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涼弥編(前編)

今話も長いです。

藤代家次男のオタク涼弥と、ナムのエピソードです。

前編の前半は、ナムの藤代家での近況(?)報告です。

ドタバタで疲れますが、読者様が最後まで行き着く事を願っております。

 あたしが藤代家にやって来てから、1ヶ月が経った。初夏の爽やかだった風が、今では湿気を帯びてジメジメしている。どんよりとした空は、気まぐれに雨を降らせたり止めたりを繰り返した。

 この1ヶ月、雪弥のあたしに対するしょうも無い悪戯は、連日続いた。涼弥と錬弥には、挨拶もされない。静弥の無駄に甘い声は、毎回アレルギーを引き起こす。大奥様とは、屋敷にいる間中、雑巾を奪い合い包丁を振り回して、壮絶なバトルを繰り広げている。

 唯一、あたしを擁護して下さる奥様と旦那様は、忙しすぎて家にいない。従ってあたしは、毎日一人で妖婆と悪魔に立ち向かっていた。


 あたしは毎日、学校から帰って直ぐに、藤代家の屋敷内を巡回する。左手に掃除機、右手にバケツと雑巾を持って、お気に入りの真っ赤なバスケ部ジャージ姿で。

 先ずあたしは3階に上り、高い場所から順番に掃除をする。窓全開、掃除機フルパワー、はたきをバシバシ振り回しながら、壁や照明の埃を叩き落とす。

「ファイト、オー! バシッ」

 部活のノリで、大きな掛け声も出る。無駄に効果音も入れる。部活では、大きな声を出さないと怒られていたし、オーバーアクションで審判にファウルをアピールした。

 バキッ、ドサッ……。たまに意味不明な音がする事もある。気にはしない。が、キッチリ掃除をした筈なのに、あたしの後ろに何かにぶつけられた様な、削られた様な粉塵が散らばっている事もある。

 生活騒音出し捲くりのあたしに、普段、碌に挨拶もしない涼弥と錬弥が、ドアを開け部屋から顔を出して怒鳴る。

「うるさい!」

「止めろ!」

 一向に気にしない。

 逆に怒鳴られっ放しのあたしは、奴等が部屋から顔を出すタイミングを見計らって、ドアの真横に貼り付き、ニンマリ笑ってハタキを構えた。

「うるさい!」

 バシッ! あたしのハタキが、堪らず部屋から顔を覗かせた錬弥の頭にヒットした。ムッとする錬弥に、あたしはニヤリ。白々しく謝った。

「あ~ら、ごめんなさい。埃かと思った」

「俺は、モグラじゃねぇ!」

 バン! あたしの目の前で、激しくドアが閉まった。へへっ、ザマーミロ!

 錬弥を仕留めて気分がいいあたしは、鼻歌交じりで廊下に掃除機を掛けた。

 ピー、ガガガ、ガンガン。何か吸い込んだ様な音がしたが、きっと気のせいだ。

 ビッ。あたしは勢い良く、掃除機を引っ張った。

 あれ? いくら引っ張っても、あたしに掃除機が着いて来ない。あたしは、掃除機のコードが何かに挟まったのかと思って、後ろを振り返った。

 そこには、雪弥が素知らぬ顔して、掃除機のコードを踏ん付けていた。

「雪弥! 退いて!」

 雪弥は、壁に凭れヘッドフォンをして天井を向いている。指でリズムを取り歌を口ずさんで、あたしの声が聞こえない振りをしていた。

「退・い・て!」

 あたしは大声で叫び、掃除機のコードを思い切り引っ張った。 雪弥は、あたしがコードを引っ張るタイミングを合わせて、コードを踏んでいた脚を上げ……。

 ドッシ――ン!

「いったぁっ!」

 あたしは、掃除機のコードを握り締め、尻餅を搗いた。おまけに、頭まで打った。

「あ、わりい。気ぃ付かんかったわ」

 雪弥は、頭を摩るあたしにニヤリと笑って、サッサと自分の部屋に入っていった。

 小5の餓鬼め! 今に見てろ! 頭に血が上ったあたしの、掃除機を操作する手付きは、更に乱暴に成った。

 ガンガン、ゴンゴン。あたしは掃除機を引き回しながら、屋敷と掃除機を少しずつ破壊していった。


 2階に降りて来た。あたしは、掃除機を片足で無造作に転がしながら、涼弥の部屋のドアの横で、ハタキをスタンバイさせた。

 イッヒッヒ……。モグラ叩きパート2! 涼弥モグラめ、早く出て来い!

 掃除機をハイパワーにして足で転がし、涼弥の部屋の壁にガンガン当てる。神経質な涼弥が、黙っているワケがない。

 バン! 予定通り、勢い良くドアが開いた。

 待ってました! あたしはハタキを振り下ろそうと……。

 ガン。タイミングがずれて、ドアの角があたしの額を直撃した。そうだった。涼弥の部屋のドアは、外開きだった!

 あたしは、思い切り額をぶつけ、ぱっくり切れたんじゃないかと思う程の痛さに、息も出来ない。激痛に耐え切れず、頭を押さえてその場にしゃがみ込んだ。何で涼弥の部屋だけ、外開きなんだよぉ! でもよかった。血、出てなくて。って、やっぱ痛いもんは痛い!

「う~~」

「お前、何やってんだ?」

 涼弥が、冷ややかな声で言って、あたしを見下ろしている。

「う~~」

 バタン。無情にもドアは閉まった。

 なにさ。女子が頭打ってうずくまってるってのに、大丈夫? の一言も無しかよ。モグラめ、今に見てろ。

 あたしはしゃがみ込んだ床に、リベンジを誓った。


 広くてあまり段差の無い藤代家の階段。無駄に広くて長い廊下や階段は、掃除をする者に対する嫌がらせとしか思えない。

 しかも敷きカーペットなんて、掃除が超面倒臭い。箒雑巾は使えないし、液体を零したら色が変わる。

 各々の部屋は和室以外フローリングなのに、廊下と階段はカーペットだ。大奥様は、滑り止めとか言ってるけど、あたしは何度も滑って転んでいる。

 階段手摺も複雑なつる形をしていて、掃除し辛いったら無い。無駄に広くて高い吹き抜けも、パンツが見えそうで嫌いだ。

 1段抜かしでも余裕で上れる階段を、あたしは2段抜かしで上がる。時々踏み外して、掃除用具諸共……。

 ダダダ、ダンダン、ガタン! 涙と悲鳴と共に、階段を派手に滑り落りた。でも、バケツは結構ヘルメットの変わりにはなると思う。

 廊下やホールには、その機能を果たしていない花瓶や照明スタンドが、無造作に置いてある。ガレ? ドーム? マイセン?

 あたしが掃除をする度に、それらにヒビが入った。でも無駄においてあるんだから、きっとダイソーで売っている雑貨とそう大差ない、とあたしは思っている。


 家事に歌は付きモノだ。あたしは、掃除洗濯後片付けと、家事仕事の時にはいつも軽快に歌を歌った。掃除機や洗濯機の機械音や、まな板を叩く包丁のリズムと共に。

 自称プロだと豪語する雪弥。でもあたしの歌は、雪弥にはレベルが高過ぎる様だ。3拍子なのか4拍子なのか5拍子なのか、隣で聴いていても分からないらしい。

 歌い出しのドの音は、あたしの計算され尽くした移調転調を繰り返し、歌い終わった頃は、雪弥の耳に半オクターブ上がって聞こえているようだ。

 あたしの歌は、気が付けば延々サビを繰り返していた。しかも繰り返す度に移調し、微妙にリズムも変化する。歌詞が変わっている事もある。

「その歌止めろ――っ! 頭腐る!」

 本当の芸術を、雪弥は分かっていない。

「止めなさいっ! 悪寒がします!」

 大奥様、それはきっと病気。ご高齢な大奥様の為に、あたしは祈りを込めて、更に大きな声で歌った。

「死ね!」

「ふ~~ん。……死なず、死にたい、死ぬ、死ぬ時、死ねば、死ね」

 錬弥に、折角動詞の五段活用を教えてあげたのに、錬弥の部屋から何かを殴った様な音がした。

 涼弥は……、耳栓をしていた。

 こうして、藤代家の歌姫ナムは、今日も元気に皆のリクエストに応えて、歌い続けている。


 朝早くから、あたしと大奥様が心を込めて一生懸命作るご飯。でも残ってしまう事が多い。

 静弥の帰宅時間は勿論、食事の時間もいつも不規則だ。朝食も、抜く事が多い。しかも少食。

 雪弥は、野菜嫌いで必ず残す。人参やピーマンを微塵切りにしてハンバーグに混ぜたら、ハンバーグは一口も食べなかった。

 涼弥や錬弥は、無言で無表情で食べる。しかも早食い。頂きます、と、ご馳走様、は殆ど聞こえない。

 もっともこの二人は、普段でもあたしと口を利かない。それどころか、どんなにあたしが元気よく挨拶しても、返ってこない。

 思い直してみると、藤代4兄弟って仲が悪いワケでもなさそうなのに、廊下で顔を合わせても、兄弟の会話が無い。リビングやダイニングに長居することも無く、直ぐに個々の部屋に篭もって、出て来なかった。

