第141話 公開細胞注射
「おい、翼、何やってんだよ」
ふと声をかけられ、その方を見やると、篠原が息を切らしていた。
「俺もどうなってんだか、よく分からないんだ」
「そりゃそうだろうな。お前らが飛び出していってしばらくした後、いきなりあの化け物が教室内に現れたんだ。で、みんなして教室から逃げ出して来たら、あいつらも後を追ってきた。それで、今に至るってわけだ。おそらく、他の教室の奴らも似たようなものだろう」
息継ぎする間もなく言い終わると、近くのフェンスにもたれかかる。篠原の話だと、同時多発に、少なくとも三つの教室に異人が出現したってことか。
ネイルたちは品定めしているかのように、俺たちとは一定の距離を置いた場所で佇んでいる。生徒たちも、体育教師の惨状を前に、及び腰になっている。下手に刺激したら返り討ちになるというのは周知のようだ。
「翼君」
緊迫した雰囲気が続く中、またも声がかかる。その主は瞳だった。
「瞳、お前、先生に捕まったんじゃ」
「ええ。それで、職員室まで連れられて、説教が始まるかと思ったんです。でも、それからすぐに異人たちが現れて、それどころじゃなくなりました。職員室内が混乱している隙にこっそり抜け出して、裏口からここまでやってきたのです」
彼女もまた豪快になってきた。なんて、感心している場合ではない。対抗要員が増えたとはいえ、能力を解放できない状況には変わりない。いや、解放できないなんて、悠長なことは言ってられないか。でも、ここで翼なんかを披露してしまったらどうなる。相反する思考をかき乱すように、頭をかきまわす。
双方で膠着している中、ついに新たな動きがあった。ただ、それは歓迎できない展開だった。
「ちょっと、こっち来ないでよ」
悲鳴と共に後ずさる女子生徒。彼女はあろうことか、俺たちのクラスのリーダー格、榊であった。しかも、彼女を標的に定めたのは、上位種異人のネイル。
榊はあたふたと周囲を見渡し、ちょうど足元に転がっていた小石を投げつけた。顔面に直撃したが、それで反応を示すことはない。この程度の攻撃は子供だましにしかならないが、榊にとっては精いっぱいの反抗手段であった。
ネイルは強化された爪を振り上げ、切り裂き攻撃を放つ。とっさに腕でかばったものの、そこからおびただしく流血する。絶叫と共に涙する榊。取り巻きたちは足がすくんで、声も出せずにいる。
そんな榊を押し倒すかのように、ネイルは片手でねじ伏せる。やつの最大の武器で拘束されているに等しい。この状態に待ち込まれたら、異人の能力を発揮したとしても、振り払うのは困難だ。
そして、ネイルの口元が急激に変化する。これから行われることは一つ。分かってはいるのだが、手を出すわけにもいかず、もどかしさは積み重なるばかりだ。なお、たちの悪いことに、ネイルを守るかのごとく、アブノーマル二体が立ちふさがっている。それに、体育教師の惨状を前に、抵抗しようとする気力のある者は皆無だった。
そんな中、ついに、恐れていた事態を迎えてしまう。注射針に変形した口元を、ネイルは榊の首筋に注射したのだ。榊は悶え苦しむが、そのまま事切れたかのようにうなだれる。最悪の結末を予想してしまったのか、取り巻きたちが号泣する。それを皮切りに、恐慌は伝播していき、校庭内に阿鼻叫喚が響き渡った。
「おい、やばいだろ。あの怪物、榊をやりやがった」
俺の体を激しく揺さぶる篠原。俺はどっちつかずの返事しかできず、ただ弄ばれるだけになっていた。
やがて、爪の牢獄から解放されると、榊はゆっくりと立ち上がった。最悪の結末は回避できたと判明してか、僅かではあるが騒乱は収まる。
「私、どうし……」
口を開いた途端、榊は頭を押さえてうずくまった。俺も、何度か細胞注射されたから分かる。あれは、体内の拒絶反応というべきか、激しい悪寒に襲われているのだろう。なんて、悠長に推測している場合ではない。このままでは、非常に厄介なことになる。
俺の危惧を具現化するかのように、榊の右手に変化が生じていた。不自然なほどに肥大化していき、指先から五対の刃が伸長していったのだ。人間のものとは思えない奇怪なものを宿した榊は、それを見つめておののく。
「ちょっと、これはどういうことよ」
ふらつきながらも、その足は取り巻きの女子たちの方に向いている。だが、榊が一歩踏み出すたびに、取り巻き連中はそれに合わせて後退していってしまっている。
「榊、あんた、それで私たちをやるつもりじゃないでしょうね」
「そんなことするわけないでしょ」
「でも、それ、あの化け物と一緒じゃない」
そう指差した先にいたのは、榊に細胞注射を施した当人。それを視野に入れた榊は顔をひきつらせ、一気に取り巻き連中に踏み込む。
「あんなのと一緒にしないでよ」
我武者羅に変化した爪を振るう。それは体には当たらなかったものの、そばにいた彼女の友人のストレートヘアに絡む。それで勢いを殺せるはずがなく、その髪は不格好に切断されてしまった。