SF小説家・山家浩の憂鬱その2
檀敬先生、「山家浩」をお貸しいただき、本当にありがとうございます(作者より)。
ちくしょう、こんな仕事を受けるんじゃなかった。
十一月。世間も年末に向けてラストスパートをかけて騒がしい時期だ。ちょっと気晴らしにコンビニに足を伸ばしてみればきっとクリスマスケーキの予約を受け付けていたり、年賀状作成ソフトが雑誌欄に差してあったりするのだろう……、と家から十分のところにあるコンビニのことを思い浮かべた。
まあ、僕にクリスマスなど関係ないのだけれども、正月は無視しがたいイベントだ。世間の皆様は帳尻合わせが大好きだ。なので、年末に仕事をいったん終わらせようと無理をする。そうすると、その仕事の下請けをしている企業さんが忙しくなり、その企業さんの下請けに回っている企業さんがさらに忙しく……、という具合になって、僕の目の前に仕事が回ってくる頃には『これ、僕一人で回せるんかいな』とヘタクソな大阪弁のモノローグが浮かんでしまうような仕事になっている。
つまり、彼女がいない僕にとっても、年末は忙しい時期なのだ。
だというのに。
真っ白なパソコン画面を前に、文字通りフリーズしている僕がいた。
ちくしょうめ。顔も見たことのない編集者さんに心の内で恨み言を吐く。
なんで僕にこんな仕事を発注するんだよ。
あ、申し遅れたけれど、僕は『山家浩』を名乗ってSF小説家をやっている。この年の三月にデビューして、そのデビュー作を評論家の先生に褒めて頂いたりSF専門誌に短編を載せてもらったりしてこの一年が終わろうとしている。一年目としては上々の戦果ではないかと自己採点している今日この頃だ。どうやら、26歳という年齢でのデビューはかなりSFの世界では珍しい(というか、SF小説で新人が出るということ自体が珍しいらしい)ので注目された面もあるらしい。
そんな肩書が功を奏したのか、SFとは無関係な、割と純文学系の小説誌の編集者からメールが飛んできた。なんだろうと思ってメールを開いてみると、僕にコラムを書いてほしい、とのことだった。コラムなんて書いたことがなかったけれども、『基本的に仕事は断らないほうがいい』という某有名作家さんの小説講座エッセイを読んでいた僕は二つ返事で受けた。
しかし、これが失敗だった。
その編集さん、返信でとんでもない爆弾を投げやってきたのだ。
『山家さんの恋愛観とか恋愛遍歴について書いてほしいんですよね』
れ、恋愛観? 恋愛遍歴?
自慢じゃないが、僕はモテない。これまで数えるほどしか女性と付き合ってこず、お世辞にも経験が豊富とは言えない僕にそんな御大層なものを書けるとでも思っているのだろうか。……という恨み言をメールで返しても、その編集氏には柳に風だった。
『またまた、二十六歳でしょう? だったら恋愛三昧でしょう!』
ばかやろう。ここんところ小説の仕事が忙しすぎて、女性とすら喋ってないよ(おかん以外)!
そんな叫びを形にするわけにもいかず、結局続く編集氏の、
『でもねえ山家さん、これから小説家をやっていくからには、これくらいの無茶振りに応えられないとやっていられなくなっちゃいますよ』
という挑発に乗り、この仕事を受けてしまったのが半月前。
で、形にならないまま半月である。
半月前に仕事を受けた僕はバカか何かだとしか思えない。
なんとなく煮詰まってしまった僕はウェブブラウザを開いて僕の名前で検索を駆けた。これ、エゴサーチとかいうらしく、ネット上では馬鹿にされている行為らしいけども、やっぱり評判は気になる。
すると、なぜかウェブ小説家が小説サイトに発表している小説に行き当たった。なんでだろうと読み進めるうちにその理由が判ってきた。その小説、『山家浩』なる覆面小説家が職場でモテモテで、挙句女の子たちからかかってくる電話のせいで携帯電話がパンクして壊れてしまう、という筋の話だった。
それにしても、同じ名前の人間の運命がこうも違うというのも結構泣けてくる話だ。あっちの山家氏は相当におモテのようだけれども、こっちの山家君は休みの日はおろか平日だって誰からも電話なんてかかって来やしない。それどころか、女の子と会話することすらない。たぶん会社の女子会では、「井下君(これが僕の本名だ)ってないわー、あの人、超ヲタク臭がする上にいつも目も泳いでるしその上顔もキモいし」と酒の上の笑い話に供されているに違いない。
うーむ、つくづくこの仕事、受けるんじゃなかった。
そう心の隅で唸っていると――。
横に置いていた携帯電話が鳴った。
おお、鳴った!
