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失恋(後編)

毎度、お越し頂きましてありがとうござういます。

失恋編、後編です。最後までお読み頂ける事を願っております。

 あたしは部屋に戻った。でもじっとなんかしてたくない。何でも良いから身体を動かしていたかった。かといって、この顔で外は出歩けない。冬でもないのにフェイスマスクも変だ。太郎の散歩だって、出来れば行きたくはない。それに太郎の散歩には、オプション雪弥が必ずセットになっている。

 今日は、やっぱり1日部屋に篭もる事にして、あたしは水分ストックにっそり台所へ行った。

 冷蔵庫からそーっと麦茶を取り出し2ℓのペットボトルに入れ、ヤレヤレと振り返ったら……。ゲッ、錬弥!

 錬弥は、髪も跳ね寝惚けたまなこで、今起きたばっかりって格好をしていたが、目は大きく見開き、硬直して立っている。

 錬弥はそのまましばらくあたしを凝視していた。が、突然しゃがみ込んで腹を抱えて笑い出した。

「笑うな! お盆っぽいでしょ? これはあたしの演出なの!」

 あたしは、錬弥を無視してさっさと部屋に戻ろうとして……。あたしはいい事を思い付いた。

丁度ちょどいいわ。錬弥の部屋のサンドバッグ、ちょっとあたしに使わして」

 無駄に身体を動かす器具が、錬弥の部屋にはいっぱいあった。あたしは、しゃがみ込んで爆笑している錬弥のえり首をガシッと掴んで、彼の部屋まで強制連行した。

「おい、俺、飯!」

 藤代家の使用人であるはずのナムに、彼女のご主人様である錬弥は襟首を掴まれ、ズルズルと引きられながら、階段を上った。どっちが使用人だよ!

 あたしは、錬弥の部屋のドアを荒々しく蹴飛ばすと、錬弥を放り投げ、いきなりサンドバッグに襲い掛かった。

「とりゃあーっ、おりゃーっ、あちょー、ビシッ! バシッ!」

 あたし自前の効果音付き。

 宿敵でも討つ様に、据わった目付きでサンドバッグに挑むナムに、錬弥は溜め息を吐いた。

「お前、なんかあったんか?」

「ないっ」

 ナムは、ひたすらサンドバッグをにらみ付け、素手で殴り続けている。分かり易いナムの行動に、錬弥は呆れた。

「何ムチャしてんだよ。素人が素手で殴ると怪我するって……。

 モノに当たるなよ。どーせ男にでも振られて、ムシャクシャしてるだけなんだろ?」

 ギクッ。あたしの手が止まった。

「……」

 マジ? 錬弥は怖くて訊けない。

 動きを止めると、あたしの涙腺がゆるむ。あたしは再び、無茶苦茶なパンチを繰り出した。

「怪我なんかしない!」

 どんなに強くっ叩いても、殴っても、ちっとも痛くない。今のあたしの心に比べたら、骨折したって爪が剥がれたって、全然痛くない。

 あたしは血が滲むほど唇を噛み、こぶし渾身こんしんの力を込めて、サンドバッグを殴り続けた。

 見かねた錬弥が、振り上げたナムの腕を掴んだ。

「何すんの!」

 髪を振り乱し、まぶたが腫れ、顔が浮腫むくんでいるあたし――。四谷怪談。

「いい加減やめろ。血、出てるぞ」

 錬弥に言われて、あたしは慌てて拳を見た。両拳はり剥け、血が滲んでいる。サンドバッグにも、血が着いていた。

「ご、ごめんなさい! 汚しちゃった」

 あたしは慌てて、ティッシュを1枚抜き取り、サンドバッグの血痕をゴシゴシこすった。

「そんな事言ってんじゃねー! 素手で殴るなって言ってんだ!」

 錬弥がマジで怒った。あたしは腕を掴まれじっと見詰められて……。ぽろっ。

 ヤダ! あたしの涙腺が……。中2のクソ餓鬼に、あたしの涙見られてたまるか! あたしは慌てて顔をそむけ、天井を向いて涙を飲み込んだ。

「これにしとけ」

 錬弥が、ナムの涙を見ないように顔を背けて、ほら、とバットを手渡した。あたしより4つも年下の子供がきに、半ば呆れて気を使われて、なんだか気分が悪い。

「ありがとう」

 それでもあたしは、低い小さな声で、うつむささやく様にお礼を言った。

 あたしは両手でバットを握り締め、足を少し開いて、バットを構えた。

「とりゃあーっ、ビシッ! おりゃーっ、バシッ! あちょー」

 ビュンビュンと、バットを無理やり振り回すナムのすさまじい気迫に、錬弥は圧倒されるやら呆れるやら……。

「ナム、俺、飯食ってくるわ。朝飯食う前に、お前に部屋ここに連れ戻されたからな」

「行ってらっしゃい。どうぞごゆっくり!」

 あたしは錬弥を見ずに、バットで殴り続けながら言った。錬弥が部屋を出て行っても、あたしは暫くバットを振っていた。10分もつと、さすがに腕が疲れた。全身汗だくだ。てのひらもヒリヒリする。

 あたしはバットを床に置いて、膝に両手を突き、下を向いてはぁはぁと肩で息をした。

 あーあ、情けな……。涙、錬弥に見られたかな。

 さっき静弥さんから元気もらったばっかなのに、何でだ出るんだよ、涙っ! 神様のっっっ、意地悪――っ。ポタポタポタと、床にあたしの涙が落ちた。

 廊下には、腕組みをして天井を見詰める錬弥が、ドアに寄り掛かって立っていた。

 全く、中2の餓鬼に気ぃ使わせるなって。錬弥は、はぁ、と溜息を吐いた。

「山本のぶぁっかやろー! あたしが、何年想い続けて来たと思ってるんだー! もっと振り方、考えろっつーのー! 言い方っつーもんが、あんだろーっ!」

 あたしは涙を止めたくて未練を吹っ切りたくて、理不尽な事を叫び続け、サンドバッグを叩いては抱き付いてピーピー泣いた。散々蹴り飛ばしては、又サンドバッグに抱き付いてワーワー泣いた。

