錬弥編(後編)
錬弥編後編です。
前編と一緒にUPはしませんでした。
チャラリラチャラリラ……。あたしは、ケータイの呼び出し音で目が覚めた。
拙い、今何時? あたしは寝過ごしたかと思って、ガバッと上体を起こした。
あれ? あたしなんでベッドで寝てる? ここ、どこ? ……あたしは周りを見回した。
ここ、錬弥の部屋じゃん。照明も点けっ放しだし……。そう言えば―、あたし確か錬弥の机で受験勉強してた筈……。あたしは、パッと錬弥を見た。
錬弥はあたしに背を向けて、自分のケータイを凝視している。ケータイからは、尋常ではない怒声が聞こえて来た。それに対して、涼弥は一言も発しない。暫くして、涼弥はケータイを無造作に切った。
あたしは、錬弥がケータイを切った所で、声を掛けた。
「錬弥? 友達から?」
錬弥は、寝ている筈のナムの声にハッとして振り返り、険しい目付きでナムを見た。今まで見た事の無い錬弥の険しい表情に、あたしはゴクリと生唾を呑んだ。
錬弥は、無言でドアに手を掛け部屋から出て行った。
「ちょっと待て! 出掛けるな! もう門限過ぎてるって!」
あたしは慌ててベッドから飛び起き、錬弥の後を追った。あたしは、錬弥の門限は十時と、勝手に決めていた。その門限はとっくに過ぎている。
「ちょっと待ちなさい!」
錬弥のただ事でない雰囲気に、あたしも直ぐに後を追って廊下に飛び出し、階段を駆け下りて……。ドタッ。あたしの足が縺れた。
「待ちなさいよ――っ!」
玄関ホールで床と友達になったあたしは、顔を上げて涼弥の後姿に手を伸ばした。
あたしは、直ぐに自転車で錬弥の後を追いかけた。
屋敷の周りをグルグル走って、錬弥を探した。錬弥が飛び出して直ぐに、あたしも自転車で追いかけたのに、錬弥の姿は見当たらない。あたしは繁華街へ行ってみた。
人混みは、かえって自転車が邪魔になる。歩いた方がよっぽど早い。あたしはイライラしながら、通行人を避けてノロノロ走った。
錬弥のあのケータイ、呼び出された雰囲気だったよね。しかも相手はヒートアップした怒鳴り声だったし。って事は、タイマン? 報復? だとしたら、きっと人混みは避ける。
あたしは賑やかな表通りから外れて、路地裏や公園、学校、駐車場等を走り回った。そこで屯するグループを見付けては、その中に錬弥がいないかと暗がりの中、目を凝らした。
あたしが自転車を止めて、怪しげな男達をじーっと見ていると、あたしは男達に気付かれ睨まれ、絡まれる目にも遭った。
「何見てんだよ!」
「ひえぇーっ、ごめんなさーい!」
あたしは、一目散にチャリを漕いだ。
錬弥、見つからない。どこだよ。どこにいんだよ。建物の中に引っ張り込まれたのかな。そうなったらあたしじゃ無理だよ。ケーサツ呼んだ方がいいのかな……。
あたしは、それらしい場所をキョロキョロ眺めながら、諦め気味でチャリを漕いだ。
暗がりの公園で、喧嘩をしている一群があった。
もしかしたら、今度こそ錬弥? あたしは、自転車を止めて暗い公園を凝視した。
いた! 錬弥だ! あの服は錬弥に間違いない!
4~5人の男達が、地面で丸くなっている無抵抗の錬弥を、寄って集って交互に殴ったり蹴ったりしている。少し離れた所で、2~3人の男がニヤニヤしながら錬弥を眺めていた。その公園のベンチでは、ホームレス風親父が素知らぬ顔で寝ていた。
あたしはその場に自転車を放り出して、喧嘩の現場に走った。
「ちょっと! あんた達!」
強面の男達が、大声で叫んだあたしに、一斉に振り返った。
しまったぁ! あたしは慌てて口を塞いだ。その場にいた男達に睨まれ、あたしは足が竦み冷や汗も噴き出す。
いや、ここで怯んでいたら、生粋の江戸っ子だった祖父ちゃんと祖母ちゃんの血を引く、あたしの名折れだ! あたしは、後退りしそうになる足を踏み止どめて、ゴクリと唾を呑み込んだ。
「ひっ、ひとり相手に! けっ、喧嘩なんて! ひっ、卑怯じゃないんじゃ……、なくない……ですか?」
元気がいいのは最初だけ。声は急激に萎んで行き、語尾はなぜか質問形。無意識に、あたしの腰が引けている。
「なんだ? この女。錬弥の知り合いか?」
男の一人が、倒れてぼろぼろの錬弥に聞いた。錬弥は怠そうに少し首を持ち上げ、ちらっとナムを見た。
「知らね」
錬弥は掠れた声を出して、頭をクタッと地面に着けた。
「かーのじょ。怪我しない内に、さっさと帰んな。それとも、俺達と遊んでく?」
あたしは3人の男に囲まれ、爪先から頭の天辺まで、舐める様にジロジロ見られた。
「俺はもっと胸のでかい女がいいんだけど、まぁお前でも相手してやるよ」
男は、唇を舐めて薄ら笑いを浮かべた。
「俺達と朝まで楽しもうぜ。胸無くても気にしないからさ」
「いくら無くても、男よりはマシだろ? お前の乳」
ムカー! 胸胸って何さ。どーせあたしは貧乳だよ。でかけりゃいいってもんじゃねーわ!
あたしは肩を掴まれた。あたしは反射的に、その手を振り払った。つい、口も滑った。
「触るな! だーれがあんたなんかと。
大体喧嘩って、一対一が基本じゃないの? 寄って集って一人だけ苛めて。あんたら男じゃないよ!