携帯電話というものが鳴るものであるという事実すら忘れていただけに、突然音を上げた携帯電話に僕は驚愕すら覚えた。が、携帯電話の真骨頂を思い出した僕は慌てて電話に出た。
すると、電話の向こうの相手はやけに馴れ馴れしく僕に話しかけてきた。
『おう、井下、すっげえ久しぶりじゃんか!』
電話の声にまるで覚えがない。どう答えようものか考えていると、電話の向こうにいる奴が、あ、と声を上げた。
『あ、俺のこと忘れてるのかよ、ほら、大池だよ大池! 高校時代一緒だったろ』
ああ。ようやく思い出した。高校時代のクラスメイトだ。とはいっても、まるで縁なんてない。大池君はクラスの中心にいて女の子たちとにこやかにトークしているような目立つクラスメイトで、僕はといえばクラスの端っこにたむろして……、いや、それどころか図書室の暗いところでSFを読んでいるような生徒だった。ぶっちゃけ高校時代には接点なんかなかった。それどころかお互い避け合っていたような気さえする。が、連絡網を回す関係で、お互いに電話番号を交換した記憶はある。卒業してもなおその番号を放置していたのだろう。
そんなことはさておき、僕は突然の電話にいぶかしみながらも取り繕っておいた。ちょっと仕事中でテンションが落ちていたんだ、と。
それに納得したのか、大池君は電話口の向こうで「しょうがないよな」と口にした。
『おい井下、明日、お前暇?』
「何? 藪から棒に」
『実はさ~』
面倒臭そうに大池君が言うには――。
明日、地元のターミナル駅・立山駅近くの居酒屋で同窓会があるのだという。二十人くらい参加を見込んでいるようで、大池君が幹事をやっているのだが、今日、急遽キャンセルが出たとのことだった。
そのキャンセル穴埋めのお鉢が回ってきたようだ。なにせ、こんな話はまるで聞いてない。好意的に見ても僕のことを忘れていたというあたりだろう。
僕の不快感を察したようだ。電話口の向こうの大池君はあからさまに焦っていた。
『ほら、旧交を深める、って言うだろ? たまには出て来いよ』
旧交を深めるという言葉は、昔それなりに付き合いがあったことが前提になるんだよ、という言葉を無理矢理飲み込んだ。そもそも、会いたい友人とは同窓会なんて機会がなくても逢うものだろう。……もっとも僕にはその友人もいないわけだけれども。
「うーん、実はちょっといろいろあって」
そんな僕の言葉を遮るように、大池君は大袈裟に言葉を重ねた。
『女の子も結構来る予定だぞ? 杉原、岡林、菊池に佐藤……あと、大貫』
大貫。
その苗字を聞いた瞬間、僕の気が変わった。
僕は答えた。
「ああ、仕事があるからもしかしたら遅れるかもだけど。それでも平気?」
『平気平気! じゃあ、明日午後七時から、立山の○○で飲んでるから』
間違いなく、会費の四千円が目当てなのだろう。大池君はそそくさと電話を切った。
電話が切れてから、僕は真っ白なパソコン画面を見遣ってため息をついた。
恋愛コラムを書け、か。
このタイミングで同窓会の話が来たのも何かの縁かもしれない。コラムのヒントくらい転がってるんじゃないか。そんな予感もあった。
それに、会ってみたかった。あれから六年逢っていない、大貫――千尋に。
行くにあたって、いくつか懸念がないでもなかったが。
そして、その懸念は的中した。
「おー井下、お前、小説家やってるんだって? すげえなあ!」
「えー何それ凄ーい」
同窓会に来て早々、歓声が僕を迎えた。開始から一時間くらい経っていたこともあるのだろう、皆既に顔が真っ赤だ。狐につままれたような気分の僕は、気づけばいわゆるお誕生日席に用意された席に座らされ、ビールジョッキを渡された。
「本当凄いな、お前! 小節の評判いいらしいじゃん」
そう話しかけてきたのは、藤原だ。高校時代、僕のことを「キモヲタ」と呼んで裏で馬鹿にしていたのを今の事のように覚えている。
その横で、
「マジ凄いよね、B組の誇りだよー」
と藤原の合いの手を打ってプリンみたいな髪の毛を揺らして笑う石田もまた、藤原と一緒に僕のことをバカにしていた奴だ。