 結局あたしの顔は、人間には戻れなかった。

「やっぱナムの奴、振られたんか。ま、アレだけ叫べるんだったら、中2の俺が心配する事ないか」

 廊下でナムの様子を気にしていた錬弥は、納得した様に笑って、朝食をりに階段を降りて行った。


 ラッキーな事に、雪弥は今日は朝からいない。大奥様と一緒に仕事に行った様だった。

 あたしは雪弥が帰って来ない内に、さっさと夕方の太郎の散歩を済ませた。

 夜のご飯の仕度も、さっさと済ませよーっと。あたしは、急いで台所へ行った。

「ナムさん、朝とちっとも変わらない顔ね」

 ギクッ。大奥様、帰って来たんですね? って事は、雪弥も帰って来た……。

 でもあたしの顔、大分だいぶ人間に近付いたはずなんだけど。

 あたしは大奥様をチラッと見た。大奥様は包丁を握り締めて、刃の切れ具合を念入りに調べている。……あたしより大奥様の方が、遥かに妖界にも天国にも近いと思う。


 夜の家事仕事も終わり、あたしは、名門私立男子校に通う眼鏡オタク涼弥の部屋へ行った。昨夜は、漫画家“文月りょう”センセの仕事を手伝えなかったから、あたしの担当作業は、かなり溜まっているはずだ。

 本当は、涼弥の部屋へは今日も行きたくなかったが、一人で部屋に篭もるのはもっと嫌だった。

「超笑える」

 涼弥の第一声。大分まともになった筈なのに、涼弥には大ウケだった。

「そのまま動くな」

 作業机に座ろうとしたあたしを、作業中の涼弥が手で制した。

「妖怪のイメージが湧く」

 涼弥は、あたしの顔を見詰めてスケッチを始めた。

 湧かんでいいわ。どんなイメージだよ。

「それで、その顔どーしたよ」

 あたしの顔をスケッチしながら、涼弥が訊いた。

「蚊に刺された」

「蚊かよ。どーせ酔っ払って、外で寝てたんだろ。でもナムの血なんか吸ったら、蚊が中毒起こしそうだよな。全滅」

「んなワケあるか!」

 でもあたし、昨夜は太郎の横で何時間もじーっと座ってて蚊に血を提供してたから、あながち間違いでもない。

「ナムサンキュ。スケッチ、大いに活用させてもらうわ」

「しなくていい!」

 あたしは口をとがらせて作業机に座った。ペンやインクを並べて、目の前に重ねて置いてある原稿を手に取った。

 あたしは、人気少女漫画家、文月りょうこと、涼弥のアシスタントだ。漫画の仕事は、学校は勿論もちろん家族にも内緒にしている涼弥だが、多分家族は皆知っている。

 今、あたしが手にした原稿は、大人気連載漫画“ルビーの瞳”のヒロイン“レイ”と、彼女の愛馬“ラニ”との、死別のシーンだった。

 何でこんな時に、こんなシーンなのよ。描いていて、自分でも呆れる程涙が出た。

「ナム、そんなに泣くなよ。原稿に鼻水落ちる」

 あたしは、よく漫画のキャラクターに感情移入してしまう。漫画のキャラが、劇中で怒ったり泣いたりすると、あたしも同じ様に感情をたかぶらせていた。

「分かってるって。だって悲しいじゃん? 死んじゃったんだよ? 涼弥、狙ってたくせに」

 本当は、あたしは漫画の内容等理解していない。でもあたしは、そーゆー事にした。

「ティッシュちょうだい」

 あたしは、ティッシュを箱ごと抱え込んだ。別の理由が着いて我慢する必要が無くなると、あたしの涙も鼻水も遠慮が無い。止められないし、止まらない。仕事にもならない。かなり重い花粉症状態のナムに、さすがに涼弥も気が付いた。

「ナム、お前どうかしたのか? そういえば、昨日はデートだったんだろ?」

 土曜の晩に、ナムが嬉しそうに話していたのを、涼弥は思い出した。

 ギクッ。鼻水が途中で止まった。

「な、なんかあたし……、調子悪。又熱中症かも。涼弥に熱中症移ったら困るし、あたし今日はもう部屋に戻る。じゃ涼弥お先」

 あたしは作業机の上をさっさと片付け、涼弥の顔を見ないようにして立ち上がり、涼弥に背を向けドアに向かった。

「ナム、ちょと待て」

 涼弥が立ち上がって、部屋を出ようとするナムの腕を掴んだ。

「別に何でもないって。死んじゃったラニが、可哀そうなだけ。それに、蚊に刺された所がまたかゆくなって……」

 必死に言い訳した。でも涼弥には振り返れない。

「そんなワケないだろ」

 うつむいた途端とたん、床にぽたぽたとあたしの涙が落ちた。

「こっち向けよ」

「やだ」

 向きたくない。顔見られたくない。涙に震える声を聞かれたくない。

「だって、ホントにラニが―」

 平静を装って声を出そうとすると、あたしの肩が細かく震える。

「分かった」

 涼弥は後ろから、ナムをそっと抱きくるめた。

 やだ、なんでこうなるよ。これ以上あたしを泣かせないでよ。涼弥自信も、なんでナムを抱き締めたのか分からなかった。

 あたしは、掌で何度も自分の頬の涙をぬぐっても、落ちるしずくが涼弥の手を濡らす。あたしは息を殺して、嗚咽おえつが漏れない様に懸命に歯を食い縛った。

「バーカ」

 うるさい! でも涼弥に何を言われても、今のあたしは声が出せない。

 いいもん、どうせバカだよ。あたしは、涙がポタポタ零れるのも構わず、下を向いた。

「我慢すんな。思い切り泣けよ。誰にも言わないし、何も訊かないから」

「……狡いっ、涼弥、あたしに借りを作らせるつもり?」

「そうだよ」

「……。く、悔しい……。涼弥、なんかに……、借り、なんか……。

 うっ、くっ……、ぅわ――――ん。あ――――ん! 山本君の―、バっっ――カぁ――っ!」

 あたしは涼弥に振り返り抱き付いて、大声で泣いた。そして人間に近付いた筈のあたしの顔は、再び人間から遠ざかった。

 暫く泣いて落ち着いたのか、あたしはなんだか眠くなった。そう言えば、夕べから一睡もしていない。そう思っている内に、あたしの意識が薄れて……。一瞬で堕ちた。

 慌てたのは涼弥の方だ。腕の中で、ナムが力なく崩れ落ち、又熱中症にでもかかったのかと焦った。

「おいナム、ナム」

 良く見たら、ナムは気持ち良さそうな寝息をたてて、スヤスヤと眠っている。熱も無い。涼弥は呆れて溜め息を吐いた。

 おいおい。これじゃ、ひと月前と同じパターンじゃん。勘弁してくれー。

 ナムが、熱中症で倒れた時の悪夢を思い出した。それでも涼弥は仕方なく、ナムを抱き上げて、彼女の部屋に連れて行った。

 ナムをそっと畳みに寝かせて、押入れから布団を出す。今度はパンツの裾に充分注意しながら、布団を敷いた。再びナムを抱き上げて、布団に寝かす。常に自分のパンツの裾に、細心の注意を払う。

 ナムが熱中症に罹った時、涼弥はスウェットの裾を一晩中握られて、朝まで彼女の部屋にいる羽目におちいった。そのてつは、二度と踏むまい、と固く念じた。

「じゃぁな、お休み」

 涼弥は、何事も無かったかの様に眠っているナムに、部屋の戸の前に立って声を掛けた。

「ありがとう」

 ナムの声に、部屋を出ようとした涼弥は、驚いて振り返った。

「ナム? 起きてたのか? ……ナム?」

 返事は無い。なんだ寝言か。

「山本君、ありがとう……。ごめんね……。あたし、大丈夫だから……」

 ナムは、眠りながらも苦しそうな笑顔を浮かべて、ポロポロ涙を流している。涼弥は再びナムのそばに寄って、ティッシュの箱から1枚抜き、ナムの頬の涙を拭った。

 昨夜から、ずっと泣き通しだったんだろうか。ナムの、異様に浮腫むくんだ人間離れした顔に、涼弥は呆れて笑った。

 ナムの奴、いつもはあんなにテンパッてるのに、意外と可愛いとこもあるんだな。涼弥は、ナムの浮腫んだ顔をしげ々と眺めた。

 こうしてると、ナムも案外女子に見える。失恋を必死に誤魔化そうとするいじらしい姿に、何故なぜだか急に愛おしさが込み上げた。涼弥は、何気なにげなくナムに顔を寄せて―。はっと我に返った。

 危ない危ない。俺の人生に、危うく汚点を残す所だった。涼弥は冷や汗を拭った。

 涼弥は、そっとナムの傍を離れ、戸に手を掛けた。

「……ありがとう」

 ナムの言葉に、涼弥は再びドキッとした。

 こいつ、本当は起きてるんじゃないか? 再度ナムに近付いて、顔をのぞきこんだ。ナムは、スースーと寝息を立てていた。

 ナムのリアル怪奇現象の顔は、涼弥の正視に堪えない。笑いを堪えつつも、涼弥はナムの目尻にそっとキスをした。ナムの塩辛い涙が、涼弥の唇を濡らした。

 これは同情のキスだからな、と涼弥は自身に力説した。


 翌日、あたしは絶好調だった。自分の部屋に、いつどうやって帰って来たかは定かではないが、細かい事は気にしない。

 よーし! 今日は学校ガッコ行こ。受験勉強、頑張ろ! うーん、と思い切り伸びをした。

 ご飯の支度したくに洗濯に後片付けと、毎朝のあたしの仕事ノルマがひと段落した午前8時。最後のお皿を食器棚に仕舞って、部屋に戻って学校へ行く準備をしようと思ったあたしは、大奥様に呼び止められた。

 ここで呼び止められるなんて、あたし何かまずった?

「ナムさん、今からお茶室にいらっしゃい。私が、御点前おてまえしてさしあげます」

「あの」

 今日は学校が……。言えない。今日の1時間目の補講は、捨てる事にする。

 あたしは項垂うなだれて、大奥様の後に付いて茶室に入った。

 掃除では、何度も入っている茶室。それが今はあたしがお客。でもゲストとしてそこに通されても、あたしはどうしていればいいのか分からない。大奥様の邪魔にならない様に、ひたすら隅で小さく正座していた。でも、お客なのに座布団も無い。

 そんなナムにはお構い無しに、大奥様は手際よく、しかも優雅に点前の準備をしている。あたしは茶道の事は全く知らないが、準備の段階から、大奥様の仕草が美しく見えた。

 なーんて、感心してはいられない。あたしは、お茶の作法なんかさっぱり分からない。その上、正座は苦手だ。

 錬弥の道場へ初めて行った時、長時間の正座で死んだ。足の蘇生が完了するまで、あたしは深夜の道場で一人転がっていた 。茶室ここでも又、一人で転がって居たくない。その前に、さっさと自分の部屋に戻りたかった。

 ゆったりとかまどに火をおこし湯を沸かし、茶道具を並べて行く大奥様の優雅な動きに、倍速モードを掛けたかった。

 それでも、そこは生活音の全く無い静かな空間だった。夏の終わりを告げる、ツクツクボウシの儚気はかなげな声。竹垣で囲われた枯山水の坪庭から、いにしえの香りが漂って来るようだ。

 あたしは背筋を伸ばして、畳の縁をぼーっと見ていた。木々の葉の、風にれる音がする。扇風機もない部屋なのに、ちっとも暑さを感じない。掃除をしによく入る部屋なのに、今のあたしには何だか別空間に思えた。