一対一じゃ、勝てる自信無いってワケ? 小学生の苛めよりタチ悪いし。ひとりじゃなーんにも出来ないから、こうして連るんで一人を苛めてるワケだ」
言い出したら止まらない。あたしは卑怯な奴等は、大っ嫌いだ。
「それに、あんたらのその手足は、喧嘩をする為に神様がくれたんじゃない。もっと違う事に使えよ。有効活用って奴?」
あたしは、特別養護学校の子供達を思い浮かべた。
「そんなに喧嘩したかったら、自衛隊にでも入って、アフリカでも中東でも行けば? 特殊部隊とか、めっちゃカッコいいじゃん。
ふん。本気でやりあう度胸も無い癖に、チンピラ風情が一丁前に粋がってさーっ。あーだっせ! それで女子にモテるつもりでいんの? ゼーッタイ完璧100%(パー)無理。あたしが保証するわ。
一昨日来やがれっつーの。ドブの水で顔洗って出直して……来たら……いいかも?……とか」
パンパンだったあたしの気の風船は、段々萎んで行く。……タラ~~っ。空気、最悪。気が付くと、あたしは5~6人の男達に囲まれていた。
「な、なに? 男相手じゃ勝てないからって、年寄りや女子供を相手にするワケ?」
倒れたままの錬弥が、首を僅かに上げて、途切れ途切れに言った。
「関係ない奴、巻き込むな……お前も、早く帰れ」
「何言ってんの! 錬弥置いて一人で帰れるワケないっしょ!」
言ってからはっとした。男達がニヤッと笑う。あたしは顎を掴まれた。
「お前、錬弥の女か?」
「おっもしれー。じゃ、お前が錬弥と変わってやれよ」
あたしは、ゴクリと生唾を呑んだ。
「い、言っとくけどあたし弱いから。こんな子を殴ったって、ちっとも面白くないって」
あたしは、今にも笑い出しそうな両膝に、ぐっと力を込めた。気を抜くと腰も抜ける。
「いいや、錬弥の目の前で、楽しい事しようぜ。な、錬弥。お前はそこで見てろよ。今から俺等が、ここでカノジョといい事すっから」
錬弥は、返事が出来ずに咳き込んだ。
ひえぇぇっ。何か考えなくちゃ。じゃんけんとか、あっち向いてホイとか。ガチであたしの勝てそうな勝負……。冷や汗が、あたしの背筋を伝う。
あたしは素早く辺りを見周した。目の前にバスケットゴールがあった。
「バ、バスケ。バスケットで勝負しよう」
あたしは、バスケットゴールを指差した。バスケなら、あたしにも勝機はある。あたしは中学高校と、5年もバスケ部にいたんだから。
男の一人が、バスケットボールの上に腰掛け、膝に肘を突けて、ナムを見ていた。
「One On One で勝負しようじゃない。三本先に入れた方が勝ち、ってのはどう?
あたしが勝ったら、もう二度と錬弥とは関わらないで。このまま帰ってもらう。
もしあたしが負けたら……。煮るなり焼くなり好きにして。但し、錬弥には手を出さないで」
あたしは気を奮わせて、目の前の男をキッと睨み付けた。
「おっもしれぇ。負けたら、お前を俺達の好きにしていいんだな?」
男達は、ナムを見ながらニヤニヤ笑っている。
「もっ、勿論」
あたしは、男達をキッと睨んで大きく頷いた。
「馬鹿野郎。お前、何されるか分かってんのか?」
錬弥が、必死に上体を起こして叫んだ。
「分かってるよ。負けなきゃいいんでしょ」
分かってない。女子だし手加減してくれると、あたしは勝手に思っていた。
「お前は黙って見てろ」
男は、錬弥の肩を思い切り踏み付けた。
「ちょ…」
あたしは錬弥に駆け寄ろうとして……。男にグイッと腕を掴まれ、引き戻された。
「あんたはこっち」
あたしが振り返って男を睨み付ける暇も無く、あたしに向かってボールが飛んで来た。
バシッ。結構な強さで飛んで来たボールを、あたしは両手で掴んだ。
「分かった。やろーじゃない。で、ボール寄越したって事は、あたしから?」
男は、ニヤリと笑って頷いた。
あたしは、ボールを持ってゴールの前に立った。ラインは無い。幸い下は平らで堅い。バウンドに問題はなさそうだ。あたしは両手でボールを叩いてみた。
そう言えばあたし、バスケ部を引退してからボールに触ってない。あたしはボールを触りながら、久々な感触を確かめた。
あたしはボールを胸に持ち、ゴールと、立ち塞がる男を見た。相手との距離を測る。
目の前の男は、あたしよかずっと背が高いから、上を通してのシュートは無理……。それなら。
あたしは素早く男の足元にボールを落とし、彼の脇腹を掠めて擦り抜けた。
シュート! ……入れ! あたしは放ったボールに念を込めた。
ザッ。入った!
