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失恋(前編)

ナムが、ずっと想い続けてやっと彼女になった、大好きな彼氏にとの失恋編です。

今話もドタバタです。

 東京都区内の、閑静な高級住宅街。歴史を感じさせる古い煉瓦れんが造りの洋館の藤代家のお屋敷は、月明かりに照らされて静かにたたずんでいる。その1階北西隅にある、四畳半和室の使用人部屋で、あたしは照明でんきも点けずに、部屋の角で小さくなっていた。

 抱えた膝に片頬を乗せて、あたしはぼーっと窓越しのおぼろ月を眺めていた。

 今日は楽しかったな……。あたしは何気なにげなく、ちらりと目覚まし時計を見た。針は午前3時を指している。

 あ、もう今日じゃなくて、昨日の事なんだ……。そっか。もう昨日の事になっちゃったんだ……。あたしは膝に、新たにあふれた涙をなすりつけた。

 昨日は、あたしの高校生活最後の夏休みで最終日曜日。あたしは大好きな彼氏の、山本君とTDL(東京ディズニーランド)へ行った。久々のデートだった。

 楽しかったデート。あたしは、朝目覚めた時からの自分の行動を、膝の上で反芻はんすうしてみた。


 朝、目が覚めて直ぐ、前日から何度も当てて確認した服を、再度姿見で確認した。うん、良し。

 とりあえず、慣れない化粧してみたけど、前夜練習した様に上手く行かない。左右の眉が同じ様に書けなくて、やっぱ化粧は辞めた。

 あたしは、待ち合わせの駅の掲示板前で、山本君が来る1時間も前から立っていた。いつもの指名手配犯の掲示板も、キラキラ輝いて見えた。

 あたしは山本君が来るまでの間、まるで初めてのデートみたいに、ワクワクドキドキした。だって、丸一日山本君と二人っきりになるのは、その日が始めてだったから。一年も付き合っているのに。

 人混みの中から、よーって手を上げる山本君の姿を見付けた時の、あたしのドキドキ。長い待ち時間も、あっと言う間だった。


 あたしの暗い部屋に差し込む月明かりで、あたしはフリーパス券と一緒にもらったパンフを眺めた。二人で歩いた場所を、時間を追って辿たどってみた。

 開園して直ぐに、ここまで走った。山本君が並んでる間に、あたしが FastPass を取りに行った。ケータイで、他のアトラクションの待ち時間をチェック!

 次はここ。長蛇の列でケータイをいじり、必死に他のアトラクションの待ち時間をチェックする。そんなあたしに、山本君、呆れてたっけ。

 それで、次にここのトイレに寄って、ここでジュース買って、あたしはミッキーの帽子被って……、手を繋いだ。


 あたしは、膝にあごを乗っけ直して、二人で周った順路を指でなぞった。


 あたしは山本君の手を掴んで、あっちこっち走り回った。次はどこ、その次はどこって……。ずっとはしゃいでて、ずっとしゃべってた。汗だくになっても、強い日差しも気にしない。

 あたし、ディズニーリゾートには、係員の台詞まで全て覚えてしまった程、何度も通ったはずなのに、始めて行ったみたいに感動した。

 ホット・ドッグのケチャップ、わざと口の周りに着けて、山本君を笑わせた。ミッキーに見惚みとれてたあたしが、手を振った拍子に派手にコケたり、ポップコーン持ったまま下向いたら、ぜーんぶこぼれちゃったり。係員のお姉さんを無視して走って席を確保したのに、大声で呼んでも山本君は返事してくれなかった。

 暑かったけど、天気が良くてよかった。山本君がアイスキャンディ、おごってくれたから。

 炎天下での順番待ちの長蛇の列も、全然ヤじゃなかった。だって、ずっと隣にいられたから。

 暗くなって、二人並んで石段に座った。夜空の花火を見た。山本君、そっとあたしの肩を抱いてくれた。

 夜でよかったぁー。多分あたしの顔、真っ赤だったから。

 閉園が近付いて、あたしは涙が出そうになった。大きな声で、ミッキーマウス・マーチを歌って、涙を誤魔化ごまかした。隣にいた小さな女の子が、何故なぜかあたしの歌に合わせて“てのひらを太陽に”を歌っていた。全然似てないのに。

 絶対泣かない。そう決めていた山本君とあたしの、ラストデート。


 部屋の隅で、あたしは膝を抱え、畳の目をボーっと眺めた。山本君と出会ってから今日迄の5年ちょっとの出来事が、畳の目に映る。誰に話すでもない独り言を、あたしは延々つぶやいた。

 あたしが山本君に初めて出会ったのは、中学の入学式。山本君とは、同じクラスの隣の席だった。まだ小学生みたいに可愛かった山本君に、あたしは一目惚れした。

 今、小五でアイドル事務所に所属している、、藤代家の末っ子四男の雪弥なんかより、その時の山本君の方がよっぽど可愛かったって!

