ぷろろーぐ(後編)
前編をお読み頂きまして、誠にありがとうございます。
長いプロローグの後編です。最後まで行き着いて頂ける事を祈っています。
「太郎、おいで」
雪弥は犬のリードを持って、セントバーナードの太郎に近付いた。普段太郎は、リードに繋がれる事はなく庭に放してある。それでも太郎の行動範囲はかなり狭い。1日中、犬小屋付近でゴロゴロしている。
太郎は雪弥と同い年らしい。犬にしたら、かなりのお爺ちゃんだ。
さっき、あたしが大奥様に案内されて来た時は、ぴくりともしなかった太郎が、雪弥に呼ばれて起き上がり、雪弥に尻尾を振った。寝そべっていても大きい太郎は、立ち上がると更に大きくなった。
太郎は毛むくじゃらで、目がどこに有るのか解らない。でもきっとその目は、あたしを無視しているかバカにしている。
あたしには振らない尻尾を、雪弥には派手に振っている。あたしは太郎の尻尾を、踏ん付けたくなった。
雪弥は、慣れた手つきで太郎にリードを付け、お散歩セットと一緒に、あたしに手渡した。
「はい」
「あ、ありがと」
あたしは、リードとお散歩セットを確認する。何も犬の散歩は始めてではない。動物病院のバイトや、近所の犬の散歩を手伝った事もある。とは言え、こんな大きな犬は始めてだった。
「太郎、おいで」
雪弥が誘うと、太郎は元気よく走り出した。あたしは、ぼーっとしていて油断していた。太郎に急に強い力で引っ張られ、あたしはバランスを崩して見事にすっ転んだ。太郎は、結構な体重の有るあたしを、リード毎ずるずると引き摺って雪弥の後を走って行く。どっちが犬だか解らない。
「ちょっ、ちょっとたんま。止まって! 止まってよ、太郎、太郎! 止まってって! 痛っ、痛いって!」
太郎に止まる気配が無い。まるでアクション映画の様に引き摺られ、あたしの腕も足も擦り傷だらけになった。服も土塗れ。今度こそキレた。大声で怒鳴った。
「止まれ――っ! 雪弥――っ!」
止まった。
あいつーっ。
あたしの服は、擦れて破れかけている。やっぱジャージで来れば良かった。半そでTシャツ、半パンで来たあたしは、両肘両膝とも擦り剥いて、血が滲んでいた。
あたしは、雪弥の隣で大人しく座っている太郎の横に座り込んで、擦り剥いた肘や膝を、ふーふーした。気が付くと、オデコにも擦り傷がある。雪弥は太郎の隣で、地面を叩いて笑っていた。
ムカつく! あたしは雪弥を睨みながら立ち上がって、服の土を払い落とし、太郎のリードをぐっと握り直した。
「お・い・でっ!」
あたしは太郎に顔を近付け、凄い形相で睨み付けた。ナムの気迫にビビったのかナムに同情したのか、太郎はのそっと立ち上がって、大人しくあたしの横に付いた。
「やれば出来るじゃん」
あたしは満足して、太郎を連れ歩いた。雪弥も、ふふん、と鼻を鳴らして太郎の後ろを付いて来た。
「ねぇねぇ、ナムって何歳?」
無視無視。いくらご主人様だって、7歳も年下の餓鬼に為口叩かれて、いい気はしない。
「おばさん」
「うるさい」
無視する筈が、あたしは思わず声を出してしまった。
「おばさん」
「おばさんじゃない! あたし未だ17だし! 現役女子高生だし! ふん!」
あたしは雪弥から、プイと顔を背けた。
「気にしてんだー。やっぱ、おばさんじゃん」
「どこが―っ!」
一際大きな声で吠えた。あたしはあっさり、小学生の餓鬼のペースに乗せらた。
反省……。あたしは自分の明るい未来の為に、何を言われても雪弥を無視する事にした。
「17にもなって彼氏もいないのかぁ。かっわいそー」
「……」
「えーマジ? マジでいないの? 今までずーっと? 彼氏いない歴17年? 超だっせー。今時幼稚園だって、ラブラブなのに。俺なんか―」
「うっさいね。1人いるし。進行形だし」
拙った。つい乗ってしまって答えてしまった。雪弥は哀れむように、手と首を振った。
「あー、無理しない無理しない。別にナムだったら、ず――っと、ず――――っと、ず――――――っと彼氏無しって言われても、全然不思議じゃないから。いる方がおかしいし。
自覚しろよ。ソレ、絶対彼氏と違うから。
あっそっか。ナムって、勘違い女だったんだ。え? もしかして、ストーカー?」
あたしの拳に力が入った。
「誰が勘違い女だって~?」
あたしは、重低音のドスの効いた声で、雪弥を威嚇した。力が入った手に、青筋も立った。
それでも雪弥は全く応えていない。両手を後頭部に当てて、そっぽ向いている。
「別にぃ。でもナムの彼氏なんて、見なくても分るな。チビデブハゲの3拍子揃った超不細工細工男だろ。そんな奴しか、相手にしてもらえないよな。でもナムには王子様に見えるってか? アホ臭」
あたしは、子供相手にマジギレした。いくら子供とは言え、初対面の相手を、ここまでコケ降ろしてイイワケない。しかも、あたしの大好きな彼氏を。
「うっさ――い! 誰がチビデブハゲだよ。山本君は細身で背が高くて、運動神経抜群で、中学ん時はバスケ部のエースだったんだから!
髪だってあたしよりサラサラで、頭も良くてモテモテで、学校中の王子なんだから。何であたしが彼女なのか、不思議な位よ。
雪弥よりも、ず――っと、ず――――っと、ず――――――っと、いい男だよ。顔も性格も、根性もっ!」
あたしは一気に言い切って、肩で息をした。言ってからあたしは後悔した。子供相手になんて大人気ない。自己嫌悪。
雪弥は、ちょっと面白くない顔をした。
「なーんだ、いるんだ」
雪弥は小さく呟いて、黙り込んだ。
あたしは、しょんