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雪弥編(前編)

毎度お越し頂きまして、誠にありがとうございます。

小五の生意気な悪餓鬼、雪弥とのナムとのエピソードです。

本日も、長いですが、最後までお付き合い頂ける事を願っております。

 雪弥は、自分の部屋で“チョロ”いう名前のメスのジャンガリアン・ハムスターを飼っている。みかん箱程の大きさのケージにわら草が敷かれ、トイレ、餌入れ、回し車、寝床なんかが並べてある。

 犬の太郎程では無いにしろ、毎日の世話は結構大変だ。それでも雪弥は、どんなに忙しくても自分が怪我をしてても熱があっても、チョロの世話は、家族にも絶対に任せない。触らせもしない。文字通り、チョロは箱入り娘だ。

 あたしが雪弥の部屋でガーガーと掃除機を掛けていると、警戒心の強いチョロが、敷き藁から何事かとちょこっと顔を出す事がある。可愛いチョロの仕草に、あたしは掃除機を放り出してケージの隙間すきまから人差し指を突っ込んだ。チョロの鼻先に差し出して、遊ぼうよ、とチョロを誘った。

「チョロ、おいでおいで」

「やめろよ、病気になる!」

 ベッドに寝転んで漫画を読んでいた雪弥は、いきなりガバッと起きて、ケージの前に座るあたしを突き飛ばし、凄い剣幕で怒鳴った。

 何もそこまで怒んなくても―。誰もって食おうなんて思ってないよ。しかもネズミなんか食っても美味うまいとは思えんし。雪弥の異常な可愛がりように、あたしは閉口した。

 チョロの餌は勿論もちろん、敷き藁やトイレ用、砂浴び様の砂など、雪弥自らペットショップやホームセンタに買いに行く。しかもハムスターにしては、藁も砂も餌も最高級だ。チョロはやっぱりお嬢様だった。

 雪弥は神経質な程、まめにチョロのケージを掃除する。除菌も欠かさない。チョロの元気がちょっとでも無くなると、雪弥は直ぐにケージを持って、動物病院迄歩いて連れて行く。取り越し苦労でも気にせず、何度も頻繁に通った。そんな雪弥に、あたしは感心した。雪弥はきっと、いいお父さんになる。

 ハムスターは夜行性なので、昼間は寝ている事が多い。雪弥が就寝する頃には、チョロは元気に走り回っている。雪弥が寝る前にチョロと遊ぶのが、日課だった。

 今のチョロは二代目だ。初代チョロは、3年前に死んでしまった。雪弥が飼い始めて、まだ1ヶ月もたない頃だった。

 3年前、雪弥のもとにやって来た小っちゃくて可愛い赤ちゃんハムスターは、家族は勿論、友達や藤代家に出入りする人達皆の人気者だった。雪弥は昼でも夜でも、構わずチョロを連れて歩いた。家族や友達にも触らせた。ハムスターの餌の他に、ヒマワリの種やお菓子もあげた。

 ある日、チョロは出血して動かなくなった。雪弥は急いで動物病院へ連れて行ったのに、手遅れだった。雪弥は泣きながら、藤代家の庭の隅にチョロのお墓を作った。雪弥が小2の時だった。

 しばらくして、雪弥の許に二代目チョロがやって来た。同じ、ジャンガリアン・ハムスターの女の子だ。

 雪弥は、もうチョロを誰にも触らせない。披露もしない。チョロが寝ている昼間は、無理に起こす事はせず、そっとしておいた。世話も自ら行って、糞尿の状態や餌の食べ具合を確認し、チョロの健康には気を使った。雪弥はチョロの母親以上の献身振りだった。

 雪弥の献身的な世話のお蔭で、生後3年以上経った今でもチョロは元気だ。


 9月15日。その日はあたしが生まれた日だ。今年で18回目になる。まさか記念すべき18禁、いや18歳を、自宅以外で迎えるとはあたしは夢にも思わなかった。

 当然、藤代家の皆にその事実が知られると、ロクな事にはならない。あたしは、出生の秘密を死守した。

「何、あたしの誕生日? えっと……。2月29日、だったかな」

「ふーん」

 雪弥の、バカにしきった眼差まなざしを、あたしは無視した。

「ナムってさ、17とか言って、ホントは30ぐらいのスッゲーオバサンじゃね? 祖母ちゃんと話が合うくらいだもん」

 時々、80近い大奥様と話が合う、と言う事は、あたしは否定しない。

「ふん。あたしの誕生日? ぜーったい教えない。雪弥にだけは!」

「そっかぁ~、ざーんねん。ナムの誕生日に、城田先輩のサイン、もらって来てやろうと思ってたのになぁ~。そっかぁ、そーなんだぁ。っしいなぁ~」

 雪弥は両手を後頭部で組んで、思わせぶりにチラッとナムを見て背を向け、自分の部屋に戻ろうとした。

「待ったぁ! 雪弥ぁ!」

 あたしは血走った目で、雪弥の腕をガシッと掴んだ。

「今思い出した。あたしの誕生日、今日だった。あたし、今日で記念すべき18歳」

「はぁ? 超怪しいんですけどぉ?」

「あ-……。実はあたし……。竹から生まれた親指姫なんだ。桃が割れたのも覚えてないし。だから、あたしの誕生日は不確定なの。9月15日じゃ無い事は確か」

「……」


 あたしは、誕生日の事は皆に浸隠しにしていたのに、なぜか藤代家の全員が知っていた。きっと太郎もチョロも知っている。多分、あたしの知らないこの屋敷のどこかに、藤代家の一族だけが見る事の出来る掲示板がある。

 考えてみれば、藤代家ここに面接に来た時に、あたしは奥様に履歴書を渡していた。履歴書には当然、生年月日が書いてある。って事は、奥様が皆にバラした張本人か?

 あたしの誕生日当日、12時を過ぎて、一斉におめでとうメールが来た。全てにありがとうメールを送ったら、朝になった。どうせ皆には、学校で会うのに。

 その日、あたしが学校から帰って来ると、雪弥は、あたしに大きなリボンの着いた超可愛いディズニー柄の化粧箱の包みをくれた。でもきっと中は……。

「あ、ありがとう雪弥」

 そこには、本物の真っ黒い大きな家蜘蛛が、ごそごそと動いていた。それともうひとつの包みには、何故かピンクのフリフリメイド服。

 涼弥はあたしに、かなり季節外れの七夕飾りをくれた。ミニ笹飾りには、沢山のミニ短冊が掛けてあった。

“ナムのバカが治りますように”、“ナムボケがこれ以上進行しませんように”、“ヨダレで原稿を駄目にしないでくれ!”、“仕事中にコスプ……”

 ポイッ。あたしは笹毎、後ろに放り投げた。

 それプラス、何故か涼弥も、メルヘンチックな白のメイド服……。

 錬弥は無理矢理、誕生日特別稽古、なるものを着けてくれた。

 あたしは護身用にと、先月から空手道場に通い始めている。錬弥にも道場の先生にも、基本の型は何度教えてもらったのに、ちっとも覚えられない。今もあたしは殴られ投げ飛ばされて、錬弥から、全身にあざをプレゼントされた。

 それとやっぱり、メイド服……。

 黄色? あたしは、錬弥からプレゼントされたコスプレメイド服を、両手で持ち上げてしげ々と眺めた。

 こんなフリフリを、錬弥が一人で買いに行ったんだろうか。どんな顔で? ……笑える。

 静弥は、廊下でれ違い座間に、かたわらの花瓶に挿さっていた薔薇を1輪抜いて、あたしに渡してくれた。なまめかしい笑顔と、甘ったる~~い声で。

「ナムちゃん、誕生日おめでとう」

「あ、ありがとうございます」

 あたしは、引きった笑顔で薔薇を受け取った。

「ちょっ! 静弥さん!」

 薔薇を受け取ったあたしの手を、静弥がぐいっと引き寄せた。

 あれぇぇ~! あたしは咄嗟とっさに顔を背けた。チュッ。頬に静弥のキスを貰った。

 あたしは部屋に戻って、静弥から受け取った箱の中身を確認した。

「これって、メイドじゃないよね」

 中には……。黒の超セクシーバニーちゃん衣装。網タイツにガーターベルト付き。こんなの、どこで調達するんだよ!

