涼弥編(後編)
涼弥とナムのエピソード編の後編です。
「おはよう! ナム」
「おはよう沙紀ちゃん!」
登校途中、あたしは親友でクラスメイトの沙紀に、後ろからポンと肩を叩かれた。
「ナム、藤代家での生活はどう? もうすっかり慣れた?」
「うん、ご心配ありがと。まぁまぁ、かな? 住人は変な奴ばっかだけど、奥さんと旦那さんは、すっごくいい人なんだ」
「ふーん、良かったじゃん?」
沙紀はナムにニッコリ笑った。
あたしが沙紀に、藤代家での住込みの話をした時、実は家出じゃなくて夜逃げだったと説明したら、やっぱり爆笑された。
世間的には、夜逃げ・倒産なんてかなり深刻な話の筈なのに、沙紀には“ナムん家らしい”と一笑された。でも、あたしもそう思う。それになぜか、本人にも全然悲愴感が無い。
学校には、住み込みの事は内緒にしてもらった。後数ヶ月、あたしは心配されるのも、詮索されるのも嫌だった。友達にも、先生にも、大好きな山本君にも。
「ナム、リリィの今月号読ませろって言わないね? 発売日昨日だったのに」
そう言えば、あたしの愛読月刊少女雑誌“リリィ”の今月号は、発売日を過ぎていた。あたしは毎月“ルビーの瞳”の掲載雑誌、リリィの発売日を楽しみにしていた。沙紀が買うのを。
「うん、もう読んだから」
即答してあたしはハっとした。涼弥の所には、発売前に新刊が届く。
「だと思った。毎月待ち切れずに、あたしが読む前に奪って持って行くもんね。ナム、ルビーの瞳、命だから」
「う、うん。屋敷の住人でさ、たまたまリリィ持ってた子がいて。しょ、小学生の男の子なんだけど、読ませてもらった」
あたしは、とっさに雪弥を思い浮かべた。
大体、あたしが文月りょうのアシスタントしてるんだから“ルビーの瞳”は使っているペンのサイズからトーンの番号迄知っている。
「ふーん」
沙紀はちょっと面白くない。沙紀は“ルビーの瞳”を読んでいる時の、ナムの大袈裟なリアクションを横で観察するのが楽しみだった。泣いたり怒ったり笑ったり文句言ったり……。
「おは、ナム! ねぇねぇ今月の“ルビーの瞳”読んだ? 新キャラ登場だよね? あの、ムーナってちび魔女、超可愛くない?」
教室に入るなり、あたしと同類の“ルビーの瞳”崇拝者のクラスメイトが、瞳を輝かせて飛んで来た。
「ムーナ?」
どこがカワイイんだよ。あたしは、笑顔になれずに眉を顰めた。
「うん、ムーナ。
ムーナってさ、どことなくキャラがナムに似てなくない? 名前もムーナだし」
多分それは当たりだ。きっと涼弥は“ナム”を文字って“ムーナ”って付けたんだ。あたしがしつこく訊いても、惚けてたけど。
「だってさ、ムーナが石段を踏み外してずるずる落っこちるとこなんか、ナムそっくりじゃん?」
何気に笑う友達に、それあたしの事だよ、と心の中で突っ込んだ。
「そ、そうかもね」
あたしは、ははは、と空笑いした。
「ね、ナム。文月りょうってどんな女性なんだろ。謎の漫画家なんだよね。超神秘的! こんな乙女な漫画描く人だから、きっと気品溢れた優しい人だよね?」
「どこが? 性格は最低最悪の超オタクA型男」
あたしは、彼女からギロッとキツク睨まれた。あたしは慌てて否定した。
「だ、だったら面白いかなぁ、なんて。サプライズ的に?」
「ナム! 言っていい冗談と悪い冗談があるって!」
「ごめん」
あたしの笑顔が引きつった。
「ねぇ涼弥。ヒロインのレイって名前、どこから思い付いたの? もしかしたら、奥様―、お母さんの“麗子”さんから取ったとか?」
涼弥は、あたしの問いには答えず、黙々と原画を描き続けている。
藤代家の4兄弟は、意外とマザコンだったりする。マザコン、とは違うかもしれないが、母親が理想の女性であることは間違いない。
美人で頭が良くて性格も良くて行動力もあってー、なんて欠点が見当たらない奥様は、女性としても人としても、理想と憧れの存在だ。運動神経も悪くなさそうだし。こんな人が、この世に存在すること事態、奇跡だ。
かなりモテる筈の涼弥が、特定の彼女を作らない(?)のは、出来過ぎた母親のせいだと、あたしは思っている。
あたしは、自分の母親を思い浮かべた。体型も品格も性格も、どこから見ても普通のおばちゃんだ。でも良かった、あたしはお母さんの娘で。奥様みたいな人が母親だったら、それだけで凄いプレッシャーだよ。
「奥様って素敵な方よね? あたしもどこか共通点とかあるかなぁ。頑張れば、少しは奥様に近付けるかな」
「無理、無駄。無意味。有り得ない」
速攻で、涼弥に冷たく言い放たれた。
そんなに、ハッキリキッパリ、サッパリバッサリ、言い切る事ないじゃん。やっぱ“レイ”はお母さんがモデルで、名前もそこから取ったんだと、あたしは確信した。
「あのさ、何度も訊くんだけど。ムーナって、モデルになった人とか、ホントにいないの? 名前とか?」
それってあたしなんじゃない? ベタ塗りする手を休めて、あたしはちらっと涼弥を見た。涼弥は何も言わなかったが、彼の背中の振動具合がナムだと言っている。やっぱね。
「ねぇ、涼弥って、何で少女マンガを描こうって思ったの? オタゲー(オタクゲーム)みたいな、少年漫画の冒険ファンタジーとか、推理サスペンスとか、そっち系を描きそうな雰囲気だけど?」
少年漫画の様な、見事なレイの剣捌きを描きながら、あたしは訊いた。
「まぁな。俺の学校は男子校だから、少女雑誌の話題なんか出る事は無い。元々、漫画雑誌が話題になる事も無い。エリート校の生徒なんて皆、表向きは勉強しか興味の無い奴ばっかだからな。
ま、単純な理由で少女雑誌に応募したまでさ。そしたら偶々入賞して、そのまま連載されたってワケ。連載っていっても、俺はプロじゃないし、描けたら雑誌に載せるってだけで、強制もされてない」
そうなんだ。それで連載が不定期だったのか。毎月楽しみにしてたのに、お休みだったりして、結構がっかりした記憶がある。
「ふーん。じゃぁ学校には、この仕事バレてないんだ」
「当然。副業は禁止だからな。この家でも知ってるのは、兄貴と祖母さんと母さんくらい? 後、お前」
「じゃ涼弥は大学、何学部行くの? やっぱ静弥さんみたく医学部?」
「そんな学部、行く気なんかサラサラ無いね。本当は大学も行きたくない。でも行けって回りがうるさいから、とりあえず行っとけってレベルだ。
俺、ここでITの知識を駆使して、株や先物市場でマネーゲームするつもりだから」
「暗っ! 今以上お金持ちになってどーするよ」
「単なるゲームさ。俺は金儲けに興味はない。漫画だって、金が欲しくてやってるワケじゃねーし」
「それ、極貧のあたしの前でゆー?」
「悪いね」
とか言いながら、涼弥の口調は軽い。涼弥は手を休めて、ナムに振り返った。
「どーでもいいけど、お前、その格好じゃないと、ダメなのか?」
あたしは、騎士バージョンの“レイ”のコスプレ中だった。このところ、涼弥の部屋にある“ルビーの瞳”グッズを、あたしは無許可で使用している。
「だってあたしも製作者だもん。これタダでくれるんでしょ? だったらあたしにも使う権利あるし」
「別に悪いとは言ってないだろ。てか、それナムの作業着か?」
あたしは得意気にすっと立ち上がり、ペンを剣に持ち替えた。剣をバサッと振り下ろしてマントを翻し、くるりと立ち回ってすっかりレイに成り切っている。涼弥の話は聞いちゃいない。
「ナム、学校でネタ、ばらしてないよな?」
「もっちろん! 友達の反応見るの、楽しいもん」
チビ魔女ムーナの活躍は、クラスメイトに大ウケだ。でもあたしが期待してるのは、そのリアクションじゃない。
1学期が終わり、全国大学模試が今週末にある。
涼弥も受けるのかな? あたしも受験生だ。受験勉強に勤しんだ。