「あたし大木菜夢おおきなゆめ、通称ナム。よろしく」

 中学の入学式が終わって、新しい教室で、あたしが隣の席の山本君に元気よく手を差し出した。

「変な名前。でもよろしく」

 そう言って、可愛い声で笑って握手してくれた。

 山本君がバスケ部に入った。あたしもバスケ部に入った。部活の事とか、共通の話題作って、いっぱいしゃべりたかったから。

 山本君の身長、最初はあたしより低かったのに、1年で逆転された。めっちゃ悔しかった。

 中2になって、クラスが別れた。山本君は、背もどんどん高くなって、バスケも上手うまくなって、チームのエースになった。あたしは……、ちっとも上達しなかった。身長も2センチしか伸びてない。

 バスケの練習では、あたしはいつも当たり負けして宙を飛んだ。隣のコートで練習している男子バスケ部の山本君に、又腹で床掃除してるのかって、よく笑われた。

 中3になって、山本君はどんどん格好カッコ良くなった。当然女子にモテまくり。バスケの試合の直後には、他校の女子から写メの嵐だった。

 山本君がそんな王子様になっても、特定の彼女はいなかった。それに、あたしには気軽に声を掛けてくれた。

 あたしも遠慮なく、何でも山本君に相談した。部活の事とか勉強とか、進路とか……。友達の事、先生の事、晩ご飯のおかず。卵焼きに砂糖は入れるか入れないか、包帯は右巻きか左巻きか……。どんな事でも、山本君は真剣に聞いてくれていた。と思う。

 あたしは今でも、そんな山本君が、大大だ――い好きだ。


 あたしは、山本君と同じ高校へ行きたくて、必死で頑張って勉強した。あたしにとってその高校は、東大に匹敵るす程難関校で、受けるって言ったら、先生に、真剣まじめに考えろって怒られた。

 あたしは悔しくて、頑張って頑張って頑張って、死ぬ気で頑張って勉強した。奇跡的に、山本君と同じ高校に通えるようになって、更に更に、あたしと沙紀ちゃんと山本君が、同じクラスになった。

 高校でも、山本君は絶対バスケ続けると思ったから、あたしはバスケ部に入部した。なのに、山本君は軽音楽部だった。

 山本君は、世界のロックンローラを目指す、とか言ってる雪弥とは違くて、ギターを持つ姿が超格好よかった。でも不思議。山本君、中学時代より更にモテてたのに、彼女の噂とか、ホント聞かなかった。そんな山本君とは、ずーっと仲が良かったあたし。山本君が彼女作んないのはあたしのせいかも、なんて、ちょっぴり自惚うぬぼれた。

 去年の高2の夏休みに、沙紀ちゃんにせっつかれて、あたしはついに山本君に告白した。定番の校舎裏で、部活が終わるのを見計らって。

「す、す、す、好…き……で、す、か、か、か、彼女……。して、下さい……」

 何言ってんだ? あたし!

 背中に何トンもの重石おもしを背負ってしまった様なあたしは、山本君が何か言う前にきびすを返して、ダッシュして帰った。

 その日、あたしは一睡もせずに、ケータイを握り締め液晶画面とにらめっこしていた。

 次の日、山本君がメールで“いいよ”って返してくれた。

 やったぁー! 神様仏様キリスト様アラーの神様、ありがとうございますぅ~~!

 死んでもいいと思った。空も飛んだ。その日の晩御飯は、うなぎだった。

 それから1年……。

 あたしは4年ちょっとの想いが実って、学校内女子の皆の憧れ王子の彼女になった。けど、あたしと山本君の関係は、それまでの腐れ縁的な友達付き合いとあんま変わんなかった。山本君と二人っきりでデートに行く事もないし、暗い夜道でも手を繋いでくれる事もない。せいぜい学校から一緒に帰ったり、あたしが山本君の軽音部ライブへ行ったり、山本君の自転車の二尻にけつ程度。二人の誕生日も、クリスマスもバレンタインも、二人っきりじゃなく、皆と一緒。

 それに、メールも電話もいつもあたしから。山本君はあたしより、いつでも部活や友人が優先だった。でも、それはそれで全然良かったんだけど……。

 そーゆー事にうといあたしでも、何となく分かった。彼女って言っても、あたしは山本君にとってただの女友達だって事。山本君が本当に好きなのは、本当に付き合いたかったのは、あたしじゃなくて……。あたしの親友の沙紀ちゃんだって事。

 山本君があたしと一緒に居てくれたのは、あたしの隣にいつも沙紀ちゃんが居たから。あたしといれば、沙紀ちゃんの細かい情報が入るから。

 あたし、山本君のその気持ち、気付いても知らん振りした。認めたくなかった。だって、山本君はいつもあたしに優しかったし、どんな話しも聞いてくれたし、聞けば何でも答えてくれた。でも……。あたしの心、チクチクした。

 先週の日曜日、珍しく山本君からメールが来た。“ナムと会って話がしたい”

 あたし、何の話か分かってたけど、知らん振りした。

 意地悪? でもヤだもん。そんな話なんて、無視、無視、断固無視、絶対行かない……。でも、結局無視出来なかった。

 気も足も重かったけど、夜、山本君が待っている公園に行ってみた。いない事を祈って。

 でもいた。遠くからでもはっきり感じる王子オーラに、あたしの山本君センサーが反応してしまう。青春ドラマのヒトコマの如く、あたしは名を叫び大きく手を振り、満面の笑顔で山本君に走り寄ってしまった。

 でも……。あたしの淡い希望を打ち破って、山本君はいきなりあたしに判決を下した。

「終わりにしよう」

 どんなにどんなに覚悟してても、涙も出ない衝撃……。氷の闇に突き落とされた気分だ。氷山に閉じ込められたマンモスの化石の気持ちが、その時分かった気がした。

 山本君は、沙紀ちゃんが好きだって言った。あたしショックだったけど、正直に話してくれて嬉しかった。

 あたしも正直に話したよ。山本君の気持ち、分かってたけど知らん振りしてたって。

 それで、図々しく最後のお願いをしたんだ。一度も無かった二人っきりのデート、思い出欲しいなって。


 ズルズル、ズズズ、チーン。ポイッ。あたしの周りは、丸められたティッシュが畳を埋め尽くしている。

 涙も鼻水も出尽くした感じなのに、未だ出る。あたしの未練と一緒だ。ズルズルダラダラ、呆れるほど女々しい。このまま脱水が続くと、あたしは確実にミイラだ。

 あーあ。あたし一人で、何喋ってんだろ。もうすぐ、朝のお勤めの時間だよ。目覚まし時計は、午前4時を指していた。


 TDL閉園。徐々に照明が落ちて行く。退場門や駅、駐車場へ向かって歩いている来園客達は、ひと時の思い出を振り返り、にぎやかにお喋りをしていた。風船、帽子、大きな袋。皆、手には沢山のお土産を持っている。それと、大きな大きな笑い声。

