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錬弥編(前編)

懲りずにお越し頂いて、ありがとうございます。

今話は、3男錬弥とナムとの、ドタバタエピソードです。

長いです。最後まで読んで頂ける事を願っております。


 夜12時。今夜も錬弥は、血塗れで屋敷に帰って来た。夏休みに入ってから、連日そんな成りで夜遅く帰って来る。あたしよりチビの13歳の中坊が、毎晩深夜に帰ってくるなんて、許せん!

 あたしは今日こそ錬弥にガツンと言ってやろうと、玄関で仁王立ちして錬弥の帰りを待った。

 夜の10時から玄関で待ち続けて、2時間経過した。それでもあたしは錬弥が帰って来るのを、今か今かと待ち、腕を組んで玄関の扉と睨めっこしていた。腕に蚊が止まっても動じない。脚を刺されても気にしない。あたしの腕や足は5~6箇所、赤くぷくっと膨らんでいた。

 あたしが、錬弥待ち伏せ作戦を開始した初日、毎朝早いあたしは立ったまま玄関で寝ていて、帰って来た錬弥に起こされた。

「ナム、こんなとこで寝るなよな」

「あ、ごめん……」

 次の日は、あたしがトイレに行っている間に錬弥が帰って来た。気が付かずにあたしは、明け方近くまで玄関に立っていた。

 次の日、今日こそはと凄い形相で玄関に入ってくる人を睨んだら、静弥だった。

「ごめんなさい、ナムちゃん。遅くなりました……」

 静弥は恐縮して、ナムに謝った。

「あー、いえ、あたしこそごめんなさい。静弥さんだとは思わなくて……」

 その内、あたしの行動を学習した錬弥は、あたしがしっかり戸締りした筈のリビングの窓や、廊下の窓、2階の窓から家にこっそり入っていた。

 ばーか。誰がナムなんかに捕まるかよ。

 あたしも学習した。ただで蚊に血を提供していたあたしは、足元に蚊取り線香を置いた。


 業を煮やしたあたしは、毎日昼過ぎ迄寝ている錬弥を叩き起こして説教した。

「夏休みだからって、夜10時前には帰って来い! あんた中学生でしょ! 声変わりもしてない子供がきが夜遊びなんて、百年早いわ」

 錬弥にとっても、ナムのキンキン声は耳障りだった。それでも錬弥が深夜に帰ったからと言って、何で、どうして、とナムにあれこれ詮索される事は無い。ナムの言う事なんか、無視したところで痛くも痒くもない。それよりもナムを出し抜いて、からかい困らせるのが面白かった。

 あたしはちっとも面白くない。毎日のように、錬弥から出される血塗れ泥塗れ破けた服。錬弥に捨ててくれって言われたって、未だ充分着れるのに捨てるなんて、あたしにはそんな事絶対出来ない。あたしに、錬弥の服の染み抜きと、繕いの仕事が増えた。

 でも、これって錬弥の血だけじゃないよね。あたしは錬弥のシャツに着いた血痕を落としながら、襟を持ち上げて繁々と眺めた。シャツのボタンは飛んで襟は千切れていた。刃物で切られた跡まであった。

 いったい何を蹴るのか、錬弥のスニーカーも、一晩で裂けてボロボロだった。

 あたしは、錬弥の破れた服の宛布に、ハートやりんごや可愛いキャラクターを縫い付けた。錬弥のイニシャルや“LOVE”の文字を、目立たない場所に刺繍した。

 雑巾にもならない様な、ズタズタに引き裂かれた悲惨な錬弥の遺留品が、時々ゴミ置き場に捨ててある。

 ごめんね。あたしは手の施しようの無い、ボロキレになった錬弥の服に両手を合わせた。


 昼過ぎ、あたしが学校の補講から帰って来ても、錬弥はまだ寝ている。夏休みに入ってから、起きていたためしが無い。

「錬弥! いつまで寝てんのよ。さっさとご飯食べる! あんた育ち盛りでしょ!」

 あたしはノックもせずに、バン、と錬弥の部屋を開け、タオルケットも掛けずに、裸同然でベッドで寝ている錬弥の耳元で怒鳴った。

「錬弥ーっ! もう昼っ! 昼昼お昼! 起きろって」

 あたしは錬弥の枕を掴み取った。枕を引き抜かれて、頭を揺さぶられた錬弥は、不機嫌に文句を言った。

「うっせーなー」

 それでも錬弥は渋々起きた。根性でぶつかって来るナムを相手をすると、無駄に疲れる。

 夏休み当初は“起きろ!”“起きない!”で1時間も言い合い、お互いくたくたになった。声も枯れた。それ以降、錬弥は文句を言いながらもナムに従っている。

「おい、俺は子供がきじゃねー」

 錬弥は、ナムに腕を引っ張られ背中を押されて、無理矢理ダイニングまで連行された。錬弥が食べ終わるまで、ナムは横でじっと監視している。

 錬弥がタラタラ食べてたら、そのまま夕飯も一緒に食べる羽目になった。

 ナムに何をされるわけでもないのだが、錬弥は出来る限りナムを避けた。それが最近では、いつもナムに先回りされて、錬弥の前に立ち塞がっている。ナムも馬鹿ではないらしい。

 いつの間にか、ナムは錬弥の天敵となった。ちまたでは、その名も知れる百戦錬磨の錬弥も、手に箒や包丁を持って不敵に笑うナムには、背筋が凍った。


 あたしが錬弥の部屋で掃除をしていた時、タバコの箱を見つけた。隠しもせずにベッドの上に、ポンと無造作に置いてあった。

「錬弥危ないじゃん! 寝タバコは火事の元! じゃなくて、あんた未成年でしょ? 中坊の癖に、タバコなんか吸っちゃ駄目だし! 成長止まるし馬鹿になる。それに思いっきし違法」