小説家稼業を始めて半年と少しだけれど、この短い間で僕は人間不信になりそうだった。これまで「キモオタ」だの「ダメ人間」だの「役立たず」だの「人間のクズ」だのと僕に罵詈雑言を浴びせていた連中が、僕が小説家になったことを知るやその態度をコロリと変えて誉めそやしはじめる。それどころか、「あいつは俺が育てた」だの、「あいつと俺は昔からの親友だったんだ」と言い出し始める奴すら出る始末だ。僕自身かなり性格に難があることは自分自身でわかっているし僕のことを嫌うのはその人の勝手だけど、その手の掌返しが一番ムカつくし、控えめに言っても何度か死んで頂きたいものだ。こういう連中には自分というものがないのか、と怒鳴りつけたくなる。
ああもう来なけりゃよかった。
もらったジョッキの中身を飲み干した。とにかく苦かった。
胸糞悪い飲み会がこうして幕を開けた。
向こうから僕に話しかけてくることなんて、碌でもないことだった。ぶっちゃけたことを言えば、僕の小説を読んでくれている人なんてまるでいなかった。そのくせ小説の話をしたがる。「井下君の今回発表した小説ってノーベル賞とか取れるの?」と頓珍漢なことを言う奴すらいるし、さらに気の利かない奴は「小説でどのくらい稼いでるんだよ」と下世話なことを聞いてきやがる奴もいた。いっそのこと、(できやしないけど)まとめて抱えてジャーマンスープレックスを決めてやろうか、はたまた知り合い(いないけど)のアメリカ空軍にお願いしてミサイルを頭の上に落としてやろうかと思ったほどだ。ニヤニヤしながらこちらの稼ぎを聞いてくる馬鹿面に、心の奥で『命拾いしたな』と言ってやった。
こういう嫌な連中と飲んでいると、なおの事、酒が進む。
その結果、飲み過ぎた。
さすがに気持ち悪くなってきて席から立った。ふらふらの体で何とかトイレまで行って、大便器と顔を合わせておままごと(具体的に何をしていたのかは伏せておくことにする)をすることになった。あんなクソどもと話をしているくらいだったら大便器の水面と顔を合わせてをしているほうが幾分かましというものだ。
が、いつまでもこのままの訳にもいかない。
洗面所で顔を洗って廊下に出た。
と――。
廊下のトイレの前に、一つの影があった。
パンツタイプの女性用スーツ姿のその人は両手を組んで廊下の壁に寄りかかっていた。が、僕の姿に気づくや身を起こして僕に向いた。ちょこんと伸びたアヒル口と、ショートに切られた赤毛はあの頃のままだった。
「大丈夫?」
少しハスキーな声も随分久しぶりに聞いた。思えば僕はその低い声が好きだった。そして、僕より五センチくらい高い身長も。
「ああ、うん、大丈夫」僕は頭を振った。「それより、どうしたのそっちは。トイレ待ち?」
すると、向こうは顔を思い切りしかめた。この豊かな表情も、僕は好きだった。
「そういうこと言うかなあ、相変わらずデリカシーないね。……あ、でも、デリカシーがないのはあいつらも一緒か」
宴会場のほうを差して顔をしかめた。
僕は、挨拶すらしていないことを思い出した。
「久しぶりだね、ちひ――」下の名前を呼ぼうとして、僕は慌てて飲み込んだ。「大貫」
「……ああ、うん、井下、久しぶり」
千尋が少し悲しげな顔を浮かべたのは、はたして僕の気のせいだっただろうか。それに、千尋は僕の下の名前を呼んでくれなかった。お互い様だけど。
○
大貫千尋は、僕の恋人だった人だ。
高校の三年生くらいの時、僕から告白して付き合い始めた。彼女はラクロス部のエース、片や僕はどこにでもいるもやし高校生。人気のあった彼女がどうして僕の告白を受け入れたのかは知らない。でも、千尋は僕と付き合い始めた。お互いに進路が決まって別々の大学に行ってもなお二人の交際は続いた。
でも、さすがに就職のときにお互いに意見の相違があって、別れてしまった。
よくある恋愛譚だ。我ながらこんな話題にならない恋愛をよくぞまあ、と思うほどに、平々凡々としているものだ。
○
抜け出さないか、という千尋の提案に乗った。
たまたまトイレに入るときに荷物を持って入った。千尋は千尋で小さなバックを手に持っていた。そして、既に会費は支払っている。
そうして店を抜け出した僕らは、しばらく歩いて、あるところに足を向けた。
