第158話 渡への意外すぎる一撃
だが、着地したはいいものの、立ち上がることができずに崩れ落ちる。
「裏切り者の娘。よくもやりおったな」
恨み言を口にするも、反撃の気力は残されていないようだった。渡から発せられる覇気が小さくなっていく。かろうじて牙を発生させてはいるものの、会話に支障が出ないぐらい可愛げのあるものだ。
もはや勝敗が決したも同然だが、これからどうしたものか。まさか、本気でとどめを刺すわけにもいくまい。異人に心を売ったように思えるが、完全にはその確証はない。洗脳されているだけだとしたら、解除する方法があるかもしれない。
「どうする、翼。こいつ殺す」
「先んじて物騒な提案してんじゃねえ」
冗談ではないと主張するがごとく、炎を発生させている。諦めてはいたが、冬子は頼りになりそうにない。そうなれば……。
「百合、どうにかならないか」
ブラッドと渡。この両者と一騎打ちをしていたがために、これまで蚊帳の外となっていた百合に声をかける。助太刀してくれてもよさそうだが、平穏派の代表格であるだけに、それは望めそうもなかった。
首を傾げていた百合だが、不意に突拍子もない提案をした。
「人間の物語で、キスしたらカエルが人間になるってのがある」
この局面でなんてもん思い出してるんだよ。キスですべてが解決出来たら苦労はしないぞ。第一、魔法にかけられているわけでもないよな、こいつ。
でも、待てよ。渡は冬子に対して明らかな好意を寄せていたはず。その冬子から刺激を受ければひょっとすれば。
「冬子」
「断る」
「まだ何も言ってないだろ」
「百合のあの発言からして、あんたの考えなんてお見通しよ。冗談じゃない」
やはり看破されていたか。俺も、「渡にキスしてくれ」なんて堂々と言えるほど変態じゃないからな。
「初めてをこんな形で消費するのもあれっていうか。っていうか、あんたはそれでいいの」
なぜか顔を赤らめながら訴えて来た。そこまでむきになることないじゃないか。
「真似事でもいいから、試してもらえないかな。人助け、ほら、人工呼吸と思って」
「人工呼吸ね」
侮蔑やら軽蔑やら卑下やら、とにかくあらゆるいやしめを含んだ視線を送り、冬子はまっすぐに渡を捉える。
真正面から向かい合う両者。こんな姿を目前にし、今度は俺の胸が騒ぎだした。翼を広げて二人の前に割って入りたい。いや、堪えるんだ。こんなアホな提案をしたのは俺じゃないか。ここで邪魔したら冬子に本気で殺される。目的を取り違えている気もするが、とにかく、沸きあがってくる衝動を押さえつけるのに必死であった。
「あんさん、どないするつもりや」
慌てて後ずさろうとする渡の肩を冬子はがっちりと掴む。それで腰が抜けたのか、渡は抵抗する素振りがない。密着せんと顔を近づける冬子。互いの頬に生温かい息遣いがかかりそうになる。直視しにくくなり、俺は手で顔を覆うとする。そして、自ら視界を防ごうとしたまさにその瞬間だった。
接吻したにしてはありえない小気味よい破裂音が響いた。その一部始終を目に焼き付けていた俺は、「ハアアアア」という呆れとも驚嘆ともとれない声をあげるしかなかった。
冬子は至近距離でいきなり平手打ちを喰らわせたのだ。
約束が違うにも程があるだろ。この局面でそれは反則すぎる。そして、一発お見舞いした彼女は、そそくさと俺の背後に隠れる。
「おい、これはどういうことですか」
「だって、無理なものは無理だもん」
いじらしく袖を握ってくる。気持ちは分からないでもないが、これは非常にまずいのでは。渡はうつむいたまま、わなわなと全身を震わしている。しかも、先刻までそのまま卒倒しそうだったのに、ゆっくりと腰を上げようとしている。もはややむを得ないか。俺は翼を広げ、やつの動向を見守る。