 いつの間にか、あたしの前に茶碗が置いてあった。

「あの、えっと……」

「作法は気にしなくていいから。お上がりなさい」

「はい」

 あたしは両手でお茶碗を持ち上げて、うやうやしく、一口、いや半口含んでみた。

 あれ? 全然苦くない、ってゆーか、ほんのり甘いかも。センブリの様な苦味を覚悟していただけに、あたしはなんだか拍子抜けした。

「大奥様! 全然美味しいです、これ。抹茶シェイクのノンシュガータイプ、みたいな?」

 感動して、思わず大きな声で叫んだ。……大奥様の視線に、あたしはゆっくりこうべを垂れた。

「藤代家は、江戸時代からの医者の家系です。この屋敷は、明治に建てられました。内装は大分変わってしまいましたが、外観は当時のままです」

「はぁ……」

 その話は、耳タコな程聞かされている。又、大奥様の先祖自慢が始まるのかと思うと、折角せっかく持ち直したあたしのテンションも下がって行く。

「奇跡的にこの屋敷と庭の桜は、震災も戦火も免れました。震災は、私が生まれる以前の事ですので、当時の事は聞いた話でしか分かりません。ですが、この屋敷は野戦病院の様だったそうです。

 大戦中も空襲の度に、ここは壮絶な光景が繰り返される野戦病院になりました。祖父や父は勿論、書生さんや使用人も、母も幼い私も、皆総出で怪我人の手当てをしたものです。でも……。

 お爺さんお婆さんは勿論、小さな子供、結婚間近だと言った女性、大きなお腹の妊婦さん……。見送ってあげる事しか出来ない、無力な自分に愕然としました」

 空襲の事は、あたしも祖父ちゃん祖母ちゃんから聞いた事がある。

「落ち着きましたか?」

「は?」

 何の事だろ。あたしは顔を上げて、首をかしげた。

「生活、ですか? それならもうすっかり慣れました」

「そうですか。もう3ヶ月も一緒に居ますからね。貴方あなたに何があったかなんて、大体察しが着きます。まぁ貴女は、初めから解かり易い方でしたけど」

 3ヶ月寝食を共にしても、あたしは大奥様の笑顔は分かり難い。嬉しいのか可笑おかしいのかあざけているのか……。

 察しが着くって、大奥様は一体何の事を言っているのか、見当も付かない。あたしは、最近起こした自虐ミスを思い返してみた。

 シンクに置き忘れた焼肉のタレを、洗剤と間違えて食器洗浄器に入れてしまった事だろうか。ボンドで貼り付けてこっそり直しておいた花瓶から、水が漏れ出して床が水浸しになった事かな。

 それとも洗濯洗剤の箱を、回っている洗濯機に丸落としちゃったのがバレたか。可愛そうな押し売りのおじちゃんの、悲惨な身の上話を延々聞いてる内に、買ってきたアイスや冷食が、袋の底でドロドロになってた事かな。

「ナムさんとは、もう3ヶ月も一緒にいるんですよ。気が付かないとでも思って?」

「あー、はい。お気を使わせて、申し訳ありません」

 って、何の事を言っているのか、あたしにはさっぱり分からない。

「もう、家中の壁に、手形を着けて歩くのは止めにして下さいね」

「手形?」

 昨日のあたしは、どよよ~~んと背を丸め、十歩行っては壁に手を突き溜め息を吐いた。又十歩歩いては、壁に貼り付いて溜め息を吐いていた。ナムが通り過ぎた廊下の壁には、ベタベタとナムの手形が付いていた。何体もの霊を背負っている様なナムの後姿を、大奥様も溜め息を吐きながら目にしていた。

「人は、生きていれば色々有ります。良い事ばかりじゃないし、悪い事ばかりでもない。それらは皆、一時いっときの事です。いづれ全てが思い出となり教訓となり、貴女を人として成長させるのですよ」

「……」

 深過ぎて、あたしはなんて答えたらいいのか分からない。きっと大奥様は、深い顔のしわ以上に沢山辛い思いをしたんだろう。

 家族でもないあたしの事なんか、そんなに心配しないで下さい。それより……あたしの足が……。限界。

 あたしは引きつった笑顔で、元気の無さを気に掛けてくれたっぽい大奥様に、一礼した。でも……。どうせ気を使ってくれるなら、限界を超えたあたしの足の痺れに、気を使ってもらいたい。

 風がさわさわとそよぎ、何処どこからか涼しげな風鈴のが聞こえて来る。

 明治の時代から、藤代家で繰り返されて来た、誕生・死没を見届け、天災や戦火を免れ、藤代家は勿論沢山の人達の人生や想いを見守って来たお屋敷―。戦争を体験してきた大奥様の色んな想いも抱き包めて、このお屋敷は現在いまもずっと東京ここに建っている。

 大奥様は、そこに何かを探すように、窓の外に目を向けた。あたしも、大奥様の視線の先を一緒に見詰めた。

 一時の事、か……。でも今のあたしにとっては、過ぎ行く一時の事(足の痺れ)が、最重要で最優先だ。

 未だですか? 目で訴えるあたしを無視し、大奥様は澄ました顔で、お茶を服している。

 それでも、さりげなく気を使ってくれる大奥様のその気持ちは、あたしには嬉しかった。

 