高三の夏休み。世間の受験生はこぞって予備校に行く。でもあたしは行かない。もとい、行けない。資金難で。だから大量の問題集と、英語のヒアリングCDを買って来て、4畳半のあたしの部屋で勉強していた。学校には、夏休みの補講に通った。
涼弥の高校は、夏休みは8月かららしい。しかも夏休み中も、補習や講習やらで登校するらしい。家に帰って来てもすぐ予備校へ出掛けてしまうから、涼弥の夏休みは、普通に学校がある日と変わらなかった。
あたしは最近、文月りょうのアシスタントが楽しくて仕方ない。涼弥の迷惑も考えず、遅くまで彼の部屋で仕事をした。自分の部屋に戻ってから、補講分の勉強。翌日は朝5時起き。この所、あたしの平均睡眠時間は3時間だった。
ここへ来て、さすがのあたしも疲れが溜まって来た。ぼーっとして包丁で指を切ったり、学校で居眠りしたり……。
涼弥も疲れている様だった。いくら勉強が出来る涼弥の頭でも、受験勉強はそれなりに必要で、大変なことには変わりない。ゲームの仕事はお休みしているとはいえ、アイデアが浮かんで来るのか、連載マンガの方は結構なスピードで描き上げている。
いつも目の下にクマを作っている2人だったが、実は受験勉強とは関係なかったりした。
ナムの、アシスタントとしての能力は、まぁまぁだった。涼弥もある程度描けたら、後はナムに任せていた。
従って、元絵を描くより涼弥より、ナムの仕上げ作業の方が倍以上の時間が掛かった。しかもA型の涼弥は細かい所までチェックし、何度もナムにやり直しをさせる。
それでもあたしは持ち前の江戸っ子根性で、涼弥の描くスピードに遅れを取らない様にと、かなり頑張った。涼弥がパソコンを弄っている時も、涼弥が勉強している時も寝ている時も、あたしはひたすら描いていた。眠気に耐え切れず、作業机で居眠りしたまま涼弥の部屋で朝になる事もある。
文句も言わずにひたすら頑張っている姿や、机に伏せて眠ってしまった無防備な寝顔。このシチュエーションは、構成上よくある好意を抱くパターンなのだが、体育会系の殺気だったナムの頑張りや、にやけたまま“ギルさまぁ~”と寝言を言い、よだれを垂らして机に寝ている彼女に、涼弥には全くその気が起きない。ある意味、ここまで異性を感じさせないナムに、涼弥は感心した。
涼弥の部屋の作業机には、高さ30センチのしょぼいミニ七夕飾りがまだ刺さっている。7月7日の涼弥の誕生日に、ナムがプレゼントしようとした彼女の手作りの笹飾りだ。
「いらん」
誕生日当日、あたしはおめでとうも言わない内に、涼弥から拒絶された。気にしないあたしは、無理矢理机に笹飾りを刺した。
“文月りょうのサインが欲しい”“ギル様等身大抱き枕が欲しい”“ティンカーベルの限定パフェが食べたい”
何だ? この短冊……。涼弥が、ふと手にした七夕飾りのナムの書いた短冊を見て、顔を顰めた。
小さな笹に、びっしりとついている短冊を見て、ナムの物欲に呆れた。
“文月りょうが、今よりもっと凄い漫画家に成ります様に。涼弥が、過労で倒れません様に。涼弥の行きたい大学へ、合格出来ます様に”
涼弥は、笹の中に隠す様に、控え目に飾ってあるその短冊を見付けて、思わず噴き出した。
先月の、全国統一模試の結果が出た。あたしはC判定だった。涼弥はどんな難関大学、難関学部でも、全てA判定らしい。
「涼弥は何を目指して大学行くの? ゲームクリエーターや漫画家にはならないんでしょ?」
あたしはC判定の自分の結果表を前に、原稿の仕上げ作業をする気にもなれず、机に顎を掛けてぶらんと両腕を下げ、ダレていた。
「それは趣味」
「ふーん。こんなに人気があるのに、趣味だなんて勿体無いね。あたしに、涼弥の才能分けてもらいたいわー」
「これは趣味だから続けられんだよ。プロは思った以上に厳しいらしいからな」
「そんなもんかねー?」
凡才のあたしには理解不能。あたしはダレたまま、首だけ捻って涼弥をじーっと見た。
「な、なんだよ」
普段から涼弥は、女子学生の鬱陶しい眼差しに見詰められる事には慣れているが、ナムの眼差しは彼女達とは全く違い、何故かぞっとする。
「ねぇ涼弥のその眼鏡って、ダテ? あたしには、度が入ってるようには見えないけど?」
「眼鏡か? 悪かったな近視で。俺、視力はそれ程悪かないけど、離れた場所の掲示板なんかの、細かい文字がよく見えないってのが、嫌なんだ」
「如何わしい案内とか、電柱の怪しい電話番号とか?」
あたしは、線路沿いや風俗街の派手な看板を思い浮かべた。
「俺が知りたいのは、図書館の高い棚にある本のタイトルだ!」
「ふーん」
別に剥きになる事ないじゃん。身体だけは丈夫で、どこも悪くない健康優良児のあたしには“見えない”って不便がよく解らない。
「ナムは入院した事とか、有るのか?」
「生まれた時しかないし、覚えてない」
「覚えてる方が怖いわ。ナムは見るからに健康優良児だもんな。何食っても食中毒には罹りそうもないし」
「悪かったね。こうみえても、水疱瘡にも、インフルエンザにも罹った事あるし。まぁ、虫歯は無いけど。
でも怪我はめっちゃ多い。打撲とか捻挫とか、突き指はしょっちゅうだし。ホントは、前歯もバスケで肘鉄食らって折っちゃって、差し歯なんだ」
女の子にしては太過ぎるナムの指、異様に白い前歯、やたらと転ける日頃のおバカぶり。涼弥は納得した。
「この家で目が悪いのって、涼弥だけ? 他の兄弟は皆目がいいの? あ、確か旦那様も眼鏡だっけ。でもあれって老眼?」
「いいや、親父は昔っから掛けてる。それと兄貴も近視。普段はコンタクトだけど」
「静弥さんが? 眼鏡してたっけ」
静弥が眼鏡を掛けている記憶は、あたしにはない。あたしは首を捻った。
「錬弥と雪弥は、眼鏡じゃない。あいつ等、まだ視力落ちる年じゃないしな。成長期だし」
「成長って? 目玉も成長するの? 生まれた時から変わらないって、思ってた」
「少しね。でも、それで視力が落ちるんじゃなくて、生活習慣が殆どだけど」
「解った! ヤらしい本とかサイトとか、夜中にこっそり見るからでしょ。暗いとこで見てるから……。
そう言えば、この部屋にも確かあったよね? エッチ本」
あたしは、意地悪くニヤリと笑って涼弥を見た。
「ばか! 家捜しするな。男は皆持ってるもんだ。それに、そんなんで目が悪くなるかよ。見るときゃ、堂々と見る」
「偉そうに言うなって。じゃぁ何、なんで目、悪くなるん?」
「睡眠時間削って、勉強とかパソコンとか読書とか……」
「やっぱ見てんじゃん」
「違う!」
涼弥は、頭が痛くなった。涼弥はそれ以上ナムに突っ込まれたくなくて、話題を変えた。
「そーいや、新しいプリンタが来たんだ。そこにある通販で買った奴」
涼弥は、テーブルの下に置いてある箱に目をやった。
「ナム、プリンタって、知ってる?」
「失礼な。学校でパソコン学習、あるから」
「んじゃ、インストールくらいは出来るよな? 繋げてくれる?」
「え? インストール? ……。って自転車の組み立てよか、簡単だよね?」
「猿でも出来る」
「分かった。まかせとき」
あたしはプリンタの箱を開けて取り出し、涼弥が言う、ネットワークとやらに接続した。あたしは、パソコン机にあるPCを立ち上げて、プリンタの接続を確認する、らしい。
「涼弥、繋げたよ。PCも立ち上げた」
「じゃ、プリンタインストールして。プリンタの箱にドライバあるだろ」
「ドライバー?」
あたしはプリンタの箱の中を探した。ドライバーらしき工具は入っていないし、プリンタのコネクタ自体、ネジ式じゃない。大体、プリンタやPCに工具なんか付いてくるんだろうか。あたしは不思議に思った。
「入ってないよ。あたしのでよければ持って来るけど。マイナスドライバーでい?」
「マイナスドライバーで何すんだよ! ってか、何で女子高生がドライバー持ってんだよ!