 あたしはタバコの箱を掴んで、エプロンのポケットに仕舞い込んだ。

「タバコがどんなに身体に悪いか知ってる? 学校(授業)でやるよね。それに今時喫煙なんて、カッコ悪」

 錬弥は、ヘッドフォンでCDを聞きながら、ベッドで横になっている。あたしの声は聞こえている筈なのに、聞こえない振りをしてる。

 あたしはコンポの電源をブチ切って、錬弥の片方のヘッドフォンをグイッと持ち上げ、耳元で怒鳴った。

「話聞け!」

 錬弥がビクッと首を竦めた。

「うっせーな。大声出すなよ、充分聞こえてるわ。耳潰れる」

 錬弥は顔を顰め、叫ばれた方の耳に指を突っ込んで答えた。

「聞こえてるなら、なんで返事しないよ」

 錬弥はあたしを無視し、立ち上がって部屋から出て行こうとした。

「ちょっと待て! あたしの話、済んでない」

 あたしは錬弥の服を掴み、ムッとして振り返った錬弥を、ギロッと睨んだ。

「錬弥、これ貸りるから」

 あたしは決心して脅すような低い声で言い、机の上に置いてあったライターを掴んだ。ポケットから錬弥のタバコを1本摘まみ出して、花火に火を点ける要領で、タバコの先に火を近付けた。

 モワッと、タバコの周りの紙だけ燃えた。

「点かないじゃん。このタバコ、湿気てる?」

「何やってんだ、お前」

 錬弥は、ドアの前で呆れてナムを見ていた。

「あんたはそこで見てなさい。タバコは身体に悪いって、あたしが身体張って証明してやるんだから!

 ……って、なんで点かないよ、このタバコ! 熱っ!」

 あたしは点かないタバコに、ずっとライターを点け続けていた。点けっ放しで熱くなったライターを、あたしは思わず放してしまった。錬弥は呆れて、あたしが落としたライターを拾った。

「貸せ」

 錬弥はナムからタバコを取り上げると、口に咥えて火を点けた。あっさり点いた。

「ん」

 あたしは錬弥にタバコを手渡された。あたしは、タバコに火を点ける手馴れた錬弥の優雅な仕草に、思わず見惚れてしまった。中二のチビの癖に、格好良いかも……。

「ありがと、錬弥……」

 あたしは言葉が続かない。あたしはタバコの吸い口を見て、ある事に気が付いた。

「ねぇ、これって間接キス?」

 無視された。

 ムカっ! そっちがその気なら! あたしは気を奮い立たせた。肺の空気を全部吐き出して、一気にタバコを吸い込んだ。

 ひえーっっっ! 世界が回った。あたしは後ろへひっくり返って、頭を強打した。床に転がったまま、激しく咳込んだ。咳と涙が止まらない。

「ゴホッゴホッ、ゴホゴホ、ゲッ…………ほら見……ゲホゲホ…………」

 声が出ない。息が出来ない。あたしは床の上に倒れたまま、その辺に落ちていた紙を掴んで、必死にダイイングメッセージを記す。

『見てみろ! タバコなんて身体に言いワケない! あたし、もう死ぬかも』

 あたしは立ち上がれない所か、手に力も入らない。必死に綴った文字は、よくて象形文字。どう見てもナメクジの這った跡だった。当然ナム以外、解読不可能だ。

 あたしは、なんとか錬弥にメッセージを手渡すと、暫らくそのまま座り込んで、泣きながら咳込んでいた。横で見ていた錬弥は、口をあんぐり開けていた。

「全くタバコなんて……。これの何がいいのか、全っっ然ワンナイ。税務署の罠に嵌って、無駄に血税絞り取られているだけじゃん。こんなのが、1本20円以上もするなんて。今ならキュウリだって、5本で百円だよ」

 あたしは火の点いたタバコをじっと見て、時折、咳込みながらぶつぶつ呟いた。

 やっと咳が収まり、あたしは立ち上がった。深呼吸をした。

「ゲホッ、ゴホッ」

 また咽た。咽たついでに、あたしは床のタバコの焦げに気が付いた。

「あ―――っ! 錬弥のせいで焦げちゃった!」

 俺のせいじゃない、と睨む錬弥の冷たい視線は無視して、あたしは床にしゃがみ込み、必死に焦げを擦った。

 マジックで描いたんじゃないんだから、削るか塗料を塗るかしないと、床のコゲなんか消えるワケが無い。暫く擦っていたあたしは、ポケットから絆創膏を出して、コゲ跡に貼ってみた。

「うん、とりあえずこれで目立たなくなった」

 フローリングど同系色の肌色の絆創膏。しかし、どう見てもゴミだ。その上、うっかりそこを歩いてしまったあたしの足の裏に、その絆創膏がくっ付いた。

 あたしは錬弥に向き合うと、腰に片手を当て、錬弥を指差し充血した目で言った。

「わかった?」

 あたしは、タバコの害を実演したつもりだった。

「言わなくたって、誰が見ても分かるだろ。その焦げ」

「焦げの話をしてるんじゃないの!」

 錬弥はアホ臭くて、答えるのもバカらしかった。

「だからタバコなんて、全然身体に絶対良くないの! ましてあんたは、あたしよりチビの中学生! だ・か・ら……ああ、まだくらくらする」

 あたしは頭に手を当てた。

「駄目だー。あたし、声もまともに出ないわ。しゃーない。今日はこん位にしてやるわ。錬弥はちゃんと反省しときなさいよ!」

 錬弥に言いたい事がいっぱいあったのに、思考もろれつも回らない。足元も覚束無い。あたしは、錬弥の部屋掃除も忘れて、よたよたと、壁や家具にぶつかりながら錬弥の部屋を後にした。

 ドタッ。ドスン。ダダダ……。カンカン、ゴン……。

 ナムが部屋を出て行った直後、階段辺りでかなり派手な音がした。錬弥の部屋は三階、ナムの部屋は一階……。

「ばっかじゃねぇの。こんな事で一々身体張るなよな。大体たった一本吸っただけで、ここまでなるか? 普通」

 錬弥は思い出し笑いをしながら、ナムが忘れていったタバコの箱を、ゴミ箱にポンと放り投げた。


 その夜、あたしは錬弥の部屋に、様子を見に行った。

「錬弥、もうタバコ吸ってないでしょうね?」

 あたしは、錬弥のベッドの下や、棚や机の周りをチェックした。錬弥は、相変わらずあたしを無視してCDを聴いている。

「え? 何、今度はお酒?」

 あたしは、本棚に置いてあったウイスキーの瓶を手に取った。隠す気配も無く、ドン、と置いてある。でも未成年の錬弥がお酒を買えるワケないし、きっと旦那様のをくすねたんだ。

「没収!」

 あたしは、ウィスキーの瓶を抱えた。

「おい止めろ! 急性アル中で死ぬ気か? その酒、半端ねーぞ」

 錬弥は、ヘッドフォンを外して叫んだ。タバコ同様、ナムが酒を飲むんじゃないかと思った。

「え?」

 あたしにその気は全く無かったのに、錬弥ごときに止めろ、と言われたら、江戸っ子のあたしはそう簡単に引き下がれない。

「と、当然、あたしが処分!」

 あたしは仁王立ちで、錬弥に瓶を突き付けた。気分は、ピッチャーにホームランを宣言するイチローだ。

 勢いで宣言してしまったあたしには、もはや引っ込みが着かない。

 その格好で、しばし沈黙した。硬直しているあたしの額に、じわっと汗が滲む。ど、どうしよう。あたしお酒なんて、甘酒くらいしか飲んだ事無いよ。

 あたしはかなり葛藤したがー、悩んだがー、躊躇い戸惑ったが……ええいっ! 行けー、あたしっ!