 もしかして静弥さんって、コスプレマニア? ナースとかメイドとかスッチー、ミニパト、セーラー服……。各種制服を女の子にプレゼントして、着せ替えごっこしてんじゃないでしょうね?

 それとも、リアルお医者さんごっこ? あたしは、静弥の大学の看護科の女子大生達が、いやぁ~ん、とか言って嫌がる振りをしながら、甘い声で静弥にベタベタする姿を想像した。

 それにしても、このあたしにこんなの贈って、4兄弟は一体何を考えてんだ? 沙紀ちゃんならともかく、あたしの体型でアキバ系メイド衣装が似合うワケ無いじゃん。ましてバニーなんて……。あいつ等、絶対ウケ狙いだ。

 そりゃま、確かにあたしは藤代家の家政婦メイドだけど?

 あたしは自分の部屋で、4兄弟に貰った衣装を畳に並べ、溜め息を吐いた。


「ナムさん」

 晩の台所作業もそろそろ終わる頃、あたしは大奥様に不気味な笑顔で声を掛けられた。ニヤリと嘲笑しているのか、単に笑っているだけのか、あたしには判別不明な大奥様の笑顔に、ぞくッとした。同時に、茶碗を拭くあたしの手も止まった。

台所ここの仕事が終わったら、お茶室にいらっしゃい」

「……」

 使用人のあたしに、拒否権は無い。

 大奥様はあたしを茶室に連れ込み、一般庶民のあたしに、うやうやしくお茶を点てて下さった。大奥様は18になったあたしに“忍耐”をプレゼントするつもりなのだろうか。

 しかし……。次第に感覚が薄れ行く足に、ただただ、恐怖を覚えるだけのあたしであった。

 お茶室から開放されて、あたしは壁に両手を付き、足の復活を待った。ポケットから、はらりと何かが落ちた。それは、大奥様に貰った透かし模様の入った、懐紙かえしだった。

 何だろう。懐紙の隅に、達筆な草書で小さく何か書いてある。そこには、和歌がつづってあった。……これ日本語か? 全然読めない。

“今年より、春知りそむる桜花、散るといふ事はならはざらなむ”

(今年、始めて春を知って咲いた桜の花は、自身が散るという事等、思ってはいない)

 大奥様……。なんとか読めた草書体に、あたしはなんだか涙が出て来た。

 でもこれって、今は散る事を考えないで頑張れ、って言ってくれてるのか、いつかは散るんだから覚悟しとけ、と言っているんだか……。あたしの中で、大奥様の不気味な笑顔が頭をぎった。

 大奥様は4兄弟の誕生日にも、こんな風に“お茶”をプレゼントするんだろうか。……うーん。雪弥が礼儀正しく大人しくお茶をたしなむ姿は、あたしには想像出来ない。

 で、大奥様からのメイド服は……。ほっとした。さすがにそれはない。

「ナムさん、私ケーキを焼いたんだけど、試食して下さる?」

 廊下で、ガーガーと掃除機を掛けている時に、あたしは奥様から声を掛けられた。

「ケーキですか? はい食べます! 頂きます!」

 あたしはその場に掃除機を放り投げた。それにしても、いつも忙しい奥様。家に居る事自体珍しいのに、その上ケーキなんか作っている時間なんてあるんだろうか。あたしは不思議に思った。

「ナムさん、これなんですけど」

 奥様はダイニングのテーブルの上に有る、ガラスのケーキドームを持ち上げた。中には、季節外れの苺が沢山乗っかった、デコレーションケーキがあった。ケーキのデコレーションには、7人の小人の可愛いロウソク。ピンクのチョコレートプレートには、“Happy Birthday”の文字。

「奥様……」

 あたしは声が詰まって、奥様にお礼も言えない。優しく微笑む奥様の綺麗な顔が、涙でゆがんだ。

 でも奥様は、あたしをその場に残して直ぐに仕事に出掛けてしまった。

 あたしはダイニングにひとりで、ローソクに火をともし、ハッピーバースデー、と小さな声で歌った。歌い終わって一人で拍手して、ふっと蝋燭ろうそくを吹き消した。

 18歳のお誕生日、おめでとう、あたし! パチパチパチ!

 あたしはケーキの写メを撮って、沙紀に送った。直ぐにメロディ着きメールが返信されて来た。

“ナムの仕事がなかったら、今日皆で盛大にお祝いしてあげたのにね。今度の日曜日、カラオケで皆でお祝いしたげる! ハッピーバースデー! 18禁!”

 あたしは雪弥に見つからない内に、奥様にプレゼントされたケーキを、切り分けもせずいきなりフォークを突き刺し、抱える様にしてその場で必死に食べた。


 いつもの太郎の散歩道。散歩には、不必要なオプション雪弥が、例外なく着いて来る。

「ねぇナム、俺がプレゼントしたメイド服、着て見せてよ」

 つーん。そんなモノ、あたしが欲しいって頼んだワケでも、雪弥に誕生日を教えた覚えもない。だからそんなリクエストは、あたしは一切受け付けない。

 でも実は、自分の部屋でこっそり着てみた。白にピンクに黄色にバニー。姿見に映った自分のコスプレ姿を思い出した。鏡の中に、女子レスラーと埴輪はにわが映っていたのは、見なかった事にした。

 あたしはコスプレは嫌いじゃない。涼弥はバカにするけど、他の人から見たら、あたしのルビーの瞳のコスプレ姿は、きっとよく似合っている。

「ねぇねぇ、着せて見せてよ。あー、自信ないんだ」

「そんなの、どーでもいいでしょ」

「とか言って、ひそかに着てみたんじゃねーの?」

 ドキッ。

「それとも、俺のは気に入らなかった? ピンク、可愛いと思ったんだけど。ナムに似合うかなって……」

 あたしの横でしょんぼるする雪弥に、あたしは慌てて否定した。何だかんだ言ったって、雪弥はだ小五だ。

「うううん、可愛かったよ。ただあたしには、やっぱ似合わなくて……」

 雪弥がニヤリと笑った。

「なんだ、やっぱ着たんじゃん」

 しまったぁ!

 あたしの誕生日から数日が経ち、その後も何かとメイド服を着て見せろ、と一々うるさい雪弥と、さりげなく“着てみた?”と聞いて来る他の3兄弟。あたしは、彼等に押し付けられたコスプレ衣装の箱に、神社からお札をもらって貼り、箱毎はこごと封印し、あたしの部屋の畳の下に押しやった。


 ある日大奥様が、ぎっくり腰になった。歳の割りに若い振りして、あたしと張り合っていたのがたたったらしい。あたしは、いつかそうなると思っていた。ザマーミロ。

 それでも気丈な大奥様は、嫁である奥様は勿論、使用人のあたしにさえ仕事を任せようとしない。思う様に動かない身体で、いつも通りの家事をこなしていた。

 とは言え、屋敷の外へ出歩く事は、さすがの大奥様でも無理だった。

「ナムさん。大変不本意ですが、今日は私の代わりに雪弥に付き添って、仕事場までの送迎をお願いします」

 え? って事は、今日はあたしが雪弥の保護者として、撮影スタジオに着いて行く?

 キャーッ! 超ラッキー! 芸能人に会える! 城田りゅうに会える! 藤代家ここでの今までのあたしの辛抱は、無駄じゃなかった!