「やった!」
あたしは、拳に力を込めてガッツポーズした。ナムに隙をつかれて、男は茫然としている。
「おまえ、女相手に何やってんだよ! そいつ、そんなにいい女かぁ?」
嘲笑と野次が飛ぶ。
ふん。女だと思って舐めんなよ。あたしは得意気に男を見た。
今度は攻防逆。あたしが防御だ。腰を落とし、高い位置でドリブルをする相手の出方を窺った。
いきなり3ポイントのロングシュート。
ザッ。入った。口笛が響く。あんなところから撃つなんて……。今度はあたしが呆然と突っ立っていた。
攻守交替。ゲームは振り出しに戻った。あたしは、パンと両頬を叩き、自身に気合を入れた。
多分、あたしのさっきの手は使えない。
あたしは、低い位置でのドリブルで逃げた。押して、引いて、相手の隙を狙う。相手が近づくと、背を向けてドリブルし、肘を張ってボールを守る。
「ギャッ!」
あたしは男に後ろから抱き着かれ、両胸を思い切り握られた。あたしは、ついボールを手放してしまった。
「何するよ! ファール! ファールっ!」
あたしは、真っ赤になって猛抗議した。だが相手も周りも、嘲笑うだけで知らん顔だ。相手の男は、あたしの耳元でボソッと言った。
「お前、見た目以上に胸無いな」
悪かったね。
ここにルールは存在しない。その後も、ファールの連続だった。
リバウンドでの肘撃ち、足掛け、ジャンプの着地点に、足をわざと出した。当然、手加減等無い。
あたしは、相手の肘撃ちを顔面に食らって、口の中と唇が切れた。クッソーっ嫁入り前の娘をー! 唇を舐めると、鉄の味がした。
よーし。元々バスケは格闘技だ。こうなったらこっちだって! あたしは拳をぎゅっと握った。
ガツン! 当たって行く時は肘から行った。空中戦は、必殺股間蹴り。相手があたしに掛けた脚の脛に、膝を入れる。着地の邪魔をしようと出された足は、あたしの全体重をかけて踵で踏み付け、グイッと捻った。ボールで殴る。服も髪も引っ張る。爪も歯も立てる。
それでも、長身で手も長い相手に、いくら姑息ですばしっこいあたしでも、圧倒的に不利だった。
その内、あたしも相手もお互い痣だらけ傷だらけになった。擦り傷噛み傷引っ掻き傷。所々血も滲んでいる。相手に背を向けたら負けだ。ボールが後頭部を直撃する。
暗くてよかったぁ。きっとあたしは、酷い顔をしている。
「すっげ。これ、バスケか?」
ギャラリーが、二人の闘争に目を瞠った。あたしは勿論相手の男も、もう笑ってはいない。目は超マジだ。
男が、一瞬のあたしの隙を突いて、手からすっとボールを浚い、クルッと身体を返して鮮やかにジャンプシュート。
上手い。思わずあたしは、そのプレイに見惚れてしまった。
これだけのプレイが出来るのに、何でこんなとこで喧嘩なんかしてんの? 不思議に思った。
「あんた、バスケ上手いね」
あたしは、ドリブルをする男に警戒しながら近寄り、小声で言った。
「まぁな。これでも俺、インターハイ迄行ったからな。お前も、そーとー根性有んじゃね?」
「ありがと。でもあんたさぁ、なんでこんなとこでこんな事してんの? こんなにバスケ上手いのに、勿体無いじゃん」
あたしは、こんなとこでこんな奴等とこんな事をする相手を、マジで心配した。相手の喋り方からして、年だって自分と大して変わらない筈だ。
「お前、よゆーだな。俺の事より、自分の心配しろよ」
ザッ。相手の放ったボールが、ゴールに吸い込まれて行く。
しまったぁ! 勝敗を決める三本目。
ポンポンポン……。ゴールから抜け落ちたボールが、バウンドをして転がった。口笛と歓声が沸く。
あたし、負けた……。がくっと全身の力が抜け、あたしはその場に崩れる様に両膝を着いた。
「あたしの負けだわ。……約束だから、殴るなり蹴るなり好きにして」
あたしは覚悟を決めて、そのまま地面に大の字に寝転んだ。恐怖心は無く、ただただ放心状態。
「じゃぁ遠慮なく」
にやにやしながら、ギャラリーがあたしに近付いて来る。
「やめろー! ナム逃げろ!」
地面に転がっている錬弥が、叫んだ。
そんなワケ、行かないよ。あたしは目を硬く瞑り、唇をぎゅっと噛んだ。腹筋に拳に力を入れる。男の手が、ナムの襟を掴んだ。
「止めろ」
低い声が響いた。ひとり離れてフェンスに寄り掛かり、ナムの様子を見ていたリーダーらしき男が、静かに言った。ナムの襟を掴んだ男は、怪訝な顔でその男に振り返った。
「しゅん?」
「止めろ」
「マジか?」
しゅんと呼ばれた男が、凄んだ声でもう一度言った。
「止めろ」
「それはないだろ。これからいいとこなのに」
「何度も言わせるな」
凍りつく様な声に、ざわついていた空気が一瞬で静まった。
「……そっか、しゅんが先か」
男は、渋々ナムから手を離した。しゅんは、大の字に寝転がっているナムの傍にしゃがみ込んだ。
あたしはその男に、又襟を掴まれた。でもそう易々とやられてたまるか! あたしも男を、キッと睨み返した。
「好きにすれば! 約束だから」
唇をぎゅっと結び気を強く持って、あたしは又睨みつけた。あたし絶対、あんたから目を逸らせないから! 負けない! 絶対泣かない!