 蓋を開けて一口煽った。

 グビッ! うっ! 途端に喉が焼けた。

 何これ? ワインでも梅酒でもない。

 苦っ! 熱っ! 咽た。あたしは床に座り込んだ。タバコでも咽たけど、今はそれとは違う。

 何これ。喉痛ーっ。あたしは床に両手を突き、涙を滲ませながら咳き込んだ。

不味まずっ!」

 とは言え、捨ててしまうには勿体ない。このお酒、旦那様のとこからくすねてきたんだとしたら、きっとタバコより数十倍は値が張る高級品だ。百年モノとか。

 咳が収まった所で、あたしは座り込んだまま酒瓶をじーっと見た。

「分かったろ? ナム、もう止めろって」

 中2坊主に高3女子がたしなめられた。

「何よ! 分かった風な口利いて」

 手にした瓶には、未だかなりの酒が残っている。でも錬弥に飲ませるワケにはいかない。かといって、旦那様に余分な心配かけたくない。

 あたしは覚悟を決めて、一気にグビッとラッパ飲みした。

 グフッ! 口いっぱいに頬張った酒が飲めなくて、つい口から溢れる。喉が焼け、又咳込んだ。涙が止まらない。

 こんなの、どこが美味うまくて飲むんだよ? ナムには理解不能だった。

「ナム分かったから! それ以上飲むと、また階段から落ちるぞ」

「え? 何で知ってんの?」

 あたしは咄嗟に、おでこの傷を前髪で隠した。

「そうじゃなくて……。

 錬弥! タバコと一緒であんたはお酒の事、全然解ってない!」

 お前だって未成年だろ。ナムの方がよっぽど分かってないわ。錬弥は怒鳴り散らすナムに、反論する気も起きない。ヤレヤレ、と首を竦めた。

 あたしは手にした瓶をチラッと見て、これ以上飲んでもいいものかと躊躇した。が、……ええい、こうなったら!

 あたしは自棄やけになって、更に一気に煽った。

 口の中が麻痺して来て、味覚がない。苦味も喉の痛みも感じなくなった。こうなったら何でも来い! だ。あたしは、ほぼ丸毎残っていた洋酒を、一気に全部飲み干した。

「ナム……大丈夫か?」

 錬弥は、床に両手を突き項垂うなだれて黙り込んでいるナムに、恐る恐る声を掛けた。

「おい、大丈夫か?」

 もう一度聞いた。しかしナムはピクリとも動かない。

「……」

「な、何だ? ナム?」

 ナムの肩が、震えている。

「へっへっへっ……」

 ナムが、呪文の様な奇怪な声を出した。ゆっくりと顔をあげたナムの目が据わってる。口元はニヤリと薄気味悪く笑い、端からつーっと涎が……。ナムはニッと目を細めて錬弥を睨み、面倒臭そうに手で口元を拭った。