 あたしは、人情味溢れる下町の、プライベートなんかまるで無い町工場育ちだ。近所のおばちゃん達に因る、集団お節介生活がどっぷり浸み込んでいる。そんな短気でお節介な江戸っ子のあたしには、藤代4兄弟の態度に我慢ならない。

「挨拶くらいきちんとしなさい! 飯残すな! 朝飯食え! 好き嫌いするな! 遅くなるなら連絡しろ! 物を捨てるな! 話は相手の目を見て喋ろ!」

 気が付くとあたしは、4兄弟に包丁片手に怒鳴っていた。でも怒っているのはあたしばかり。4兄弟は、傍観者だった。

「ナムちゃん。その発声の腹筋の使い方は間違ってないけど、唾は飛ばさないで」

 静弥の、神経を逆撫でする甘い声に、背筋が凍り包丁を落としそうになった。


 あたしは、子供の頃から今もずっと早起きだ。どんなに寝るのが遅くても、病気の時以外は朝早く起きる事に苦痛を感じない。藤代家ここに来てからは、あたしは毎朝、大奥様と早起きを競っている。

 早起きをして、自分のお弁当を作るのもあたしの朝の楽しみだ。お弁当の中身は前日の余り物だが、大木家とは違って高級感がある。色取り取りの食材も豊富で、あたしは毎朝自分のデコ弁当の写メを撮り続けた。

「涼弥さんの分も、一緒に作りましょうか?」

 ひとつ作るのもふたつ作るのも、大して変わりは無い。でも涼弥には、昼は学校の食堂で摂るからと、冷たく却下された。

 ある日、涼弥の学校の食堂がメンテ中とかで、あたしの手作りお弁当を無理やり持たせた事がある。そこは腕の見せ所。あたしはいつも以上に気合を入れた。

 はんぺんを丸く型抜きし、錦糸卵で金髪を模した。ナスの漬物で青い瞳を作り、片目はノリでウィンク。赤ウインナーで唇、海苔でパッチリ睫毛にキリリ眉毛。頬には丸い人参……。ちょっと唇がタラコっぽいけど、完璧だ!

 そこには、あたしの大好きな少女漫画“ルビーの瞳”の騎士ナイトギルさま(ナムビジョン)が描かれていた。

 背景には、ホウレン草と桜デンブと鶏ソボロ。キティ柄の入った蒲鉾に、星型ポテト。プラス、肌色ウィンナーのピース添え。

 上々の出来栄えに、あたしは料理雑誌に投稿しようかと、いつもより多くの写メを撮った。

 あたしは想像した。学校で涼弥が“ナム特製弁当”の蓋を開けた時の、わぁ~、と目を輝かせ、子供の様に喜ぶ顔を。

 あたしが学校で、友達に涼弥と同じお弁当を披露した時、アンパンマンだと指摘されて笑われた。彼女達には、あたしの芸術的センスが理解出来ないのだろう。


 あたしは帰宅後、軽快に包丁を叩きながら、涼弥の帰りを楽しみに待った。

 夕刻、涼弥は家に戻ってくるなり、台所で夕食の準備をしていたナムに向かって、弁当箱を投げ付けた。涼弥の額には、青筋が立っている。

「2度と作るな!」

 凄い剣幕で怒鳴られた。

 あたしは涼弥に大声で怒鳴られ、投げつけられた弁当箱をキャッチして、キョトンとした。怒鳴られた原因が分からない。

 ……あ、そっか。

「ごめんなさい涼弥さん。だってエビフライと蛸ウィンナーとリンゴ兎は、スペース的に涼弥さんのお弁当箱に入らなかったんだもん。今度はちゃんと入れるから」

 涼弥は何か言いたそうに口を開いたが、ナムを一睨みして踵を返し、さっさと部屋に帰っていった。

 あたしは、恐る恐る涼弥の弁当箱を開けた。ちょっと心配だったけど、中は空でほっとした。でも弁当箱には、箸でぐちゃぐちゃと引っ掻き回した様な傷があった。

 涼弥、お弁当に描いたのがレイ王女じゃなかったから怒ってるんだ。あたしは反省した。


 あたしは夜逃げした翌日から、毎朝目が覚めた時、これは夢じゃないかと思う。

 陰湿陰険な底意地の悪い大奥様ままははと、悪魔の様な四兄弟あねたちから酷い苛めを、毎日毎日繰り返し受けるあたしは、本当はシンデレラなんだ。

 奴等の容赦無い仕打ちや嫌がらせに、必死に耐える健気なあたしの目の前に、いつか王子様が現れる。

 でもその前に、あたしは奴等から毒リンゴを食わされ、糸巻きの毒針に刺され、呪いをかけられ声を奪われて海の泡にされてしまう……。青い鳥は見つからず、あたしは雪の女王に拉致られる……。

 それでもこの苦労は報われ、あたしは最後には幸せになる。きっとそう言うストーリーなんだ。

 この悪夢が覚める時、それは桜の花が満開に咲き誇る頃だ。あたしの前に、大学の合格通知を手にした王子様が、きっと現れる。“ルビーの瞳”のギル様みたいな、あたしだけの超イケメン王子が、白馬に跨ってやって来る。

 南瓜の馬車を曳いて、ガラスの靴を手土産に、7人の小人と、猿・犬・雉と、ロバ・イヌ・ネコ・ニワトリの音楽隊を引き連れて、この茨の屋敷に迎えにやって来る……。

 あたしの靴のサイズは、23.5センチ。桜の木に貼っとこ。ついでに不在時の連絡先で、メアドと携番も書いとこ。


 土曜日は、あたしの“丸毎お屋敷お掃除日”と決めている。平日は学校もあるし、あたしは一応受験生だ。平日は、各部屋の住人も在室中だったり、掃除の許可がもらえる時間もマチマチだ。屋敷全部屋の掃除は、到底出来ない。

 トイレや風呂場、廊下や玄関等の、共用部分の掃除は毎日欠かせないとしても、各々の部屋は特に要望がなければ、あたしは土曜日にする事にしている。それから日曜日は、奥様から頂いたあたしの公休日(NO家事デー)だ。

 土曜日のお掃除。先ずは静弥の部屋に行く。静弥は大抵金曜日から外泊していて、土曜日はいない事が多い。あたしは前もって掃除することは伝えてあるので、遠慮無く静弥の部屋に入る。

 静弥の部屋はいつもキチンと整理されていて、破損も汚損も無い。いつ交換するのか、毎日違う生花が飾ってあって、いい香りがする。部屋全体は優しい淡色で纏められていて、とても22歳の男の人の部屋だとは思えない。掃除が必要だとも思えない、埃もゴミも無く、整然とした綺麗な部屋だった。

 静弥の部屋は、モデルハウスの様に生活感が殆ど無い。インテリアもお洒落で、色調も様式も統一性があり、あたしでも趣味の良さが窺われた。部屋には、ドーンとグランドピアノが置いてある。スタインウェイ、とか言うらしいが、外国製の楽器なのに、消音装置まで着いている。そのピアノ自体もインテリアになっていて、ちっとも圧迫感が無い。