 人波は、流しソーメン状態で駅まで続いている。その駅は人でごった返していた。

 でもあたしは、その方が嬉しい。だって、山本君にぴったりくっついていられるから。

 はぐれて迷子にならないように、人の波に押し流されないように、山本君はあたしの手をしっかり握ってくれた。あたしの手にも力が入った。絶対にこの手、離さない。今日だけは。今だけは。

 人混みから離れても、あたしは山本の手を離さなかった。駅のホームを歩いている時も、電車に乗っている時も。あたしは、山本の左手を独占した。

 黙っていると、あたしの目から涙が溢れてしまう。だからあたしは、バカみたいにずっと喋り続けた。駅の広告を読み上げてみたり、オヤジギャグを連発してみたり、通行人の様子を解説してみたり……。あたしは実況中継の如く、目に入った光景をそのまま喋り続けた。

 お願いだから、あたしの降車駅には未だ着かないで下さい。この電車が、停電か思わぬ事故で止まってしまいますように……。

 電車は定刻通り、問題なく動いている。あたしは、1秒単位で正確に運転される、日本の緻密な鉄道システムを恨んだ。

 気付かない振りして、乗り過ごしちゃおっかな……。

「ナム、着いたぞ」

「…………」


 降車駅から藤代家までの帰り道、あたしの手は、ずっと山本君と繋がったままだった。いいって言ったのに、山本君も一緒に同じ駅で降りてくれた。家まで送るよって。

「ナムっていつ引っ越したんだ? 確か前は、同じ中学校区だったよな」

「う、うん。えっと、今年の6月から。引っ越して、未だ3ヶ月しか経ってない」

「そっか。で、家はもう片付いたのか?」

「うん大体。でも学校遠くなっちゃったから、朝、家出るの早くなった」

「大変だな」

「うん……。でもね、でもね、近所に太郎ってゆー、ぐーたらセントバーナードがいて……」

 あたしはやっぱり、はしゃいで喋っていた。山本君は、隣で笑ってた。愛想笑いでも構わない。さよならって言わないでいてくれれば。

 この道が、どこまでもどこまでも続いてくれたらいいのにって思った。地球1周分歩いていたいたかった。その手をずっと繋いでいたかった。いつまでも、あたしだけの笑顔を、独占してたかった。

 でももう……、終わりが近い。あたしが居候いそうろうしている、一際大きな藤代家のお屋敷は、もう見えている。山本が、藤代家の屋敷を見上げた。

「この家、随分でかいな。人ン家か? 表札付いてるけど、何とか記念館みたいだな。苔生こけむした洋館だし」

「うん、無駄におっきい家だよね。ここに住んでる人の顔、見て見たいよ」

 この手を離したくなくて、傍を離れたくなくて……、ここだと言えなくて、あたしは屋敷の門を通り過ぎた。

 ぐるっと回って、もう1度藤代家の門の前を通り過ぎた。又通り過ぎた。それは、犬の太郎のお散歩コースだった。

「ナムん家って、どこ?」

 ギクッ。さすがに同じ公園を4回も通ると、山本の顔もしかむ。

 あたしは足を止めてうつむき、唾をゴクリと飲み込んだ。涙を見せない覚悟をまとった。

「山本君、送ってくれてありがと。ここでいいよ。あんま(家の)近くだと、あたし涙出そうだから」

 あたしはずっと繋いでいた山本君の手を、指を一本一本ぎこちなく伸ばして、ゆっくり手離した。

 あたしは顔を上げ、はぁっと深呼吸をして山本君に向き合った。あたしは目いっぱい元気良く、とびきりの笑顔で、大きな声で早口で言った。

「今日はありがと、今までありがと。じゃっ!」

 あたしはそれだけ言って、おどて手を軽く上げた。山本君が何か言う前に、あたしは踵を返してダッシュした。

「待てよ」

 あたしは、山本君に腕を掴まれた。

 やめてよ、涙出ちゃうじゃん。今のあたし、顔見せたくない。一瞬で、あたしの笑顔は崩れていた。

「ナム、ごめん」

 山本君はそう言って、グイッとあたしの腕を引き寄せた。

 あたしは思わず顔を上げ、山本君と目が合った。

 やだ、涙だらけの変な顔見られた! そう思った瞬間、山本君があたしの唇にキスをした。一瞬唇が触れるだけの、淡いキス。

 え? 今の、何?