「はい、大奥様、任せて下さい!」

 あたしは、ドンと胸を叩いた。あたしは、未だ何か言いたそうな大奥様を残し、ブンときびすを返して部屋に飛び返った。

 バン! と勢い良く開けた押入れから、雪崩なだれ落ちた荷物達。その山の中から、あたしは衣服を全て引っぱり出した。

 靴下からリボンからハンカチ、下着まで、畳に全て敷き並べて、一つ一つ手に取り、次から次へと鏡の前で当ててみた。

 うーん……。所詮、タダで譲り受けたリサイクル品である。ファッションセンスの無いあたしでも、首をひねりたくなる物ばかりだった。

 ドラッグストアの試供品や、百均で買った化粧品も並べてみた。

 うーん、これどうやって使うんだ? ブラシやら筆やらパフやらで、とりあえず顔に塗ってみる。もうちょっと、もう少しかな、と修正を重ねていく内に……。

 オバQ? 眉毛がなくなっていた。

 やっぱあたしは、すっぴんで勝負する事にした。


 もちろん、交通手段は自転車&電車だ。タクシーなんて選択外。いつも大奥様の車で送迎してもらう雪弥は、当然文句を言った。

「俺、ナムと違ってゲーノージン! 自転車や徒歩なんかで行けるかよ」

「何言ってんの、小学生の餓鬼が。エコ、エコ、節電! 積極的に公共交通機関を使うべし!」

「チェッ。ばーちゃんのぎっくり腰、早く治んないかな……」

「何か言った?」

「別に」

 雪弥は文句を言いながらも、あたしの自転車の後ろに乗り、大人しく電車に乗った。

「何でJR使わねーんだよ。乗り換えばっかで、メンドクセー。時間の無駄」

「いいの。私鉄一社の方が安いじゃん。電車会社乗り継いだら高くつくし」

「すっげー遠回り。時間の無駄。エコじゃねーのかよ」

「何か言った?」

「別に」


 あたしと雪弥は文句を言い合いながら、ドラマの収録スタジオに着いた。

「おおっ、スタジオだ―! 本物だぁ! 映画村だぁ!」

 あたしは感動を全身で表現した。パシャパシャ。あたしは早々スタジオをバックにポーズをとり、自分をメインに写メを連写した。

“あたし、今ここにいま―す!”即効、沙紀に送信した。

「クラスの皆にも送っちゃお!」

 あたしはその場に突っ立って、ひたすらメールを送り続けた。

「お前、何しに来たんだよ。スタジオ内はケータイ禁止!」

 ピッ。あたしは小五の雪弥に、ケータイの電源を切られ取り上げられた。


 建物の中は思ったより狭く、物も、廊下やロビーにまで積み上げられている。大きな機材を担いだ人や、頭にタオルを巻き金鎚を持っている人、沢山の冊子やポスターを抱えている人等、皆、せわしなく働いている。

「おはようございます」

 雪弥は、れ違う人皆に声を掛け、ぺこりとお辞儀をした。

「ねぇ、お昼もとっくに過ぎてるのに、何で“おはよう”なの?」

「そーゆー決まり。ナムだって、バイトとかそうなんじゃね?」

「そうだったかなぁ……。朝が“早い”んじゃなくて、自分より“お早い”って言う意味だっけか」

 首を捻りながらも、とりあえずあたしも雪弥を見習った。わざとらしい作り笑顔を振りき、会う人会う人に頭を下げて挨拶をした。雪弥と同じ位の子供にも。

「雪弥君、衣装部屋に来て」

 雪弥は、突然現れたスタッフに腕を掴まれて連れ去られた。慌ててあたしも後を着いて行く。

 衣裳部屋で、スタッフにドラマ用の服を手渡された雪弥は、そのままメイク室へ入って行った。

 雪弥が大部屋で、あわただしくメイクをしてもらっている間、あたしは入り口に近いところで、パイプ椅子を出してちょこんと座って待っていた。

 部屋には、他に出演者らしき好青年が4、5人程いて、座って雑談をしていたり、台本をにらんでいたり、イヤホンで何か聴いていたりした。

 この人達、歳はあたしと同じ位かな。でもタレントだけあって、皆ルックスは抜群だ。彼等は未だ駆け出しなのか、あたしの頭に彼等の出演番組も芸名も浮かんで来ない。でも皆これだけイケメンなんだから、この内何人かはきっと有名になる。あたしは、次は必ず色紙を持参すると心に決めた。

「誰待ってんの?」

 あたしは、一人のイケメンタレントに声を掛けられて、ドキッとした。無意識に顔も赤らんだ。

「雪弥です」

「君、雪弥の付き人?」

「いいえ、保護者です。今日は臨時で」

「はぁ? 中学生はダメだろ。保護者が保護されるぜ」

「高校生ですっ!」

 バカにされて、あたしはむっとした。

「マジぃ?」

 鼻で笑われた。

 ムカつく! ちょっと位イケメンだからってなによ! 目の前のタレント男が、クラスの男子並に見えた。

「あー、もしかして、君ここにスカウトされに来たの? ユニットのメンバーとか狙ってる? 無理無理。君、鏡見た事ある?」

 あたしはそいつから、コケ下ろした様な目でジロジロ見られ、じーっと顔をのぞき込まれた。

「私は、ただの付き添いです!」

 不躾ぶしつけな男の態度にあたしは口を尖らせて、プイと横を向いた。

「怒った怒った!」

 何、こいつ……。もしかして、態とか? 素人からかって面白がってるんだ。セーカク、サイアク。あたしは眉をしかめた。

「君、まさか雪弥のねーちゃん? じゃないよな。姉貴にしちゃ、不細工過ぎ」

 不細工で悪かったね。あたしはギロリと男を睨んだ。

「おい、あんま素人からかうなよ」

 他の男が、口を出した。

「だってこいつの顔、超面白くね?」

「一般人なんだから、俺等と比べちゃ可哀そうだろ」

 そいつ等はあたしを指差して、ケラケラ笑っている。クラスの男子だったら、絶対ぶん殴ってる。

「ねぇ君、後でお茶してあげよっか。ゲーノージンとお茶したなんて、友達に自慢出来るぜ」

「結構ですっ!」

 あたしは立ち上がって、男にブン、と背を向けた。椅子を雪弥の近くまで移動させ、男に対して後ろ向きで座った。

 彼等はあたしに飽きたのか、あたしの存在を忘れたかの様に、番組がどーのスタジオがどーの、ゲストがどうだっただのと、ゲーノージントークを始めた。

 その部屋には、次から次へと何人もの人達が出入りしていた。でも皆、形だけの挨拶をして、目も合わせないで直ぐに出て行く。言われた方はチラッと目をやる程度で、特に挨拶も返さない。空気最悪。

 雰囲気が暗くて超ジメジメしているこの部屋には、かなりのカビとキノコの胞子が舞っていると、あたしは思う。大木家の押入れ並に。

 ここにいる人は皆、芸能人もしくは業界人、テレビ関係者で、確かにぱっと見には格好いいし聞こえもいい。センスだって悪くない。でも世間一般で、イケメンと噂される藤代兄弟と、毎日顔を突き合わせてるあたしには、ここにいる全員が4兄弟よりいい男だとは思えない。しかも、性格超悪。

 あたしは、文句も言わず大人しくメイクされている雪弥が、無性に可愛く思えた。

 廊下の出て直ぐに、スタジオに向かう雪弥の袖を、あたしはツンツン引っ張った。

「ねぇ雪弥、楽屋っていっつもあんなん?」

 あたしは眉を顰め、コソコソと訊いた。

「うん。気にするな」

 無理! 気にするし! こんなトコにいたら、雪弥の性格が捻るのも分かる。そう思うと、あたしは今までの雪弥の悪戯いたずらも、なんだか許せるような気がした。

「あ、城田先輩!」

「え? どこどこ?」

 あたしは目を輝かせて、あたりをキョロキョロ見回した。

「ばーか。いるワケないだろ」

「……」

 やっぱり雪弥の悪戯の報復は、キッチリ返す事にする。


「ナム、スタジオ内では、絶対声を出さない事。いい?」

 あたしは口をギュッとつぐんで、無言でうんうんとうなずいた。

「よう、雪弥。今日の婆さん、随分若作りじゃね?」

「おはようございます、本田先輩」

 雪弥は、中学生位の男の子に挨拶をした。

 婆さんってあたしか? あたしはそいつに、頭を下げて挨拶をしつつも、嫌味な態度にムッとした。顔を上げて、思わずジロリと睨んだ。

「こえー。雪弥、この婆さん俺の事睨んだー」

 そいつは派手に恐がってあたしを指差し、雪弥に文句を言った。

「済みません! ナム、お前も謝って」

 雪弥は慌てて頭を下げ、ナムの腕を引っ張った。言われたあたしは、目が点。

「あ―……、ごめんなさい」

 悪いなんてこれっぽっちも思っていないあたしは、口先だけで謝罪した。

「雪弥ってさ、最近ちょっと売れてるからって、図に乗ってんじゃね? でもその年で、大人に取り入るのが上手いって事、皆知ってんだからな。可愛いってだけで、演技も歌も踊りも下手なくせに。調子に乗んなよ」

 雪弥は頭を下げて、大人しく聞いている。ナムのこぶしが、ワナワナと震えているのに気が付いた雪弥は、慌ててナムの足を踏ん付けた。雪弥の一踏みで、あたしはハッと我に返り、のどまで出かかった文句を呑み込んだ。