ドライバって、プリンタドライバ! CDだ!」
「CDがドライバー?」
CDをマイナスドライバー代わりにでもするんだろうか。あたしには、涼弥の言葉が理解出来ない。
「でもさ、ドライバ必要なネジとかないんですけど」
「いいから、パソコンにそのCD入れろ! AutoRunだ。勝手に走り出す」
「CDって走るの?」
「さっさと入れろ!」
あたしは首を傾げながら、パソコンにCDを入れた。
「マウスを(画面の)上に上げて、メニューを押せ」
涼弥は、原稿に向かってペンを走らせながら、ナムにインストールの指示をした。
あたしは不思議に思いながら、ワイヤレスマウスを握って、上(宙)に持ち上げた。
「ねぇ涼弥、これどうやって押すの? どんなに上(宙)に上げても、パソコンの画面のマウス、じっとしてて動かないんだけど」
あたしはワイヤレスマウスを、腕を伸ばして目いっぱい上に持ち上げた。ナムに振り返った涼弥の手が、ワナワナと震えている。
「貸せ!」
涼弥はナムからマウスを奪って、パソコンの操作をし始めた。
「オートランでインストールすっから。メッセージがでたら“OK”を押せ」
「わかった」
涼弥が何に怒っているのか、あたしにはさっぱり分からない。涼弥の日本語は分かるが、どうもオタクの言う事は理解に苦しむ。
あたしはPCのモニタを眺めながら、思わず小声で歌を歌った。
「ヤ――ッ、ホ――、オートランランラン……」
グサッ。涼弥が握り締めていたペンの先が、原稿に突き刺さっていた。
涼弥は、気を取り直してナムに訊いた。
「それで、ナムは何学部受験するんだ?」
ワイヤレスマウスを、引っ繰り返したり転がしたりしていたあたしは、涼弥に向き直って目を輝かせ、即答した。
「教育学部! あたし、特別養護学校の先生目指してるんだ!」
「小中学校の先生じゃなくてか?」
「うん、養護教諭。必要なら、看護師の資格も取るつもり。
あたし、障害持ってても頑張ってる子の手助けをしたいんだ。だってさ、健常者より障害持っている子の方が、よっぽど素直でいい子ばっかなんだよ。皆、頑張り屋だし。苛めとか虐待とか不登校とかそんなの無いし。
健全な肉体に健全な魂が宿るってのは、希望的観測であって、現実じゃないよ。非健全な体のあの子達の方が、よっぽど健全な魂持ってる。
まぁ、健常者だった子が突然事故かなんかにあって、一生車椅子生活になっちゃったりすると、殻に閉じ篭もる子もいるけど。
でもね、そんな子は学校の皆で、支えてあげてるんだ。同じクラスの子も先輩も、自分の事みたく、その子に一生懸命なんだ。
自分達は社会に出ると弱い立場になっちゃうから、支え合わないと大変だって、小さい子でもなんとなく解ってるんだよね。だからたった1人の子にも、皆どんどん手を貸してあげる。
あたしも、そんな風に皆に手を貸してあげられたらいいなーって思う。生きる勇気を与えるー、なんてそんな事出来やしないけど、ちょっとでも役に立ちたいなぁってね。
あたしん家、小さな部品工場だったんだけど、たまーに車椅子とかも直したりしたんだ。あたし自ら部品作ったり調整したりして。だから、障害者とも多少付き合いがあるんだ。
あたし、こう見えてもいっぱしの職人なんだから。自転車の組み立てなんて、超簡単。その辺の工校生なんか目じゃないし。マイドライバーとマイスパナは、あたしの常備品だし」
「マイドライバー……」
「うん。それでね、ちっちゃな車椅子も直した事あるんだ。遊びたい盛りの小さな子が、あたしの調整した車椅子で頑張ってるの見て、すっごく感動した。もっと何かしてあげたいって思った。
その子には“頑張ってる”って意識は、全然無いんだけどね」
きらきらした目で話すナムは、まるで青春ドラマだ。涼弥にとっては、かなり熱苦しい。
「そうだ! 涼弥、明日あたしと一緒に養護学校行かない? 夏休みでも、皆学校来てるから」
C判定に死んでたナムの目は、キラキラと生き返った。
「明日は無理。俺、まだ学校あるし」
「そっか。涼弥ん学校夏休みって8月からだっけ」
「8月に入っても補講がある。俺受験生」
「あたしも受験生! でも1日位サボっちゃいなよ。夏休みなんだからさ。息抜き、息抜き!