 脚の痺れがやっと治った頃、あたしは奥様に呼ばれた。大奥様の次は奥様か? せっかく足の痺れが治ったのに。これじゃ、今日も学校行けなくなっちゃうよ。

 あたしは、奥様と過ごす時間は嫌いじゃない。でも今日は違う。気が重かった。

 まさか奥様まで正座、は無しだよね? あたしは、やっとまともに動くようになった脚をさすりながら、奥様の待つ部屋に向かった。

 コンコン。

「ナムさん? どうぞ入って。ナムさんに、お手伝いをお願いしたいんだけど?」

 よかった。説教じゃなくて仕事だ。

「はい、何でしょう?」

「写真の整理をしようと思って。私、もう何年もそのままだったから」

 え? 整理整頓は、いつもきっちりしている完璧な奥様だけに、納得出来ないあたしは、小首をかしげた。

 奥様は、クローゼットの奥に仕舞ってあった箱を持って来た。

「運動会とかお誕生会とか、頂いた写真はそのままになっているの。何ヶ月も経ってから頂くと、整理するのも大変で」

「そうなんですか? 確かに、何年も経って忘れた頃にもらっても―、ですよね。分かりました。お手伝いします」

 あたしは床に座り込んで、箱の中の袋にまとめて入っている写真を、日付順に床に並べた。

「ナムさん、テーブル使って構わないのよ」

「いいえ、一度に沢山広げたいから。この方が分かり易いし、早いし」

 あたしは、カルタの様に写真を床一面に並べ始めた。が……。

 往々にして片付け始めたつもりが、その中に面白いものを見つけると、たび々中断してしまう。

 グラビアアイドルの写真集の様な、奥様のミスキャンパスの優勝クイーン写真。学生時代の、イケメン旦那様と奥様の2ショット。

 子供モデルの様な、超可愛い4兄弟の幼児の写真。4兄弟は皆、まん丸顔に紅い頬にまん丸の大きな瞳に、小さな唇長い睫だ。服がピンクだったら、4人とも絶対女の子に間違われる。

 あたしが、4兄弟の子供の頃の写真に見惚みとれていると、奥様が1枚1枚手にとって説明してくれた。

「この子は静弥さん。甘えん坊で、いつも私の後にくっついていたのよ。

 この頃はお祖父さんもお元気で私も家に居たから、静弥さんとはずっと一緒だったの。静弥さんは初孫だったから、皆に可愛がられて甘やかされてたわ」

 あたしは、3歳位の男の子がピアノを弾いている写真を、手に取った。

「これ、静弥さんですよね? こんな小っさい頃から、ピアノ弾いてたんだ」

「そうなの。私が弾いて歌ってあげたから、真似してね。でも覚えが早くて。だから私がちゃんと基礎から教えてあげたら、みるみる上達して、私の方がびっくりよ」

「奥様って、ピアノの先生だったんですか?」

「いいえ。でも一応音大のピアノ科だったから、ちょっとは弾けるかしら?」

 ちょっとじゃないだろー。音大なんて、奥様やっぱお嬢様じゃん。

「この子が生まれた時は、風も無くてとても静かな夜でした。月夜に満開の桜が照らし出されて、溜め息が出る様な美しい晩でした。

 私にとって最初の子だったから、出産で苦しむのは覚悟してましたけど、気を遣ってくれたらしくて、すっと生まれてくれました。

 静弥さん、いい子でしたよ。夜鳴きもぐずりも、人見知りもしなかったし。

 でもね、女の子みたいに可愛い顔してたけど、結構わんぱくなの。4月生まれだったから、頭も力も運動も同年代の他の子に負ける事はなくて、幼稚園では問題児でした。だから、小さい時から空手に通わせたの」

 それで静弥さん、錬弥と同じの空手道場に通ってたんだ。やんちゃな男の子を思い浮かべて、あたしは思わず笑ってしまった。

「4つ下に涼弥さんが生まれてから、静弥さん急に反抗的になって。悪戯いたずらしたり嘘をついたり、物を壊したり、幼稚園の友達泣かせたり。それまで、私を困らせた事なんてなかったのに。

 きっと、小さな弟に嫉妬していたのね。お母さん、盗られちゃったって。

 私は、生まれたばかりの涼弥さんに着きっ切りだったから、静弥さんのピアノも私じゃなくて、私の後輩の子が見てくれる事になったの」

「これ、静弥さんと涼弥さんですか?」

 あたしは、小さな男の子が二人並んで仲良く座っている写真を手に取った。赤ちゃんの方はお座りしていて、お兄ちゃんの方は、その子を支える様にして座っている。ふたりとも、モデルの様に可愛い。

「ええ。私の前では静弥さん、絶対に涼弥さんを抱っこしなかったんだけど、私が見ていないところでは、とても可愛がっていたらしいの」

 奥様は思い出して、フフフと笑った。

「涼弥ー、涼弥さんって、確か七夕生まれですよね」

「あら、よく知ってるのね」

「聞きました。だから“文月”」

 しまった! あたしは慌てて口をふさいだ。いや、奥様は涼弥が漫画描いてるの、ご存知だった。

「梅雨時の蒸し暑い季節だったけど、誕生そのときは、天の川も綺麗に見えて、風も涼しくてー」

「だから、涼弥ですか?」

「単純?」

「いいえ。生まれた時の様子が目に浮かんで来る様で、素敵です」

 あたしは、自分の名前の由来を考えてみた。おおきなゆめ……やっぱギャグだ。

 あたしは、幼い頃の静弥と涼弥が一緒に写っている写真を、奥様に手渡した。

「涼弥さんが1歳になる前に、お祖父さん……。大学・病院・藤代家と、一人で頑張って来られた主人のお父さんが、癌で亡くなりました。

 覚悟していた事とは言え、主人は三十代の若さで、権力闘争の激しい医大の学長に成りました。私も、主人の負担を少しでも軽くしたくて、理事に就任しました。

 可愛そうでしたが、甘えたい盛りの静弥さんと、母乳を与えていた涼弥さんは、お義母さんに預けました。

 涼弥さんは、私を探してよく泣いたそうですよ。静弥さんも、私に甘えたかった筈なのに我慢して、泣いている涼弥さんをよくなだめていました。

 静弥さんは、涼弥さんの面倒を本当に良く見てくれました。絵本を読んであげたり、一緒にお昼寝したり、着替えや歯磨き、箸の持ち方、トイレの練習まで。

 いつの間にか、静弥さんは小学生に、涼弥さんは幼稚園児になっていましたね。本当に、親はいなくても子は育つんだって、思いました」

 奥様は、二人の写真を愛おしいそうに撫ぜた。

「じゃぁ、錬弥と雪弥……、錬弥さんと雪弥さんは?」

「そうね……」

 奥様は、今度は錬弥と雪弥の写真を手に取った。

「お祖父さんが亡くなって三年経って、錬弥さんがお腹にいるのに気が付いたの。でも主人は学長として、私は理事長として就任して、やっとなんとかなるようになったばかりでしたから、心身共に余裕がなかった。だから可愛そうだけど、あの子を産む気はなかったの。私は、誰にも言わずに中絶するつもりでした。