 そいつが、でかい態度で目の前から退いた所で、あたしは雪弥に小声で文句を言った。

「なんか、あいつの方が雪弥よりずっといい気になってなくない? 雪弥が文句言い返せないんなら、あたしがガツンと言ってやる」

 あたしは、その男の後姿を見詰めながら、手の指をボキボキ鳴らした。

「やめてくれよ。俺、気にしてないし。それにあの人、俺の事務所の先輩なんだ」

 雪弥が顔を顰めて小声で言い、ナムの腕を引っ張って、スタジオの薄暗い隅に移動した。

「ナム、撮影が終わるまで、ここで静かにしてろよ。絶対に物音は立てない。ケータイも」

「分かった」

 普段とはまるで違う、雪弥の周りへの異常な気の使い様に、あたしも小声で返事をした。どっちが保護者なのか、分からない。

 あたしが一人で、ポツンと立って撮影の様子を眺めていると、さっき雪弥に文句を言った、雪弥の事務所の先輩らしい男の子が、あたしに向かってやって来た。

「お姉さん、俺さっき言い過ぎちゃって済みません。どうぞ」

 彼は少年らしい可愛い笑顔で、あたしに椅子を勧めてくれた。しかもフカフカのクッション着きの、超高級そうなディレクタチェア。

「え? ありがとう。さっきの事、あたし別に気にしてないから」

 あたしもニッコリ笑って、気にしないで、と手を振った。

 なんだこの子、本当は優しいんだ。雪弥も雪弥だし、まぁゲーノーカイって、色々有るんだよ。あたしは何となく納得して、呑気のんきに椅子に座り、撮影風景を眺めていた。

 突然その場にいた人達が、一斉に入り口に振り返った。テレビで見た事のあるベテラン女優が、スタジオに入って来た。彼女は、大勢のスタッフや俳優陣に頭を下げられ、挨拶を受けている。だか彼女は、スタジオに入るなり、何やら怒鳴り散らしている。

「あなた!」

 彼女は、スタジオの隅で座っていたあたしに指を差し、大きな声で怒鳴った。

 は? あたし? あたしは椅子から立ち上がって、確認する様に自分で自分を指差した。

「私、ですか?」

「そう、あなた! その椅子は私専用なのよ。勝手に座らないで! #*>★%&@◇x●……」

 椅子? ってこれか? ……ふーん、これ特別仕様なんだ。道理でふかふかしてると思ったぁー、じゃなくて。

 あたしは彼女に、その後も凄い剣幕で怒鳴られた。彼女は女優の癖に、何を言っているのかあたしにはさっぱり分からない。あたしの中で、国民的ホームドラマでの、彼女が演じる優しいお母さんイメージが崩れた。……この女優さんって、こんな人だったんだ。

「えっと、あのぉ、ごめんなさい。気が付かなくて。でもこれは、あの方が持って来てくれて……」

 あたしは、椅子を持って来てくれた男の子を指差した。

「俺? 違いますよ。さっき雪弥君が、椅子を勝手に持ってったのは見ましたけど……。雪弥、知らなかったのかな。何度もこのスタジオに来てる筈なのに」

 その子が、ニヤリと笑って答えた。雪弥は、慌ててナムのそばに飛んで行き、発条ぜんまい仕掛けの玩具おもちゃの様に、何度も何度も頭を下げた。

「ごめんなさい。気が付きませんでした! ナムも謝って!」

「は? …… あ、すいませんでした。知らなかったんです」

 って、何で謝んの? 頭を下げながらも、あたしは納得行かない。頭を深く下げたまま、顔を顰めていた。雪弥の先輩タレントが、傍に来てニヤニヤ笑っている。

「雪弥君、困るよね。気をつけてよ。僕まで悪者になりそうだ」

 お前だろ! あたしは唇を噛み締めた。何度も頭を下げる雪弥を、そいつは面白そうに眺めていた。

 スタッフが悪いんじゃないのに、周りの皆もその女優に平誤りだった。たかが椅子ひとつで、なんて騒ぎだよ。雪弥が隣にいなかったら、あたしはあいつもあの女も、確実にぶん殴っている。

 あたしは雪弥の手前、大人しく何度も頭を下げた。でも、あたしの怒りはMAXだった。

 彼女のせいで、スタジオ内はめっちゃ気拙きまずい雰囲気になった。空気最悪。テンション最低。

 それでも、カメラが回ると世界が変わった。あの女が、優しいお母さんに成った。あの男の子が、頼もしい兄貴に変わった。でもあたしは、この中で雪弥が一番一生懸命で、一番格好いいと思う。


 あたしと雪弥は、屋敷に戻って来た。それまで一言も口をきかなかった雪弥は、家に戻るなり地下に篭もって、大音響でギターを弾き始めた。音量MAX。何語だか分からない歌詞を、雪弥は大声でわめき叫んでいる。

 あたしの頭に、キンキンと耳障みみざわりな音が響いた。ガラス戸がビリビリうなる重低音に、怒声に近い雪弥の叫び声。でもあたしは、少しも耳をふさぐ気にはなれなかった。

 雪弥は、雪弥なりに頑張っているんだ。まだ小学5年生なのに……。なんだかあたしは、実は自分の方が雪弥よりずっと子供なんじゃないかと思えてきた。

 あたしは雪弥が演奏する前で体育座りして、微笑ほほえんで雪弥を見詰め、雪弥の気が済むまで付き合った。その後丸一日、あたしの難聴は続いた。


「大奥様。無理です。あたしがやりますって」

 大奥様は痛む腰をかばいながら、一人で自分の布団を干そうとしていた。杖を突きながら、棉の重い布団をかつぎ、庭に置いてある布団干し用の物干し竿に、無理矢理掛けようとしている。

「大奥様、そんな格好で力入れたら、ぎっくり腰が悪化しますって。あたしに任せてください!」

「いいえこれしき。自分の事です。ナムさんに任せる訳にはいきません!」

 相変わらず頑固な大奥様だった。

「うっ」

 手を伸ばした瞬間、大奥様が動きを止め、顔を顰めた。

「ほらぁ。大奥様無理なさらないで下さい。あたしになんかに頼むのは、しゃくでしょうけど。

 でも、人ってどんなに頑張ったって歳をとるんすよ。あたしだって、いつかは寝たきりお婆ちゃんになるんですから」

 あたしは、大奥様から無理矢理布団を奪い取った。

「あたしのお祖母ちゃんは、64歳で癌で亡くなったんです。あたしが10歳の時。その時あたしは、苦しむお祖母ちゃんに、何にもしてあげられなかった……」

 あたしは今は無き祖母の、入院中だった当時の彼女を思い出して、竿に掛けた布団をじっと見詰めた。

「お祖母ちゃん、身体に何本もチューブを着けて息も苦しそうだった。でもあたしが、お祖母ちゃんって声を掛けると、あたしだって分かってくれて、ニッコリ笑ったんです。あたしは何にもしてないのに、ありがとって。……でもあたし、嬉しかった」

 あたしは、大奥様に振り返った。

「あのですね、人に援助をう事は、何も恥ずかしい事じゃないんです。あたしが良く行く養護学校の子供達なんか、あたしの援助は当然の権利だって思ってるし。でもそれが、あたしもちょっと嬉しかったりするんです。

 弱者を健常者が手助けするのは、当たり前です。一々お礼もりません。大奥様だって、今迄そうして来られたんじゃないですか? 戦争の時とか災害の時とか」

「……」

「やっだなぁ、もう! ゴジラが地球を破壊するのに、遠慮なんかしないって」

「誰がゴジラですって?」

 ひえぇぇ~~。大奥様が火を噴いた。

 それからと言うもの、大奥様は自分では無理だと判断した事は全て全部、迷わずあたしに“命令”する。遠慮の欠片かけらも無く、あたしに全て任せるようになった。事細かく口うるさい指示を、あたしの横で呪文の様に唱えながら、何度も何度もやり直しをさせた。……妖婆め、覚えてろ!