 そんな素敵な部屋に、あたしの掃除は楽しくはかどった。

 たまに、ナムが掃除するのを見越して、静弥がわざと下着とか如何いかがわしい成人雑誌なんかをベッドに置いていったりする。

「もうーっ! 静弥さんったらー! 女子高生をからかって面白がってるんだから!」

 あたしは片付ける振りをして、読破した。何気にサイズもチェックした。


 次にあたしは、夫妻の寝室を掃除する。勿論2人はいない。

 奥様と旦那様に、休みという言葉は存在しないらしい。出張も多く、1年の内半分は日本にもいないらしい。従って、夫妻の部屋は寝具すらも使われる事がまれで、あたしの掃除も埃を払う程度だった。

 貧乏暇無しって言うけど、お金持ちでも暇は無いんだ。盆正月も、年中忙しく動き回っていた自分の家族を思い出して、あたしは急に夫妻に親近感を覚えた。

 夫妻の部屋の、広くてピカピカツルツルのフローリング。端から端まで、靴下でつーっと滑ってみた。

 気持ちいい! ついでに踊ってみた。

 背筋をピンと伸ばし、手を前に出す。片足で爪先立ちして、その場でくるっと回った。両手をしなやかに揺らして、片足をピッと上げる。

 あたしは、バレエ“白鳥の湖”のオデット姫を踊るプリマドンナだ。白鳥に成り切って、手足をヒラヒラ動かしてみた。

 姿見にあたしの姿が映っている。あたしの優雅な白鳥の舞が、蛸の様な宇宙人に見えるのは、きっと鏡にひずみがあるからだろう。


 涼弥の部屋は後回しにして、掃除機を抱え、あたしは3階へ上がった。

 雪弥も、土日は家にいない事が多い。学校が休みの日は、仕事が詰まっているらしい。あたしは勝手に雪弥の部屋に入って掃除を始めた。

 雪弥はマセている様でも、部屋はやっぱり小5の餓鬼だ。床には服や漫画、雑誌が散乱している。机の上には、プラモの造りかけや学校の配布物類が散らかっていて、机の天板が見えない。本棚には、漫画と音楽雑誌。壁には、日本やアメリカのロックグループの大きなポスターが何枚も貼ってある。勿論天井にも机にも。

 それにしても広い部屋だ。よゆーで教室一つ分は有る。小5の餓鬼に、この広さは無駄だ。やたら広くたって散らかるだけで、有効に使えるとは思えない。あたしは、床いっぱいに散らかっている雑誌等を片付けながら、大木家の板床3畳の自分の部屋を思い浮かべた。

 雪弥の部屋の片隅には、ハムスターのケージが置いてある。でも雪弥は、そのハムスターを誰にも触らせないし見せない。仕事や勉強がどんなに忙しくても、毎日一人で世話をしていた。

 薄灰色の、ジャンガリアン・ハムスター、名前は“チョロ”。片手サイズの、ちっちゃな女の子だ。しかしハムスターは夜行性なので、あたしはまともにチョロにお目に掛かる事は無かった。


 週に1度、雪弥のバンド仲間の同級生の小学生達が、屋敷に遊びに来る。地下のオーディオルームで、合わせ練習をしているらしい。あたし的には……。遊んでるだけにしか見えない。

 メンバーには、可愛い女の子もいた。彼女はボーカルらしい。その他に、キーボードにドラムにベースの子。5人揃ってなかなか本格的だ。

 楽器がいいのか音響設備がいいのか、演奏が始まるとあたしの耳にもそれらしく聞こえる。でもやはり小学生だ。30分も練習すると、飽きて皆勝手に遊び出した。

「もう一回! サボるな!」

 未だ練習を続けたい雪弥は、一人で怒っていた。

 他のメンバーは、雪弥程音楽に熱くは無いらしい。バンドはただの興味本位で、見た目だけの単なる遊びの延長だった。

 暫くしてあたしが子供達におやつを持っていくと、雪弥以外のメンバーに、もう練習する気は全く無かった。子供達は、他の楽器をいじったり音響機械を触ったり、寝転がってポータブルゲームをしていたり……。

 楽譜を見ながら、不機嫌にギターを爪弾く雪弥が、一人だけ異様に浮いていた。

 あたしは見かねて雪弥に小声で言った。

「ソロでやれば?」

 雪弥に、ジロリと睨まれた。


 格闘技家を目指す錬弥だけあって、彼の部屋は柔道部の部室の様にモワッと男臭い。実際は臭くはないのだが、雰囲気が汗臭い。あたしは思わず、息を止めて部屋に入る。

 モノトーンのシンプルな色調の錬弥の部屋には、ぶら下がり器みたいのや、エアロバイクだのサンドバッグだの、ワケの分からない健康機器が所狭しと並んでいる。まるでトレーニング・ジムだ。しかもそれらは皆大きくて重くて、とてもあたし一人では動かせない。あたしは仕方なく床にへばり付いて手を伸ばし、それら器具の下を掃除した。

 あー、邪魔臭じゃまくさ。あー、面倒臭めんどくさ。あたしは器具にブツブツ文句を言いながら、掃除をした。

 錬弥の部屋にも、雪弥の部屋と同じ様に、壁には大きなサイン入りポスターが貼ってある。M―1だかK―1だかの、格闘家のファイティング・ポーズだ。

 あたしは、ポスターのポーズの真似をして、格好良く構えてみた。握った拳を、前に出してみる。回し蹴りの真似もした。壁の大きな鏡に映る構えた自分にガンを飛ばし、吊ってあるサンドバッグに蹴りを入れた。

「あちょーっ!」

 ジンジンジンジン……。サンドバッグって結構硬い。あたしはそのままのポーズで固まった。(涙)

 錬弥の部屋の掃除を終える頃には、あたしはすっかりブルース・リーだった。


 1番掃除が厄介なのは、オタク涼弥の部屋だ。パソコンや怪しいメカなんかから伸びた、ケーブルやらコードやら電源やら、色とりどりの線が床一面覆い尽くしている。元機械部品屋のあたしが見ても、何の物だか想像も付かない不可解な金属片や事具が、涼弥の机やテーブルの上に所狭しと並んでいる。

 しかも、パソコンのモニタが見え難いとかで、常にカーテンは締め切ってある。冷房もガンガン掛かっていて寒い位だ。そこはまるで、どこかの開発室か研究所だった。

 あたしは、そんな部屋のどこを歩いていいのか、どこを掃除したら良いのか、毎回判断に苦しんだ。

 その上、床に張り巡らしたケーブルをちょっとでも動かしてしまったら、直ぐに涼弥に気付かれ怒られる。どう見ても適当に並べてあるとしか思えないのに、そこはやっぱA型だ。1ミリ単位で計算され尽くした、最良の位置設定なんだろう。

 あたしは、涼弥があたしと同じヒト科の高3だとは、思いたくない。

 涼弥がオタクなのは見た目で分かるが、あたしがフルパワーで掃除機を鳴らしている間も、ずっとパソコンを弄っている。眉も動かさない。薄暗い部屋で、何かに憑かれた様に瞬きもせずモニタを睨んでいる。涼弥の眼鏡には、アラビア文字みたいな呪文が映り込んでいた。

 怪しい。涼弥って、裏サイトとか裏ゲームとか、かなり詳しそうだ。防衛省や銀行のオンラインネットをハッキングして、ウィルスを撒き散らしているんじゃないかと思う。

 そう言えば、パソコンのワクチンってどうやって注射つんだ? あたしは掃除機片手に、涼弥の横顔をじっと見つめて、看護婦さんがマウスに注射する図を想像した。

 それでも、涼弥の部屋の掃除は、あたしの一番の楽しみだ。だって涼弥の部屋は、あたしの大好きな少女漫画“ルビーの瞳”の資料館だから。

 棚にはコミック全巻揃っているだけでなく“ルビーの瞳”のガイドブック、イラスト集は勿論、あたしが知る全ての玩具、文具、お菓子、マニアでもなかなか手に入らないプレミアグッズも一式揃っていた。自分の物ではないけれど、見ているだけでわくわくする。あたしは埃を払う振りをして、それらグッズを散々弄り回していた。