「“助けて下さい”って言ったらどうだ? 泣き喚いて、俺に縋ってみろよ」
しゅんは、目を細め嘲笑いながら言った。
「そんな事、絶対言わない。言ったって、助ける気なんか無い癖に。約束だから好きにすれば。あたしの覚悟はとっくに出来てる。
その代わり、錬弥には手出ししないで。あれだけ痛め付けりゃ、充分気ぃ済んだっしょ」
江戸っ子を舐めてもらっちゃ困る。あたしは、啖呵を切って相手を睨み続けた。
暫らく睨み合いが続く。ナムの目は怒りで煮え滾り、男の目は冷たく刃の様に鋭い。
「あ、は、は、は……」
しゅんは突然、大声を出して笑った。
「お前、喧嘩なんかした事ねーだろ」
「け、喧嘩位……あるし」
あたしはムッとして口を尖らせた。……喧嘩。とりあえず、兄妹喧嘩を思い浮かべた。
髪を掴み、腕に噛み付き、物が飛ぶ……。それは一匹のししゃもを巡る、壮絶な奪い合いだった。
「でもお前のその根性、俺気に入ったわ。今日の所は、こんなもんで勘弁してやる。お前に免じてな」
しゅんは、ナムの襟を離した。しゅんは、立ち上がって、周りを取り囲んでいた男達を見回した。
「撤収」
しゅんは一言言って、ポケットに手を突っ込み、ナムに背を向け歩き出した。
「えーっ。そんなぁ。しゅん、これからって……」
しゅんが、ちらっと男に振り返り、鋭い視線を送った。男はしゅんにひと睨みされて、口を噤んだ。舌を鳴らし、しゅんと一緒に公園の外に向かって歩き始めた。
その男の歩き出す背中を見て、ナムの傍に立っていた男達も、詰まらなそうにチッと舌打ちをした。
「じゃぁな」
男は悔しそうに、ボールを地面に叩きつけた。あたしは咄嗟に起き上がって、落ちてくるボールを胸元でキャッチした。
「錬弥、これで終わりだと思うなよ」
「今度見かけたら、そん時は覚悟しとけ! お前の命無いからな」
「これに凝りて、もう俺達の周りをちょろちょろすんな」
「今度会ったら、病院送りにしてやる」
男達は指を立て、錬弥に向かって散々罵声を浴びせて、去って行った。
あたしは、受け取ったボールを見詰めた。
「おーい、忘れ物ー!」
あたしは、しゅんに向かって手を振り、大声で叫んだ。
「お前にやる」
しゅんは、ナムの方には振り返らず、片手を上げて去って行った。
もしかして、あの人あたしを助けてくれた? 結局あたし、何もされなかったし……。あたしは、ボールを見詰めた。
そっか……。ありがとう。錬弥の敵とは言え、何か格好いいかも。あたしは勝手に納得し、ボールをギュッと抱き締めた。
しゅんは公園を抜けた所で、一人の男から声を掛けられた。
「弟が迷惑掛けて、申し訳ない」
静かな、それでいて威圧する様な声に、しゅんが振り返った。そこには、俯き加減で目を伏せ腕組みをしている静弥が、建物の壁に寄り掛かり立っていた。
静弥は顔を上げ、しゅんを見た。静弥の顔は微笑んでいたが、瞳は氷の如く冷たく鋭く光っていた。その不敵な様子に、しゅんの仲間達が一斉に静弥を取り囲んだ。
しゅんは男達を諌める様に手を上げて、静弥に手出しようとするのを制止させた。だがしゅんと静弥の間に、一発触発の緊張が漂う。静弥としゅんの睨み合いに、周りの者は皆背筋が寒くなった。
しゅんが、口元だけで微笑んでいる静弥に、フッと笑った。
「分かればいいさ」
その一言で周囲の緊張が解け、静弥も目を細めた。
「ありがとう。俺から弟に、よくよく言い聞かせとく」
「よろしく」
しゅんは静弥に背を向け、軽く手を上げ挨拶した。静弥の前を通り過ぎて……しゅんは、再び足を止めた。静弥には振り返らず、訊いた。
「あいつ、お前の女か?」
「いや」
「そうか。……男でもそうそういないよな、あんな奴」
「俺もそう思う」
歩き出したりょうの背中を眺めて、静弥も笑った。
「錬弥!大丈夫? 生きてる?」
あたしは、地面に倒れて動かない錬弥に駆け寄り、抱きかかえて、錬弥の身体を派手にガクガク揺らした。
「(そんな)ワケねーだろっ! いってーなー。もっと優しくしろ!」
「あ、ごめん。死んだかと思った」
「勝手に殺すな! それにあんな無茶すんな。お前の顔、それ以上不細工になったら、それこそ生きて行けねぇぞ。しかも、最悪の処女喪失」
「ええ――――っっっ!」
あたしは、驚きの余り抱きかかえていた錬弥を放り出し、後ろに尻餅を搗いた。今更ながら、自分のした事の恐ろしさに慄いた。
「いってぇ~~。いきなり離すな! 頭打っただろ。てめぇ本気で俺を殺すつもりかっ!」
錬弥は、地面にぶつけた頭を撫ぜた。
「でもまぁいいわ。ナム、サンキュ、な」
錬弥は、ナムに呆れた様に微笑んだ。
「でもよかったぁ。錬弥が無事で」
「これのどこが無事なんだよ。無事なのはおめーの方じゃねーか」
錬弥頭はコブだらけ、顔はパンパンに膨れ、服はボロボロで血が滲んでいる。傷や怪我がない場所を見付けるのが、困難な程に。
でもそれって、自業自得じゃないの? 減らず口を叩く錬弥に、あたしは同情するのをやめた。
「でも、何で喧嘩なんてすんのよ。錬弥がどんだけ強くたって、一人はダメでしょ。あの雰囲気、マジで殺されてたよ。
で、何で錬弥が狙われるわけ?」
「さぁ」
嘘々。今まで散々喧嘩して来てて、恨みを買わないワケ無いじゃん。どーせ、肩が触れたとかで、喧嘩始めたんだろ。可愛い顔して相手を油断させといて。
「これに懲りて、もう大人しくしてなさい」
「ヤダね」
あたしは、錬弥の傷を診る振りをして、バシッと蒼痣を叩いた。
「いってーっ」
「あ~ら、ごめんなさ~い。ワザとじゃないから」
100%(パー)、故意。
あたしはチラチラと錬弥を見ながら、小声で訊いた。
「錬弥あのさ……あたしってー、未だ処女だよね?」
「はぁ? お前バカか。何で俺に訊くんだよ。自分の事なのに、分かんねーの?」
「だって……その……。前に錬弥、変な事言ったから……」
「あのなぁ……。俺は寝てる女を襲うほど、卑劣じゃない。それに、ナムじゃ勃たん」
ムカッ。でも、錬弥を疑ったあたしにも、非はある。素直に謝った。
「ごめん、疑って」
そうだよ。考えてみ? 声変わりもしてないチビの13歳が、元々繁殖活動なんかムリだろ。あたしは、何か錬弥にいいように騙された気がした。
「錬弥、歩ける?」
あたしは、錬弥の腕を肩に担いで、錬弥を立たせた。
「うーん……」
あたしが手を離すと、錬弥の身体はぐにゃりと傾いた。あたしは慌てて錬弥を支えた。
「あたしの自転車の後ろ、乗れる?」
あたしは錬弥をその場に座らせ、自転車を持って来た。再び錬弥を立たせて、自転車の荷台に座らせてみる。
「痛っ!」
錬弥は、臀部にも太腿にも怪我をしている様で、まともに座れない。
「わかった。あたしが負んぶする」
自転車はその場に置いて、あたしは錬弥を負ぶって屋敷まで帰る事にした。
「ナム、お前だって怪我してんじゃん。まぁ俺はナムの半分しか体重ないけどな」
「うっさいね。落とすよ。
でもあたしのこの程度の傷なんか、全然平気。指も歯も折れてないし。
あんなの未だ良い方だよ。分かり易くて受身も取れる。タイトルが掛かったバスケの試合なんて、審判の目を盗んでの水面下バトルは、半端無いよ」
あたしは、錬弥を背負って歩きながら答えた。
はぁ? バスケって、蹴りや肘撃ちがいつもの事なのか? 有る意味、空手の試合より危険だ。錬弥の中で、時間無制限で何でも有りのバトルロイヤルと、バスケの試合が重なった。
そうは言っても、あたしも足を挫いていた。足に二人分の体重をかけて地面を踏むと、ズキンと頭まで痛みが走った。
腕に力が入らない錬弥を、あたしの背中に長時間しがみ付かせるには無理がある。あたしは、負んぶと言うより前屈みになって、背中に錬弥を乗っけて歩いていた。
屈んで歩くあたしは、前が良く見えない。真っ直ぐも歩けない。人通りの無い深夜の路地裏を、あたしは右に左にと泥酔者の様に、よたよた歩いた。
無事家に辿りつけるんだろーか。いつになったら着くんだろーか。……お互い何も言わなかったが、ナムも錬弥も不安だった。
下を向いて歩くあたしには、目の前の障害物に気が付かない。ゴン。ついに電灯にぶつかった。あたしではなく、背中に乗っけた錬弥の頭が。
「痛っ」
突然電灯に頭を打つけられた錬弥は、弾みでナムの背中からずり落ちた。あたしは、ぶつかった反動で後ろによろけ、ずり落ちた錬弥に躓き、錬弥の上に尻餅を搗いた。
錬弥は、自分の上で大の字にひっくり返っているナムに押さえ込まれ、息も出来ない。
「錬弥、ごめん」
あたしは、背中で踏み付けている錬弥に振り返って、謝った。
その時、二人の後をこっそり着いて来て、心配そうに様子を見ていた静弥が、堪らず物陰から飛び出した。
「お前達、何やってたんだ?」
ふたりは、突然目の前に現れた静弥にびっくりした。あたしは首をひょこっと上げ、咄嗟に答えた。
「バスケ」
「ふーん。夜中にバスケね……」
静弥の呆れた微笑みと、暫しの沈黙……。
ナムの奴、もっといい言い訳なかったのかよ! ナムの下敷きになっている錬弥は、はぁ、と溜め息を吐いた。
「よかったね錬弥。静弥さんをあの騒ぎに巻き込まないで」
あたしは下にいる錬弥に、小声で言った。
「兄貴の心配より、俺の心配しろ! いい加減にそこどけ!」
錬弥は怪我をしているにも関わらず、大声を出した。
「ごめん!」
あたしは慌てて錬弥の上からゴロンと横に転がり、べたっと地べたに座り込んだ。錬弥もゆっくりと上体を起こした。
「でも兄貴は、俺よりずっと強いんだぜ。何人いたって、兄貴の敵じゃない」
「はぁ? あのナンパな静弥さんがぁ?」
あたしは、静弥が空手2段だと道場の先生から教えてもらった事を、すっかり忘れていた。
「うっそーぉ、冗談でしょ。ないない」
あたしは指先で小さく手を振って否定した。錬弥がじーっとあたしを見ている。
「えっ? マジでぇ? ……そうなの?」
あたしも、じーっと錬弥の瞳を見詰めた。
「嘘だー。絶対嘘。……えー? ホント?」
あたしは、ナイナイと派手に手を振っては、再び錬弥をじっと見た。
「そんな事言ってあたしを騙して……って何? 違うの? マジ? うっそぉ」
「どっちだよ」
錬弥は、案外静弥が遠目から、二人の成り行きを見てたんじゃないかと思った。
「錬、何ひそひそ話してるんだ?」
「何でもない」
あたしと錬弥は、同時に静弥に振り返って、声を揃えて答えた。
錬弥を、静弥が負ぶった。あたしは、自転車を引いて静弥の後を歩いた。
あたしは、自転車の籠の中のボールを眺めた。あの時、キャッチしたバスケットボール……。
しゅんの顔が浮かび、彼の声があたしの頭に木霊する。凄みのあった目、低く冷たい声。笑い声、笑った瞳……。
あのしゅんって言う人、やっぱいい奴だよ。だって……、ボールただでくれるんだから。
屋敷に戻ったあたしと錬弥は、静弥の部屋で拷問を受けた。
「イヤーっ、静弥さん、やめてぇぇぇ!」
「親父にやってもらった方が、よかった?」
ジーンと沁みる消毒液を、たっぷり膝小僧に塗り着けられて、あたしは我慢できずに手足をジタバタさせた。
「だ、だって静弥さん、乱暴だもん……。痛っ、痛いって!」
半泣きのあたしは、静弥の優雅な手を、ぎゅっと押さえつけた。
「親父に頼むんだったら、なんて言い訳するつもり? この怪我」
「バスケ! だって本当にバスケだもん。ねぇ錬弥」
あたしは、絆創膏だらけの錬弥に振り返り、同意を求めた。
「バーカ」
ムカッ! なんで、錬弥如きに馬鹿呼ばわりされなきゃなんないよ。錬弥なんか、もう二度と助けになんか行ってやんない! ベーッだ! あたしは錬弥に舌を出した。
俺は助けてくれなんて頼んでない。ナムの思っている事が、13歳の錬弥にも手に取る様に分かる。
「静弥さんもういいです! 後は自分でやる」
そう言って、あたしは静弥から消毒液を捥ぎ取った。肘にフーフー息を吹き掛けて、ピンセットで抓んだ脱脂綿に消毒液を含ませて、ちょっと着ける……。
うっ……。ジンジンジン……。思考回路も心臓も止まった。
「ナムちゃん?」
心配そうに顔を覗き込む静弥に、あたしは蘇生した。あたしは、消毒液とピンセットを恭しく静弥に差し出し、頭を下げた。
「お願いします」
静弥は、容赦なかった。
「ぎえぇぇ~~。わぁぁ~~。ちょ、ちょっとぉ~~」
その夜、珍しくセントバーナードの太郎が遠吠えした。それは、静弥の部屋から聞こえて来た、奇声のせいだったらしい。
それ以来、あたしは錬弥に護身術を習っている。もとい、習わされている。
あたしは、涼弥のアシの仕事の無い日は、錬弥の部屋で勉強した。
夜中の錬弥の行動監視兼、錬弥を夜更かしさせて昼過ぎまで寝かせ、道場に連れて行く作戦。のはずが、必ずあたしが錬弥より先に寝てしまう。しかも何故かあたしは、毎朝錬弥のベッドで目が覚める。錬弥は……。床は冷んやりして気持ち良いらしい。
錬弥にしてみればとんだ災難だ。部屋の鍵を閉めていても、いつの間にかちゃっかり錬弥の机にナムが座っている。真面目に勉強しているかと思いきや、顔に問題集を貼り付けて寝ている。錬弥は毎晩仕方なく、ナムを自分のベッドに運び、自分は床で寝た。
それでも我慢出来ずに、ナムを彼女の部屋に運んだ事がある。だが1時間もしない内に、ナムはゾンビの様に、無意識に錬弥の部屋に舞い戻って来た。これも一種の帰巣本能、と言うのだろうか。
ナムが無防備で寝ている同じ部屋で、錬弥が寝られる筈が無い。ナムは、テロテロのTシャツに短パンで、臍も肩も丸出しで大の字で寝ていた。勿論ノーブラ。
とても錬弥より4つも年上だとは思えない、全く危機感の無い、幸せそうな無邪気な寝顔だった。
俺を中2の餓鬼だと思って舐めんなよ。俺だって男だ。マジで犯すぞこら! そう思いつつ、毎回錬弥は、タオルケットをナムの腹に掛けた。
「……うーん。錬弥ぁ、喧嘩はダメ……むにゃむにゃ……」
ドキリ。たとえ寝言でも、錬弥はナムに名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
ナムは寝言を言った拍子に、髪の毛が口に入った。ナムはヤギになった夢でも見ているのか、その髪の毛をムシャムシャ食べている。
信じられん。こいつマジで涼弥と同年か? 錬弥は呆れて、ナムの髪の毛を口から引っ張り出した。口の周りから額から、涎だか汗だか分からないモノを、ティッシュで拭き取った。まるで子供。
そんな事では、一向に目覚める気配を見せないナム。彼女は柔らかそうな唇から白い歯を少し覗かせて、気持ち良さそうに寝息を立てていた。
$こうして見ると、ナムも女子に見えるんだな。錬弥は同年代の女子の顔を、こんなに間近で見た事は無かった。空手の練習相手も、同年代以上の男ばかりだった。錬弥は、目に入りそうなナムの前髪をそっと掻き上げた。
パチッ。突然ナムが目を開けた。錬弥は慌てて手を引っ込めた。
ナムは大きく目を開いて瞬きもせず、錬弥の瞳を見詰めている。ナムにじっと見られて、錬弥はドギマギした。
「な、なんだよ」
ナムは、焦る錬弥にニッコリ微笑み、クタッと首を横に向けて、瞬眠した。
錬弥は呆れて、怒る気も失せる。錬弥はその日も床で寝た。
今日こそ、錬弥を道場へ連れて行く! あたしは飛ぶ様に、学校の夏季補講から帰って来た。その日は運良く、あたしが学校から帰って来ても、錬弥は未だ寝ていた。
錬弥、もう少しこのまま寝ててね。あたしは錬弥をそのままに、午後の仕事を終わらせた。いつもは大奥様にいちゃもん着けられて、何だかんだで仕事が長引く。結局いつも遅くなって、錬弥を連れて道場には行けなくなってしまう。今日こそは、大奥様があたしの目の前に現れません様に。
午後も3時を回った。雪弥の仕事に着いて行った大奥様は、未だ戻って来なかった。ラッキー!
仕事を終えたあたしは、勢い良く錬弥の部屋のドアを開けた。
バ――ン
「錬弥ーっ! ご飯だよ!」
あたしはベッドのシーツを、力いっぱい引っ剥がした。錬弥は、ベッドから転がり落ち、その拍子に頭を打った。
「イッテェ、何すんだよ」
錬弥は、頭を摩りながら身体を起こした。
「息すんの」
凍った。今時雪弥でも、そんなギャグは言わない。寒いギャグに、かえって目が覚めた。
「錬弥、もう3時だよ。朝御飯もお昼ご飯も通り越して、もう晩御飯じゃん」
「いいし。俺夏休みだから。
それに、お前が俺の睡眠邪魔してるんじゃん。毎晩毎晩、俺のベッド占領して。もっと寝かせろ!」
「そんなの、あたしを起こしてくれればいいじゃん。あたしだって錬弥んとこ、寝に来てるんじゃなくて勉強しに来てるんだし」
「何が勉強だよ。机に座って1時間もしない内に熟睡して、俺がいくら殴ったって起きない癖に」
「でもあたしは、毎朝5時には起きてるよ。昼の3時までなんて、寝てられんわ」
「それはお前の仕事だろ。俺は中学生! 俺は、やっとその時間から寝れるんだ!」
錬弥はナムを、ギロッと睨んだ。
「あ、そ。ごめんね」
でもあたしは少しも悪いとは思ってない。
「でさ、錬弥今日暇?」
「忙しい」
「よかった暇で。じゃ、デートしない? あたしと」
あたしは錬弥に顔を近付けて、にっこり笑った。
「暇じゃねー!」
錬弥は、近寄るナムの笑顔にゾッとして、ナムの肩を突き飛ばした。あたしは錬弥のベッドから、転げ落ちた。
「痛ー! 錬弥酷いじゃん。でも許す。だからデートしよ?」
ナムの奴、何企んでるんだ? 錬弥は、不気味なナムの微笑に、思わずタオルケットを頭からすっぽり被った。
錬弥は、ナムにダイニングまで引きずられて、朝御飯だか昼御飯だか晩御飯だか、ワケのわからん食事を摂らされた。ナムは錬弥の隣で、錬弥の口元を注目しながら、頬杖をついてニコニコしている。……怖い。
「どっか行けよ。食えん」
「いいって。だって今からあたしとデートでしょ? 早く食べなよ。待ってるからさ」
ナムは、美少女アイドル風に小首を傾げてにっこり笑った。
「……」
ナムのウィンクに、錬弥の箸が落ちた。
錬弥ってカワイっ。あたしには、放心状態の錬弥のその表情が、はにかんでいる様に見えた。
「錬弥が食べ終わるまで、待ってて、あ・げ・るっ♡」
「……」
俺、これからナムに何やらされるんだろ。不気味な笑いを浮かべるナムから、到底逃げられないと悟って、錬弥の肩はガックリ下がった。
あたしは、錬弥が未だご飯を食べている間に、自分の部屋に走って行き、大きな荷物を持って又走って戻って来た。
「ナム、なんだよその荷物」
錬弥はナムの手の大きなバッグを見て、眉を顰めた。
「いいから、いいから。錬弥、もう食べ終わった? じゃ片付けるね」
錬弥が何も言わない内に、あたしは勝手に錬弥の箸を取り上げ、テーブルに並んでいる茶碗や皿を、さっさと片付けた。
呆気に取られている錬弥を、あたしは椅子から立たせて、腕を組んだ。
「おい、どこ行くんだよ」
「いいからいいから」
あたしは、そのままの格好の錬弥を玄関の外に押し出して、自転車を持って来た。荷物を自転車の前籠に入れて、自転車に跨った。
「錬弥、後ろ乗って!」
「どこ行くんだよ。俺、着替えてもねーし、顔も洗ってねー」
「いいから、いいから。とっとと乗る!」
錬弥は仕方なく、自転車の荷台に跨った。自転車は、よろよろと走り出した。今にも転倒しそうだ。
「ナム行き先教えろ。俺が代わる」
「い・い・か・ら」
高級住宅地と言う場所は、とかく坂が多い。あたしはお尻を上げて、緩い坂道を登った。
「お前、ケツでかいな」
「うっさいな。そんな事言ったら、一発かますぞ!」
タイミングよく出る事は無いって言うか、女が言う事じゃない。錬弥は呆れた。
道場の前に着いた。
「俺、帰るわ」
着くなり錬弥は荷台から降りて、今来た道を歩き始めた。
あたしは、ガシッと錬弥の腕を掴んだ。
「約束したよね、デート」
あたしは貞子モードで顔をゆっくり上げ、脅す様に錬弥を見詰めた。粟っ。錬弥の背筋に悪寒が走った。
俺は約束なんかしてねー。とは、錬弥は恐怖で言えなかった。
道場に通う練習生だろうか。錬弥と同年代の男の子が後からやって来て、錬弥の肩をポンと叩いた。
「よっ、錬弥久しぶり。もう、病気治ったんか?」
「は?」
その友人は、腕を錬弥の首に掛けて、小声でひそひそ喋った。
「お前、ヤバイ病気だったんか? 二ヶ月以上も休むなんて。感染したって噂になってるぞ」
13歳で、一体何に感染したって言うんだ。先生は、皆に何て説明したんだろう。錬弥は、不安になった。
「今からセンセんとこ、挨拶行くんだろ? 俺、先行ってっから。じゃぁな、後で」
その子は、さっさと中に入って行った。
俺が病気? って何の? ……。錬弥は違う意味で、道場の門を潜るのを躊躇った。
あたしは錬弥の横に立って、一緒に道場の入り口を見詰めた。
「皆、中で待ってるよ。錬弥だって行きたいんでしょ?」
あたしは、錬弥の顔を覗き込んだ。
「行きたい癖に、素直じゃないなぁ。
最初から、誰も錬弥の事、嫌ってなんかないって分かってるんでしょ? 先生だって錬弥に厳しいのは、錬弥に期待してるからだって知ってる癖に。贔屓されてんのは、錬弥の方じゃん。
それだけ皆から期待されてて、まさかここで逃げ出すー、って事はないよね。もしそうだとしたら、男じゃないし。
錬弥だって、空手辞めてから目標無くしちゃって、行き場も無くなって腐ってたじゃん。毎日喧嘩ばっかでさ。タバコとか酒とか―。
もういいんじゃない? そろそろ戻っても。リセットしなよ」
リセット? 錬弥は横に振り向いて、ナムの顔をじっと見た。
「先生も皆も、ずっと待ってたってよ。錬弥の病気が治って、道場に戻って来んの」
「病気?」
「そう」
あたしは、錬弥の前に立った。
「ここのね」
あたしは、錬弥の胸に手を当てて笑った。
「錬弥早く!ほら 行くよ。今日はあたしに付き合ってくれるって、約束したじゃん!」
あたしは錬弥の腕を引っ張って、道場の門を潜った。
「そうそう。はい、これ錬弥の」
あたしは錬弥の道着をバッグから出して、ポンと手渡した。
「ちゃんと洗濯し直してあるから。それと糊付けも。しかも、フレッシュミントの香り着き!」
道着を手渡された錬弥が、一瞬ギョッとした。あたしは、男の汗とキツイ香料が混ざった臭いを知らない。
錬弥は着替えて、稽古場の中に入り辺りをぐるっと見回した。床を踏み締めて、足の裏の感触を確かめた。