そこは、高校時代、よく待ち合わせに使った小さな公園だった。公園とはいっても滑り台どころかブランコすらなく、くずかごとベンチ、くたびれたシーソーのほかには何にもない、うら寂しい公園だ。だけど、背の高いビルに囲まれるようにしてそこにある公園はまるで秘密基地のようで僕は好きだった。夜のとばりに包まれた公園は、真ん中にぽつりと立つ街灯に照らされて、かつてのあの日の姿を夜風に晒していた。
「懐かしいね、変わってない」
辺りを見渡しながら、千尋は嬉しげに頬をほころばせた。
「うん、何も変わってない」
でも、シーソーは塗り直されているのか、色が変わっていた。
僕はシーソーに座った。すると、千尋は短く笑った。
どうしたの、と聞くと、千尋は目尻を指で払った。
「だってさ、昔、あたしを待ってた井下、いつもシーソーに座ってたんだもん。ほんと変な奴」
「変? シーソーに座ってるのが?」
「だってさ、高校生にもなってシーソーにまたがるなんて聞いたことないし。ってか、大人になっても座る人なんて見たことない。今も昔も、そこにベンチがあるのに」
「ああ」
言われてみれば。確かに、この年になってシーソーに座る大人なんて聞いたことがない。それも、しっかりまたがっている。なんとなく、公園に来たらシーソーだ、というのは子供の頃からの刷り込みだ。
すると、短く笑って千尋はシーソーにまたがった。もちろん、僕の向かいに。
「久しぶりに座ってみると懐かしいかも」
ぎったん。シーソーが声を上げる。僕の体がふわっと浮いた。
「でしょ。きっと僕、シーソーが好きだったんだよ」
ばっこん。またシーソーが声を上げた。千尋の体が浮いた。
それからしばらく、無言のシーソーが続いた。僕はただ彼女と差向ってシーソーを漕いだ。向こうも、あの頃のままのきれいな目で空を見上げながら、シーソーを漕いでいた。
何度目かのぎったんばっこんの辺りで、無言に倦んだかのように、ふいに千尋が声を上げた。
「ねえ、ヤスタカ」
卑怯だ。こんなときに名前を呼ぶなんて。でも、そんな心の声が形になることはなかった。
僕の狼狽に滑り込むようにして、彼女は続けた。
「もしも、もしもだけどさ。あの時、あたしがあんなこと云ってなかったら、あたしたち、別れることなんてなかったのかな」
すぐに思い当った。
あれは、大学三年生の終わり頃、就職活動中のことだ。彼女は早くに自分のやりたいことを見つけていた。そのために大学に行って資格まで取っていたのだ。だから、彼女の就職内定は早かった。でも、僕は彼女とはまるで違った。
あの頃の僕は、何がしたいのかよく分かっていなかった。そのくせ、自分のヘンテコな人間性を個性と勘違いしていた痛い大学生で、「クリエイティブなことをしてみたいんだよね」と頭の悪いことを言っては千尋を困らせていた。そして僕は何を思ったか、「小説家になる!」と言い触らすようになっていた。ハッキリ言おう。あの頃の僕は、ただ目の前の就職活動から逃げ出したくてそんな世迷言を述べていた。いつまでもモラトリアムの中でぬくぬくしていたい、そんな気持ちでいっぱいだったのだ。そんな頃だ、彼女が僕のことを叱ったのは。
『あのねえ、夢みたいなこといつまでも言ってないで内定もらってよ。ヤスタカ、就職活動から逃げてるだけだよ』
そうして、千尋は僕の前から去っていった。実は彼女が去るまでに色々の話し合いや喧嘩があったのだけれども、その色々は忘れてしまった。
「いや、だってさ」千尋は続けた。「まさか、ヤスタカが本気で小説家目指してるなんて知らなかったんだもん。もし知ってたら――」
僕は、彼女の言葉に割り込んだ。
「それ、違うよ」
「え?」
「あの頃の僕は、本気で小説家なんて目指してなかったよ。千尋の言うとおり、僕は就職活動から逃げてたんだよ。――でも、今、僕が小説家をやっているのは、就職活動から逃げているわけじゃない。僕は心から小説家になりたい、って、仕事を始めて思ったんだ」