 錬弥は、悪霊にでも取り憑かれている様なナムの様子に怯んだ。

錬弥れんら、ここに正座せいらっ!」

 ナムは、ロレツの回らない言葉を発して、錬弥を呼び付けた。

 ナムの奴、酒癖悪! 錬弥はナムに顔を背けながらも、床に胡坐あぐらをかいて座っているナムの前に、大人しく正座した。

「錬弥! お前なぁ。皆がどれだけ心配してるか……ひっく……解ってるか?……ひっく」

 ナムはしゃくり上げながら、据わった目で部屋をぐるっと見回した。

「酒、まだ隠してんだろ。出せ!」

「もうないよ」

「嘘ゆーな! 全部出せ。一匹いれば三十匹はいる!」

 ゴキブリじゃねぇ。こいつ、ただ飲みたいだけなんじゃないか? 錬弥はどこを睨んでいるのか分からないナムに、溜息を吐いた。

 ナムは突然、目の前に正座している錬弥の首に、手を掛けた。

「たっ、他人のあたしだってっ……こんなにしっ、心配してるんだから、奥様っなんかっ……もっっっもっもっと心っ配っっ……

 チビで、ケも生えてないっ、餓鬼んちょの癖してっ……酒? タバコ? はっ、笑わせんな。喧嘩も、すんなっつーーーのっ! あんたの服が、可愛そうだわ……」

 ナムは、錬弥の背中をバシバシ叩いて、ケラケラ笑った。

「大奥様がなんだぁ! あのくそばばぁ! さっさとくたばっちまえ――――っ! ヒ―ッ、ヒッ、ヒッ」

 普通に怖い。ナムは今、何かに憑依されている。錬弥の顔が青ざめた。

「おい、錬弥! 酒だ。酒持って来い!」

「だから無いって言ってんだろ。この部屋中、ナムの好きに探せよ」

 それにしても、ナムがこんなに酒癖悪いなんて……。錬弥は呆れを通り越して、同情した。

「錬弥め、付き合い悪い奴だな。んじゃ、あたしが台所行って持って来るわ。確か、料理酒と料理ワインがあった」

 付き合いって何だよ。ダメだとか言っといて、中学生の俺に酒飲ませるのか? 料理酒? ナムはそんな物まで飲みたいのか? 錬弥の口は塞がらない。

 あたしは、スクッと立ち上がった、つもり。でも足がよたる。世界も回る。あたしは、そのまま錬弥の上に倒れ込んだ。

「おい、大丈夫か? ナム……って重い!」

 ナムの顔が、錬弥の目の前にあった。酒臭い。錬弥は顔を背けた。

「退けよ!」

 錬弥は、自分に覆い被さっているナムを、跳ね飛ばした。

 横に転がったナムは、だらしなく大口を開け、少しも動かない。

「おいナム、おい」

 ナムの意思は、既に無かった。

 錬弥は仕方なく、ナムの両腕を掴んで引きずって、自分のベッドに寝かせた。錬弥がほっとしたのも束の間、ナムは突然上体を起こした。その顔は苦しそうで真っ青。

「うっ……。気持ち悪」

 ナムは反射的に両手で口を押さえた。その様子に、錬弥は慌てた。

「ここで吐くな! トイレ行け!」

 ナムは錬弥に振り返り、据わった目付きで錬弥を睨んだ。

「吐く? 誰がそんな勿体無い事……」

 ナムは何やらムニャムニャ喋ると、大の字になってパタンとベッドに倒れた。錬弥は、ナムの顔を恐る恐る覗き込んだ。

「ヘッ、ヘッ、ヘッ……。れーんやぁ~」

 その晩、錬弥は床で寝た。


 翌日、あたしは酷い二日酔いだった。全身酒臭いし、頭はガンガンする。水以外、何も口に出来ない。水すらも、飲むと吐き気に襲われた。

「おはようナムさん。夕べは誰と飲んでいたの?」

 爽やかな朝の台所。あたしの頭に響き渡る、キンキンとした大奥様の声は、あたしの脳ミソを撹拌する。あたしは頭を押さえながら、青い顔で大奥様に挨拶を返した。

「おはようございます。錬弥とです」

 言ってから、はっとした。

「いえ、飲んでません! あたしも錬弥も未成年ですから、お酒なんか一口も」

「あらナムさん。わたしはお酒とは言ってませんよ」

「え、あ、あたしそんな事言いました?」

 白を切った。

「ナムさん、お酒臭いわよ」

「そんな事ありませんって。やだなぁ。大奥様の気のせいです」

 あたしは引きつった笑顔で、大奥様からさり気無く遠ざかった。

 あたしの目の前に、料理酒と料理ワインが置いてあった。今のあたしは、たとえ料理用であっても工業用であっても、アルコールは見たくない。

 うっ。自分の息が酒臭い。大奥様の指摘の通り、自分でも分かる酒臭さだった。

 これじゃ駄目じゃん。酒の臭いが消えるまで、誰とも会わないようにしなくちゃ。

 あたしは、さっさと朝の仕事を終えて1秒でも早く部屋に戻ろうと思った。時間が経って、少しは二日酔いも酒臭さも抜けたようだ。

 そこへ運悪く、錬弥が起きて台所に入って来た。

 いつもは昼過ぎ迄寝てる錬弥が、朝の内に起きて来るなんて、珍しい事もあるもんだ。あたしは感心して、錬弥に挨拶した。

「おはよう、錬弥」

 錬弥がニヤリと笑った。あたしはハッとした。血の気が、サーッと引いて行くのが分かった。

 そうだ昨夜ゆうべ! あたしは初めて経験する酷い体調不良に翻弄されていて、その原因を思い出す余裕も無かったのだが、錬弥の顔を見て断片的に思い出した。

「ちょっと、錬弥」

 あたしは錬弥の側に寄って、彼の服を引っ張った。錬弥に顔を近付け、小声で訊いた。

「なんだよ。くっせーな。寄るな」

 大奥様があたしを見て、顔を顰めた。あたしは、無理矢理錬弥を廊下へ引っ張り出した。

「錬弥ごめん。……あのさ。あたし朝起きたら、錬弥のベッドで寝てたんだけど……」

「ナム、覚えてないのか? 酒飲んだの」

「酒? でもあたし、確か一口しか飲んでないよね。なのにその後、意識不明で頭痛くて気持ち悪くて……」

「一口? 全部だ。ぜーんぶ、綺麗さっぱり。一滴残らず飲み干した癖に。よくゆーよ」

「え? 全部? ……んじゃお酒って、一口しか残ってなかったの?」

「丸々あった」

「錬弥も飲んだの?」

「俺は一滴も飲んでないっっ!」

 錬弥に耳元で叫ばれて、あたしの頭に衝撃が走り、あたしは両手で頭を抱えた。

いった~~。痛タタ……。もう、大声出さないでよ。聞こえてるって」

わりぃ。まぁナムが覚えてないのも、無理ねーか」

 錬弥が、ニヤっと笑った。

「お前凄かったぞ。酔っ払って、あーんな事やこーんな事や……」

 あたしの顔が、蒼白になった。

 昨夜、錬弥の部屋で一体何があったんだろう。あたし、お酒飲んだ後の記憶が全く無い。朝になって気が付いたら、あたしは錬弥のベッドで寝ていて、錬弥は床に転がってた。

 そうか、錬弥床で寝てたから、早起きだったんだ。って、納得している場合じゃないし!

「あ、あんな事や、こんな事って?」

 あたしは激しく錬弥の袖を引っ張った。錬弥は、ニヤニヤと思わせ振りに笑ったきり、何も答えない。

「ねぇ錬弥、あんな事とか、こんな事って何?」

「さぁね。自分で思い出せよ。自業自得」

 錬弥はあたしの手を振り払い、素知らぬ顔で行ってしまった。

 なんて奴! 思い出せないから訊いてんじゃん!

「ちょっと、錬弥ちょっと待ってよー!

 痛っ! あいたたた。頭いったーっ」

 自分の大声が、二日酔いの頭に跳ね返った。あたしは頭を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。

 錬弥のやつー! あたしより4つも年下の、チビの餓鬼に、高3のあたしが何でこんな目に合わされなきゃなんないよ……。

 その後、あたしが錬弥にどんなにしつこく訊いても、錬弥の後を追い掛け回しても、知らん振りされ鼻で笑われた。あたしは、生きた心地がしなかった。


 あたしは、学校の夏期講習の帰り道で、錬弥の姿を見かけた。あたしは錬弥が一体どこに行くのか、こっそり後を付いて行った。もしかしたら、錬弥の弱味を握れるかもしれない。

 錬弥は、中古ゲームショップに入った。

 錬弥、ゲームなんかするんだ。どんなゲームかな? あたしは興味が湧いて、錬弥に気が付かれない様に、こっそり店中に入った。

 錬弥は、PCゲームを手に取り、辺りをキョロキョロ見回した。錬弥は監視カメラにチラリと目をやり、周りに人がいないのを確認して、それを素早く自分のバッグの中に入れた。