 だけど不思議ね。堕胎を翌日に控えたその晩に、お義父様が私の夢枕に立ったの。この世に生を受けた小さな命を摘み採るなって叱られました。本当は私も産みたかったから、決心と覚悟をもらって、心の中で感謝しました。

 でも、なかなか慣れない仕事は忙しいし、身体も精神もいつもクタクタ。私はつわりも妊娠中毒症も酷くて、大変でした。

 出産も、予定日よりひと月以上も早くて、錬弥は産声も上げられない未熟児だった。私自身も出血が酷くて、出産直後に意識を失いました。

 生死の狭間はざま彷徨さまよったあの子が、強くたくましく生きて欲しい。名前には、そういう意味が込めてあるんだけど」

 あの錬弥が? 息も絶え絶えの未熟児だったなんて、あたしにはとても信じられない。でも誕生日が11月22日(いい夫婦)なんてとこが、やっぱり奥様と旦那様の為に生まれてきたんだと、あたしは思う。

「雪ちゃんの時は、私の仕事も慣れて周りも気を使ってくれて、とても穏やかな出産でした。その時、静弥さんは小学校の5年生で、雪ちゃんの出産に立ち会ってくれました。感動してくれましたよ」

 そうか。だから静弥さんは、医者になりたかったんだ。あたしは勝手に納得した。

「で、雪が降っていたんですか?」

 確か、雪弥の誕生日って、バレンタインデーだ。

「ご名答。息も凍り付く様な厳冬の静寂に包まれた深夜に、雪ちゃんが産声を上げました。風も無い窓の外では、雪がはらはらと降り始めていました。このままいつまでも、真っ白で純粋な雪の様に育って欲しいって、願いを込めて、雪弥って着けました」

 奥様の深い想いが込められた“雪弥”は、今じゃ何処どこ彼処かしこも真っ黒だ。鰻が集団でとぐろを巻いている性格だ。そっか。願いって、なかなか叶わないから“願い”なんだ。あたしは、雪弥の意地悪く笑った顔を思い浮かべて、納得した。

「ナムさんも、きっといろいろな想いを受けて生まれ育って来たんですよね? ナムさんならきっと、ご両親や皆の想いに答えてくれるって、信じてますよ」

「……」

 あたしは言葉に詰まった。やっぱり奥様もあたしに気を使ってくれたんだ。こんな事で落ち込むなってー、あなたは未だ未だ、これからよってー。

 あたしは、お宮参りの写真を手に取った。静弥さんと大奥様かな?

「奥様、この写真って大奥様と静弥さんですか?」

「ええ、そうよ。静弥さんが生まれて1ヶ月位だったかしら」

「大奥様、超若い。綺麗な人“だった”んですね。それに嬉しそう。そっか、静弥さんって初孫でしたっけ? 大奥様って、藤代家を凄く大切にしている人なんですよね。確か一人娘で」

「そうね……。でも、そうでもないかも?」

「いえいえ、大奥様は、絶対藤代家が一番ですよ」

 あたしは今さっき大奥様から、この藤代家の屋敷を戦争や震災から守ったって言う、自慢話を聞いたばかりだ。大奥様にとっては、何を措いても代々続いた藤代家命! とあたしは確信していた。

「これは聞いた話なんだけど。

 お義母さんは藤代家の一人娘で、一族のお眼鏡に適った婿養子を取らなければいけない立場でした」

「はい、お嬢様だって聞きました」

「でもお義母さんは、18の時に当時藤代家で住み込んでいた医大生の書生さんと、恋仲になったらしいの」

「は? 大奥様が恋?」

「ええ。でもその学生さんは、自分の出身の地元の村の人々を助けたくて医者を目指していて、村の人達の援助を受けて医学の勉強をさせて貰っていたらしいの。だから、お義母さんと結婚して藤代家の当主になる訳にはいかなかったのね」

「へぇー。大奥様にそんな過去があったんですか」

「そうらしいわ。しかも、駆け落ち騒ぎまで起こしたって聞きました。その学生さんが、一人前の医者に成って地元に帰る時、お義母さんは一緒に着いて行くって言ったそうよ」

 奥様は、クスッと笑ってナムの反応を見た。

「え、えええぇ~~!」

 あの大奥様が、藤代家を捨てて駆け落ち? あたしは仰け反り、後ろにひっくり返りそうになった。

「そ、それでどうなったんですか? もしかして亡くなった大旦那様って、その人?」

「いいえ。違います。でもお義母さんは、亡くなったお義父さんをとても愛していらっしゃいました。誰もがうらやむ程、仲のいい御夫婦でしたよ。

 だから、その当時のお義母さんの恋は、大失恋で終わったみたいね」

 信じられない! でもあたしは、さっき茶室の大奥様が何かの想いにふけりながら、窓の外を眺め風鈴の音に耳を傾けていた事を思い出した。

 きっと大奥様は、あたしの失恋の百倍は辛い失恋だったんだろうな。そう思うと、こんな事くらいで落ち込む自分が情けなくなった。


 奥様の写真は、あたしが手伝って整理する程ではなかった。“写真”は、きっとあたしを元気付ける為の小道具だったんだ。

 あたしは、藤代家にとっては訳の分からない赤の他人で、しかも女子高生。こんなあたしを、藤代家の皆が、これ程心配してくれるなんて……。なんだかあたしは、心がポカポカしてきた。

 4兄弟も含めてここの家族は、あたしが変に落ち込んでても、どうしたの? 何があったの? って根掘り葉掘り聞いてこない。なんだかんだとあたしに絡んで来る雪弥も、昨日今日と大人しい。皆……。間接的にさりげなく気を使ってくれるのが、あたしの心にジーンと沁みた。

 その日も結局、あたしは学校へは行かなかった。


 その晩、あたしが心を入れ替えて、コタツテーブルで受験勉強に励んでいる時、ケータイコールがあった。時計は10時。

 ヤバッ。沙紀ちゃんにメール入れんの忘れてた! 昨日今日と学校休んで、きっと心配してる。でもあたし、それどころじゃなくて、今まで着信もメールもチェック出来なかった。

 沙紀ちゃん怒ってるよね、きっと。あたしは慌ててケータイに出た。

「もしもし沙紀ちゃん? ごめん! メール入れとくの忘れてた。今日は学校行く気だったんだけど……」

「あ―……」

 あれ? 電話、沙紀ちゃんじゃない! もしかして間違い電話?