「ごめん。ナムの事好きだから。彼女じゃなくても……」

 何が何だが……。ミキサー状態のあたしの脳ミソでは、理解出来ない。でも……。これが最後だと言う事は、分かった。

「……狡い。謝らないでよ……。謝るくらいなら、しないでよ……」

 あたしは下を向いて、小さく呟やいた。山本君の手を振り払い、くるっと背を向けて走った。

 あたしは公園の出口で立ち止まり、再び山本君に振り向いて叫んだ。

「あたしもーっ! 大好きだよーっ! 明日から又よろしくねー!」

 あたしは必死に笑顔を作って、明るく元気良く、山本君に2、3度大きく手を振った。もう振り返らない。あたしは踵を返して屋敷に向かってダッシュした。


 どこをどう走ったのか、歩いたのか―。気が付いたら、あたしは太郎の横に座っていた。

 太郎は藤代家の一員で、あたしより身体の大きなセントバーナードだ。犬のくせにぐーたらで、ちっとも動こうとしない。

「ねぇ、太郎も失恋とか、する?」

 寝ているのか起きているのか判らない太郎の横に、あたしは膝を抱えて座って太郎に話し掛けた。

「あたし、振られちゃったよー。判ってたんだけどね……。

 でもホントに好きだったから。山本君の事、ホントにホントに好きだったから。中1の時からずーっと好きだったから、……超ショック。

 振られるってずっと前から判ってても、言われるとやっぱ凄いショックだよ。

 山本君、沙紀ちゃんの事が好きだったんだって。あたしとおんなじ、中1の時からだってよ。

 でもあたし、全然気が付かなかったんだぁ。山本君が見てたのは、あたしじじゃなくてあたしの隣にいた沙紀ちゃんだったって……。笑えるよね。

 だけどあたしは、なんちゃってでも彼女にしてもらって嬉しかった。すっごくすっごく嬉しかった。山本君、あたしの事好きなんだって、マジで思ってたから。

 でもさ山本君、心ん中じゃ“早く気付けよ”って、イラ付いてたんだろうなぁ」

 あたしは星空を眺めながら、はぁ~っと溜め息を吐いた。ピクリとも反応しない太郎に、あたしは話の続きをした。

「あたしの親友の笠原沙紀ちゃんって、すっごくいい奴なんだ。頭良くて運動神経も良くて、スタイル抜群で美人でさ。才色兼備そのまんま。

 でも、言いたい事は何でもズバズバ言うんだ。先輩でも先生でも、ヤンキーでもお巡りさんでも、正しいって思う事は絶対曲げない。多勢に無勢だって、ビビッたり慌てたりとかしないし。ホント、沙紀ちゃんの情けない格好なんか見た事無いんだ。小学校からだよ。マジで凄い子でしょ?

 そんな子が、何であたしの友だち、ずーっとやってくれてんのか、いまだに不思議だよ。あたしは沙紀ちゃんに、何にもしてないのに。

 今日ね、帰り際に山本君がキスしてくれた。あたしのファーストキスなんだ。一瞬だったから、よく分かんなかったけど。味なんて全然分かんなかったけど。うふっ♡」

 あたしは思い出して、唇に触ってみた。

「大好きな人とキス出来たのに、あたしのファーストキス、大好きな人とだったのに、おっかしいよね? 涙出ちゃうなんてさ」

 あたしはボロボロ落ちる涙を、手でぬぐった。

「ねぇ太郎、ティッシュ持ってない? ……ってあるわけないか」

 あたしは、自分のバックをごそごそあさった。TDLのパンフが手に触れた。バッグから出して電灯に照らしてみた。……読めない。涙で。

 ポタポタと勝手に落ちる、あたしの涙と鼻水が、パンフをふにゃふにゃにした。

「やだちょっと、大切な想い出なんだから」

 あたしは慌てて、シャツでこすった。……身体に凹凸が無いと、拭き易い。

「あたし本当は、ヤだって言いたかったんだー。どうしてあたしじゃだめなのって、ドラマみたいに訊いてみたかった。ずっと待ってるって言いたかった。でも……。

 言えるワケないじゃん? だって、ねぇ……。

 あたしにそんな事言われても、めっちゃ困るよね。山本君、あたしに何て答えていいか分かんないし、友達としても見れなくなるし。

 あたし狡いんだ。山本君に嫌われたくないから、最後まで物分りのいい可愛い彼女でいたかったんだ。だからあたしの本当の気持ち、言えなかった」

 あちらこちらの窓の照明でんきが、ひとつ、ふたつ……。又ひとつと、消えて行った。

「最後に、山本君に何て言おうかって、考えてたんだ。月並みだけど、ありがとうって、いっぱいいっぱい言いたかった。いろんなもの、沢山もらったし。

 物だけじゃないよ。物もあったけど、思い出沢山もらったから。って、ベタ?

 それであたしは、 最後迄いい彼女気取ってた。だから絶対泣かないって決めてた。迷惑掛けないって。

 でもダメだった。あたし、メッチャカッコ悪かったよ」

 あたしは大きく息を吸った。涙がつかえて、上手く吸えない。

 いつの間にか、藤代家の窓の明かりは皆消えて無くなっていた。煉瓦れんが塀の俗世間むこうがわの雑音も、聞こえて来ない。月も大きく移動していた。あたしはあたりを見回した。

