないようだな。この女の自我はまもなく崩壊する。当然、それに伴い我が意識も消え去る。しかし、残されるは我が野望のみ。こやつは持ちうる力を振るい、力によって世界を制圧する。まさに、史上最強の魔女となるのだ」
その宣言を最後に、異の主の声は消え去った。冬子の甲高い声で咆哮したかと思うと、いきなり俺の方に炎の玉を連発してきた。
その身を転がしつつ回避するが、冬子は翼を広げて滑空する。俺へと詰め寄るや、その腕で俺を殴り飛ばしたのだ。
女子高生のパンチにしては規格外の重たさ。勢い余って数メートル飛ばされるなんて、端的に言って異常だ。これを実現たらしめるには、それこそ剛腕でも発動させていなくてはならない。でも、俺も冬子もそんな能力は持っていないはずだ。
それならば、どうしてこんなことができたのか。答えは出ていたが認めたくはなかった。そんな俺の苦悩をよそに、冬子は両手をさすり、静電気を発生させた。その稲妻をなんとかかわすが、俺は愕然としていた。この技は稲妻。俺の知る限りだと、異の主しか使うことのできない能力だ。ならば、やつが言っていたことは虚言でもなんでもなかった。
冬子はすべての異人の能力を受け継ぎ、なおかつ暴走している。
明確に俺を狙ってきたかと思うと、てんで見当違いの方向を殴りつけたりする。もはや、破壊の限りを尽くす怪物であった。単純な打撃を繰り出しているうちは、まだ対処できていた。並外れた威力を発揮できるとはいえ、出鱈目に暴れているだけだ。瞳で初動を見切れば、十分にいなすことができる。
すると、冬子は一旦距離を置き、両手をこすり合わせる。その先の行動を予測した俺は、危機感から翼を広げる。天井を破壊していたのが吉と出た。俺が飛び去ったほんのわずか数秒後、そこを鮮血の光線が駆け抜けていったのだ。
なおも両手をこすり合わせる冬子。あんな規格外の大技を連発されたら勝てる気がしない。それに、冗談抜きで一都市が壊滅しかねない。一旦着地し、百合へと詰め寄る。
「なあ、百合。冬子をどうにかできないのかよ」
まさしく神頼みという態で、俺は百合に懇願する。渋面になっていた彼女だが、俺が肩を揺らしていると、ようやく切り出した。
「もはやどうにもならないというのが私の見解だ。数百年に渡り蓄積された人間への恨み。それが、あの女子を暴走させている。こうなれば対処法は唯一つだ」
どうにもならないと断りながらも、対処法があるんじゃないか。そう安堵するものの、それは一瞬で絶望へと変化するのであった。
「この世界にとどめておくのは危険すぎる。再度異の世界を構築し、そこに追放するしかない」
百合の肩においていた手が滑り落ちる。冗談だろ。それはつまり、こういうことなのか。
「まさか、冬子を犠牲にしろって言うんじゃないだろうな」
詰問するや、百合はぶれることなく俺の瞳を見つめる。決して逸らされることのない眼光。それは、嘘偽りなど介在しないと主張するにふさわしい挙動であった。
「冬子を除けば、脅威は残党のアブノーマルのみ。それは、そなた以外の能力者でも十分に対処できるであろう。だが、その冬子はもはや制御不能の域まで達している。正直、まともに戦って勝てる見込みはない」
それについては分からないでもなかった。命がけの細胞注射は身体能力を向上させたうえで、もちうる能力すべてをコピーする。それならば、異の主以上の実力を持ったまま理性を失い破壊の限りを尽くしているということになる。
渡や聖奈に能力を移し、数で圧倒するという戦法もとれなくはない。しかし、常人であればせいぜい三つの能力を持つのが限界だ。そこへ一気に七つも能力を流すとどうなるか。よしんば冬子を鎮静化することができたとしても、渡や聖奈が新たな脅威として目覚めかねない。そして、それを止めるために新たに怪物を生み出すという、堂々巡りになる可能性が高いのだ。
それならば、ここで冬子を異世界へと幽閉するのが一番の解決法であった。でも、そんなこと許されていいのかよ。幼いころから化け物だと言われ、疎外され続けて来た彼女。その最後もまた、正真正銘の化け物として、世界そのものから排除されるだなんて。