そうだ。早速、養護学校の先生に訊いてみよ。いつなら涼弥連れて行ってもいいかって」
C判定は、あたしの中から消失した。あたしはルンルン気分で、床一面のケーブルを踏まないように器用にスキップしながら、涼弥の部屋を出た。
「じゃ涼弥、お互い勉強頑張ろうねー!」
あたしは帰り際、ドアからひょこっと顔を出して、小さく涼弥に手を振った。
ナムの奴、一体何しに来たんだ? C判定の模試の結果と、ナムのやりかけた原稿とインストール途中のPCは、そのまま机に放置されている。ナムの行動は、いつまで経っても涼弥には理解出来そうもない。
その日のあたしは、朝から熱っぽかった。今までも微熱くらいは結構出たし、出ても熱は直ぐ下がったから、あたしは別に気にも留めなかった。
朝5時、あたしは重怠い身体に気合を入れた。寝たのは3時。でも眠気より、怠さの方が大きかった。
台所へ行くと、既に大奥様は御起床済みだ。いつもの様に彼女の脳天から、甲高い声が響く。
「ナムさん、もっとシャキッとして下さい」
ライオンの鬣の様な雄々しいあたしのヘアスタイルに、大奥様は毎朝溜息を吐く。別にいいじゃんと思いながらも、あたしは中学の給食当番で使っていた名前付き三角巾を被って、髪の跳ねを押さえた。2時間後、ライオンの鬣は見事な海坊主ヘアに変わる。
にしても、その日はいつも以上にあたしの身体が重くて、調子が出ない。尤も夏休みに入ってあたしの平均睡眠は3時間だったし、涼弥の部屋で寝てしまう事も多かった。
「そんなに遅くまで、涼弥さんの部屋で何してるの?」
怠そうにしてるのを見られて、あたしは大奥様に嫌味を言われた。
「べっ、勉強ですよ、勿論。あたし達、受験生ですから」
あたしは首と手を振り、焦って答えた。
もしかして大奥様、あたし達の仲を疑ってる? 曲がりなりにもあたしは女で、涼弥は男だ。でも涼弥が漫画を描いてる事、大奥様は知ってる筈だ。当然、あたしが涼弥のアシをしてる事も。
あたしは、ちらっと大奥様を見た。いつもと同じ、しかめっ面にしか見えない。あたしには、大奥様のびみょーな表情は読めない。
「涼弥さんに限って、間違いなど有ろう筈ありませんが」
その通りです。涼弥にとって、あたしは女じゃありませんから。意識されても困るし。
「ナムさん。くれぐれも、涼弥さんの勉強の邪魔だけはしないように」
分かってるって。
あたしの学校の夏休み補講は、午前中にある。その日もあたしは学校から帰ると、涼弥が学校から戻るまで、自分の部屋で夏休みの補講の予習復習をした。でも大抵、雪弥があたしの部屋に邪魔しに来る。扇風機しかない蒸し暑い和室に、態々来なくてもいいと思うんだけど。
雪弥も夏休みだった。仕事やレッスン、塾が無い日は、勝手にナムの部屋に入り込み、あたしの受験勉強の邪魔をする。
「超人気アイドル子役の雪弥様が、一般庶民のナムとゲーム一緒にやってやるぜ」
「いい」
「新曲作ったんだ。特別にナムに聞かせてやる」
「興味ない」
「“お母さん、おやつ頂戴……”、おいナム、台詞合わせ、手伝え」
「あたしは今勉強中なのっっ!」
その日もあたしは、散々雪弥に邪魔されて、全く勉強が進まない。無駄に体力だけを使った。雪弥の奴っ!
今日は一段と蒸し暑くて怠い。こんな日は、かき氷でも食べてお腹出して昼寝したい。そう思いながらも、あたしはいつも通りの家事を、ぼーっとしながら熟した。掃除に洗濯に太郎の世話……。
「ただいま」
涼弥が戻って来た! あたしはその声に、それまでの倦怠感が吹き飛んで、ぱっと目が輝いた。
あたしはさっさと家事を切り上げて、すぐに涼弥の部屋へ飛んで行った。
「涼弥!」
あたしはノックもせずに、いきなり涼弥の部屋に入り込み、勝手に自分の作業椅子に座った。涼弥が着替え中でも何でも、あたしは全く気にせず、昨晩の仕事の続きに取り掛かかった。涼弥も、ナムを気にする様子はなく、堂々と着替えをする。
文月りょうのアシスタント。それは、大好きなミッキーマウスもチョコパフェも霞んでしまう、今のあたしの1番だった。どんなに体がしんどくても関係無い。微熱も下がる。しかもアルバイト料もくれるし、一石二鳥、いや三鳥だ。
作業机に座った途端、あたしは別人に変わる。あたしは“ルビーの瞳”の呪いに掛かっていた。
さすがのあたしも、夜中の12時も回れば疲れが出る。早朝から仕事をして、学校での補講。学校から帰ってから、雪弥を相手にしながら勉強。夕方からは、又家事仕事。
そう言えばあたし、今日は朝から1日中暑くて怠かった。夕方、太郎の散歩から帰ってからは、頭もぼーっとして暫らく動けなかったし。気持ち悪くて、水も飲めなかったし……。
うっ、何か気持ち悪。今自分で引いた原稿の線が、何本も重なって見えた。
何? 目が霞み、意識が朦朧としてきた。涼弥が何か言っている。瞼が重い。
涼弥、何? そう思っている内に、あたしの意識は無くなった。
「ナム、何寝てるんだよ?」
涼弥が、机に突っ伏しているナムに声を掛けた。返事が無い。
「ここで寝るな。原稿に涎垂らすな。おい」
涼弥が叫んでも怒鳴っても度突いても、ナムは机に伏せたままで、起きる気配がない。何度も度突いている内に、ナムは椅子からずり落ちて床に転がった。
“なーんちって”とか言って、ナムが白々しく起きる事もあったので、涼弥はナムの横にしゃがみ込み、暫くナムの様子をじーっと見ていた。
…………。
珍しく、3分たってもナムはぴくりとも動かない。涼弥は定規の先で、ナムの腕を突付いてみた。……無反応。
「おい、いい加減起きろよ」
涼弥は、床に寝ているナムの肩を、呆れ顔で揺すった。
涼弥が掴んだナムの身体が、異様に熱かった。涼弥は驚いてナムを抱き起こし、ナムの額に触れた。
熱い。良く見ると顔も真っ赤だ。涼弥は慌てた。日頃何をしても死にそうにないナムが、熱を出すなんて!
涼弥は何をしたらいいか分からずに、辺りをキョロキョロした。
「そうだ、確か今日兄貴居たよな。未だ起きてるだろ」
涼弥はナムを抱き上げ、ドン、と部屋のドアを蹴って開けて飛び出した。同じ階の静弥の部屋のドアを、ドンドン蹴った。
「夜中に誰だよ。うるさいなぁ」
不機嫌そうな静弥の声と共に、静弥の部屋のドアが開いた。静弥は、ナムを抱きかかえ廊下に突っ立っている涼弥を見てびっくりした。
「ナムちゃん? どうかした?」
涼弥の腕の中でぐったりしているナムは、静弥の声にも無反応で、真っ赤な顔をしていた。それより静弥は、いつも冷静な涼弥が血相を変えてナムを抱きかかえる姿に驚いていた。涼弥は、必死に何かを訴えるように静弥を見詰め、その目に落ち着きは無く、彼の眼鏡もずり落ちそうだ。
静弥は、涼弥からナムを抱き受けて部屋に入り、ナムを自分のベッドにそっと寝かせた。
「ナムちゃん、ナムちゃん?」
静弥がいくら呼んでも、ナムは起きる気配がない。静弥は、ナムの服を緩めた。
「涼、妬くなよ。医療行為だからな」
静弥は、涼弥をちらっと見て笑った。
「冗談だろ!」
涼弥はそう言って、不貞腐れて静弥に背を向けた。
静弥は、ナムの呼吸や心音を確認した。どこかに傷が無いか、ナムの手足や頭、身体のあっちこっちを触った。さすが医者の卵だ。静弥の手付きは、少しも厭らしくない。
「涼、安心しろ。ナムちゃんに失神する程の傷や痣は見あたらない。ただの熱中症だよ。肌も唇もカサカサしてないし、脱水症状はないし、熱も39度は無いから、心配はいらない。
疲れもあるんだろう。意識が無いんじゃなくて、爆睡って感じかな? 水分摂って身体冷やして、涼しい所で寝かせてやれば、直ぐ良くなる。
元々体力の有る娘だからね、老人や子供の様に急変する事はないよ」
静弥の言葉に、涼弥はほっとした。
「そうか、兄貴ありがとう」