「今何時? あたし、ここに何時間いた?」

 あたしはケータイで時刻を確認した。午前1時30分。

「ごめんね太郎。あたし、もう部屋に戻るわ」

 あたしが屋敷に帰って来てから微動たりともしない太郎の頭を撫ぜて、あたしは立ち上がった。お尻の土をパンパン払う。

 気が付いたらあたしの腕や脚に、蚊に刺された跡が無数にある。でもあたしは、不思議とちっともかゆみを覚えない。

 今又、蚊が弱々しい羽音を発てて、あたしの腕に止まった。気が付くと、あたしの周りは蚊だらけで、あたしは体中に蚊を着けていた。

「そっか。あんた達も必死で生きてるんだね」

 あたしは、自分の腕に止まった蚊を見詰めた。蚊はお腹いっぱいになったのか、よたよたと、あたしの腕から離れて行った。

 他に2匹寄って来て、あたしの見ている前で腕に止まった。

「世の中そんなに甘くない」

 バシッ。叩きつぶした。

 ナムが立っている太郎の小屋の、すぐそばにある窓に、何時間も前からずっと動かない人影があった。


 太郎、ちゃんと眠れてるかな。……今日の散歩、あの公園に太郎連れてくのヤダな。

 あたしは、相変わらず部屋の隅で膝を抱いていた。ティッシュはもう3箱も空けた。

 いつの間にか窓の外は星が消え、月も薄くなり空が白み始めている。

 5時か……。随分朝が遅くなったな。8月も、もう終わりだもんね。高校の夏も、もう終わり。あたしの、5年ちょっとの長いゆめも、もう終わり、か……。

 目覚まし時計が、遥か彼方で鳴った。

 って、5時? ……やだもうそんな時間! あたしは慌てて立ち上がった。一瞬で現実に戻った。

 なんだか顔が腫れぼったい。まぶたが覆い被さり、あたしの視界には、睫毛まつげの格子が掛かっている。あたしは、細長いスタンド式の姿見に振り返った。

 四谷怪談、番町皿屋敷、13日の金曜日、アンパンマン……。小説以上の現実に、あたしの心臓も止まる。

 怖っ! 自分の顔に足がすくんだ。いやこの鏡、きっと雪弥がなんかしたんだ。あたしはそう思い込んで、鏡の中の自分を否定した。

 泣いたせいなのか、蚊に刺されたせいなのか、あたしの瞼は腫れ、顔は浮腫むくんでいる。手で触っただけでも充分判る変な顔。

 あたしは、腫れぼったい顔と熱っぽい身体を冷やしに、風呂場へ行った。

 顔は勿論もちろん、身体中に蚊に刺された跡がある。無意識に掻き壊して、血が滲んでいる跡も。いくら冷たいシャワーを被っても、顔の晴れも身体中の発疹ほっしんも、一向に治まらなかった。

 どうしよう……。って、もう朝の仕事の時間だし。きっと大奥様は、スパスパに研ぎ終えた包丁を片手に、すでにキッチンでスタンバっている。

 はぁ。又溜め息を吐いた。あたしは、藤代家ここのしがない一使用人。考えたって仕方ない。覚悟を決めて、あたしは妖婆、いや大奥様が手招きしている台所へ向かった。


「ナムさん、どうしたの? その顔」

 多くは語りたくない、予想通りの大奥様のリアクション。

「大奥様、おはようございます。あたしの顔ですか? お盆仕様ですから」

 お盆は先週で終わったが、テレビではまだ心霊特集をやっている。でもあたしより、大奥様の存在の方が10倍は心霊現象だと思う。

「これは、ただ蚊に刺されただけです」

「あらナムさん、風邪も引いたの?」

 今気が付いた。あたしは鼻声だ。

「アレルギーです。蚊の」

 大奥様はそれ以上あたしを追求せずに、あきれた顔で、野菜をトントンと一定のリズムで切り始めた。

 大奥様はともかく、あたしは今日1日、せめて午前中だけでも、この顔を誰にも見せたくはなかった。誰かが朝ご飯を食べに来る前に、さっさとキッチンから退室したかった。

 あたしはいつも以上にスピーディに、朝の仕事を片付けた。朝食の盛り付け、洗い物、太郎の散歩、洗濯、掃除。藤代家の皆が起きて来る前に。

 その日は、学校で夏休み補講のある日だった。でもあたしは学校へは行きたくない。山本君も来てるかもしれないし、沙紀ちゃんにも会いたくない。大体あたしのこんな顔、誰にも見られたくない。

 かと言って藤代家ここにいたら、4兄弟と顔を合わせる事になる。小5の超生意気悪餓鬼、根性最悪の雪弥が絶対あたしの部屋にやって来る。用も無いのにやって来る。

 あたし、今日はエアコンの効いた図書館に行って、勉強してようかな。何気なく鏡を見た。……ダメだ。これじゃ外は歩けない。

 今日は、自分の部屋に立て篭もる事にした。しっかりと鍵を掛けて居留守使って。

 そうと決まれば、今日1日分の水と食料を確保しなくちゃ。ついでにトイレ。それと、顔を冷やす濡れタオル。

 あたしは、部屋のドアを少し開けた。姿勢を低くして廊下を伺う。今は朝の8時。夫妻は揃って出張中。夏休み中の4兄弟は、きっとだ夢の中だ。

 あたしは足音を立てないように、爪先つまさき立ちで、トトトト、と小走りし、洗面所へ向かった。

「おはよう」

 ぎくっ。背後から、静弥の声がした。こんな時に限って、なんで早起き?

「お、はようございます」

 あたしは背を向けたまま、お辞儀をした。

「じゃぁ」

 そう言って、あたしは顔も向けずに、走って洗面所へ飛び込んだ。

 はぁ~~。洗面所のドアに張り付いて、深呼吸した。

 あたしは、静弥の足音が消えるのを待った。物音が無くなってしばらくしてから、あたしは洗面所のドアの前にしゃがみ込み、廊下の様子を確認する。ドアを、そーっと3センチだけ開けた。更に姿勢を低くして、片目で廊下の様子を祈る様にうかがう。誰もいないよね。

「……?」

 何かが、あたしの視線をふさいでいる。

 何? あたしは視線を上げた。ドアの細い隙間すきま越しに、誰かと目が合った。

「おはよう」

 静弥さん! 静弥は、壁に寄り掛かって笑っている。あたしの汗が、一気に噴き出した。

「お、おはようございます。じゃ」

 バン! あたしは強張こわばった笑顔で、慌ててドアを閉めた。

 なんでいるの? いつもだったら昼迄寝ている人が。それにあの足音……。静弥さん部屋に戻ったんじゃなかったの? じゃぁあの足音は、大奥様にる心霊現象か?