 え? あたしは、今何が起こったのか分からない。でもなぜだか、あたしの心臓がバクバク言い出した。あたしは引き続き、じーっと錬弥を注視した。

 錬弥は、まるで普通に買い物をする様に、顔色一つ変えず、又PCゲームを自分のバッグに入れた。

 万引き! あたしは錬弥の傍に走り寄り、凄い形相で錬弥のバッグを取り上げた。

 今、まさに錬弥に怒鳴りつけようとして……。

「ちょっといいですか?」

 背後からの声に、あたしはそーっと後ろを振り向いた。あたしは、真後ろに立っている店員と目が合った。

「へへへ」

 あたしはバツが悪そうに照れ笑いして、なんとか誤魔化そうとした。

「それを持って、事務所に来て下さい」

「……はい」

 あたしは返事と同時に、上げた手とバッグと首をガックリ下げた。

「君も来なさい」

 店員は、錬弥にも言った。

「この子は関係ないです! 他人です!」

 あたしは店員に大声で言って、手と首を派手に振り、錬弥とは無関係だとアピールした。

 あたしは錬弥をちらっと見た。錬弥の、反省の欠片もない澄ました表情に、あたしのはらわたが煮えくり返る。だがここは、13歳の可愛い少年だ。出来れば罪なんか背負わせたくない。

「錬弥、早く帰んなよ」

 あたしは小声で言って、肘で錬弥を突ついた。

「早くってば」

 錬弥はあたしの親切な忠告を無視して、あたしと一緒に、店員について行った。


 あたし達は、店の奥の事務所に連れて行かれた。あたしのバッグは、店員に分からない様にこっそり錬弥に持たせた。

 店の事務所と言っても、雑然とダンボールが積み上げられている狭い空間に、折り畳みのテーブルとパイプ椅子が置いてあるだけだった。

 あたしと錬弥は椅子に座り、あたしが持っていた錬弥のバッグをテーブルの上に出した。

「なんでここに連れて来られたか、分かってるよね?」

「はい」

 あたしと錬弥は、同時に返事をした。あたしは錬弥を睨んだ。

「あんたは黙ってて」

 あたしは店員に向き直った。

「あたしです! やったのはあたし。ごめんなさい」

 あたしは立ち上がって、テーブルにバン、と両手を突いた。身を乗り出して、店員を血走った目で真っ直ぐ見た。口元をキュッと引き締め、瞬きもせず、何かを訴える様にじっと店員の瞳を見詰めた。

 悪い事をして、こんなに堂々としてる奴なんかいない。店員は苦笑した。

「これはあなたのバッグ?」

 店員は、錬弥のバッグに手を置いた。

「はい」

 あたしは椅子に座って店員の目を見詰め、力強く頷いた。

「中身を確認させて頂きます。いいですね?」

「は、はい。どうぞ」

 それはあたしのバッグではない。焦る心を落ち着かせながら、あたしはちらっと錬弥を見た。錬弥は、ポーカーフェイルでしらーっとしている。

 店員は、バッグの中身を取り出して、テーブルに並べ始めた。

 携帯と、財布と、タバコと……。

「タバコ! あんた、まだタバコ……」

 あたしは思わず立ち上がって、錬弥に叫んだ。店員が手を止めて、怪訝な顔でナムを見た。

「あ、いえ。何でもありません。続けてください」

 あたしは店員に作業を続ける様、どうぞ、と手を差し出して、そっと座った。

 店員は、バッグから次々と物を出して並べた。成人雑誌、コンドーム……。

 あたしはそれを見て、又バン、と立ち上がり、錬弥と店員の冷ややかな視線を浴びた。あたしはバツが悪そうに、そーっと座った。

 あたしは椅子にチョコンと座り、首を竦め背を丸めて小さくなっていた。顔を真っ赤にして下を向いて。

 錬弥の奴! こんなもん、いつも持ち歩いてるわけ? あたしは顔を上げあられない。テーブルに並べられた品物を、見る事が出来なかった。

 店員の肩が笑っている。店員の並べる手が、細かく振動している……。うーっ、誰かあたしをここに埋めて!

 テーブルの上に、万引きした商品が上がった。あたしははっとして立ち上がり、深々と頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。つい出来心で……。そのゲーム、どーしても欲しかったんです。でもなかなかお小遣いが貯まらなくて……」

 確か、錬弥がバッグに入れたのって、PCゲームだったよね。あたしは頭を下げながら、自分の記憶を確認した。

「出来心ねぇ。君、このゲーム、そんなにやりたかったんだー」

「はい」

 あたしは頭を上げて、ぎょっとした。店員が手にしていたのは、18禁のエロゲーだった。しかも、超過激なお色気パッケージ。タイトルも……。

 なんでだよ! あたしは目玉も心臓も固まって、暫く言葉が出なかった。

「じゃあ、ここに名前と住所と学校名を書いて」

「はい」

 あたしはしょぼくれて、店員に素直に従がった。あたしは名前を書きながら、店員に尋ねた。

「あのぉ。あたし住所は不定なんですが、書かなきゃだめですか?」

「は? あなた高校生でしょ? 家ないの?」

「はい」

 こくりと頷き、素直に答えた。忠犬の様なつぶらな瞳で、真っ直ぐ店員の目を見詰めて。

 店員は、目をぱちくりさせている。錬弥は、あたしの隣で拳を握り締め、必死に笑いを堪えていた。

「あなたね……。初犯だから大目に見ようと思ったけど、正直に書けないなら学校に通報しますよ」

 店員は、あたしの手元と顔を、疑り深く交互に見た。

「本当です! ウチ、倒産したんです! そこに住んでたから、行くとこ無くなって住所不定なんです! 今居る所は仮住まいなんです! 住民票だって移してないし。ホームレスの一体何が悪いってゆーの?」