 それでもあたしは、大奥様に今迄以上にき使われても、なんだか嬉しく思っていた。


 雪弥の、子供バンドのメンバーが屋敷に遊びに来た。週に1度は集まって、地下のオーディオルームでバンドごっこ、いや合同練習している様だ。

 あたしは頃合いを見計らって、子供達に差し入れのジュースとお菓子を持って行く。

「おやつだよー」

 あたしは防音のカーペットの上に座り込んで、コップにジュースを注ぎ、お盆にお菓子を広げた。

「わーっ!」

 雪弥以外の子供たちは、楽器を放り投げてあたしの周りに座った。未だ突っ立ってギターを弾き続けている、雪弥のムッとした顔は、彼等には関係ない様だ。

 ボーカルの女の子が、あたしに話し掛けて来た。

「ねぇねぇ、お姉さんって何歳?」

「あなたは、ミキちゃんだっけ? あなた達って、皆雪弥と同じ5年生なんだよね。お姉さんは18歳だよ。高校3年生」

「ふーん、おばさんなんだ」

 ムカッ。フフンと鼻で笑って年長者をバカにした言い方に、あたしの毛細血管が1本キレた。

「ねぇ、おばさん…、

 じゃぁ可哀そうだから、お姉さん! お姉さんは美容整形とかしないの? 流行はやってんでしょ? プチ整形って」

「はぁ?」

 一体どこで、そんな事を聞いて来るんだ? あたしは手と首を強く振って、否定した。

「しないって。するワケないじゃん」

「お金ないんだ」

 ムカムカッ。鋭い指摘に、あたしの毛細血管が2本キレた。

「お金じゃなくて! お姉さんの友達だって、整形してる人なんかいないよ。皆高校生だし、芸能人でもモデルでもないし」

 あたしの学校で、整形してるなんて噂、聞いた事も無い。先生も多分誰もしてない。だって学校に美人の先生は一人もいないし、皆年相応に老けてる。

「ふーん。でもお姉さんはした方がいいって。絶対いいって。その方が幸せになれるって」

 その子はあたしに顔を近付けて、切々と訴えた。

 ピキピキピキッ。女子小学生相手に、あたしの血管が又切れた。

「じゃ、じゃーあ、ミキちゃんは大きくなったらしたいと思う? そのプチ整形って奴」

「あたし? あたしには必要ないよ。元がいいもん」

 彼女は鼻を高くして、つーんと横を向いた。

「ナムはそのままでいいし。整形してもムリだしムダ。間抜けな顔で充分だよ。落ち込んでる時に笑いを与えてくれる、貴重な顔だって」

 雪弥はギターを置いて、皿の上のポテチをつまんで口に放り込んだ。

 雪弥の今の一言で、あたしの浮き立った毛細血管が、ブチキレた。

「雪弥ーっっ! 間抜けな顔で悪かったねっっ!」

 あたしは雪弥の襟を掴んで、大声で怒鳴った。雪弥は驚いて目を丸くしている。

「な、何怒ってんだよ。俺、褒めてんのに。ナムの顔は、充分個性的だってさ。ナムを見りゃ、どんな不細工な奴でも自信が持てるし、生きて行ける」

 フォローになってないし、雪弥なんかにフォローされたかない。あたしは、ふん、と雪弥の襟を放した。

 女の子が、あたしに耳打ちしてきた。

「あのね、雪弥君あたしの事が好きなの。今のって、あたしに焼餅焼いてるだけだから。あなたお姉さんなんだから、雪弥君の事、分かってあげて」

 彼女? ミキちゃんが? あたしは、思わず雪弥とミキを見比べた。そうなんだ。あたしはプッと噴き出した。

 なんだ雪弥って、小学生らしい可愛いとこもあるじゃん。あたしは雪弥をチラチラ見た。

「そっか。ラブラブなんだー。でも雪弥モテルよ。ゲーノージンだし。浮気されない様に、見張ってなきゃね」

 ミキに小さな声で言って、あたしは山本君の顔が浮かんだ。

 あたしのは“浮気”にもなんなかったんだよね。ずっと沙紀を好きだった山本君。あたしとか、他の女子に振り向く事はなかったんだよね……。ちょっとチクッとした。

 にしても……。こいつらの音楽は、あたしには理解不能だ。何を演奏しているのか、あたしにはさっぱり解らない。辛うじて、歌詞でなんの曲だか解る程度だった。

 元々、洋楽を演奏したい雪弥と、J-POPを歌いたいミキと、アニメソングを演奏したい後の男の子とでは、音が合うワケがない。皆勝手に演奏したり、歌ったりしている。それにも飽きると、子供たちはポータブルゲームをやったり、DVDを見たり、他の楽器をいじったりしていた。

 一人で楽譜を見詰め、黙々と練習する雪弥……。結局、全員での音合わせ、と言える様な練習は、わずか15分程度だった。

 どうして雪弥が、このメンバーと付き合っているのか、あたしには理解出来ない。雪弥、ソロでやればいいのに。


 秋は、運動会や発表会の季節だ。奥様は、仕事がどんなに忙しくても、必ず雪弥の学校行事には見に行き、雪弥を応援するらしい。3兄の時もそうだった様に。

 奥様自慢の息子達の応援は、きっと楽しい。涼弥以外は。(涼弥が歌ったり走ったり踊ったりする姿を、あたしは想像出来ない)

 忙しい奥様は、発表会でも運動会でも、いつも最後まではいられない。それでも、運動会には手作りのお弁当を持参し、お昼は必ず皆で一緒に食べた。

 奥様以上に忙しい旦那様は、滅多に学校行事に行く事はない。幼稚園で1回、小学校へ1回。それでも、そのたった1回が、雪弥にとっては大切な思い出だった。

 今年の雪弥の運動会、その日奥様にはどうしても抜けられない会議があるらしかった。しかも札幌で。

 奥様は、雪弥の部屋へ行って、その事を話した。

「ごめんね。今年はどうしても、雪ちゃんの運動会には行けないの。その代わり、今度一緒に遊園地に行きましょう。それともコンサートがいい?」

「いいよ、お母さん無理しなくて。仕事じゃしょうがないし、来年もあるし。俺だって仕事してんだから、そんくらい分かってるよ。それに今は、遊園地もコンサートも特別行きたい気分じゃない」

「あのね、雪ちゃんの為じゃなくて、お母さんが雪ちゃんと一緒に行きたいの。お母さんの我がまま、訊いてくれる?」

「じゃぁ、いつ?」

「それは……。雪ちゃんはいつがいいの?」

 雪弥は、仕事よりも自分を優先しようとしている母親の顔を、じーっと見て、ふっと視線を外した。子供の癖に、諦めた様な冷めた様な小さな声で言った。

「いつでも」

「雪ちゃん?」

 雪弥は不貞ふて腐れて、部屋から廊下へ飛び出した。申し訳無さそうな顔をしたお母さんを、部屋に残して。

 廊下で話を盗み聞きしていたあたしは、心配になって雪弥の後を追った。雪弥は、地下室へ入った。あたしも地下室に入る。

 完全防音の地下のオーディオルーム。入った途端とたん、あたしは両手で耳を塞いだ。雪弥は音量を最大にして、ギターで爆音を鳴らしていた。

 ギュイ――――ン、キ――ン、ゴゴゴゴ……。

「うっさ――い!」

 あたしは、爆音に負けない位の大声を張り上げた。でも雪弥は辞めない。

 ブチッ。あたしは、電源コードを抜いた。

「何すんだよ!」

「あのねぇ。ミュージシャンの命の耳が、聞こえなくなってもいいの!」

「別に。いいんだよ。俺なんかどうでも」

 雪弥は顔を背けて、小さくつぶやいた。その投げやりな態度に、あたしはキレた。

「小5の餓鬼が、どうでもいい? どうでもいいってどーゆー事よ? その台詞せりふ、百年早いわ。何? もしかしたらこれ、芝居の練習なワケ?」

 あたしは両手を腰に当て、雪弥の前で仁王立ちで怒鳴った。

「俺さ、今年リレーのアンカーになったんだ。去年のクラスはリレーで1位になれなかったから、今年は絶対、1番になるんだ」

 雪弥は指先で弦をまさぐりながら、ぼそっと言った。

「学校でも、昼休みや放課後に皆でバトンを渡す練習してるんだ。今年のクラスは足早い奴ばっかでさ、俺リレーメンバーに選ばれるか不安だったけど、でも俺がアンカーになった」