「あの、あの……、あなた誰?」

「あはは……、ナムらしいや」

 ドキッ。山本君だ。あたしは思わず立ち膝になった。

 一昨日おととい昨日きのうの今日で、何で電話…………。あたしは一瞬でパニックに陥った。

 とにかくあたし、落ち着け、落ち着け、落ち着け……。何気に、携帯持つあたしの手が震えている。座る事も忘れ硬直していた。

「や、山本君……。お久しぶりです。あたしは元気です。

 昨日は、蚊に刺されたら怪奇現象でバット振ってました。今日は、お茶飲んだら足が痺れて感動しました。それで学校行けなかっただけだから、休んだからって心配しないで下さいマシタ」

 あたしは立ち膝のまま、話を大分省略して機械的な音声で説明した。

「相変わらずナムの言ってる事は、支離滅裂だな」

 山本のいつもの口調に、あたしの声の調子も戻った。

「いっ、いいのっ! で何?」

「うん……。特に用はないんだけど……」

「もしかして、心配してくれた? 元彼女もとかのの自殺、とかって」

「ぜーんぜん」

「即効で答えんなって! じゃぁ何よ」

「うん……。なんとなく、ナムの声が聞きたくなった」

「はぁ? 今更? ……。って。あーっ、もしかしてぇ~、あたしとり戻したいー、とかぁ?」

 あたしは茶化して言った。

「……それも、いいかな」

「は?」

 あたしは耳を疑った。言葉が続かない……。

「あのねぇ……。その冗談、今のあたしに、ヤバイキツ過ぎなんですけどー」

「マジ……って言ったら?」

 あたしは再び言葉を失った。そう言えば、何だか聞こえて来る山本君の声に元気が無い。

「あ―……。もしかして、沙紀ちゃんに何か言われた?」

 あたしが失恋した事は、沙紀も知っている。沙紀なら、山本君を体育倉庫辺りに呼び出して、一発殴るくらいの事はやりそうだ。

「うん……。笠原に告って玉砕した」

「は?」

 あたしは、再び再び言葉を失った。一昨日の昨日で……今日?

「……あー。それであたし?」

「ダメ……かな」

 ドクン! 心臓が跳ねた。でもちょっと待て!

 あたしの心は複雑だ。元鞘もとさやに納まるチャンスでもあるが、自分からあたしを振っといて、沙紀ちゃんに振られたからって、又あたしかよ? って感じもする。

 あたしは、返事が出来ない。

「ナムが俺の事、だ好きでいてくれるなら、だけど……」

 嫌いなワケないじゃん! あたし山本君を、5年以上もずっとずっと好きでいたんだよ。

 あたしの中では……。

 悪魔が、うんと言えと囁き、天使が、弱ってる山本君に付け込んじゃだめだ、と説教する。どうする、あたしっ!

「……ごめん。それは無いわ」

 って、あたし何言ってんだよーっ! 元鞘に戻るチャンスじゃん! 自分でつぶしてどーするっ! 咄嗟とっさに答えてしまった自分に慌てた。

「え?」

 ナムの思わぬ答えに、山本は言葉に詰まった様だった。

「……そう、だよな。ごめん、ナム」

「えっと、うんっと……」

 やっぱりあたしは、今でも山本君が好き。だって、5年以上も傍で見て来て、彼女になってもずっと憧れの存在だったんだから。いろんな妄想もしたし、布団やお風呂であれこれ考えた。

 ずーっと思い続けたその気持ち、山本君のたった一言で終わりになんかなんないよ。でも……。

 おんなじ事、繰り返すのはもうイヤ。山本君が、あたしを通して沙紀ちゃんを見てるのを、かたわらでじっと眺めているだけなんて、あたしにはもう出来ない。

 立ち膝だったあたしは、パタンと力無く座り込んだ。

「あのさ、あたしは今でも山本君が好きだよ。今更だけど、そんな弱気な山本君を知る事が出来て、素直に嬉しい。

 でも逆にショックかも。あたしが彼女だった時には、山本君の弱点、全然見せてくれなかったから」

「そうだっけ?」

「そうだよ。……実際あたしって、山本君が弱音を吐ける友達でもなかったんだね……」

 そう……、よくよく考えてみたら、あたしと山本君は付き合い始めた当初から何か変だった。でも山本君はあたしの初彼だったから、実際に高校生同士で付き合うのって、漫画やドラマとは違って、こんなもんなんだと思ってた。

 山本君は、あたしの完璧な王子様で学校中のアイドル。そんなスーパー山本君に、あたしは弱点なんかないと思っていた。こんな風に、弱音を吐くなんて思わなかった。自分の彼女以外の女子を見てるだなんて、思いもしなかった。

 山本君にとっては、あたしは愉快な女友達。気心も知れてるし、ムリも我が侭も言わない。あたしには、特別気なんか使わなくてもいいし、お金も掛からない。あたしは、そんな楽な彼女。付き合う前と付き合ってからと、特に何にも変わらない、親友でもないただの友達関係……。