涼弥は険しい表情を緩めて、寝ているナムの顔を眺めた。
「ナムちゃんが起きるまで、ここで寝かせとくよ」
「それじゃ兄貴に悪いからいいよ。ナム、大した事ないんだろ? こいつ、最近ずっと睡眠不足らしくて、いつ起きるか解らんし。俺、ナムの部屋まで連れてって、寝かせてくるわ」
涼弥は、ナムを抱き上げようと手を伸ばした。
「ふーん、優しいんだね」
涼弥は、静弥の冷やかしにドキッとして、思わず手を引込めた。
「な、何だよ。からかうなよ。俺の仕事、手伝ってもらってるからに決まってるだろ」
静弥は、ナムが涼弥のアシスタントをしている事を知っている。涼弥はむっとしながら、再び腕を伸ばしてナムを抱き上げた。
「じゃ、兄貴ありがとう。休んでる所悪かったね。お休み」
静弥は、ドアを開けて涼弥を送り出した。
「お休み。この娘は、自分の体力も能力も飛び超えて頑張るから、涼が気を付けてやれよ。センセ」
静弥は涼弥にウィンクして笑って、部屋のドアを静かに閉めた。涼弥はむっとして、静弥の部屋に背を向けた。
勝手に部屋に入って来られて、ナムにいいように振り回されてるのは俺の方だ! そう考えると、涼弥は階段で立ち止まって、そのままナムを落としてやろうかと、抱きかかえている手を何度も緩めかけた。
涼弥は仕方無くナムの部屋へ行き、爆睡中のナムを廊下に放り出して、彼女の部屋に入り布団を敷いた。ナムを布団に寝かせ、静弥の指示を思い出して、とりあえずスポーツドリンクと冷却ジェルを、台所から持って来た。
ナムなんか、その辺に放っといても死にゃしないだろ。涼弥は、ナムの額に手を伸ばした。
結構な熱に、涼弥は思わず手を引っ込めた。それでも、39度は無い、と言う静弥の言葉を思い出して、こんなもんかと自身を納得させた。
しょうがねぇなぁ。涼弥は溜め息を吐いて、冷却ジェルを取り出した。
「首と、両脇と、足の付け根に貼るんだったよな」
涼弥はナムの服に手を掛けて……。ドキッとした。
「ちっ違うぞ。これは医療行為だからな」
涼弥は自分に言い聞かせて、ナムの袂を広げた。冷却ジェルを、ナムの首筋と両脇に貼り付ける。かなり躊躇いながら、ナムの両脚の付け根にも貼った。
普段涼弥は、ナムに少しも“女”を意識しない。ナムは涼弥にとって、家政婦のおばちゃんであり、ただのアシスタントだ。だがさすがに、ナムの肌が露わになり身体の線が見えると、涼弥も焦る。
熱を帯びたナムの肌は、ほんのりピンク色に染まっている。まるで誘うように口を半開きにて、荒い呼吸をしている。唇が乾くのだろうか。時々唇を濡らすように舐める。熱に浮かされているのか、眉を顰めて掠れた切ない声を出す。
未熟ながらも、一応女だ。汗で濡れたナムの前髪。開けた胸。涼弥の手が止まり、視線がナムの唇に釘付けになる……。
イヤイヤ! 一瞬の気の迷いで、俺の一生台無しにしたくない! 涼弥は、プイとナムから顔を背けた。
涼弥は気を取り直して、ナムの身体を抱き起こし、ペットボトルを口にさせた。
「おいナム、飲め」
涼弥は、ナムの耳元で呼び掛けたが、ナムの反応は無い。涼弥は又溜め息を吐いた。
とりあえず、ナムの口に付けて飲ませてみる。しかし上手く飲ませられず、ナムの口からタラタラと零れてしまう。何度やっても上手くいかない。その内、ナムの胸元に置いたタオルがビショビショになった。だが熱中症に、水分補給は不可欠だ。
「それだけは、絶対に嫌だ!」
口移しのシーンが、涼弥の頭を過切る。涼弥は、呑気に寝ているナムを睨み付けた。
「ナムーっ! 起きろーっ! 飲めーっ!」
涼弥はナムの耳元で怒鳴った。ナムはびくっとして目を覚まし、差し出されたペットボトル500ml を、無意識に一気に飲んだ。ナムは飲み干すと、又バタっと倒れて意識を失った。涼弥はほっとした。
「取りあえず、大丈夫だろ。俺も部屋戻って寝るか。ナム、後は自分で何とかしろよ」
涼弥は、寝ているナムに呟く様に言って立ち上がり、手を伸ばして天井からぶら下がっている照明の紐を引っ張った。
あれ? 涼弥は暗がりの中、スウェットの裾の違和感に自分の足元を見た。涼弥は脚を少し動かしてみた。ナムの手も動いた。脚を上げてみた。異様に重い。……涼弥はナムに、スウェットの裾を握られていた。
こいつー! 涼弥は脚をぐいっと引っ張ってみた。やっぱりナムの手も一緒に着いて来た。涼弥が脚を蹴り上げる度に、ナムもずるずる摺り上がってくる。
涼弥はしゃがみ込んで、ナムの手を擽ってみた。ナムの顔がにやけただけだった。
掌を抉じ開けようと試みた。ナムは金目の物でも掴んでいる気なのだろうか。彼女の手は、ガンとして開らかない。押しても引いても叩いても、ナムの手は離れない。まるで超強力電子磁石の様に、ぴったりと吸着している。
それでも無理矢理脚を引っ張ったら、ホラー映画のゾンビの様に、ナムが布団からずるずると這い出て来た。窓の外からの薄暗い外灯に照らされて、浮かび上がるナムの、涼弥の裾を掴んでいる白い手……。
恐――っ! 涼弥は、ゴクリと生唾を呑み込んだ。
かと言って、涼弥はここでスウェットを脱ぐわけにもいかず、ナムの手が離れるまで、諦めてその場に座り込んだ。
元々ナムが熱を出したのは、自分が無理させたせいもあるんだろう。涼弥は、ナムの発熱に多少責任を感じていた。
涼弥は壁に背を凭れて、溜め息交じりでナムを眺めた。ナムは、時折寝返りを打つものの、しっかり握った手は離れる事はなかった。
涼弥は呆れながら、薄暗い中、ナムを観察した。子供の様なナムの丸い顔。デコピンをしたくなる広いおでこ。意外と、ニキビも雀斑もない、弾力がありそうなプニプニ頬。丸くて愛嬌のある鼻。ふっくらとして美味しそうな唇。意外と睫が長くて、ボサボサの髪は細く柔らかく、艶々している。よくよく見ると、涼弥の目にもナムが女の子に見えて来た。
意外と可愛いかもな。涼弥はナムの頬に触れて、熱が大分下がった事を確認した。汗で顔に貼り付いているナムの髪を、指先でそっと剥がした。汗になっている首を、タオルでそっと拭いた。
幼い子供の様に、邪気無い、ナムの寝顔……。涼弥の顔も自然と綻んだ。
「ギルさまぁぁぁぁ!」
突然ナムが叫んだ。涼弥はびくっとして、ナムが起きたのかと顔を覗き込んだ。
ナムは、涼弥の裾をしっかり握り締めたまま、寝言を言っただけだった。ナムの顔はにやけ、口はだらしなく開き、涎まで垂らしている。その内その口は、蛸の様に、にゅにゅにゅーっと伸び、ナムが握り締めている涼弥のスウェットに近付いた。
「やめろ!」
涼弥は、ナムのダラけた寝顔を思い切り踏み付けた。それでも起きないナムに、涼弥は、ナムを少しでも可愛いと思ってしまった自分を、猛烈に反省した。
ナムの部屋の前の廊下で、俯き加減で腕を組み、ドアに寄り掛かっている人影があった。ナムと涼弥の叫び声に、クスクスと笑っている。
「ナムちゃん、大丈夫そうだね」
心配して二人の様子を、ドア越しで窺っていた静弥は、笑って呟き、自分の部屋に戻って行った。
夏の眩しい朝の光と、やたら元気なセミの鳴き声で、あたしは目を覚ました。昨日とは全く違う爽快感だ。あたしは布団の中で、思いっきり伸びをした。熱も無い。体はすっかり元気になった様だ。
あっ、寝過ごした? あたしはバッと、目覚まし時計を手に取った。見ると6時はとっくに過ぎている。
しまったぁ! 大奥様っ! あたしは慌てて、ガバッとた。嫌味のひとつふたつ、十や百は覚悟した。
あ、待てよ? 今日は日曜日だっけ……。なーんだ、あたし休みじゃん。安心して、あたしは又布団にゴロッと横になった。
えっ……? そこには、壁に寄り掛かったまま寝ている涼弥がいた。あたしは目を擦った。……居る。
えっ何? 何で? ここ確かあたしの部屋だよね?