 あたしは一呼吸於いて、もう1度そーっとそーっと、1センチだけドアを開けて廊下を窺った。

 ……目の前に服がある。白い着物でもないし、足も二本ある。

 あたしは上を見ずに、そのままそーっと閉めようと……。

 バン。静弥がドアをこじ開けた。あたしは、つい顔を上げてしまった。……案の定、派手に噴き出された。

 静弥は壁に手を突き、肩を震わせ声を押し殺して、下を向いて笑っている。

「ナムちゃん……、どうしたの? お盆は先週だったよね」

 あたしはしゃがんだままプイと横を向いて、口をとがらせた。静弥は必死に涙をこらえて笑っている。あたしが泣きたいよ!

「蚊にーっ、刺されました」

「薬……、薬塗った?」

 静弥はチラッとあたしを見て、又下を向いて笑った。……あたしは全然笑えない!

「塗ってません。目に沁みるもん」

 ずっとしゃがんだままで口を尖らせ仏頂面ぶっちょうづらのナムの顔は、狂言の面より遥かに滑稽こっけいに見えた。

「ナムちゃんおいで。薬塗ってあげる。これでも僕は医者の卵だからね。まぁ蚊に刺された位じゃ、医者はいらないけど」

「結構ですっ!」

 あたしは大声で拒絶した。

 あたしの意思とは無関係に、あたしは静弥に腕を掴まれ引っ張り上げられて、そのまま2階の静弥の部屋へ、強制連行された。


 あたしは、静弥の部屋でソファにちょこんと座っていた。錬弥との一件で、又痛い目に遭わされるのでは、とオドオドしていた。

 静弥は何種類かの薬を手に、ナムの横に座った。

「よくもまぁ、これだけ刺されたよね。普通、気が付くと思うけど? 顔なんか刺されたら」

 良く見ると、あたしの手足も蚊に何十箇所も刺されて、麻疹はしかのように点々と赤くなっている。引っ掻いて、血が滲んでる跡もある。あたしはそれらひとつひとつに、指先で薬を塗り付けた。

「どんだけ外でじっとしてたの?」

「は?」

 あたしの薬を塗る手が止まった。あたしは、思わず顔を上げて静弥を見詰めた。

「部屋で、これだけ刺される事はないでしょ」

「えっと。それがー。そのー」

 適当な言い訳が浮かばない。あたしは静弥と目を合わせていられなくて、下を向いた。気が付くと、同じ所に何度も何度も、ずっと薬を塗っていた。

「これなら目に沁みないから。ナムちゃん、顔見せて」

 静弥は、下を向くナムの顎に手を掛けて、ナムの顔を上げた。

「いいです! 自分でっ、自分でやります!」

 あたしは、慌てて顔を背けようとした。静弥の手から逃れようと首をすくめ、手を突き出した。それでもすらりとした静弥の手は、あたしの顎をしっかり捕らえていて、顔も動かせない。

 やだ静弥さん、細いのに力、強っ。驚いて静弥の瞳を見詰めてしまったあたし。優しく微笑まれて、あたしの目から、枯れてすっかり無くなったはずの涙が、再びあふれ出しそうになった。

 静弥はそんな事には構わず、ナムの顔にそっとゆっくりと薬を塗った。錬弥事件の時の荒っぽい手付きとは、大違いだ。

 静弥の優しい指先に、じっと我慢してたあたしの瞳から、ぽろっと一滴ひとしずくの涙がこぼれた。あっ!

「やっ、やっぱり、沁みる」

 関を切った様に、あたしの涙がポロポロポロポロ零れて来た。それでもあたしは涙は薬のせいにして、自身にもそう言い聞かせた。

「そう? この薬じゃ、未だキツかったかな」

 静弥は知らん顔して、あたしの顔に薬を塗り続けた。優しく薬を塗りながら、静弥が言った。

「人生山あり谷ありだよ。若干22歳の僕が言っても、ピンと来ないだろうけどね」

「???」

「僕だって、失恋くらいするよ」

「うっそだーっ。絶対ない。有り得ない! ってどうして今そんな話? あたしは、ただ蚊に刺されただけなんですけど」

「本当に蚊に刺されただけ? ナムちゃん元気なかったから、何かあったのかなーって。目もこんなに腫れて充血してるし、鼻声だし」

 ギクッ。さすが医者の卵。適切な診断だ。あたしは言葉が返せない。無駄に涙が零れて行く。

 静弥が一通りナムの顔に薬を塗ると、指先で、次々と零れ落ちるナムの涙をすくい、自分の唇を濡らした。

「塩辛い涙だね。でもいつか、きっと美味おいしい涙に変わるよ」

 静弥が、ナムの涙に貼り付いた髪をそっと剥がして、ナムの瞳を見詰めて微笑んだ。今迄あたしが見た事の無い、優しい瞳で。

 やだ静弥さん、変な顔って爆笑してくれた方がよっぽどいい! あたしの涙のダムは大放水。瞳を動かすたびまばたきする度に溢れ出しそうな涙に、あたしは目玉すら動かせず瞼も動かさず、じっと静弥の目を見詰めていた。それでも、あたしの頬は滝になった。