 あたしは、再びテーブルを両手でバンと叩いて立ち上がり、店員に食ってかかった。店員は、ナムの剣幕に気圧けおされて、たじろいでいる。

 マジ? 店員は錬弥を見た。錬弥は、大きくウンと頷いた。


「錬弥、よかったねー、許してもらえてさ。でも、何であーもあっさり、許してくれたんだろ」

 屋敷までの帰り道、錬弥と並んで歩きながら、あたしは首を捻った。あたしの隣を歩く錬弥は、未だ笑いが収まらない。

「錬弥、もうこんな事辞めてよね。何であんなエロいもんが欲しいのよ。欲しけりゃ、お兄さんに頼めばいいじゃん」

 静弥の部屋にも涼弥の部屋にも、似たようなモノがあったのを思い出した。

「別に。欲しいわけじゃないし」

「じゃぁ、何で万引きなんかするの」

「さぁ。なんとなく?」

「なんとなく?」

「うん」

 あたしは立ち止まって、錬弥の顔をじーっと見た。

「なんとなくで商品盗られちゃ、作ってる人も売ってる人も堪ったもんじゃないよ。もう辞めてよね。でなけりゃ、あたしがあんたの後、ずーっとくっ着いてって監視するよ」

「分ーった、分ーった」

「本当?」

「マジマジ」

 錬弥は、まだ笑っている。あたしは探る様に、じーっと錬弥の目を見た。

「それと! 何でまだタバコ持ってんの?」

「あれか? 入れっぱなしで、忘れてただけ。もう辞めた」

「本当?」

「別に信じなくていいけど」

 あたしよりチビな癖に、錬弥は上から目線で、小ばかにする様にあたしを見ている。

「わかったー。信じる。で……、錬弥はいつも、持ち歩いてるの?」

 あたしは小さな声で訊いた。

「何を?」

「そのぉ……ナニ」

「何?」

 錬弥は俯くナムの顔を、下から覗き込んだ。あたしは自分でも、みるみる顔が赤くなって行くのが分かった。

「……」

 錬弥は前を向いて、しらーっとして答えた。

「ああ、コン……」

 あたしは慌てて、錬弥の口を塞いだ。小声で錬弥を制する。

「こんなとこで、大きな声で言わないでよ!」

「コンドームって?」

 回りにもはっきりと聞こえる様に大きな声で言う錬弥に、あたしは首から耳から真っ赤になった。行き交う人が、あたし達を変な顔をしてジロジロ見て、通り過ぎて行く。

「何て奴! 絶っ対誤解された」

「別にいいんじゃね? ただの通行人じゃん。それとも、俺じゃ不満?」

 錬弥はあたしの耳元で囁いて、意味ありげに笑った。

「そーゆー問題じゃないっ!」

 クソーッ! こいつも静弥さんに似てるし! 13歳の癖して“たらし”の素質充分だ。

「あのさ、俺等中二って言ったらさ、そういうのに興味を持つ年頃じゃね? ナムもそうだったんじゃねーの?」

「あたし? あたしはー……、部活一筋だったから」

 自分の中2時代を思い返す。男子が、何やら厭らしい話で盛り上がっていたのは知っていた。経験談とか……。

 はっとした。

「えーっ? もしかして、もしかして……。この前、あたしが酔っ払って錬弥の部屋で寝ちゃった時、錬弥……」

「ナムってさ、案外いい体してんのな」

 今度はあたしの顔が真っ青になった。錬弥はニヤッと笑って、すたすた歩いて行った。

「ちょっと待て! 待ちなさい! こら――――っ!」

 悪夢だ! 中二の癖に、中二の癖に、中二の癖に――っ! ファーストキスも未経験のあたしは、暫くその場に呆然と突っ立っていた。


「お帰りなさい」

 錬弥は、今夜も十時前に家に帰って来た。あたしの機嫌はすこぶる良好だ。あたしの説得に、錬弥が心を入れ替えてくれたんだろう。連日連夜、彼の帰りが早い。

 それは錬弥にとって、単に街をぶらぶらするより、ナムをからかっている方がずっと面白かったから、なのだが。

 それにしても、中二の子供が、生意気にも年上相手に喧嘩三昧の夏休みを送っている。午後10時前に帰って来たとは言え、今日も服が破れてボロボロの錬弥に、あたしの怒りも治まらない。玄関で錬弥を出迎えたあたしは、思わず大声を出した。

「あんた! 喧嘩以外やる事ないの?」

「ない」

 錬弥は即答して、無表情であたしの横を通り過ぎた。

 錬弥は部屋に入るなり、ドカッとベッドに寝転んで、ベッドの上に無造作に置いてあった“週間少年ダンプ”を手に取って読み出した。

「ないって、どーゆー事よ」

 錬弥の後を追っかけて来たあたしは、ドアの前で怒鳴った。

 錬弥はナムを無視して、ケラケラ笑い声を立て雑誌を読んでいる。

 ムッカーッ。あたしは、錬弥の部屋に吊るしてあるサンドバッグを、思いっ切りぶっ叩いた。

 ジ~~ン……。溢れる涙をじっと堪えた。

「奥様から聞いたんだけど、錬弥って、空手辞めたんだって?」

 錬弥は、相変わらずあたしを無視して雑誌を読んでいる。

「どうなのよ」

 あたしは、ダン、と床を踏みつけた。

「だから? ……この漫画、超おもしれー。ハハッ」

 錬弥は、雑誌から目を放さない。チラッともナムを見ない。

「だからって……。どうして辞めたよ? 錬弥、もう何年も通ってて、結構強いって聞いたけど?」

「それが何?」

 錬弥は面倒臭そうに言うと、ゴロリと身体を返して、ナムに背を向けた。

 それは些細な事だった。錬弥は先生に酷く叱られ、気に食わなくて道場を飛び出した。

 13歳の少年に、啖呵を切って飛び出した道場へ戻る理由は作れなかった。ナムが藤代家ここに来て、直ぐの事だった。

 それから錬弥は、毎日悶々とした時間を過ごした。時間と闘争心を持て余し、苛立ち、朝方まで繁華街をぶらぶらした。

 未だ邪気あどけ無さが残る錬弥が一人でいると、よくナンパや恐喝に遭う。錬弥を子供と舐めて掛かったチンピラは、錬弥の餌食だった。錬弥は、売られた喧嘩は必ず買った。酔っ払いのサラリーマンをボコッた事もある。刃物も鉄パイプも、錬弥には怖くなかった。