あたしは、慌てて部屋の中を見回した。空のペットボトルが、畳に4~5本転がり、自分の体には冷却ジェルが貼ってあった。
あたし、昨日どうしたんだっけ? 涼弥んとこで仕事して、気持ち悪くなって、目の前真っ暗になって ……。うーん、覚えてない。
って事は、涼弥があたしをここまで運んでくれた? あたしは、寝ている涼弥をじーっと見詰めた。
涼弥があたしを看病してくれた? 一晩中着きっきりで? あたしは、首を傾げた。
いまいち納得は行かないが、とりあえずあたしは布団を涼弥の脇に引っ張って、涼弥をそのままの姿勢で、達磨を倒すようにそーっと横にした。涼弥の頭を擡げ、下に枕を敷いた。涼弥のお腹に、タオルケットを掛けた。
あたしは、畳みに転がっている空のペットボトルを集めた。その片付けと、汗臭い身体にシャワーを浴びせに、そっと部屋を出た。
廊下に出た所で、静弥に出くわした。今は朝の6時過ぎ。こんな朝早い時間に静弥に会うなんて……。あたしはびっくりした。
「お、おはようございます」
あたしは空のペットボトルを抱えて、慌てて頭を下げた。
「おはよう、ナムちゃん。もうすっかりいいみたいだね?」
「えっ? いいみたい? 何が?」
あたしは首を傾げた。
「覚えてない? 夕べの事」
「……」
夕べの事? あたしの首は、更に傾いた。
「無理もないか。意識無かったし。でもまぁ、ナムちゃんが元気になって良かったよ。じゃ」
そう言って行きかけた静弥の腕を、あたしはガシッと掴んだ。
「それってもしかして、涼弥が、涼弥さんが今あたしの部屋で寝てるのと、関係有り?」
静弥が振り返った。
「ナムちゃん、夕べ熱中症で、涼弥の部屋で倒れたんだよ」
「え?」
あたし、固まった。
「お……、ぼえて、ない。なんかあたし、気分悪くなって、目の前真っ暗になって―。気が付いたら自分の部屋で寝てて……。
もしかして、静弥さんがあたしを部屋まで運んでくれたんですか?」
「いや、涼弥だよ」
「涼弥、さんが?」
マジ? だって涼弥はいつも、あたしの事ボロカス・クソミソに貶して、おバカ女子高生呼ばわりして、鼻で笑って漫画のネタにして……。
その涼弥があたしを? 信じらんない。でも今、あたしの部屋にいる、んだよね……。うーん、フクザツ。
「えっと、涼弥さん、起こしてあげた方がいいですよね?」
「いや、ナムちゃんが迷惑じゃなけりゃ、そのまま寝かせといてやって」
「はい。それで、あのー、もしかしてあたし、静弥さんにもかなり迷惑掛けました? よね?」
あたしは下を向き、上目使いで申し訳無さそうに静弥を見た。
「いいや、そんな事ないよ。僕はただ、診察の真似事をしただけだよ。夜中に涼弥が血相かえて、君を抱えて来たから」
静弥は、涼弥の慌て振りを思い出して、クスッと笑った。
「あんなに慌てた涼弥は、久し振りに見たね。よっぽどナムちゃんが、心配だったんじゃない?」
え――――、そうかぁ? あたしは眉を顰めた。
「でも、ありがとうございました。静弥さんのおかげで、あたしすっかり元気です!」
「どう致しまして」
あたしは、戯けて首を下げる静弥に、深々と頭を下げた。
あたしは空のペットボトルを抱えたまま、慌てて自分の部屋に戻った。涼弥は、さっきのままの格好で眠っていた。起きる気配が無い。
あたしは、涼弥の横に寝転がって頬杖を突き、まじまじと涼弥の顔を眺めた。
目鼻立ちは整い、睫毛も長い。涼弥は普段余り外に出ないから、肌は女の子みたいに白くてすべすべしている。やっぱり静弥さんに似てる。あたし的には認めたくないけど、世間的には涼弥もイケメンの部類に入るんだろな。
あたしは無性に、涼弥の顔に鼻毛とゲジ眉と両頬にぐるぐるを、油性マジックで描きたくなった。
悔しいけど涼弥って、見れば見るほどイケメンだわ。共学だったら、絶対クラスメイトや後輩達が放っておかないって。まぁ、両親があんな美男美女じゃ、当たり前か。
あたしは、藤代家の4兄弟の面々を思い浮かべた。静弥は勿論、錬弥も雪弥も皆、モデル並に整った容姿をしている。
あたしは、横に置いてある涼弥の眼鏡を掛けてみた。
涼弥近視って言ってたけど、やっぱこれ、度が殆ど無いじゃん。これなら無しでもいけるんじゃね? もしかしたら涼弥、眼鏡キャラ狙ってる?
あたしは涼弥の眼鏡を掛けて、鏡に映して自分の顔を見てみた。スリムな眼鏡は、あたしには似合わない。
さてと。あたしは涼弥の眼鏡を彼の枕元に置き、部屋干しの自分の洗濯物と涼弥の顔を交互に眺めた。
まーいっか。この下着、干したまんまでも。涼弥は少女漫画の先生だし、そんな趣味はなさそうだし? あたしは、涼弥が起きた時に邪魔にならない様、部屋の隅に洗濯物を移動させた。
でも涼弥があたしを心配してくれたなんて、超以外。あたしなんか廊下に蹴り出されて、そのまま朝まで放っておかれると思った。改めて、寝ている涼弥を見下ろした。
ここは、素直にお礼を言うか。
「ありがとうございました」
あたしは、寝ている涼弥の横に正座して手を着き頭を着き、小さな声でお礼を言った。
あーあ、結局昨日は寝ちゃったから、漫画の仕事進んでないよな。今日はその分も取り返さなくっちゃ。あたしは立ち上がって大きく伸びをし、自分の両頬をパチンと叩いた。
あたしは涼弥の部屋へ行った。涼弥の部屋は、思った以上の惨状だった。ペンもトーンも出しっ放し、描き掛けの原稿は放ったらかし。椅子は倒れ、床のケーブルも絡まっている。日頃から几帳面なA型涼弥の慌てぶりが、部屋の散乱具合で見て取れた。
涼弥は、いつもムカツク程あたしをお馬鹿呼ばわりする。でもこんなに心配してもらって、今は悪い気はしない。たまには病気もしてみるもんだね。あたしはそう思いながら、散らかった部屋を片付け、やり掛けだった原稿の仕上げに手を着けた。
「あたし、涼弥分も頑張るよ。文月センセは、あたしの部屋で未だ寝てていいからね。ねぇー、ギル様♡」
あたしは、壁に貼ってある特大ポスターのギル様に呼び掛けて、可愛くウインクした。その直後、ポスターの片側がパラリと剥がれた。
蒸し暑くて蝉が煩くて、涼弥は起きた。その部屋に扇風機が回っていたが、エアコンはない。
ここ、どこだ? 涼弥はゆっくり上体を起こした。目を擦り眼鏡を掛け、部屋の中を見回した。
殺風景な4.5畳の和室に、炬燵テーブル。腰高窓には、ピンクのキティ柄の薄いカーテン。壁に貼ってある、特大の“ルビーの瞳”と“城田りゅう”のポスター。
そっか、ここナムの部屋だ。昨夜は……。
あれ? 俺布団で寝てる? ナムは? トイレか?