 静弥がナムの肩をそっと抱き寄せて、ナムのくしゃくしゃの髪を撫ぜた。

 未だ残暑が厳しいのに、静弥の腕の中はちっとも暑くない。むしろ、お風呂の様に温かく感じた。

「うわぁ――――ん。え――――ん」

 あたしはもう我慢出来ない。声を上げて泣いた。静弥の胸に抱き付いて、久しぶりに子供の様にしゃくり上げて泣いた。

「ごめんなさい。ヒック。静弥さんの服汚しちゃう、ヒック……」

「ナムちゃんの涙なら、大歓迎だよ」

 静弥はナムの背中を、幼子をあやす様にポンポンと叩き、ナムの髪をそっと撫ぜた。優しい静弥の手に、あたしの心も次第と落ち着いて行く。

 でも……。出来れば山本君に、こうして抱き包めて欲しかったな。

 あたし、確か朝まであんなに泣てたのに、何で未だ涙がでるんだろう。十年分くらい泣いたかな? あたしの涙腺は、一度暴走すると止まらなくなるらしい。

 どれ位経っただろう。あたしは落ち着き、とりあえず涙も止まった。あたしはそっと、静弥の腕から離れた。

「静弥さん、ありがとうございました」

 静弥の部屋で再び泣きじゃくったあたしは、はっきり言ってさっきよりずっと酷い顔だった。静弥はナムの顔を見て、部屋にある冷蔵庫からアイスノンを取り出して、ナムに手渡した。

「ナムちゃんの腫れが治まるまで、ここにいていいよ」

 あたしはコクンとうなずき、ソファの背凭せもたれに背中を預け、上を向いて目にアイスノンを乗っけた。冷たくて気持ちいい。

「そうだ。ナムちゃんが元気になるような曲、弾いてあげる。何かリクエスト有る? 何でもいいよ、ロックでもJ-POPでも演歌でも」

「別れの曲」

 ナムの即答に、静弥が驚いた。だってあたし他は知らないし、POPもロックも今は聴く気分じゃない。

「いいの? ナムちゃんが良ければ、いいけど?」

 うん、と頷いたら、アイスノンがずれた。

 静弥はピアノの消音装置を外し、椅子に腰掛けた。

 ポロン……。涼し気で柔らかな静弥のピアノの音色が、ツクツクボウシの鳴く庭に流れて行く。

 優しくて切ないメロディ。静弥さんが、あたしに始めてこの曲を弾いてくれた時とは、まるで違う。どこがどう違うのか、あたしには上手く説明出来ないけど。

 あたしを元気付けようとして弾いてくれているのに、アイスノンの端から、結露と一緒にあたしの涙も伝う。でも不思議と、心は穏やかだった。

 静かで優しい音色が、屋敷中に柔らかく響いた。藤代家の3弟は、静弥のピアノで目が覚めた。まるで母親に優しく起こされたような、穏やかな目覚めだった。

 普段から静弥は、早朝にピアノを弾く事も消音装置を外して音を出す事もない。こんな朝早くから静弥が音を出して弾くだなんて、近々特別なピアノ・リサイタルでも有るのだろうか。と、静弥のピアノの音を耳にした者は、皆不思議に思っていた。そして、ピアノのに引き寄せられる様に、静弥の部屋の方向に顔を向け、目を閉じ音を聞いた。庭の太郎も毛むくじゃらの顔をもたげ、ピクリと耳を動かした。


「静弥さん、ありがとうございました。少し元気になりました」

 あたしは、目の上に乗っけていたアイスノンを静弥に手渡そうとした。

 ゲッ。あたしは慌てて、アイスノンに着いた鼻水と涙を服で拭いた。

「ナムちゃん、顔、大分だいぶ戻ったね。蚊に刺された所は未だ少し赤いけど」

「はい、ありがとうございました。これでなんとか外を歩けます。学校―……、は止めときます。あたし今日は休み。

 静弥さんは、これから大学ですか? 医学生って忙しいんですよね。実習とか」

「うん。午後からだけどね」

 静弥はアイスノンを冷蔵庫に仕舞いながら、あたしの顔を横目で見て、ニコッと笑った。

「じゃぁ……、今から僕のドライブに付き合ってくれる? ナムちゃん休みなんでしょ?」

「は? あたし、ですか? でもましに成ったって言ったって、この顔ですよ? いつも綺麗な女性ひとしか乗せないのに、マジでこんな顔のあたし?」

「ナムちゃんが、いいの。それに僕は、女の子を顔で選んだ事はないんだけど」

 嘘ばっか!

「それに、今のナムちゃんも充分チャーミングだよ」

 この女ったらし!

 静弥は、怪訝けげんな表情のナムの傍に来て、指先でナムの前髪を上げ、腫れた瞼に、チュッとキスをした。

 ひえ~~っ。あたしは静弥から飛び退き、ピタッと壁に貼り付いた。

 忘れてた! 静弥こいつは女の敵だった。


 あたしはこの顔この格好で、再び静弥に腕を引っ張られ外に連れ出された。あたしは、事の次第を理解する前に、バン、と真っ赤なフェラーリに押し込められた。

「あたし、後ろでいいです!」

「この車2シーター」

「じゃ、トランクで」

「僕に、違反させるつもり?」

「……」

「この僕が拒否られたのって、ナムちゃんが始めてだ」

「……乗せさせて頂きます」

 噂の真っ赤なフェラーリ。勿論乗るのなんか始めてだ。いや、外車に乗る事自体が始めてだった。……でも確か、あたしの自転車中国製。

 最初、静弥の隣で大人しくしていたあたしは、絶叫マシンの様な加速とブレーキとコーナリングに、おおはしゃぎした。あたしは髪をなびかせ、道行く人に両手を振り、キャーキャー騒いだ。