「アンカー? 雪弥、凄いじゃん」

「俺が一番でテープ切るトコ、お母さんに見て欲しかったんだけどな……」

 あたしは、掛ける言葉が見つからない。

「あ、あたしは絶対応援行くから。雨でも台風でも吹雪でも。大震災が来たって行く! 雪弥の為に特大の横断幕作ったげる!」

「いらんっ!」

 雪弥は即答した。それでもナムなら絶対作る、雪弥はそう確信していた。


「可愛い弟の運動会、絶対見に来て。雪弥、リレーのアンカーだってよ。当然応援してくれるよね。

 雪弥のリレーは午前の部の最後だから、皆で一緒にお弁当も食べれるし。今度の日曜日だから、忘れないで。

 逃げようったって、そうは行かないから。分かってるよね」

 あたしは3兄それぞれに、雪弥のリレーを見に来るよう、ドスの利いた低い声で、脅し、いや丁重にお願いした。

 壁、廊下、トイレ、食堂リビング、各部屋にも、屋敷中に雪弥の小学校の運動会チラシを貼り付けた。

 何? その日は用事がある? 却下! ……彼等の戯言たわごとを、あたしは聞かない。言わせない。受け付けない。


 雲ひとつ無い、秋晴れの9月の最終日曜日。朝6時にはバンバンと花火が鳴って、雪弥の小学校の運動会が予定通り開催された。

 あたしは大奥様とふたりで、いつもより早起きをしてお弁当を作った。おにぎり、お稲荷、太巻き。卵焼きに串焼きに煮物。でも大奥様のお弁当は、美味おいしいけど地味だ。

 だからあたしは、食べ物以外の装飾に命を掛けた。色とりどりのカップやバラン、各種国旗はもちろん、キャラクタのピックにリボン。おかずには、桜デンブや紅しょうが、青海苔インゲン等で、派手に飾りつけた。

 当然、たこウィンナーとエビフライは外せない。蛸ウィンナーには、海苔で目を付けた。エビフライの尻尾には、ピンクのリボンを付けた。

 うずら卵にも海苔で顔を作った。おにぎりに巻く海苔は切り絵にした。薄焼き卵やとろろ昆布も、おにぎりの衣にした。完璧!


 いつもより早く登校した雪弥が、教室の窓から運動会用に飾り付けられたグランドを見た。グランドには万国旗が吊り下げられ、来賓用のテントが設営され、気の早い父兄が、父兄席の場所取りに集まり始めた。そのグランドの一番目立つバックネットに、変な垂れ幕を貼り付けている奴がいた。滅茶苦茶な色使いの、風俗店かパチンコ店の様な派手な横断幕だ。

“GO、GO、YUKIYA!”……雪弥は、見なかった事にした。

 必死でバックネットによじ登り、横断幕を貼り付けるあたしを、大奥様と学校の先生が阻止した。

「危ないでしょ! 子供達が真似したら困ります! 今直ぐ降りて下さい!」

「あ、そうですね。じゃ、ヘルメットと脚立を……」

 あたしは、それ以上の言葉を遮断された。大奥様と先生に腕を摑まれ足を引っ張られて、あたしはあえなくバックネットから引き摺り降ろされた。昨夜ゆうべあたしが徹夜して作った、超豪華な横断幕が……。


 運動会も、午前の部の大詰め。午前の部最後は、雪弥達5年生のリレーだ。入場門で、リレーメンバーと出番待ちをしていた雪弥は驚いた。応援席に、3兄が揃って雪弥を見ている。

 なんでいるんだ? 皆忙しい筈なのに。この前迄、俺と同じこの小学校に通っていた錬兄はともかく、静兄も涼兄も、今まで一度も小学校に来た事なんかなかったのに。雪弥は、リレーのい事はすっかり忘れて、じーっと兄達を見ていた。

 兄達がわざ々来てくれた理由は分からないが、雪弥に、俄然がぜん気合が入った。

 あたしは、雪弥が兄を見付けて驚いている様子に、あたしも3兄に振り返った。

 雪弥の奴、何驚いてんだよ。兄貴が弟の応援に来るのは、当然じゃん。

 あたしは小学校ここへ来る前に、未だ家にいた雪弥の兄達の部屋へ行き、ベッドで熟睡している彼等を優しく優雅に起してあげた。当然静弥も。

 あたしは彼等の耳元にメガホンを当て、美しい声で囁いた。

「起っきろーっ! 今日は雪弥の運動会だーっ! 絶対見に来てよー!!!」

 ガンガンガン。ベッドの宮をメガホンでぶっ叩いた。


 リレーでは、あたしの横断幕が無くても、接戦の末雪弥のクラスは一番になった。あたしはハラハラドキドキしながら、雪弥達に悲鳴の様な応援を浴びせていた。拳を振り上げ地団駄を踏みながら。トップに躍り出ると、拍手をして飛び上がり、抜かれると悲鳴を上げがっくりと肩を落とした。

「行っけー! 抜かれるなー! そこだー! 抜き返せー!」

 チームは、抜きつ抜かれつを繰返し、最後にアンカーの雪弥が逃げ切った。

「やったー! 雪弥、おめでとー! さぁて、お弁当だ」

 あたしは雪弥の勝利を見届けて直ぐにきびすを返し、予め場所取りをしておいた木陰に走って行き、急いでシートを広げた。こーゆー時、モタモタしてると、折角せっかく取っておいた場所が他の家族に侵食される。

 あたしは腕捲りをして大きなシートを取り出し、目いっぱい開いて4隅に石を置いた。早速、何段も有る重箱を並べ、お弁当を開いた。

「早く、早く!」

 あたしは、のたくた歩く4兄弟を、手を振り飛び上がり誘導した。シートの上に、薄くて小さな座布団を敷き、4兄弟を行儀良く座らせた。

「やったね、雪弥! お茶で乾杯しよ!」

 あたしは、トップでテープを切った雪弥とハイタッチした。

 分かっていた事だが、木陰にひっそり座っていても、藤代4兄弟はかなり目立つ。一応ゲーノージンの雪弥。校内は関係者以外立ち入り禁止なのにも関わらず、芸能レポータが勝手に入り込んで、雪弥の写真を撮っている。

 雪弥の事情を考慮したとしても、それでもあたし達の前だけ、異様に通行人が多い。狭い通路を、同じお母さんが何度も4兄弟の前を行ったり来たりしている。あたし達の前で、なぜか歩調も緩み、止まる。幼児からお婆さんまで、女性の熱い視線が降り注いでいる。

 態々自分の子を4兄弟の前に立たせ、子供ではなく4兄弟の写真を撮っているお母様方。父兄の、望遠レンズやケータイレンズ、ビデオカメラが、4兄弟を視野に入れている。

 お前ら、何しに来たんだよ。絶対子供なんか撮ってない。

 2年前迄、ここの小学校の児童だった錬弥に、同級生や先生が声を掛けて来る。用もないのに、錬弥と同級生の女子が、錬弥の所へ来て声を掛け、静弥と涼弥をちらちら見ている。

「ねぇ、藤代君のお兄さんって、カッコいいよね。紹介してよ」

 涼弥は無愛想だが、静弥は愛想がいい。その声を耳にして、静弥は彼女に微笑んだ。

「錬弥と仲良くしてあげてね」

「はい♡」

 声を掛けて来る人皆に、愛想を振り撒く静弥。あたし達の回りには、たちまち人集ひとだかりが出来た。

「どいてどいて! 見世物じゃないんだから! 金取るぞー」

 あたしは立ち上がって、ギャラリーを追い払った。

 でも、ここでお茶&おにぎりのサービスで、静弥さんと涼弥にホストやらせたら、きっと儲かる。お茶1杯五百円、おにぎり1個千円として……。

 ダメダメ、ここは健全な小学校だ! あたしはチラッと、静弥と涼弥を見た。あたしの目、“¥¥”

「静弥さん、よその父兄の相手なんかしない! 今日の主役は、雪弥なんだから」

「ごめんなさい」

 静弥は首をすくめて小さな声で、“あたし”に謝った。


「はい、お絞り。はい、お箸。お茶要る? ソースはここ」

 あたしは、運動会のランチタイムを仕切る宴会部長だ。

「懐かしいね。こうして外で春子さんのおにぎり食べるの、久しぶりだよ」

 大奥様の作ったおにぎりを頬張りながら静弥が言うと、涼弥も錬弥も笑って頷いた。

「でも、これなに? 春子さんが作ったの?」

 静弥は、海苔のモザイクが掛かっているおにぎりを掴んだ。

「それはあたしが作りました! その海苔、ミッキーの切り絵になってるんだ。どう? 可愛いでしょ。結構苦労したんだ、耳とか鼻とか」

 見えね―。無駄に刻み海苔が貼り付けてある様にしか見えないおにぎりに、誰もコメント出来ない。

 静弥が、後ろに置いてある横断幕を見つけた。

「これは何?」

「それはー」

 あたしは得意げに立ち上がり、横断幕を掴んで広げようと……。即効、大奥様と雪弥に阻止された。

 なんで止める!