涼弥は立ち上がって、反射的にナムを探して押入れの戸に手を掛けた。
ドサドサドサ――……。押入れを開けた途端、服だか本だか雑貨だかが、一斉に涼弥に襲い掛かり、容赦なく涼弥を押し倒した。
ナムーっ! やっぱお前は女じゃねぇ!
涼弥の部屋は、ペン一本消しゴム1個でも、仕舞う場所が決まっている。床に無造作に広げられた様に見えるケーブルも、キチンと設置ルールがあった。
涼弥は、押入れから雪崩れたナムの私物を、無造作に押入れに押し込め、入れた物が落ちない内に、さっさと押入れの戸を閉めた。
涼弥は、壁に貼ってある城田りゅうとルビーの瞳の等身大ポスターを眺めた。ポスターにサインがあったが、どちらも印刷だ。
“サインが欲しい”涼弥は、自分の部屋にナムが勝手に置いた七夕飾りの、短冊を思い出した。
おまけだからな。涼弥は、炬燵テーブルに置いてあるペン・スタンドのマジックを取って、ルビーの瞳のポスターにサインをした。
“文月りょう”……。普段、人前に姿を現さずサイン会もインタビューもしない文月りょう。その直筆サインは、巷では超プレミア物だった。
布団と枕のお礼だ。いや待て。俺がこんなとこに居るのは、あいつのせいだよな。俺が態々ナムをここまで運んでやって、看病してやったんだから。
……でもまぁ、いっか。日頃アシやってもらってる感謝の気持ちだ。特別だからな。
涼弥は、部屋の隅に干してあるナムの洗濯物に気が付いた。じーっと見詰めて……。
焦った。いくらおばちゃん趣味の下着とは言え、一応女子高生の物だ。これではまるで、涼弥がナムの部屋に下着を盗みに忍んで来て、眠ってしまった間抜けな泥棒だ。
涼弥は慌てて、ナムの部屋から出ようとした。部屋の戸に手を掛けて……。
運悪く、廊下から雪弥の鼻歌が聞こえた。涼弥は焦って鍵をかけ、壁に貼り付き息を潜めた。
「ナムー、いるー?」
ガタガタ。雪弥は戸に手をかけて、勝手に開けようとした。戸には鍵が掛かっていて、開かない。
「ナム、いないのー? 寝たふりすんなって」
雪弥は、ナムの部屋の戸をドンドン叩いた。部屋からの返事は無く、雪弥は眉を顰めた。ナムは普段、部屋に鍵なんか掛けない。
部屋の中では、涼弥が息を殺して雪弥の様子を窺っている。その内、廊下からは声も物音も聞こえなくなった。
雪弥の奴、諦めたか? 静かになったのを確認して、涼弥はそーっと戸を開けた。廊下では、雪弥がこっそり戸が開くのを待ち伏せていた。それがナムではなく涼弥の姿だった事に、驚いた。
「涼兄……、ナムの部屋で何してるの?」
涼弥は、突然の雪弥の姿にかなり焦った。
「いや、あの、えーっと……。何でもない。ナムはいない」
雪弥は、100%疑いの目で涼弥を見上げ、ボソッと言った。
「涼兄って、趣味悪」
雪弥は、ナムをからかっていいのは自分だけだと思っているのに、最近ナムと涼弥がよく一緒にいる事が面白くない。その上、二人が仲良さ気に話しているのを見ると、雪弥の気分も悪い。
「違う!」
涼弥は、7つも年下の弟にバカにされて、ムッとした。涼弥は雪弥を無視して、さっさと自分の部屋に向かった。
「ふーん」
雪弥は、ナムの部屋のドアに寄り掛かって不満気に口を尖らせ、ポケットに手を突っ込んで涼弥の後姿を見送った。
ナムの奴っ! あのエリート校で、一番冷静で品格が有ると言われているこの涼弥様が、何で落ち零れのあいつ如きにここまで振り回されるんだ?
常に冷静沈着、品行方正な筈の涼弥の肩は怒り、口をへの字に曲げ、眉を寄せガンを飛ばしながら、大股でドスドス歩いていた。
ナムの部屋なんか、もう二度と、絶対に、一生、死んでも行く事はないが、万が一あいつの部屋に入ってしまったなら、さっき書いた文月りょうのサイン、全部黒く塗り潰してやるっ!
涼弥は自分の部屋に戻った。ナムの部屋にもトイレにもキッチンにもいなかったナムが、今目の前に居る。ナムは、ほんの数時間前まで熱で浮かされていたと言うのに、せっせと原稿の仕上げをしている。涼弥は、自分でも気が付かない内に、ナムに怒鳴っていた。
「ばかやろう! また熱出でたらどうすんだ! それ以上やるな! ここに居るな! 帰れ! これ以上俺に心配かけるなっっっ!」
めったに大声を上げない涼弥に、思い切り怒鳴られて、あたしは亀の様に首を竦めた。
「ごめん、なさい……。ホント、ご迷惑お掛けしました。だからその分頑張ろうと思って。ほら!」
あたしは描き掛けの原稿を持ち上げて、ここまで仕上げたよ、とにっこり笑って涼弥に見せた。
原稿は、殆ど仕上がっていた。これなら、今日中に原稿を持って行ける。悪びれた様子もなく、あっけらかんとしたナムの笑顔に、涼弥の怒る気も失せた。
“あの娘は頑張り過ぎるから”涼弥は、静弥の言葉を思い出した。
確かに、ナムをいいように使っていたのは、俺の方だったのかも知れない。ナムの奴、いつぶっ倒れても可笑しくない位、根詰めてたもんな。涼弥は、いつの間にかナムに頼って甘えている自分に、反省した。
その日以降、涼弥は仕事のペースを落とした。作業も土日だけとした。涼弥自信も受験生だ。自分が無理をすると、ナムはそれ以上に無理をする。いくら自分が乗ってるとは言え、ナムにこれ以上負担を掛けたくはない。自分の体が限界を超えても気付かないナムに、何故か涼弥が気を配っていた。
それでもあたしは、たとえ仕事が無くても“勉強”の名目で毎晩涼弥の部屋に通った。そして“勉強”とは全く関係ない、ルビーの瞳のコスプレを一人でしていた。
「ナム……、それ持ってっていいから、自分の部屋でやってくれ」
受験勉強をしている涼弥は、溜め息を吐いてナムに懇願した。あたしは剣を振り回しくるりと回って、剣を腰の鞘にカチャッと格好良く収めた。決まった!
「ヤダ。だってあたしの部屋、雪弥来るし」
不思議と雪弥は、扇風機しかない蒸し風呂状態のナムの部屋に入り浸っていた。雪弥は、ナムの部屋にゲームやコミックや夏休みの宿題も持ち込んでいた。あたしが勉強していても、全く関係ない。雪弥はあたしの横で畳に寝転び、ゲームや漫画に夢中になっていた。
「雪弥、あたし勉強中。そんなの、涼しい自分の部屋かリビングでやってよ」
「ヤダ。静かにしてりゃ、ナムの迷惑になんねーだろ?」
静かにしてるんなら、他でやれよ! でも、雪弥も一応あたしのご主人様だ。
あたしが熱中症に罹って以来、雪弥は以前にも増して長い時間、あたしの部屋で過ごしている。いや、西日の当たるクソ暑いあたしの部屋に、無駄に一緒にいる。
「あたし静かにしてるから。涼弥の勉強の邪魔にはなんないでしょ?」
静かにしてるんなら、他でやれよ! 涼弥のこめかみに、青筋が立った。
物音を発てず黙っていても、コスプレ姿で決めポーズを取るナムが、涼弥の視界にチラチラ入る。しかも、小さな声でやたら掛け声や台詞が入る。それも原作とは掛け離れた、ナムの妄想台詞。
「目障りだ!」
ナムはビクッとして涼弥に振り返った。その拍子に、ナムが手にしていた剣先が、涼弥の側頭部に直撃した。
「ごめん」
ナムを睨む涼弥の眼鏡が、あたしの剣の衝撃で、ポトッと落ちた。
ナムのペースにどっぷり嵌っている涼弥は“冷静・クール”という言葉から、日に日に掛け離れていった。
「おはようございまーす。今日は涼弥お兄さんも一緒でーす」
特別養護学校の体育館で、小学1年生から6年生の子供達の拍手に迎えられ、涼弥は照れていた。
「このお兄さんは、とーっても絵が上手なの。皆ー、お兄さんにどんどんリクエストして描いてもらってねー」
涼弥は、ナムが紙と色鉛筆を手にして高々と掲げるのを見て、ぎょっとした。
「お前、これが狙いで俺をここに連れて来たのか?」
涼弥は、小声でナムに聞いた。
「まぁ……、細かい事は気にするなって」
あたしは涼弥にウィンクをして、小声で返した。
早速、イケメン涼弥に女の子が大勢寄って来た。
「お兄さん、描いて描いて」
女の子達は、画用紙を涼弥に差し出した。
「涼弥、障害者って意識しないでね」
あたしは再度、小声で涼弥に釘を刺した。
「お兄さん……、涼センセ? センセってイケメンね。彼女いる?」
「え?」
何だよいきなり。涼弥は、小さくてもマセた女の子達に面食らった。
「もしかして、センセってナムの彼氏?」
「冗談! それだけは絶対ない!」
小学生相手に、涼弥はマジで大きな声で言い切った。
涼弥がナムに目をやると、彼女の周りには、車椅子の男の子達が集まっていた。
「ナム、バスケやろうぜ。この前の勝負の続きだ!」
「よーし。やろうじゃないの。手加減しないよ?」
涼弥は、その様子に思わず笑った。
「雪弥もだけど、あいつ、男の子には結構モテるんだな」
「センセ!、涼センセ?」
[あ、ごめん]
涼弥も、次々と来る子供達のリクエストに答えて、体育館の床に座り込み、忙しく絵筆を滑らせた。
「センセ、見て見て!」
そう言って、涼弥の似顔絵を描いて見せに来る子もいた。童話のお姫様や、アニメのヒロインを描いて見せに来る子もいる。どうやら涼弥を、図工の先生だと思っているらしい。
涼弥は、床に胡坐をかいて座っていた。その涼弥の、背中に乗ってくる子や、無理やり膝に入ってくる子もいた。
涼弥の眼鏡を奪って悪戯する子もいる。座っていると、皆全く普通の子供達だった。
どこが素直で健気な子供達なんだよ? 涼弥は、ナムに騙された事を確信した。
「センセ、ウルトラマン描いて!」
「えっと……」
涼弥にも、描けない絵はある。でもとりあえず描いてみた。
「ごめんね、こんなんでいいかな」
涼弥は、ウルトラマンをマスコット風に可愛く描いた。その男の子は絵を手渡されて、今にも泣きそうな顔をした。
「こんなの違う! これじゃ、直ぐに負けちゃうよ」
「じゃじゃぁ、これでどう?」
涼弥は今度は、馬に乗り剣を雄々しく振り翳す剣士を描いた。“ルビーの瞳”風に、その男の子に似せて。男の子は、満足気にニッコリ笑った。
「センセ、ありがとう!」
その絵を見た他の女の子達が、涼弥に殺到した。
「センセの絵、ルビーの瞳に似てる! あたしアラン様ファンなの。描いて描いて!」
「センセ、あたしが先だよ! あたしにギル様描いてよ!」
「あたしには、レイ! ムーナも描いて!」
しまたぁ。俺、墓穴掘ったかも……。
滅多にミスなどしない涼弥。知らぬ間に、ジワジワとナムに侵されている現状に、涼弥は背筋が寒くなった。
大忙しの涼弥がナムを見てみると、彼女は車椅子バスケで、男の子達と格闘していた。相変わらずナムは、小学生相手にムキになっている。
「あいつ、車椅子の操作、結構上手いんだな」
涼弥にも、ナムのかなりの車椅子キャリアが見て取れた。
「ありがとうございます、藤代さん。大変でしょ」
女性の校長先生が、涼弥に話掛けて来た。
「はい、……あー、いえ、大変だなんて、そんな事ありません。自分も楽しいです」
「そう言ってくれると嬉しいです。ナムさんが来てくれると、学校が明るくなるんですよ。子供達も、彼女が来るのを楽しみにしてて」
「あいつー、彼女はよくここに来るんですか?」
「そうですねー。月に1度は必ず来てくれます。運動会とか発表会とか、行事がある時は準備のお手伝いで、ナムさん殆ど毎日来てくれます。彼女も学校とか忙しいんでしょうに」
「彼女、養護学校の先生に成りたいって言ってました。今その為に勉強してるんだって」
「ええ、ナムさんからよく訊かれますよ、どうしたら養護教諭になれるのかって。でもナムさんだったら、何も心配しなくても大丈夫です」
「私もそう思います」
ボールを顔面で受け、回りの大爆笑を浴びるナムを見て、涼弥は本当にそう思った。
「ねぇねぇ涼弥、今日どうだった? 結構息抜きになったっしょ?」
養護学校からの帰り道、傷だらけのナムを見て、涼弥は又噴き出した。
「まぁな。楽しかったよ、結構ね」
「でしょでしょ? でね、先生がね、又来てねって。涼弥、女の子にモテモテだったし、気分悪くなかったっしょ? 又一緒に行こうよ、あたし誘うから」
ナムは、子供の様に目をキラキラ輝かせて、涼弥の顔を覗き込んだ。
「暇だったらな」
涼弥はどうでもいいように、素っ気無く答えた。本当は、又行ってもいいかな、と涼弥は思っていた。
あたしは、通り掛かった公園の時計を見た。時計は午後6時を指している。
「ヤッバ! もうこんな時間じゃん! やだ大奥様に怒られる! ごめん涼弥。あたし先帰ってるから」
あたしは涼弥にそう言い残して、ダッシュして公園を突っ切った。
「あいつ……。どんな事にも一生懸命で、楽しそうにやるよな」
慌てて走っていくナムの後姿を見て、涼弥はナムを羨ましく思った。
ここまで、辿り着いて頂いた方に感謝です。ありがとうございました。
次話は、三男錬弥とナムとのエピソードです。
次話も疲れます。