「やっと笑ったね。その方がずっと可愛いよ」

 え? あたしは、何か話し掛けてきた静弥に振り返った。でも静弥の声は、風に掻き消されてあたしには届かない。

 静弥の車は、海の見える一面草原の、小高い丘の公園前で止まった。車から降りたあたしは、早速さっそく丘の上迄走った。

「わーっ広! 海がマジ青! 超おっきいタンカー。あ、カモメ!」

 あたしは、眼下に広がる青い海に感動して、ピョンピョン飛び跳ねた。やたら指を差しては、大声で叫んだ。

 後からゆっくり歩いて上って来た静弥は、子供の様にはしゃぐナムを見て微笑んだ。

「ここは僕のお気に入りの場所。結構穴場でね。どう? 何もないけど、いいとこでしょ?」

「はい、最高! 横浜以外でも、こんな場所があったんですねー。ここなら1日中ボーっとしてても、飽きなそ」

 そう言いながら、あたしはぼーっとする所か、そこら中無闇に走り回った。

「静弥さん、見て見て! 花が咲いてるー。あー、蝉がこんなに停まってるー!」

 花や蝉は、お屋敷にだってここ以上に有るし、いる。でもあたしはなぜか、花が嬉しくて蝉が新鮮だった。

「ナムちゃんって、子犬みたいによく走るね。ここで1日中ボーっとしてるなんて、多分君には無理だよ」

 静弥は、汗だくになりながらはしゃぎ回るナムを見て、笑った。

 あたしに触れる潮風が気持ちいい。あたしに当たる太陽が優しい。あたしは肺いっぱい、お腹いっぱい、全身で海の空気を吸い込んだ。

 しばらく公園内を探検していたあたしは、木陰に座ってじっと海を見ている静弥に気が付いた。

 ギリシャの彫刻像の様な端整な顔立ち。長い手足。潮風に靡くサラサラな髪。憂いを帯びた瞳は、瞬きもせずじっと海を眺めている。そこに座る静弥は、芝の緑、空の青、海の紺碧あお相俟あいまって、まるで一枚の絵画だ。

 あたしは遠慮がちに、静弥の隣にちょこんと体育座りした。あたしは、振り返った静弥にお礼を言った。

「静弥さん、ありがとうございました。気を使って頂いて」

「別に。気が乗らなければ誘わないから。気にしなくていいよ」

 静弥は、ナムの頭をポンと叩いた。

 あれ? あたしは、一瞬静弥の目が、凄く寂しそうに見えた。痛い様な、何かを諦めた様な、悲しい瞳。あたしの気のせい?

 静弥は何も言わず、暫らくそのまま海を見詰めていた。あたしも、静弥の視線の先を一緒に眺めた。カタツムリの様にゆっくり動くタンカーが、ボーっと汽笛を鳴らしている。カモメ達が、賑やかに頭の上を通り過ぎた。

「静弥さん、海、好きなんですね」

「そうだね……。僕は、海の向こうには一体何があるんだろうって、想像するのが好きなんだ。理屈では分かってるし、海外だって何度も行くけど、船で行ったら全く違う世界が待ってる様な……。そんな気しない?」

 静弥は遠い目をしていた。頬を撫ぜる潮風が、静頬の髪をわずかに靡かせている。

 あ、この人? じーっと静弥の横顔を見ていたあたしは、前を向き静弥と一緒に、穏やかな海を見詰めた。

「静弥さんは、現状ここからそこに……。現実ここから飛び出して、この海の向こうに行きたいんですね」

 あたしは膝を抱え膝に顎を乗っけて、何気なにげなく言った。特に深い意味は無かった。

 ところが、静弥は驚いて振り向き、ナムを凝視した。

 え? 見た事も無い静弥の驚き様に、あたしの方がびっくりした。あたしは訳も分からず、咄嗟とっさに謝った。

「ごめんなさい。あたし、なんか変な事言いました?」

 静弥は、驚愕した表情でナムをじっと見詰めた。ナムの慌てた視線に、静弥は我に返ってふっと表情を和らげた。

「いや。別に」

 いつもの静弥の笑顔だった。あたしもほっとして笑顔を返した。

 羽を大きく広げ、海の上空に浮かんでいる様なカモメ達の、一際ひときわ賑やかな声に呼ばれたかのように、静弥は海に振り返った。カモメ達の鳴き声は、あたしの耳にも心地良く響く。停まっていのるかと思ってた貨物船が、一際大きな汽笛を、ボ――っと響かせた。

「ナムちゃん帰ろっか。お昼になる」

 静弥が立ち上がった。

「はい」

 あたしも立ち上がって、お尻に着いた土や草を払った。静弥さんのフェラーリ、汚しちゃ大変だもん。

「よかった。ナムちゃん、すっかり元気取り戻したみたいだね?」

「はい、すっかり元気です!」

 あたしは、勢い良くガッツポーズした。でも、瞼に刺された蚊の痕は、だ赤く腫れている。あたしの顔は、いまだに怪談の世界だった。


 お屋敷に戻って来た。時間は、お昼ぴったりだ。

 静弥は、車の助手席のドアを開けて頭を下げ、うやうやしくナムの手を取った。レディとして扱われたあたしは、ちょっと照れながら車を降り、改めて静弥に御礼を言った。

「今日はどうもありがとうございました。本当に元気になりました。静弥さんって、魔法使いみたいですね」

「どう致しまして」

 静弥はそう言って、ナムのその手にキスをした。

 ひぇ~~! あたしは目を丸くして、慌てて手を引っ込めた。これがなければ、いい人なんだけど。

ありがとうございました。

後編は明日UPします。ごめんなさい。

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