「ナム、そんな事無いよ。俺は……」

「いんだ、もう。だから、山本君は、これからもあたしの好きな山本君のままでいて欲しいんだ。ずっと好きでいたいから。

 山本君だって、振られてもずーっと沙紀ちゃんを好きなまんまでいいじゃん。その内きっと、山本君にとって沙紀ちゃん以上の人が現れるから。

 あたしはー、そう信じてる。だからこれからも、あたしは山本君が好きっ!」

 チュッ。あたしはケータイにキスをした。

 ……不気味な沈黙。

「え? 違っ! そーゆー意味じゃなくて! あたし、ストーカーじゃないから!」

 あたしは、再び立ち膝を突いた。携帯の向こうから、笑い声がする。

「分かってるって。でもサンキューな。やっぱ“ナム”は最強だよ。その内きっと、ナムの事好きになる奴が現れるって」

「……」

 何度も告られて男を振り慣れてる沙紀とは違って、山本君はあたしが生まれてこの方、誰からも告られた事が無いのを知っている。あたしは思わず、ケータイを睨み付けた。

 ケータイを切って、あたしは又ペタンと座り込んだ。暫くぼーっと、ケータイの待ち受け画面を眺めていた。

 なーんにも浮かばない真っ白な心。でもなぜか、涙がポロポロ零れてきた。


 翌日、あたしは元気いっぱいで学校に行った。登校途中で、沙紀にあった。

「沙紀ちゃん、おは!」

 あたしは沙紀の背中を、ドン、と力いっぱい叩いた。

「いったぁ! ……ナム? なんだ随分元気そうじゃん?」

「お・か・げ・さ・ま・で」

「何、その言い方。あたしに何か恨みでもあんの?」

 あたしは、沙紀の横に並んで歩きながら、無理矢理明るく、からかう様に訊いた。

「沙紀ちゃんさ、山本君に告られたんだってー?」

「え? ……そっか。山本君に、訊いたんだ」

 あたしは何だか涙が出そうになって、前を向いてうん、と頷いた。

「なんで振ったよ? あたしに気ぃ使ったつもりなら……」

「違う!」

 沙紀は力強く首を振った。

「違うけど。……でもさ、あたしってナムにも山本君にも、酷い事したよね。ちょっと反省。

 山本君の気持ちも考えずに、とりあえずナムと付き合ってよ、なーんてお願いしちゃったからね。しかも、優しい山本君なら絶対断らないって確信してたし。

 でもあたしには無理。その気も無いのに、悪いから山本君と付き合う、だなんて……。人にやらせといて、自分はダメ、なんてホント狡いよね。ごめんね、ナム」

 あたしは立ち止まって、じーっと沙紀を見詰めた。

 そんな事無いよ。山本君は、決してあたしに同情して彼氏になったんじゃないと思う。どんな形であれ、沙紀ちゃんの側に居たかったんだよ。あたしからの告白、断れなかったんじゃなくて、断らなかったんだよ。

「何?」

 沙紀が、立ち止まって自分をじっと見ているナムを、怪訝けげんな顔で振り返った。

「うううん、沙紀ちゃんが好きになる人って、一体どんなひとだろうって考えてたとこ」

「あたし? さぁ。自分でも分からん。でも今は、恋愛なんかに全く興味なし。大体ウチラ受験生じゃん?」

「まぁ、そうだけど……」

 山本君、残念だけど沙紀ちゃんは、今の山本君の手に負える女じゃないよ。夏の名残の入道雲に、山本の顔が浮かんで見えた。


 教室に入ると、机に座って友達とふざけている山本がいた。山本に、沙紀に振られたダメージなんかまるで見当たらない。でもあたしは……。

 あたしは教室の戸のところで立ち止まって、一回大きく息を吸い込んだ。

「おはよう!」

 あたしはいつも以上に大きな声で元気良く、手を上げて教室の皆に挨拶した。

「おはよう、山本君!」

 バシッ! あたしは山本が振り返る前に、彼の背中を叩いた。多少の恨みを込めて。

 山本が前のめりになり、呆気に取られた顔をして振り返った。

「ひっでー。いきなりかよ」

「そんなの、叩くよって言ったら逃げるじゃん」

「当然だ。背骨折れた」

「あっそ。もっかい叩いてい?」

 いつもの会話だ。側に居た、彼氏無しのあたしの友達が、ムッとしている。

「ナムー。そーゆーのは他でやってくれる?」

 あたしが、未だ山本君と付き合っていると思っているクラスメイトから、二人の仲を冷やかされた。

 あたしは首をすくめて、ヤレヤレと山本君に両手を広げた。山本も、笑顔で返す。なんか、今まであたしが感じた事の無い穏やかな空気が、二人の間に漂っているような気がした。

 あたし、少し大人になったかも。でも、……たとえ沙紀ちゃんと二人でも、ディズニー・リゾートには、当分行きたくない、かな。

 それでも来年の夏には、念願の大学生になって、格好いい彼氏作って、絶対行くんだーっ!

 ボワン。突如藤代4兄弟が、あたしの頭に割り込んできた。その背後から、にゅーっと不気味に笑う妖婆、いや大奥様の姿が……。

 違うっ! やめろー! あたしは激しく頭を振り、その映像を掻き消した。


 あたしは、後から教室に入って来たクラスメイトにも、次々と挨拶を交わした。テンション高めのハイタッチで。

「ナムが二日も休むなんて。知恵熱?」

「まぁそんなとこ。だってあたし受験生だもん」

 そうだよ。あたしは泣く子も水虫も黙る受験生。こんな事で、一々うじうじしてられっか。

 大丈夫! あたしは目の前のある、特別養護教諭への一本道を、全力で前進するのみ! もう迷わない。引っ張られる様な長い足も無いし、よそ見したいモノも無い。あたしは、夢に向かって元気全開! やる気百倍! 笑顔満開だーっ!

「あ、先生だ」

 始業を告げるチャイムに、あたしはクラスメイト達と共に、バタバタと席に着いた。

ありがとうございました。

ここまで書くと、大分、誤字脱字重複分が目立ちますが、そのへんは、素人、と言う事で大目に見て下さいませ。

次話(明日)は雪弥編の前編です。

懲りずに、又のお越しをお待ち致しております。


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