 それにしても不思議だった。涼弥の部屋に“ルビーの瞳”以外のフィギュアやグッズは無い。同じ連載雑誌のコミックすら無い。“ルビーの瞳”だけはレア物ばかり、無数に集めてある。その異様な迄の“ルビーの瞳”マニア振りに、さすがのあたしも涼弥に少し、オタク恐怖を感じた。

 あたしは“ルビーの瞳”の作者の“文月りょう”の作品を思い浮かべてみた。

 えっと、他の作品は……。眉を寄せて考えてみても、ルビーの瞳以外、浮かんでこない。短編も番外編もおまけもない。彼女の作品は“ルビーの瞳”の本編だけだった。

“文月りょう”って新人なんだっけ。処女作から大ブレイクするなんて、よっぽど凄い作家なんだ。

 でももしかしたら、先生って女子高生だったりして? あの漫画の感覚、きっとあたしと年が近いよ。ため語でファンレターとか書いたら、読んでくれるかな。

「ねぇ涼弥さん」

 あたしは涼弥に、文月りょうにファンレターを書いた事があるか訊こうとして-。あたしはゴクリと生唾呑み込んだ。

 彼はモニタを細い鋭い目で見詰め、口の端をビミョーに上げて、カシャカシャとキーボードを打ち続けている。指以外は一切動かさずに、オタクの世界に陶酔していた。


 掃除の締めで、あたしは太郎の小屋掃除と本体の洗濯をする。体の大きい太郎の洗濯は、体育会系のあたしでも一苦労だ。しかも奴は、あたしの言う事を全く聞かない。

「おいこら太郎! ちっとは動け。身震いするな」

 太郎を引っ張って小屋から移動させるだけでも、重労働だ。しかも奴の1回の身震いで、あたしは全身びしょ濡れだ。あたしの顔も頭も、前面泡だらけになる。

 薄いTシャツは、濡れたら下着が透ける。あたしはTシャツの下に、中学時代のスクール水着を着用した。

“3―2 大木”透けて見えるスクール水着の、極太黒マジックで書かれた胸の大きな名札が、あたしのファッションポイントだ。

 それにしても、太郎に身震いされる度にあたしの目に石鹸が入って滲みる。あたしの頭も大盛りの泡だらけで、スーパー・サイア人だ。うーん、水着だけじゃなくてゴーグルとキャップも必要か?

 あたしは、毛足の長い太郎も、オソロでスーパー・サイア犬にした。

「行くぞ太郎! カァ―メェ―ハァ―メェ―、ハァァァァ――――ッ!」

 ブルル……。あたしの渾身の破動は、太郎の身震いひとつで玉砕した。

 いつの間にか藤代家の庭に、突如樹氷の様な謎の泡の物体が二つ、出現していた。

「ナム?」

 全身泡塗れのあたしは、誰かに呼ばれて振り返った。あたしを振り返らせた相手は大爆笑している。その声は、藤代家の広い庭に響いた。あたしはゴーグルに泡が着いて、前がよく見えないけど、この笑い声は絶対雪弥だ。


 あたしは、大奥様の部屋の掃除はタッチしない。当初、あたしが掃除用具を抱えてお邪魔しようとしたら、大奥様に追い返された。

「自分の部屋は自分でします」

 きっと人には見せられない、呪い・祈祷・占いグッズがあるんだろう。そして部屋には結界が張り巡らされ、盛り塩が置かれ、四方にお札が貼ってある。注連しめ縄・仏像・藁人形に五寸釘。大奥様の部屋はきっと“犬神家の一族”の世界だ。

 大奥様は、今日も雪弥の保護者兼マネージャー兼運転手として、雪弥に付いて、ドラマの収録スタジオに出掛けて行った。藤代家の大奥様が車を運転するなんて以外に思ったが、彼女ならきっと、スピード違反も駐車違反も怖くない。ミニパト姉ちゃんにも白バイ兄ちゃんにも、警視総官にも負けないと思う。

 大奥様は、意外と芸能界好きらしい。しかも雪弥に付き添う大奥様ご本人は、毎回演歌歌手のような派手な出で立ちだった。いつ芸能界にスカウトされてもいいように、準備してるんだとあたしは思う。

 そんな大奥様が、スタジオでお目当ての役者さんに会うと、その日は1日機嫌が良い。能面のような大奥様の無表情な顔面に、心なしか笑みが浮かんで見えた。

 大奥様の部屋が気になるあたしは、庭から窓越しにそーっと中を覗いて見た。大奥様の部屋の壁には、サイン色紙が壁紙の如く、定規を当てた様に隙間無くきっちり貼られていた。多分ジャンル毎に分けてあるんだろうけど、あたしには誰のサインかさっぱり分からない。きっと、時代劇俳優とか歌舞伎役者とか、韓流スターとかだ。

 大奥様の部屋の中を、ぐるりと見回した。魔除け、お札、式神のたぐいではなさそうだ。マリア像も妖しい壷も見当たらなかった。

 そう言えば、雪弥にお願いしている城田りゅうのサイン、雪弥はなかなか貰って来てくれない。雪弥と同じ事務所の先輩だって言ってたのに……。雪弥より芸能界通の大奥様にお願いした方が、確実な様な気がする。

 あたしに、大奥様のムスッとした顔が浮かんだ。……ムリ。お願いなんて絶対ムリだ。あたしは、大奥様の部屋の窓からそっと離れた。


 とある土曜日のお掃除日、順番通りのお屋敷の掃除を終え、庭もバルコニーも掃除して、太郎の洗濯も終えた。残るは涼弥の部屋だけだ。

 あたしは掃除用具を抱えて、涼弥の部屋へ向かった。その日涼弥は、お昼過ぎても部屋から一歩も出て来なかった。朝食も摂ってない。

 朝まで試験勉強とか、していたんだろうか。あたしもそろそろ1学期の期末テストだし。

 それとも、怪しいメカ弄りとかどこかのネットに潜り込んで違法行為をしていたとか。後、爆薬や催眠薬なんかも、実験・調合していたとか……。

 あたしはそんな事を考えながら、涼弥の部屋をノックした。

 トントン。10秒待った。返事がない。

 トントン、トントン。もう一度ノックして30秒待った。……反応無し。

 トントトトン。トトトントン、トーントトン、トトトトトン。今度はリズミカルに、大きめに何度もノックした。……シーン。

 あたしはドアに耳を着けた。中からは、声も物音も聞こえてこない。

 まさか……!

 涼弥が自分で作った薬で意識不明になったとか! 自作のメカに襲撃されたとか! PCから貞子が出てきたとか! ネットウィルスに感染したとか! あたしはごくりと生唾を呑み込んだ。

「涼弥さん? ナムです。お掃除に来ました。生きてます?」

 あたしは身体をかがめて、閉まっている戸の鍵穴へ、息を吹きかける様にヒソヒソと声を掛けた。中に貞子がいるかもしれない。

 ……やっぱり無反応だ。あたしは、想像しがたいオタクの末路を必死に考えながら、そーっとドアノブを回した。

 カチャッ。鍵は掛かっていなかった。

 あたしは部屋を見回して涼弥を探した。涼弥は、普段着のままで机にうつ伏せになっていた。ペンを握り締め力尽きた様子で、眼鏡もずれている。

 机の上から床から、散乱している本にクシャクシャに丸められた紙に紙辺。床に散ばったペンや消しゴムや定規等の文具類。机の上の、飲みかけの蓋の開いたペットボトル。異常に寒い、点けっ放しのエアコン……。

 それは、よくある2時間サスペンスドラマの殺人現場だった。

「涼弥さん!」

 あたしは慌てて涼弥に駆け寄った。涼弥の上体を起こして、息をしているかどうか確かめた。……スースーと、気持ち良さそうに寝息を発てていた。

 よかったぁ~。あたしはほっとして、涼弥をそっと元のうつ伏せ体勢に戻した。涼弥のずれた眼鏡は外して、机に置いた。

 あたしは涼弥を起こさない様に、静かに掃除を始めた。

 そっとしゃがんで、床の上に散らばった紙に手を伸ばした。丸められた紙はゴミ箱に捨てた。他の紙も拾い集めて、机の上に置いておこうとした。

 これって、どうせパソコンのパンフか何かだろう。そう思って、紙に描かれているモノをさり気なく見た。

 ……あたしの手が止まった。紙に描かれているモノに目をみはった。手に取り直して再確認した。

 まさかこれって……? それは“ルビーの瞳”の原画だった。

 あたしは目を擦って何度も見直した。何度見ても、それは印刷でもコピーでもない。正真正銘の原画だった。

 いや、これは模写だ。きっと…………。だがしかし……。

 いくら涼弥が最強オタクでも、無駄で非効率な事が嫌いな彼が、模写なんかやるとはとても思えない。これは多分……。模写じゃない。本物だ。

 それにしても、超ルビーの瞳オタクとは言え、こんなモノまで持ってるなんて、涼弥凄過ぎ。オタク越えてる。ルビーの瞳フェチだ。お休みのキスとか、おはようのキスとか、行ってきますとかただいまとか、きっとやっている。

 あたしは手を服で綺麗に拭き、もう一度原画を手に取り直して、じーっと見た。よく見ると、その原画は描きかけだった。

 描きかけって事は、失敗作か没作を譲ってもらったんだ。じゃ涼弥さんって、作者とはかなり親しい仲なんだ。親友とか幼馴染とか……。

 もしかしたら、出版社にかなり強力なコネを持っている、とか? 藤代家って、色んな方面で顔利きそうだし。

 ひょっとして、文月りょう先生が涼弥の彼女、とか? 入手困難なプレミアグッズまで全て揃ってるんだから、彼女までじゃないにしろ、きっと作者とは親しい間柄なんだ。あたしはひとりで、うんうんと頷いた。

 あたしは、他の原画も勝手に取り出して、目を潤ませて拝んだ。

 うーん、原画って、手描きの温もりが伝わって来るよ。やっぱ本物は違う。あたしはうっとりしながら、暫く原画を見詰めていた。

 あれ? 暫く原画を見続けて、あたしはある事に気が付いた。再度原画を注視した。

 あれ? 目をみはり、息を呑んだ。

「えっ、えっ、……え――っ?」

 あたしは思わず叫んでしまい、慌てて自分の口を塞いだ。そこにあった原画はどれも描きかけで、しかもナムの知らない話だった。没作にしては枚数も多い。

 あたしは毎月欠かさず、沙紀から掲載雑誌を読ませてもらっていた。目の前にある原画が、今迄出版されたものとはまるで違う事に気が付いた。描かれている話も、全く知らないものだ。

 あたしは慌てて、涼弥の机の引き出しをあさった。何種類ものペンや、スクリーントーン、定規が規則正しく並べてある中、手紙らしき物の束を見つけた。あたしはその束を手にとって、一通一通調べた。全て、文月りょう宛のファンレターだった。

 あたしはその中に、文字に見覚えがある1通の手紙を見つけた。

“文月りょう様”裏面は“大木菜夢”……。

 このファンレター、あたしの字とそっくりだ。住所も名前も書き方も一緒だし、この切手も封筒も知ってる。……ってあたしんだよ!

 ちょっと待て! 良く分かんないけど、嘘だよね? 嘘だよ。絶対嘘だし。

 ガブッ。あたしは自分の腕に噛み付いた。

 痛い……。血が滲んで涙も出た。

 夢じゃない。…………。

 ぼ――――……ぜん。あたしは暫く幽体離脱状態だった。

 あたしは我に返って、文月りょうのプロファイルを、自分の頭から全てひねり出した。

 性別住所国籍不明、年齢不詳、作品は“ルビーの瞳”1作のみ。昨年彗星の如く、突如現れた謎の漫画家だった。

 まさかね。有り得ないよね。“ルビーの瞳”の作者って、あたしと同じ年齢位の可愛い女子高生で、夢見る乙女で……。陰湿陰険なオタク男が作者だなんて事は、絶対に無い! ……はず。

 あたしの頭の中は、真っ白。目の前も白く霞んできた。

 あたしは頭を振って、さっきと反対側の腕に思い切し噛み付いた。

 がぶっ……。激痛が走って固まった。腕の歯形に血が滲む。

 夢じゃない。それにしても、あたしの血って不味まずっ。

 あたしは、有り得ない現実にくらくらして、後ろにふらっとよろめいた。頭が混乱して、情報が整理出来ない。自分が涼弥の部屋へ何しに来たのかも、忘れてしまった。

 いつもあたしは、涼弥の部屋の、コンピュータルームの様に床に敷き詰められたケーブルを、踏まない様にずらさない様にと、足元には細心の注意を払っている。だが頭真っ白の今のあたしには、そんな事に気が回らない。うっかりケーブルに足を引っ掛けてしまった。ケーブルは、あたしの足に蛇の如く絡み着き、あたしはバランスを崩した弾みで後ろにひっくり返った。

 やばっ!

 ピッと、ケーブルのどれかが外れた。あたしは足が出ずに後ろに倒れ、壁に後頭部を強打した。倒れた拍子に、あたしの足が涼弥の机を蹴飛ばした。

 ガン! 机を蹴飛ばした振動で、涼弥の机の上に置いてあったペットボトルが倒れた。机の上に散らかっていた原稿は、見る間にお茶色に変わった。インクも滲んで広がって行く……。

 ヤバっ! あたしはその状況に目玉が飛び出した。あたしは叫びそうになった口を塞いで、慌てて持って来た雑巾で原稿を拭いた。そっと丁寧に、押し付けるようにして、原画に広がったお茶を吸い取った。

 それでも5~6枚はふにゃふにゃになり、原画には何が描いてあったのか分からない程、インクのシミが広がっていた。いくらあたしがふーふーと息を吹き掛けた所で、シミはなくならないしちっとも乾かない。それどころか時間が経つに連れ、原画のインク染みは少しずつ大きくなる。

 あたしは、原稿を掴み凝視したまま固まった。血の気が一気に失せて行く……。

 あたしが机を蹴った衝撃で、机の上でうつ伏せになっていた涼弥が目を覚ました。彼はゆっくり上体を起こし、不機嫌そうに目を擦って眼鏡を掛けた。

「@!#●$X&★Y*@♂☼!¥、!!!!!」

 涼弥の悲痛な叫び声が、屋敷中に響き渡った。涼弥は立ち上がって、ナム以上に青い顔をしている。いつもはあんなに気にしている床に、涼弥が椅子をひっくり返した。ケーブルのたわみも、今の彼には目入らない。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」

 あたしはその場に土下座して床に頭を着け、ひたすら涼弥に謝った。涼弥は何が起こったのか理解出来ずに、一面インクの滲んだ原稿を見詰めて放心状態だ。

 あたしは全く動かない涼弥を見て、咄嗟とっさに真っ更な原稿紙を取り出した。机の横のテーブルに座って、汚れてしまった原稿の模写を始めた。あたしみたいな素人に描ける筈はないのだけれど、でも何とかしたかった。

 放心状態だった涼弥は、ナムの存在に気が付いて、彼女に怒鳴った。

「触るな! 仕事の邪魔だ! 出てけっ!」

 ビクッとした。あたしはそーっと顔を上げて、恐る恐る涼弥を見た。眼鏡の奥の彼の目は、いつも以上に冷たくて怖かった。

「ごめんなさい。でもお茶零して汚したのはあたしですから。元通りに直します。上手く出来ないかもしれないけど」

 そう言ってあたしは、又汚れた原稿を凝視し、唇を真一文字にきつく結んで作業を続けた。

「素人に出来るワケないだろ。頼むから出てってくれ。ペットボトルの蓋を、開けっ放しで寝た俺も悪かったし」

 涼弥は、溜め息交じりで肩を落として言った。それでもあたしは彼の言葉は無視し、鉛筆で下書きを始めた。

「分かった、分かったから。じゃぁとりあえず、何か食べる物持って来てくれよ。俺、朝飯未だなんだ」

 涼弥はショックの余り、何も考えたくはない。徹夜で描き上げた原稿が駄目になり、しかも寄りにもよって、ナムに正体がバレた。巨大台風と大震災が同時に襲って来た様な痛手だ。