「と……」
渡が口を開く。両手を広げ、膝を曲げる。そして、飛びかかるや大声で叫んだ。
「冬子はーん」
俺が迎撃態勢に移行するより早く、渡は冬子に抱き付いた。……うん、抱き付いただと。
「効きましたで、あの一撃。やはり、冬子はんはこうでなくっちゃな」
あっけらかんと笑い飛ばす渡。切迫感がなさすぎるというか、いつも通りというか。とにかく、異人の力は発揮してないよな。
「すごい。平手打ちで正気に戻した」
唯一平常心を保っている百合が冷静に分析した。まあ、そうなるんでしょうね。平手打ちした当人も放心しているというのはどうかと思うが。
「ところで、これはどういう状況や。ありえへんけど、冬子はんと戦っとったんは、うっすらと覚えとる」
「えっと、確認だけど、あんた異の主に操られてないわよね」
「いくら冬子はんでも、その冗談はきついで。誰が好き好んであんなんの命令なんて聞くかいな」
憤慨する渡。あまりにも急変しすぎて許容しがたいが、彼が普段あっけらかんとしているってことが後押しし、どうにかその言葉を信じられそうだった。
俺と冬子は顔を見合わせた後、おずおずとこれまでの経緯を説明した。そうするにつれ、渡が異人側ではないことが確信に変わってきた。異の主が人間界に侵攻したと話すや本気で仰天し、その手先として冬子と戦ったと知らすや、この世の終わりと思うぐらい落胆したからだ。
「それにしても、あれだけ殴り合っても元に戻らなかったのに、こんなんで解決するなんて。あの苦労は何だったのかしら」
さりげなくもう一発渡の頬を叩くと、彼は感無量になっていた。メカニズムは謎ではあるが、とりあえず渡がこちら側に帰還してくれたというのは大きい。無邪気に冬子にじゃれあっている姿を見ると、どうも頼りになるとは思えないけど。
騒動がひと段落したところで、渡はまっすぐにテレビ塔とは逆方向に屹立する。
「冬子はんからの話やと、街中で異人たちが暴れとるんやろ。本当ならわいも異の主と戦いたいんやが、こんな怪我じゃ足手まといになるだけや」
ビルから拝借した包帯で応急処置はしてあるが、まだ所々流血していた。どことなく足元もふらついている。冬子は顔をそむけるが、渡は構わず続ける。
「けれども、アブノーマル相手なら、このくらいで後れをとるつもりはあらへん。ならば、今も戦っとる聖奈はんたちの手助けをする方が得策ってもんや」
「渡、お前」
「翼」
ねぎらいでもかけてやろうかと思ったが、それはその一声でかき消された。
「冬子はんはあんさんに任せたで。悔しいけど、異の主に対抗できるんわ、あんさんらしかいないみたいやからな。もし、冬子はんを死なせるようなことあったら、地獄の底まで追いかけて抹殺したる。覚悟しとき」
送別の言葉としては物騒すぎるが、俺は苦笑すると負けずに声を張り上げた。
「当たり前だ。端から死ぬ気はないぜ。絶対にあの野郎を倒してくるから、お前もくたばるんじゃないぞ」
「かっこつけんじゃないで。ほんじゃま、行ってくっとするか」
それを最後に、渡は「俊足」を発動。未だ無数の異人たちが跋扈する町中へと消えていったのだった。
それを見送り、俺たちはテレビ塔へと臨む。いよいよ最後だ。この中に、すべての元凶が潜んでいる。心なしか、足が震える。
「どうしたの、翼。ビビってるの」
「冬子こそ、人の事言えないじゃないか」
「これは武者震いよ」
俺と似たような状態にある彼女を指差し、詰りあう。二人してくすりと笑いあうと、改めて塔の入り口を見遣った。さあ、決着をつける時だ。俺たちは頷きあい、一気にテレビ塔内部へと踏み込んだ。