 もうじき10月とは言え、日差しは結構強い。木陰でもじんわり汗ばんで来る。いつの間にか雪弥は日焼けして、手も足も真っ赤になっていた。

 風が吹くと、グランドの砂埃が舞った。どんなに風砂を身体で阻止しても、お弁当に多少の砂は掛かってしまう。それでもそんな事はお構い無しで、あたし達は、皆で楽しくお弁当を食べた。……ジャリジャリ。


 雪弥は屋敷に帰ってから、早速電話で奥様に報告した。

「お母さん、俺1番になったよ。俺リレーでアンカーだったんだー。最初2番だったけど、なんとか皆が頑張ってくれて、俺1位をキープしたんだ。

 それから、兄ちゃん達が皆来てくれた。涼兄もだよ。皆、お母さんの分まで応援してくれた。

 皆でお弁当も食べたんだ。ナムの作ったおにぎりなんて、すっげー笑えた。めっちゃ変でさ……」

「そう、よかったね、雪ちゃん」

「お母さん、それでね……」

 雪弥は30分以上、奥様と話続けた。奥様は出張中でも、スケジュールが詰まっていて多忙な筈だ。でも奥様から電話は切らない。いつまでも雪弥の話に付き合っていた。

 もしかしたら、奥様も雪弥と話すの嬉しいのかな。廊下の隅で、雪弥が楽しそうに話す様子をじーっとみていたあたしは、雪弥の弾む声に、なんだか心も温かくなった。でも……。あたし的には電話代が、ヒジョ――に気になる。

 奥様が出張から戻って来ると、雪弥は直ぐに奥様の部屋に飛んで行って、電話で話した内容を繰り返し喋っていた。大きな声とジェスチャーで。

「それでね、お母さんそれから……」

 その日は寝るまで、雪弥が奥様を独り占めしていた。


 夜の10時ちょっと前、雪弥が血相を変えてあたしの部屋に飛び込んで来た。

「どうしたの?」

「チョロの元気が無いんだ。この時間なら、いつも元気よく走り回ってる筈なのに」

 取り乱して今にも泣き出しそうな雪弥に、あたしは急いで雪弥の部屋へ走って行った。

 雪弥の部屋の真ん中に、チョロのケージが蓋を開けっ放しにして置いてあった。その回りには、餌やら敷き藁やら砂やらが散らかっている。あたしは急いでケージを覗き込んだ。

 チョロは、ケージの敷き藁の上で、じっとしたまま動かない。あたしはケージのよこの柵も外し、チョロの鼻先に耳を近付けた。

 息は……? 分からない。あたしは、両手でチョロをそっと抱き上げた。じっとしていると、てのひらにチョロのかすかな鼓動が伝わった。

 息はしてる。あたしはほっとした。

「雪弥、昨日はー? チョロどうだったの?」

 あたしは、後ろに立っている、オドオドして落ち着かない雪弥に振り返った。

「昨日はー。チョロ、普通に元気だった」

「今朝は?」

「朝はー。いつも寝てるから、分からない」

「餌は?」

「あんま減ってない。でも吐いてもないみたいだし、糞も普通だし、出血もないし……」

 雪弥の視線が定まっていない。かなり動揺している。

 静弥さん! ……は人間専門だよね? しかも今日いないし。うーん……。

 あたしは、チョロの小さな額に指先で触れてみた。

「雪弥、チョロ熱高いよ」

「ハムスターなんだから、人間より体温高いんだって。大体そんな事して熱測らんし」

 確かに。

「チョロ、口開けて。あ――ん」

 開けるワケがない。

「ナムが口開けてどーすんだよ。それにお前が見て、チョロの病気とか分かんのか?」

 分かるワケがない。

「あー。えっとぉ……。この時間にやってる動物病院……」

 あたしはチョロを雪弥にそっと手渡し、リビングまで走って行った。電話帳を引っ張り出して、この屋敷から近い順に、動物病院へ電話を掛けた。

 今は、もう夜の10時を回っていた。どこの動物病院にかけても、留守電だった。やっと電話が掛かっても、対象は犬猫ばかりで、小動物は昼間診察に来て欲しい、との事だった。

 命に変わりはないじゃん! こうなったら119番! あたしは思わず11まで押して……、慌てて、7を押した。

“ピッピッポーン、ただ今の時刻は……” ブチッ。

「いいですよ。診察しましょう」

 何件目かで、小さなハムスターでも見てくれる動物病院が見つかった。

「雪弥。チョロを直ぐ病院連れてくよ! 保険証持って」

 ハムスターに、保険証は無い。

 その動物病院は、藤代家から5km近く離れていた。少し遠いけど、奥様も静弥もいないし大奥様を起こすのも悪いから、あたしは雪弥と二人で、チョロを連れて行く事にした。

 当然自転車。タクシーという選択肢は、あたしにはない。

 あたしは、ハムスターのケージが振動しないように、自転車の荷台に座布団を敷き、その上に乗せて紐でくくり付けた。あたしの背中に隠れていれば、チョロのケージに風も当らない筈だが、とりあえず中の敷き藁が飛ばない様に、ケージをダンボールで囲った。

「雪弥、あんた自転車ある?」

「俺の? あるけど」

「じゃあ、雪弥は自分の自転車に乗って、あたしの後に着いて来て」

「う、うん……」

 雪弥はしばらく自転車に乗っていない。しかも夜道だ。雪弥は自信無さに答えた。

「早く! チョロ死んじゃう」

 あたしは躊躇ためらう雪弥をかした。

「う、うん」

 雪弥は、自転車に乗りたくないなんて言ってられない。今はチョロの一大事だ。雪弥は覚悟を決めて、倉庫から自転車を持って来た。ブレーキも空気も電灯もOKだ。雪弥は恐る恐る自転車にまたがって、ナムの後に着いた。

 二人は、夜道を自転車で30分程飛ばして走った。

「動物病院って、確かこのあたり―……。あった!」

 あたしは、明かりの点いている動物病院に飛び込んだ。猫や犬が数匹入院中だったが、自分達の他に急患はいなかった。

「すみませーん。ハムスターなんですがー。先程電話した大木でーす!」

 あたしは、電灯だけが点いている誰もいない待合室で、声を張り上げた。

「どうしました?」

 もう10時も過ぎているのに、出てきた助手のお姉さんは、嫌がらずにケージを受け取り、早速チョロを診てくれた。

「中へどうぞ」

 あたしは雪弥と共に、診察室に入った。診察室に入ると、獣医せんせいらしきおじさんが、白衣に袖を通しながら、他のドアから入って来た。

「どうしました?」

「はい……」

 夜間にも関わらず、こんな小さなハムスターでも、その獣医せんせいはちゃんと診察した。

 チョロは、さっきよりさらに元気が無かった。家にいる時は呼吸が早かったが、今はその呼吸が半分になっていた。あたしには、チョロの気持ちなんか分からないけれど、きっとすごく苦しいんだと思う。

 先生が、指先でそっとチョロの身体を触り、目やお尻を診た。

「この子は3才半でしたね? 人間で言えば、百歳過ぎのお婆ちゃんです。寿命です。この子を、今日までよく世話をしてくれましたね。もうすぐ寿命が尽きますから、最期まで一緒にいてあげて下さい」

 寿命? その言葉を聞いた途端とたん、あたしはボロボロ涙をこぼした。鼻水も出る。あたしの隣で、冷静な雪弥が呆れていた。

「ナム。はい、ティッシュ」

「ありがと」

 ズズズ、チーン……。とりあえずあたしは、鼻をかんだ。

「センセ、あたし達暫くここに居てもいいですか? 家に帰り着くまでに、この子死んじゃったらヤなんでー」

 図々しくお願いするナムに、雪弥が更に呆れた顔をした。

「迷惑だって。帰ろうよー」

 雪弥はあたしの背中を引っ張って、小さな声で言った。

「いいですよ、どうぞ。好きなだけ居て下さい」

 お姉さんは、にっこり笑って了承してくれた。あたし達は、待合室のベンチに雪弥と並んで腰掛けた。

「薄情もん。雪弥はチョロが可哀そうじゃないの? 悲しくないの?」

「悲しいよ、悲しいけど寿命だろ? しょうがないじゃん」

「あんた、小5の癖に冷め過ぎ」

 あたしは、涙ひとつ見せない冷静な雪弥が、無性に腹立たしい。

 コチコチと時計の音しかしない、誰もいない深夜の動物病院の待合室で、ナムと雪弥はじっとチョロを見詰めていた。雪弥はチョロを片掌に乗せ、チョロの背中をもう片方の手の指先でゆっくり、そっと撫ぜた。あたしは雪弥に身体を寄せて、一緒にチョロを見守った。