どうやら仕事というものに根本的に向かない人間らしい、ということに、入社二年目くらいに気づいて慄然とした。一生こんな誰にでもできるような仕事をやって一生を終えるのか、とうんざりもした。だったら、自分にしかできないことを模索したっていいじゃないか。僕の人生なんだから、僕が選び取ったっていいじゃないか。そうやって世間にケツをまくっていろんな小説の新人賞に応募しはじめ、ようやく評価されたのが去年、デビューが今年だ。
それに。僕は言葉を重ねた。
「結局、あの時、僕が何を言ったって無駄だったし、大貫は僕を頼りなく思ったんじゃないかな。もしも、なんてないんじゃないかな。そんな気がしているよ」
すると、彼女は中断させていたシーソーを漕ぎ始めた。
「ああ、そうだよね。うん、そうだ、そうにちがいない。ヤスタカに諭されるなんて屈辱」
「それ、どういう意味だ。これでも小説家だぞ。小説家っていうのは言葉で人を揺り動かすのが仕事なんだ」
「そうだね」
はは、と笑った千尋は、また空を見上げた。つられて空を見上げても、空が明るすぎるせいだろう、星は一つとして見えなかった。
「そういえばさ、ヤスタカ。あたしね、今度結婚するんだ」
「そう」
「うん。いい人だよ、会社の先輩」
「そっか。おめでとう」
もしも。あのまま千尋と続いていたら。きっと、その『会社の先輩』とやらのポジションに僕がいたのだろう。そして、千尋は知り合いにこうやって紹介するときに、「変な奴だけどね」とこうやってはにかんでいたに違いない。
頭を振る。僕自身が、ありえない可能性に引きずられているじゃないか、と。
「あたしは、ヤスタカのこと、大好きだったよ」
過去形。
僕も一緒だ。
「僕も、大貫――千尋のことが大好きだった」
でも。僕は付け加えた。
「僕の今の恋人は、小説なんだ。手を伸ばし続けてないとすぐ逃げちゃう。ずっと追いかける恋なんだ。もしかしたら、一生落ち着くことなんてできないかもしれない」
「そっか」
彼女は悲しげに目を伏せた。
だから、僕は続けた。心の奥に隠れている、僕の本当の言葉を口にした。
「たぶん、こうやって小説に恋していられるのも、きっと千尋のおかげなんだ。千尋が僕に恋を教えてくれたから。ありがとう、千尋」
声に出してみて、驚いた。ああ、僕は今、こんな思いでいたんだ、と。
ぷっと千尋は吹き出した。でも、その笑顔がなぜか泣いているようにも見えた。
「何言ってるのかよく分からないんですけど。でも、お礼を言われたのは分かった。――こちらこそ、ありがとうございました」
ちょこんと頭を下げた千尋はシーソーから立ち上がった。
「――もう、行くね」
「ああ、送ってこうか?」
すると、千尋は顔をしかめた。
「あのさあ、もう少し井下は女心を勉強したほうがいいと思うんだな」
「は?」
「そういうときには、無言で送っていくもんだよ」
「ああ、心のメモ帳に書き込んどく」
僕の軽口に、彼女はくすりと笑った。
「でもさ、今のヤスタカ、すごくかっこいいと思うよ。……少なくとも、あの頃のヤスタカよりは」
「え?」
彼女はもう振り返らなかった。そのショートの髪の毛を夜風にたなびかせながら、彼女は立山の夜の風景の中に溶けていった。
うーむ。
次の日、僕はパソコン画面の前で固まっていた。
結局あの恋愛コラムに手がついていない。
「女心なんて、分からないよなあ」
椅子に寄りかかったその瞬間、ふいに頭の中で何かが閃いた。
こうなったら――。
仕方ない。遺憾だけれども、この際、ねつ造するしかない!
小説家というのはそもそもがフィクションを売り物にする商売人だ。ならば、コラムの中に嘘があったっていいじゃないか! そうと決まれば話は早い。ノンフィクションなら筆は進まないが、フィクションならいくらでも書ける。「僕」という、明らかに小説家・山家浩っぽい人物を書き出して、その人間にそれっぽい失恋をさせればいいじゃないか。
……というわけで、一日で書き上げたこれこそが、冒頭に出てきた『恋愛コラム』の中身である。もっとも、この原稿自体はポシャッてしまった(編集氏曰く、「こういうのを求めているわけじゃないんですよ」とのこと)ので、仕方なく、知り合いのWEB小説家である丸屋嗣也さんのスペースにUPさせて頂いたという次第である。丸屋さん、本当にありがとう。