 とにかく涼弥は、今はナムに部屋から出て行ってもらいたかった。1人になりたかった。

「分かりました」

 あたしは元気よく答えて、立ち上がった。原画の再生は無理にしても、他の事では役にたちたかった。あたしは涼弥のやつれた顔をじーっと見詰めて……、又座り直した。

「とか言って、あたしが出て行った後に、鍵掛けるんでしょ? そうはいきません。お手伝いします」

「そんな面倒臭い事するかよ。マジだって。ホントに俺、今腹減ってんだ」

 涼弥はイライラしながら言った。

「そう? ……じゃぁ」

 さっき起きたばっかで腹なんか減るか、と思いつつも仕方ない。涼弥は一応あたしのご主人様で、しかもあたしは加害者だ。あたしは渋々、食料調達に涼弥の部屋を出た。

「バカな奴」

 カチャッ。涼弥は眼鏡を押さえながら呟き、ナムが出て行った直後に部屋の鍵を掛けた。

 暫らくして涼弥は、自分の部屋のバルコニーの手摺りから、ニョキッと右脚と右手が出ているのを目撃した。原稿を復元する事も忘れて、涼弥がじっと窓の外を観察していると、葉っぱだらけの頭がにゅうっと出て来た。目を血走らせ、髪を振り乱して手摺を登って来るさまは、まるで貞子。

 涼弥は溜め息を吐いた。よく防犯警報ブザーが鳴らなかったと、感心した。よくよく見ると、ナムは背中に大きなリュックも背負っていた。

 あたしはバルコニーの手摺を乗り越えると、じっとこっちを見ている涼弥と、窓越しに目が合った。あたしはニッと笑って、手を伸ばし得意げにピースサインを送った。

 あたしは元気良く部屋に入ろうとして、涼弥の部屋の窓に手を掛けた。……開かない。

 力任せに押しても、引いても上げても引っ掻いても、窓は開かない。あたしはガラスに頬と掌をベタッと張り付け、窓ガラスをコンコン叩いた。その内、両掌でバンバンガラスを叩き始めた。

 涼弥は聞こえないフリをして、ナムから目を逸らせ机で原画の修復を急いだ。

 仕方ない。あたしは背負った袋から、缶コーヒーを取り出した。直後、涼弥が血相を変えて慌てて窓を開けた。缶で窓ガラスを割られたりしたら堪らない。

「え? コーヒー欲しかった?」

 あたしは、手にした缶コーヒーを涼弥に差し出した。

 バン! 涼弥はコーヒーを受け取らずに派手に窓を閉め、ガラス越しにナムを睨んで、ジャッと一気にカーテンを引いた。

 何で? このコーヒー、ブラックじゃなかったのがまずったかな。あたしは、ミルク砂糖がたっぷり入った、お得サイズの缶コーヒーをリュックに仕舞った。


 運良くその日は、藤代家の家族は皆出掛けていて、屋敷には涼弥とナム以外誰もいない。あたしは涼弥に部屋に入れてもらい、心置きなく“文月りょう”の手伝いをした。

 素人のあたしが出来る事と言ったら、縁取りかベタ塗り位だ。それでも、家事や細かい手作業をこなして来た手先の器用(多分)なあたし。暫くすると、ちゃんと涼弥のアシストが出来る様になった。

 コツを掴んで上手く描ける様に成ると、結構楽しい。涼弥より自分の作業が先に終ると、気分もいい。

 あたしは、何しに涼弥の部屋に来たのかすっかり忘れた。時間も忘れた。空腹もトイレも忘れた。息も潜めて瞬きも忘れて、一心不乱に修復を急いだ。

 部屋には、熱帯魚の水槽のモーター音と、用紙が擦れる音とペンを走らせる音しかしない。ナムが持って来た掃除機は、コードが出っ放しで部屋の片隅に追いやられ、忘れられていた。

「ナム、原稿の締め切りは今日中なんだ。原稿は毎回俺が出版社に持参するから、夕方迄には仕上げる」

 涼弥が、手を休めず顔も上げずに言った。

 あたし的には、原稿やレポートの締め切りなんて、受け取る側は結構余裕見てるんじゃないかと思ってる。宿題なんて、締め切りあって無い様なもんだし。

 それでもA型の涼弥は、期限に遅れる事は嫌いらしい。あたしは、涼弥の律儀な性格に感心した。

「原稿、取りに来てもらえばいいじゃん。時間稼げるし楽だし。ついでに、担当さんに手伝ってもらえば?」

 あたしも手を動かし原稿の仕上げをしながら、顔も上げずに涼弥に言った。

「俺のこの仕事は、秘密なんだ。学校、友人は勿論、家族も知らない。だから出版社の人間が、藤代家ここまで来て、うろうろされたら困る。

 それに出版社にも、俺のプライベートは一切知らせていない。出版社でも、文月りょうが俺だって知っている奴は、極僅かだ。担当にも口止めしてあるしな。だから社長も俺の素性を知らない」

 はぁ? そこまでやる? あたしには、漫画の仕事を家族にも友人にも極秘にしなければならない必要性が、理解出来ない。ま、校則の厳しい私立校だったら、バレたらヤバイんだろな。

 なんて、そんな事に頭を使っている時間はない。あたしの家事ノルマも掃除が終っただけで、他には手すら付けてない。洗濯物の片付けや夕食の仕度、その上涼弥の部屋の掃除も途中だった。

 時計との睨めっこだ。

 チッチッチッチ……。

 カップ麺を作る時の時計の針は、超スローモーション。なのに焦っている時に限って、時計はn倍速で進む。……うーっ、家中の時計の電池、全部抜いてやるっ!

「出来たっ!」

 午後5時、描きかけだった原稿も全て仕上がった。涼弥の声に思わずあたしは立ち上がった。

「やったぁ! バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ!」

 あたしは嬉しくて、万歳をした。そのあたし、顔中体中インクだらけだった。手も顔も真っ黒。でも気にしない。バルコニーから飛び降りたい位超嬉しい!

 涼弥を見ると、彼はどこも汚れてはいない。手も綺麗なままだ。さすがA型。

 それでもいくらプロだって、ちょっと位はインク着いてもいいと思う。あたしは全身、見事な豹柄だった。

「まぁ……素人にしちゃ、なかなかだ。ナム、サンキュ」

 涼弥は、ナムの墨だらけの顔を見て、笑いながら言った。

「えへへ」

 あたしは照れて、真っ黒い指で鼻を擦った。


 涼弥は片付けもそこそこにして、直ぐに原稿を持ち、急いで出版社に出かけて行った。

 あたしはほっとして、涼弥の部屋を片付けた。指示された通り、ペン先を洗い、使い掛けのトーンを種類別に片付け……。

 あれっ? あたしこの部屋に何しに来たんだっけ。あたしは、隅に追いやられた掃除機に気が付いた。

 あたしは大急ぎで、涼弥の部屋の掃除を済ませた。外へ飛び出し、洗濯物を片付けた。ガーっと力任せに米を研ぎ、野菜をハイスピードで切り刻んだ。自分自身も体に着いたインクを拭き取り、急いで衣替えをした。

「ナム! ただいまーっ」

 雪弥に元気のいい声が、玄関で響いた。

 ギリ、セーフ! あたしの家事ノルマは一通り終わっていた。

「お帰りなさいませ。お疲れ様でした」

 あたしは慌てて、笑顔でお出迎え。顔、黒くないよね。あたしはさり気無く、窓ガラスに映った顔を確認した。

「ナムさん、ただ今戻りました。ちょっと早過ぎたかしら? 何でこんなに早く帰って来たの、って顔してますね」

 ドキッ。大奥様はつんと澄まして嫌味を言い、お辞儀をするあたしの前を通って行った。頬がピクピク引きつるあたしは、顔を上げられない。

「ナム、太郎の散歩、未だだろ? 付き合ってやるよ。お前の為に、俺急いで帰って来てやったんだぜ」

「結構です! あたしは一人で行きたいの」

 毎度の事ながら、こんな小5の餓鬼に“お前”呼ばわりされると、やっぱムカつく。

「気にすんな。ゲーノージンのこの俺様が、一緒に行ってやっから」

 いいって言ってんだろ! そんなに行きたきゃ1人で行け! 一応、雪弥もご主人様だ。あたしは言いたい言葉を呑み込んで、じろっと雪弥を睨んだ。

 あたしと一緒に行く太郎の散歩は、雪弥の楽しみらしい。散歩の時の雪弥は、異常にテンションが高い。

 あたしは仕方なく、雪弥と一緒に太郎の散歩に出掛けた。

 相変わらず、太郎はあたしの言うことは全く聞かない。雪弥の命令には従うのに。

「当たり前だ。俺と太郎は生まれた時から一緒なんだ。ナムとは違う」

 へいへい。

 あたしは涼弥の件で頭も体力も使い果たしていた。その上、今こうして太郎に振り回され雪弥に操られ、ヘロヘロの域を越えている。しかも集中力の無いあたしは、雪弥に毛虫やらバッタやら蜘蛛やら、くっ付けられ放題だ。

「ぎゃぁぁぁ!」

 あたしはその都度叫び喚きながら、太郎の散歩を終えた。3試合ぶっ通しで、バスケの試合にフル出場した気分だった。

 いつもの太郎の散歩道、屋敷に戻る途中で、涼弥の姿を見付けた。

「おーい、りょーやさーん!」

 あたしは思わず涼弥に手を振り、太郎を引き摺って涼弥に走り寄った。

“間に合った?”聞こうとして―。慌てて自分の口を塞いだ。雪弥には秘密だ。

「えっと……。涼弥さん、お帰りなさい」

 あたしは満面の笑顔で、目で“お疲れ様でした”と伝えた。どうだった? と小首をほんの少し傾げた。

「ただいま」

 涼弥も、ナムに笑って答えた。涼弥の指先が、雪弥に分からないようにOKと伝えている。いつもは冷たく光る涼弥の眼鏡が、今のあたしには優しく見えた。

 でも笑顔? あの涼弥があたしに笑顔でただいま?

 あたしは今まで涼弥には、散々無視され馬鹿にされ続けていた。それが今は、なんだか別人みたいで可笑しくて、あたしは思わずクスッと笑った。

 雪弥は、アイ・コンタクトをする2人の顔を見比べた。面白くない。

 その時あたしは、涼弥に気をとられて油断していた。

 雪弥は突然走り出し、不機嫌に太郎を呼んだ。あたしは急に走り出した太郎の動作に反応出来ず、ぐん、と引き倒されて、毎度の様に道路におでこを強打した。

「いっっっったぁ~~っっ! ゆっ、ゆっ、雪弥ぁ――っっ!」

「べーっ! いい加減学習しろよーっ!」

 走って逃げる雪弥を、涙目のあたしはリードを引っ張り、太郎を引き摺って追いかけた。

 涼弥は2人を目で追いながら、ポケットからメモ帳を取り出し、何やら書いている。

 突然ナムが踵を返し、太郎を引き摺って涼弥の前に戻って来た。涼弥は慌ててメモ帳を後ろに隠した。

「涼弥さん……。あのさ、あのさ……。あたしの手紙、……読んだ?」

 あたしはぶったおでこを摩りながら、上目使いで涼弥の顔を窺った。あたしの文月りょう宛てのファンレターは、赤面したくなる様な内容だった。

“毎回欠かさず読んでます! 勿論、全巻揃ってます” 全巻揃ってるのは沙紀ちゃんだ。

“私も、レイみたいに元気があって勇敢な美少女だって、よく言われます! しかも私の彼も、ギル様似で超カッコいいんですよぉ~”あたしの主観。

“文月先生は、私の神様です! 仏様です! 崇拝してまーす!”

“私は、城田りゅうが大好きです。先生は、どんなタイプの男性が好みですか? やっぱギル様? ……”

「見た」

 涼弥は下を向いて笑っている。

「返して! あれ涼弥さんにあげたんじゃないんだから!」

「やだ」

 いつの間にか雪弥が戻って来て、又太郎を呼んだ。

「来い、太郎!」

「あっ!」

 再び太郎に引っ張られて、あたしはドシンと尻餅を搗いた。

「やっぱ学習しない奴」

 涼弥が腹を抱えて笑っている。

「か・え・し・て」

 あたしは手を突き4つん這になり、髪が振り乱れた頭を持ち上げて、恨めしそうに涼弥を睨んだ。そして、呪いを掛ける様に言い放った。

「か~え~せ~!」


『ムーナ、ちょっと部屋の外へ行っててくれる? ギルとロンに話があるから』

 あたしは連載少女漫画“ルビーの瞳”の、レイの台詞を復唱した。漫画のヒロイン、レイから部屋の外に追い出されたサブキャラのチビ魔女ムーナの絵を仕上げていた。

 あたしは、涼弥がよこした次の漫画の原稿を見た。窓の手摺りに、ムーナの右脚と右手がニョキリと掛かっている。

「このシーン、どっかで……。まさかこれって、あたしの事じゃないよね?」

 あたしは涼弥を横目で睨み、低い声で脅すように言った。心なしか、原稿に向かっている涼弥の肩が、細かく振動している。

 あの事件以来、あたしは毎日ウキウキしながら“文月りょう”のアシスタントをしている。大好きな“ルビーの瞳”の製作にたずさわり、しかもバイト料も貰えるなんて、こんな嬉しい事はない。

 でも別にあたしは―……。手伝わせて欲しいだなんて、無理に涼弥にお願いしたワケではない。あたし的にはー、アシスタントなんてー、面倒臭いしー、服も汚れるしー、それにあたしは受験生だし―……。

 あたしが一言、皆にばらす! って言ったらなぜかあの涼弥が、お願いしますとあたしに頭を下げて来た。

 涼弥の部屋でアシスタントをするあたし。“ついで”に涼弥にはあたしの受験勉強も見てもらっている。特に、苦手なセンター試験の数Ⅰ。

 事件から半月。せっせと文月りょうのアシに励むあたしに、涼弥はいまだにあたしのファンレターを返してくれない。


『私は、気に入った物がなんであろうと関係ないよ。花だったり、毒だったり、女だったり、男だったりね』

 ヒロインのレイ王女を誘惑する、ヒールキャラ、アランの台詞。

「一般高3男子の涼弥が、なんでこんな超乙女な台詞思いつくよ? しかも涼弥って、パソコン・メカオタクの癖に。その頭ん中、開けて見せて欲しいわ」

 最近、あたしは涼弥を呼び捨てにする。だって同級生なんだし、涼弥の副業(漫画家)の弱味も握っている。

 アランの台詞を復唱するあたしの口は、ついつい蛸になる。そして特に特に、丁寧に、レイとアランのキスシーンを仕上げた。

「ねぇねぇ、涼弥。アランってレイがお姫様だっていつ知ったの? ……あ、最初っから知ってたんだっけ」

 あたしは口を蛸にしたまま、涼弥に向かってモゴモゴ喋った。涼弥は原稿に向かったまま、肩をヒクヒクさせて、何も言わずにナムに新しい原稿を手渡した。

 それは、天然ボケボケのチビ魔女ムーナが、階段から滑って転がっているシーンだった。

 絶対に絶対に! 自分の事では無いのだけれど、なぜかあたしはムッとした。

 あたしは、どんなキャラでもどんな設定でも、キスシーンは念入りに仕上げる。バックには、涼弥の指示以上に丁寧にバラを一面に散らす。あたし自身も目を潤ませ、蛸口で―……。チューッ! 仕事を終えて涼弥の部屋を出る時、あたしの唇はいつも黒くなっていた。

 あたしは、ムーナの背景には、分からないように小さくドクロマークを描く。

「ナム、お前仕事サボって何やってんだ?」

 涼弥が怪訝な顔で振り返ると、ナムは椅子に座って、揃えた両膝に片肘を突き、背を丸めて手で顎を支えている。

「ムーナの、思案に暮れる表情を描こうと頑張ってるんだけど……。右だったかなぁ。それとも左かなぁ」

 ナムは、顎を支える腕を、右、左、右と替えて、神妙な顔付きで考えている。

「そんなに何考え込んでんだ? 何か問題?」

「うん“考える人”って、右手だっけ。左手だっけ」

 真剣に悩むあたしに向かって、涼弥が持っていたペンが飛んで来た。


 その日のあたしの下校時、いつも通る藤代家の近所の公園で、小学1~2年生位の男の子達が、桜の木の上を見て騒いでいた。男の子の視線の先には、木の枝に引っ掛かっているバドミントンの羽があった。羽は結構高い枝先に引っ掛かっている。