何もかもが、いつもの通りだった。神棚も壁の穴も天井のシミも、二ヶ月前と何も変わらない。仲間の反応も一緒だ。先生も錬弥に特別何も言わない。先生はいつも通りの大きな声で、練習生を厳しく指導していた。
稽古場に現れたナムも、道着を着ていた。あたしは錬弥の傍に近寄った。
「ね、似合う?」
あたしは、錬弥の前でくるっと回った。
「お前もやるのか?」
「うん。体験稽古! 先生がやってみればって言ってくれたから。教えてね、センセ」
あたしは練習生の真似をして、型をやってみる。一歩足を出し、構えてみた。まるで出来損ないの、試作ロボットだ。
「ねぇちょっと、どうやんの? 錬弥、今日はあたしに付き合ってくれるって言ったよね」
あたしには、空手と柔道と少林寺とカンフーの区別がつかない。錬弥には、無茶苦茶なポーズを取るナムに、掛ける言葉が見付からない。
「あれ? あれれ……?」
あたしは一歩足を前に出しては、又引っ込めた。右足? 左足? 腕は左手が上? それとも右手が上? 真似をしている練習生の動きが早過ぎて、あたしは付いて行けない。
「錬弥、ちゃんと教えなさいよ。錬弥ってばー」
ナム一人で、練習生十人分はうるさい。錬弥はナムからさっさと離れ、稽古場の隅で友達と爆笑しながら、“お笑い芸人ナム”を眺めていた。
先生が、錬弥の傍に来て声を掛けた。
「錬弥、あの彼女、この前そこで五時間も正座してたんだよ。私の話を聞きたいから、練習が終わる迄待つと言って。
私は、遅くなるから家に戻ってから又来なさいって忠告したのに、錬弥がどんな場所でどんな練習していたのか、見ていたいって言ってね。終わるまでずっと正座して、おとなしく見学していたよ。
練習が終わって、私と話を終える迄、慣れない正座をずっとしていた彼女は、直ぐには立てなくて、暫くそこに丸くなっていたけどね」
先生は、その時のナムの姿を思い出して笑った。
「錬弥、ああいう友人は大切にしなさい」
錬弥は、目を瞠った。
ナムが道場に来て、何やら先生に話を着けていたらしい事は分かっていたが、5時間も正座して、ただ見学してたなんて……。バカじゃん。
派手に声を張り上げてるナムに目をやると、彼女は足を限界迄蹴り上げてバランスを失い、宙に浮いていた。道場中の視線を集めたナムは、受身も取れずに落下した。まるでギャグ漫画。
「あ――――――――!」
ナムの痛ましい悲鳴、いや勇ましい掛け声が、道場に響き渡った。爆笑の渦と共に……。
「やっぱ、錬弥は空手が好きなんだね。練習してるとこなんか、すっごく格好いいよ。もう惚れちゃいそ!」
あたしは、派手に打った後頭部のコブを摩りながら、満天の星空の中、錬弥を後ろに乗せ自転車を走らせた。
「錬弥の自主トレとか筋トレとか、手伝ってあげるからね。あたしも体力落ちてきたし、一緒にやろ」
充分チャリで鍛えてるって。錬弥は、上り坂を軽快に進んで行く自転車の荷台から、発達したナムの大殿筋と大腿二頭筋を見て、言いたくなった。
「ねぇ。錬弥、誰か好きな女子とかいる? あの格好いい稽古見せたら、一発で両思いだよ! 試合とか誘っちゃえば、絶対錬弥の事、好きになるって。チビだって関係ないよ」
「うっせぇな。チビって言うな。それに……」
錬弥は、ナムの背中でボソボソ喋った。
「何?」
あたしは自転車を止めて、荷台の錬弥に振り返った。錬弥は不貞腐れてソッポ向いている。
「あー。何、錬弥好きな子いるんだ」
錬弥がビクッとした。暗くても、心持ち錬弥の顔が赤い様な気がした。錬弥は、横を向いたままナムと顔を合わせようとはしない。
「やっぱいるんだ、好きな子。このこのっ!」
あたしは、肘で錬弥を突付いた。
錬弥って、なんだかんだ言ってもやっぱ中学生だよ。可愛いいじゃん。照れちゃってさ。
あたしの瞳がキラキラ輝き、顔を錬弥に近付けた。
「誰、誰? クラスの子? さっきの道場の子? 告んな、告んな。あたし協力するからさ。
恋愛に関しても、あたし錬弥よか先輩だよ。あたし、何年も想い続けて今の彼氏ゲットしたんだから。付き合い始めてもう直ぐ1年なんだ。当然ラブラブ進行中♡」
「お前、男いるのか?」
どう見ても、男っ気ゼロのナム。錬弥は驚きを隠せない。
「いちゃ悪い? あたし高3だよ?」
「なのに処女」
「うっさいね。関係ないっしょ。で、錬弥の好きな子って、どこの子?」
「ふーん。ナムに男いるんだ……」
錬弥はどこか上の空で、ナムの話は聞いていない。
「え? なになに?」
あたしは、ニヤニヤしながら錬弥の口元に耳を近付けた。錬弥はムッとして、大声で怒鳴った。
「うっせーっ!」
耳痛っ! あたしは首を竦めて、ジンジンする耳を擦った。
何故か、ナムと顔を合わせたくない錬弥は、荷物を自転車の籠に入れたまま、自転車の荷台から飛び降りて、走って家まで帰って行った。
錬弥の奴、何照れてんのよ。あたしは錬弥の走って行く後姿に、お姉さん気分で微笑んだ。
悔しいけど、錬弥もイケメンだもん。今はチビだけど、その内背が伸びて旦那様や静弥さんや涼弥にも似て来るだろうし。そしたら絶対モテるし。そんでもって、その恋も簡単に成就するよ。
でもよかった、錬弥元気になって。空手も続けてくれそうだし……。
「錬弥ー! ガンバレー!」
あたしは錬弥の背中に、大声でエールを送った。
その日以来、錬弥は毎日のように道場に通っている。だが、大いに錬弥の世話を焼いてやったあたしへの態度は、一向に変わらない。どころか、いつの間にか錬弥はあたしの身長を追い越して、上からあたしを見下ろしている。
悔しいっ!
お読み頂き、誠にありがとうございました。
次話は、ナムの失恋編です。
懲りずに、飽きずに読んでいただけたら、とお祈りしております。