 目を閉じ、じっとして微かに毛を揺らすチョロは、神様が迎えに来る時を、静かに待っている様だった。

 やがて、チョロの呼吸が止まり全く動かなくなっても、雪弥は暫らくチョロの背中を撫ぜていた。強がってはいても、雪弥の目からチョロを撫ぜる雪弥の手に、ポトポトと涙が落ちた。

「雪弥、帰ろっか」

 あたしは雪弥の肩に、そっと手を置いた。雪弥は小さくうなずいて手で涙をぬぐい、両手でチョロを胸に抱えて、椅子から立ち上がった。

 診察料……。高い! ……しょうがない。小さくたって命に変わりは無い。しかも、夜間な上に保険証がない。

 雪弥は、ズボンのポケットからハンカチを取り出して、そっとチョロを包んだ。そして胸のポケットに、大事そうに仕舞った。

 瀕死のチョロを連れ、藤代家を飛び出して病院迄必死で漕いだ行きの自転車。帰りの自転車は、これが同じ自転車かと疑うほど、ペダルは重くて街灯は暗くて家路は遠かった。

 雪弥は家に戻っても部屋に入っても、一言も言わない。誰もいなくても、習慣で言ってしまう“ただいま”さえも。

 雪弥は自分の部屋のベッドの上に座り、胸のポケットからチョロを出して両掌に乗せ、じっと見詰めている。

「明日、桜の木の下にチョロのお墓作ってあげよ」

 あたしは雪弥の隣に座り、雪弥の頭を優しく撫ぜた。雪弥は、気が付かない程小さく頷いた。

 雪弥は、チョロのケージを綺麗に掃除して新しい草を敷いた。もう食べる事の無いひまわりの種や煮干やチョロの好きだった餌を入れ、水を替えた。ふかふかの草の上に、チョロをそっと置く。

「チョロは、雪弥に感謝してるよ。今まで大事にしてくれて、ありがとうって」

 あたしは、床に座り込んでじっとチョロを見詰めている雪弥の側に寄って、雪弥の肩を抱き締めた。

「……汗臭い」

 雪弥が、ボソッと呟いた。

「ご、ごめん」

 あたしは、慌てて手を放した。自転車で全力疾走したあたしは、全身汗だくだった。シャツも汗塗れで全然乾いてない。それでも雪弥はナムにしがみ付き、声を押し殺して泣いた。

「雪弥、臭くてごめんね」

 あたしは、雪弥をそっと抱き包めた。

 暫らくすると、雪弥が力なくあたしに寄り掛かって来た。しゃくりあげる雪弥肩も、静かになった。

 眠っちゃったかな? もう12時過ぎてるもんね。慣れない自転車は、疲れただろうし。

 あたしは雪弥を抱き上げて、そーっとベッドに寝かせた。汗になった雪弥の服をパジャマに取り替えて、そっと布団を掛けた。

 いつの間にか、雪弥がナムのシャツの裾を掴んでいる。あたしは、その手を離そうとしてー。

 やめた。こんな時、ひとりはヤだよね。あたしは、そのまま雪弥に添い寝をした。


 翌朝5時。あたしは、目覚ましが無くても条件反射で起きた。

 あれ? あたし、昨日どこで寝たんだっけ? 周りを見た。いつもの畳に布団じゃない。

 そうだ、ここ雪弥の部屋だっけ。って、あれ? 雪弥?

 あたしは雪弥を探した。雪弥は、床に置いたチョロのケージの横で、丸まって寝ていた。

 そっか。雪弥は、チョロと一緒に寝たかったんだね。でもこんなとこで寝たら、風邪ひくって。

 あたしは、雪弥が起きない様に、静かに抱き上げてベッドに戻し、布団をそっと掛けた。

 さぁて! あたしは大きく伸びをして、静かに雪弥の部屋を後にした。

 あたしは自分の部屋に戻り、着替を済ませて大魔神の、いや大奥様の待つ台所へと向かった。

「おはようございます!」

 いつものように、あたしは元気よく挨拶をして、台所に入った。

 何? あたしは、大奥様にいつも以上に変な顔をされた。

 髪の毛? でもあたしの寝癖は、今日に限った事じゃないし。あたしは、跳ねている髪の毛を撫ぜた。

「ナムさん。あなた、顔洗いましたか?」

「はい?」

 一応、洗面所で顔を洗って来た。

「鏡見ました?」

「えっ!」

 あたしは、即行洗面所へ走った。

 バン、勢い良く洗面所のドアを開け、鏡を見た。

 やられた! あたしの顔には、色とりどりのペインティングが施されていた。おでこや頬や鼻は勿論、瞼から鼻の下から、耳、首に至るまで、めいっぱい描かれていた。この顔を見て、クスリとも笑わなかった大奥様って、ある意味凄い!

 あたしは、鏡を見ながら顔をごしごし擦った。石鹸を着けた。メイク落しを使ってみた。油性マジックか何かか、……ちっとも落ちない。

 どうしよう、今日学校っ!

「雪弥―っ、どうしてくれんのよー!」

 あたしはその足で、雪弥の部屋に文句を言いに行った。昨夜はあれ程親切にしてやったのに、とんだお返しだ。

「だってナムが、俺をベッドから何度も何度も蹴り落としてくれたから、そのお礼だよ。床で寝たせいで、俺、背中痛いてーし、夜中超寒かったし」

「え? ……ごめん。雪弥が床で寝てたのって」

 あたしの声は、急に小さくなった。

 床に置いてあるチョロのケージの金属製の柵が、朝日に当たって淡く反射している。香りのいいフカフカの藁の上で、静かに安らかに眠るチョロは、まるで小さな天使だ。

「雪弥、一緒にチョロのお墓、作ろっか」

「……うん」

 雪弥は、ケージを見詰めて小さく頷いた。

 悪戯いたずら書きが、ほぼそのまま残っている変な顔のナム。それでも雪弥は、笑えないでいた。

 藤代家の庭にある、樹齢百年以上の桜の大木。その木の下に、あたしと雪弥は20センチ程の深さの穴を掘った。穴の底に新しい藁を敷き、その上にそっとチョロを置いた。チョロが大好きだったひまわりの種も、一緒に置いた。チョロの上に又藁を掛けて、土を掛けて、チョロを埋めた。

 あたしと雪弥は、チョロのお墓の前に膝を突いて、静かに眠るチョロに手を合わせた。

 二代目チョロちゃん、初代チョロちゃんと一緒に、天国で仲良く暮らしてね……。あたしは、雪弥の部屋で敷き藁からちょこっと顔を出し、キキッと鳴く可愛い仕草のチョロを、思い出した。

 一緒にお墓に埋めた、チョロが大好きだったひまわりの種。翌年チョロのお墓から、そのひまわりが芽を出しグングン伸びて、大きな大きな花が咲くだなんて、あたしも雪弥もその時は思いもよらなかった。


 雪弥が、又同じ種類のハムスターを飼い始めた。性別も同じ女の子の、三代目チョロ。今度は、雪弥があたしにもチョロに触らせてくれた。

 生まれて未だ1ヶ月も経っていない、繭玉位の小さなチョロ。首に紐を付けてケータイストラップにしたら、超可愛いと思う。

「こんにちは、三代目チョロちゃん。二代目チョロみたいに長生きしてね」

 あたしは掌にチョロを乗せて、りんごの切れ端をあげた。小さくてもハムスターだ。歯は一人前。チョロは、カリカリとりんごをかじり、頬を膨らませた。もっと、と両脚で立ち上がってお強請ねだりする仕草は、2代目チョロにそっくりだった。

長い時間、お付き合い下さいまして、ありがとうございました。

明日は、雪弥編後編です。

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