 男の子達は、羽に向かって石を投げたりラケットを投げたりしていたが、それらは羽に掠りもせず、葉っぱや小枝ばかりが落ちて来た。羽が小枝に刺さっているのか、風が吹いても小鳥が騒いでも、落ちてくる気配は全く無い。

「ちょっと貸して」

 暫く子供達の様子を見ていたあたしは、我慢出来なくなって男の子からラケットを取り上げた。男の子は、突然後ろからラケットを取り上げられて、驚いてナムを見ている。

 あたしはそんな事には御構い無しで、ぴょんぴょんとジャンプしながら、羽に向かってラケットで扇ぎ振り回し、羽を落とそうとした。でもやっぱり、子供達とおんなじで、葉っぱや枝ばかりが千切れて落ちた。

「惜しいなぁ、もうちょっとなんだけどなぁ」

「全然惜しくないし」

 子供の呟きは、あたしには聞こえない。

 今度は両手で、相撲の様に桜の木を掴み、揺すってみた。力いっぱい押したり振ったりした。やっぱり、葉っぱが落ちただけだった。

 それならと、ガンガン幹を蹴ってみた。

「おりゃっ! とりゃっ!」

 羽は木の振動に合わせて揺れるだけで、少しも位置が変わらない。

「よ――し!」

 あたしは腕捲りをして、木から離れた。思い切り助走をつけて跳んだ。

「両足キ――ック!」

 ガツン! あたしの一撃で木は大きくしなった。その弾みで……。

 落ちてきた! 大量に桜の毛虫達が……。あたしの頭に、顔に、腕に、脚に、背中に、服の中に……。あたしの意識が吹っ飛んだ。

 気が付いたら、あたしは藤代家の屋敷の門前で、汗塗れでゼイゼイ息を切らしていた。

 あたし良く覚えていないけど、バドミントンの羽はちゃんと取れたのかな? 確かラケットは返したよね? 確認しに公園に戻るのは、今はやめておく。


『見てて下さいギル様。あたしの素晴らしい魔法で、あの美味しそうな桃をひとつ残らず落としてご覧にいれます。えいっっ!』

 杖を振り回す、ムーナの台詞。

「……涼弥、ムーナの魔法ってギャグが多いけど、何も毛虫が落ちて来なくってもいんじゃない? しかも、2ページフルに毛虫って、どうよ」

「……」

 下を向いて原稿を描いている涼弥の肩が、細かく震えている。

 あたしは、手渡された次の原稿を見た。ムーナが、背中にくっついた毛虫に、血相を変えて必死に走って逃げているシーンだった。

 まさか涼弥って、今日のあたしの毛虫事件……。この絵はただの偶然で……。

 あたしは、桃の木から落ちてきた何百匹もの大量の毛虫達の絵の中に、髑髏マークも沢山混ぜ込んだ。ピースサインをしている毛虫もいる。踊ってる毛虫やつも。桃の木には、こっそりバドミントンの羽を忍ばせた。

 ナムがさっき通った毛虫公園は、涼弥のお気に入りの場所だった。彼はその時間、いつもの様にその公園のベンチに寝転がり、本を顔に載せて転寝うたたねをしていた。気持良く寝ていた所を、爆撃音の様な奇声で起こされたのだった。


 涼弥は、部屋でグッピーを飼っている。飼い易くてすぐ増えるらしいのだが、あたしが小さい頃オタマジャクシと一緒に飼っていたら、すぐにいなくなった。

 水槽の水は、時々交換する。フィルターも付いてるし、放っといても死なないと思うんだけど、涼弥が“換える”と言い張るのだから仕方ない。とりあえず使用人のあたしは、とりあえずご主人様である涼弥に、とりあえず従う。

 水換えは、魚を捕まえるのが大変だ。グッピーはちっちゃいし、何十匹もいる。最初はうじゃうじゃいるから、網で掬うのは簡単だった。数が減ると、小さくてすばしっこいのが残った。元バスケ部のあたしの鮮やかな手付きでも、全く捕まらない。かと言って手を突っ込んで、魚を弱らせるワケにもいかない。

 うーん……。

 ひらめいた! あたしはポンと手を打って、台所に向かった。

「ナム、どこ行く?」

「うん、ちょっとね」

 あたしは、台所からプラスチックコップを持って来た。おもむろに、そのコップで水槽の水を掬い始めた。水を減らして魚を捕まえやすくする作戦だった。

 ……10分経った。横幅が1mもある水槽の水は、一向に減ってない。

 パソコンに向かっていた涼弥が、水槽の方へ振り向いた。涼弥はナムを見て、口をあんぐりと開け固まっている。

「ナム、お前何やってんの?」

「見れば分かるっしょ。魚捕まえてんの」

「網は?」

「それじゃ掴まんないし」

 あたしは、小さな網をチラッと見た。

「あのなぁ……。大きいのがあるだろう?」

 あたしが使っていた小さな網の他に、水槽の横にもう一回り大きな網があった。

「そっか。……そうだよね」

 あたしは納得して、再び台所へ向かった。

「ナム?」

 あたしは、どこへ行くのかと訊きたな表情の涼弥は無視して、勢い良く涼弥の部屋を飛び出し、一回り大きなプラコップを持って戻って来た。

「ジャーン!」

 あたしは得意気にコップを涼弥の目の前に差出して、それで又、水槽の水を掬い始めた。

 涼弥は、頭を押さえた。

「ナム……。そうじゃなくて……。網を使えよ、網を」

「網?」

 あたしは涼弥に振り返った。涼弥が指差す方向に、大きな網があった。

「網……。そっか。そうだよね、涼弥ってあったまい。伊達に眼鏡掛けてるワケじゃないんだ」

 あたしは一回り大きな網に、持ってきた大きいほうのコップを入れて、水槽の水を掬い始めた。

「コップだけで掬うと、水、半分しか入んないじゃん。でも網を使うと、柄杓ひしゃくみたいでコップにフルに水が入るよね。掬い易いし。成る程、網ってこーゆー使い方もあるんだ」

 そーゆー使い方をするのはお前だけだ! 網をこんな風に使う奴を、涼弥は始めて見た。しかも、大きい網と言っても華奢なフレームの網は、コップと水の重さに耐えられず……。

 バッシャーン!

 ついに網の柄が捥げて、網諸共あみもろともコップは水槽の底にゆっくりと沈んでいった。

「あ……」

 柄だけになった網を掴んで、ボーゼンとする水浸しのあたし……。大声で笑う事のない涼弥が、腹を抱え大声を出して笑っていた。


『ギル様、あたしに任せて! あたしのスーパーミラクルマジックで、湖の魚をいーっぱい捕まえてあげますから!』

 ムーナの台詞。ムーナは、湖の真ん中に飛んで行って止まり、魔法で枯れ草を網に変えて湖面で大きく広げる。網はゆっくりと湖の中に沈み、暫くして魚をいっぱい入れて湖面に浮上した。レイ達はその様子を、湖岸から見守っていた。

 ところが、いくらムーナが呪文を唱えても、網は湖面から一向に上がってこない。業を煮やしたムーナは、両手で網を掴んで持ち上げようとした。

『えいっ!』

 網は、力任せに引っ張り上げられた。ムーナの魔法が掛けられた網は、魚と共に湖水も掬っていたので……。

『あっ』

 網は水の重さに耐え切れず、千切れて下に落ち、網の上にいたムーナは、派手に上がった水飛沫でびしょ濡れになった。魔法が解けた枯れ草を掴んで、ボーゼンとするムーナ。

「ねぇ涼弥。これって……」

 あたしは、肩が細かく振動している涼弥を睨んだ。

後編に続きます。

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