 酒にタバコに万引きバイク。年齢を偽って、出会い系サイトにアクセスしたこともある。自分から女を呼び出しておいて、会う気になれずにすっぽかした。

 錬弥は、何をやっても楽しくなかった。バカなヤンキーとの夜遊びも、そろそろ飽きて来た。

 薬でもやろっかな。医大学長の父親の顔が浮かんだ。

「別に……」

 家でナムをからかっている方が、よっぽど面白い。そう思って錬弥はフッと笑った。


「頼も――――う!」

 あたしは錬弥が通っていた空手道場の前で、応援団長の様に立って大声を出した。派手なバスケ部ジャージで。

 だが今時、時代劇でもそんな事を言う奴はいない。道着を来た子供練習生達が、ナムをじろじろ見ながら道場に入って行く。

 道場の子供達の元気な声が、外まで響いている。あたしはその声に負けない様に、背中を反らせて、再度大声を張り上げた。

「頼も――――う!」

 ……無反応。通行人にジロジロ見られ、近所の家の窓から怪しい目で見られ……。

「えっと、ごめんくださ~~い」

 あたしは小さくなって、道場の門を潜った。稽古場での子供達は、ふざけて絡み合い、大声を上げて遊んでいた。

「すみませーん」

 あたしは、稽古場隣の事務所っぽい部屋に向かって、再度声を掛けた。

「はい、なんでしょうか」

 事務のお姉さんが、席を立って応対してくれた。

「あの、突然すいません。えっと、錬弥、藤代錬弥さんって、最近迄、ここに通ってたって聞いて来たんですけど」

「失礼ですが、どちら様ですか」

 ニッコリ笑って職質された。最近ではどこも、個人情報の保守義務が徹底されている。

「はい、大木奈夢といいます。錬弥さんとは……友人です。ストーカーなんかじゃありません」

 事務員は、真剣に答えるナムに、プッと噴き出した。

「錬弥さんは、3歳の頃からここに通ってました。運動神経も良くて思い切りもあって、全国大会でもいつも上位入賞でしたよ。でも二ヶ月前に突然辞めてしまって―。皆に期待されて、あれだけの実力もあるのに、勿体無いですね」

 彼女は、本当に残念そうに言った。

「あの、錬弥、さんが辞めちゃった理由って、分かりますか?」

 あたしは、小さな声で遠慮がちに訊いた。

「ごめんなさい。それは分かりません。なんなら、直接先生に訊いてみては如何いかがですか? 先生なら、何か知っているかもしれませんよ」

「あたしなんかが、そんな事訊いちゃってもいいんですか?」

「どうぞ」

 お姉さんは、にっこり微笑んでくれた。

「ありがとうございます。ではそうさせて頂きます。それで、先生は?」

 あたしは、辺りを見回した。

「今、練習中です。全てのクラスが終わるのを待つつもりでしたら……。今日は十時を過ぎますけど?」

「分かりました。簡単に済む話じゃないと思うので、終る迄待ってます。それまであたし、練習生達の稽古、見学しててもいいですか?」

「構いません。でもずっと待っているんですか? 一旦帰られては?」

 ハッとした。今は午後五時。大奥様に言い付けられた仕事が……。イヤ待て。今日は日曜日だっけ。問題ないじゃん。日曜日は、あたしの休日だ。あたしはニッコリ笑った。

「迷惑ですか?」

「いいえ、そんな事ありません。あなたが良かったら、どうぞ気が済むまで見ていて下さい」

 そう言う彼女の笑顔は、半分呆れている。あたし、暇人だと思われたかな。実はそんなに暇じゃないんだけど。

 そんな事を思いながら、練習生が稽古をしている道場の片隅で、あたしは正座をして黙って子供達を見ていた。

 小学校低学年の可愛い子供達の、元気な掛け声が響く。ただ見ているだけのあたしにも、気合が入った。しかも皆、黙ってちゃんと正座している。エアコンも無い蒸し暑い道場に、文句も言わず、小さい子供達は稽古にいそしんでいた。

 あたしは、道場の壁の時計を見上げた。よく考えたら今は五時だから、十時迄って言うと……。しまったぁ! 五時間正座は、かなりキツイ!

 お姉さんに“待っています”と言い張った手前、今更“帰る”とも言い出せない。せめて正座はやめときゃよかった。

 一稽古は五十分。休憩十分だった。その十分の間で、あたしは足を崩し、足を引っ張ったり歩き回ったりして、なんとか痺れを治した。

 三時間も経つと、あたしの脚の痺れは限界を通り越して、座布団に座っている感覚に陥った。あたし、悟り開けたかも。

 稽古もクラスが上がっていくと、あたしは隅っこでこっそり足を崩して居られなくなる。ちらりとあたしを見る練習生の視線も怖い。白い道着姿の練習生の中で、真っ赤なジャージのあたしは、かなり目立っていた。

 やっと十時になった。今日最後のクラスが終わり、練習生達は更衣室へ入って行った。

 終わったぁ! あたしはほっとした。誰もいなくなった道場で、早速足を崩した。

 じゃぁ帰ろ。あたしは、感覚の無い脚を擦った。

「練習、見学してみてどうでしたか?」

 あたしは声を掛けられて振り返った。先生だ。

 そうだ、あたしは先生に訊きたい事があったんだ。あたしはやっと開放された両足を、再び畳み込んだ。

 先生は、あたしの前できちんと正座した。うううう、あたしの脚がぁ……。あたしは潔く、脚の好きにさせる事にした。あたしの脚よ、好きなだけ痺れてくれ!

「練習ですか? はい。見ているだけでしたが、気持ちいいです。元気な声に気合が入るって言うか、皆真剣で空気がピンとしてるっていうか。あたしはただ傍にいるだけなのに、皆から元気をもらった気がします」

 それは本当だった。

「それは良かった。それで、あなたは錬弥君と友達なんだって?」

「はい。友達と言うよりは、親戚のお姉さんとか、近所のおばちゃんとか、そんな感じです。

 それで友人としては、最近の錬弥―、錬弥君が心配なんです。荒れてて、喧嘩ばっかりしているんです。お酒とかタバコとかも……。もう心配で。

 どうしてここを辞めたのか、ご存知でしたら教えて頂けませんか。知ったからといって、彼の役に立てるかどうかなんて、分かりませんけど」

「あなたは彼に、又空手を始めてもらいたいのですか?」

「はい、出来れば。錬弥君、口では言わないけど、本当はここに戻って来たいんです。自分を持て余してイライラしてるって、傍で見てて分かります。やること無くて、はけ口探してる、みたいな。

 だから、毎日毎晩繁華街をウロ付いて、喧嘩ばっかり。このまんまじゃ可愛そう。本人も周りも。

 錬弥君がここに戻れば、また目標が見つかるんじゃないかって思うんです。生活も、元に戻るんじゃないかって……。って、私がそう思いたいだけなのかも、知れませんけど」

 あたしの声は、段々小さくなった。

「私も練習生もスタッフも、皆錬弥君がここに戻ってくるのを待っていますよ。彼を目標にしている子も、彼をライバルだと思っている子も沢山います。この道場にとって、彼の存在は大きかったんです。

 でも彼自身でここに戻らなければ、意味がない。彼は自ら壁を作ってしまったのだから、それを自分で壊すなり乗り越えるなりしなくては、彼の成長は望めません」

 そうだよね。あたしが今やっている事って、もしかしたら、すごーく、大きなお世話だったのかも。だけど―。

「あの、それでどうして錬弥君がここを辞める事になったのか、先生は何かご存知ですか?」

「多分……。私が錬弥君に期待を掛ける余り、彼にはちょっと厳し過ぎたんだと思います。錬弥君もまだ13歳ですから、他の子より厳しくされると、私に嫌われている、と思ったのではないでしょうか」

 そうか。そうだよね。なんだかんだ言ったって、錬弥はまだ中坊の子供なんだよ。あたしよりチビだし顔も幼いし声も可愛いし。でもちょっと、大人っぽいところもある、かも? 錬弥の何気ない仕草に、あたしは見惚れた事を思い出した。

「嫌気が差した直接の原因は、練習試合だと思います。私が錬弥君に、厳しいジャッジを付けたから」

「でも先生。それは後々の事を考えてとか、大きな大会とかを考えての事なんですよね? 厳しい判定にも対応出来る様に、不服があっても我慢する様に、とか」

「そうですね。でも彼には不満だった。その直後、彼は突然辞める、って言い、道場を飛び出してしまったんです」

 なーんだ、単純な奴。でも錬弥は未だ13歳だ。一度言い出したら引っ込み着かないんだろな。男に二言は無い、とか言って。

「先生、教えて下さってありがとうございました。きっと錬弥君も、ここに戻りたいと強く思っています。多分、ううん絶対。

 今は、その気持ちを紛らわしたいから悪い事する、みたいな状態だと思いますから」

「そうだね、静弥君も心配してましたよ」

 先生から意外な名前が上がって、あたしはキョトンと先生の顔を眺めた。

「静弥さん?」

「そう静弥君。あれ、錬弥君から聞いてない? 静弥君は、高校を卒業する迄ここに通っていましたからね。今でも、たまに遊びに来ますよ」

 えー? 静弥さんって空手習ってたんだ。超以外!

「そうなんだ……。それで静弥さんも、強かったんですか?」

「彼は、辞めた当時二段で、錬弥は今初段。藤代兄弟は有名でしたよ。地方大会では敵無しで、ジュニアのクラスは勿論、大人のクラスでも空手会ではその名を知らない者はいない程でした」

 うっそー。静弥さんが錬弥より強いなんて、信じられない。

 あたしの頭の中では、静弥がナヨナヨと優しく型を決めている。その掛け声は、甘ったるく艶めかしい。倒れた相手を優しく介抱し、声を掛ける。“大丈夫?”ニコっ…………。粟っとした。

 いや、それより静弥さん、格好良過ぎる! ピアノ弾けて、医大生で、空手二段で、お坊ちゃまで……。世の中絶対不公平だ! 理不尽な理由で、あたしのはらわたは煮え繰り返った。

 あたしは改めて姿勢を正し、先生の前で両手を付いた。

「錬弥君はここへ戻って来ます。必ず帰って来ます。断言します! だからこれからも、錬弥君をよろしくご指導お願いします! 遠慮せずに、びしばし扱いて下さい。あの根性、叩き直して下さいっ! あたし何でも協力しますから!」

 あたしの拳に、力が入った。先生は笑って頷いた。

「皆、いつでも錬弥君を待っていると、伝えて下さい」

 先生はさっと立ち上がった。あたしもさっと立とうと……足が出ずに、身体だけ達磨の様に前に転がった。

 うっ……。動けない。息出来ない。情けない。

「大丈夫?」

「……は、い。脚が痺れた、だけ、ですから。足が痺れて、死んだ人は、いない、ですよね? しばらく、ここに、いても、いいですか?」

 息も絶え絶えのあたしは、先生に顔も上げられず、エビのように丸まって倒れたままでお願いした。

「いいですよ。脚が治る迄ここに居て下さい」

 先生は、ニッコリ笑って事務室へ入って行った。

 真っ赤なジャージを着たナムの為に、暫らく道場に灯りが点いていた。

 広い道場の隅っこでたった一人、電気を無駄にして、動けなくて丸くなっているあたしって……。

「情けないぞ! あたしの足!」

 バシッ。足を思い切り叩いて、喝を入れた。……全身硬直した。


 あたしが、道場から屋敷に戻った時には、錬弥はまだ起きていた。

 よーし。あたしは自分の勉強道具を持って、錬弥の部屋に向かった。

「錬弥、今日ここで勉強させて」

 あたしは勝手に、錬弥の机の上にテキストとノートを広げた。

 ベッドに寝転がっていた錬弥が、上体を起こした。

「別にいいけど。なんで俺の部屋なんだ?」

「監視! じゃなくて、ここ涼しいから。あたしんとこ、扇風機しかないもん。机は炬燵だし」

「エアコン、無いんかよ」

「うん」

 錬弥は溜め息を吐いて、又寝転がってCDを聴き続けた。

 それは、あたしによる、錬弥夜更かし作戦だった。明日、あたしが夏期講習から戻って来るまでは、錬弥には寝ていて欲しかった。どこかへ出掛けて欲しくなかった。錬弥は出かけたら、きっと10時頃まで屋敷に帰ってこない。夜、錬弥を道場へ連れて行く為には、どうしても家に居てもらいたかった。

 錬弥がウトウトと眠りそうになると、あたしは無理矢理話し掛けた。多分錬弥は、あたしの話なんかまともに聞いてない。だから中学生じゃ習わない問題も、いい加減に質問した。

「ねぇ錬弥、多分解らないと思うんだけど、二次方程式の公式って、何だったっけ。y=……」

「2時? 1時の次だろ」

「そっか、錬弥ってあったまいっ! サンキュ」

 あたしの笑顔が引きつった。

「ねぇ錬弥、鳴くよウグイスって何だっけ?」

「ホーホケキョ」

「……ありがと」

 なんだかんだ言っても、あたしは結局、錬弥よりも先に机の上で寝てしまった。テキストに涎を垂らしながら。

 頼むから、それ以上俺の机に涎垂らさないでくれ! 錬弥は再び、ナムをベッドに運ぶ羽目になった。

 大口を開けて、ニヤニヤと幸せそうに笑って爆睡しているナム。

 夜逃げまでしなければならい程の、女子高生のナムが抱える懸案は、錬弥には分からない。だが、錬弥の目の前で無防備に眠っているナムに、深刻な悩みが有る様には見えなかった。

 めでたい奴。俺の事なんか放っとけよ。錬弥は、何か悪巧みを企んでいるナムの鼻を、ギュッと抓んだ。

後編に続きます。

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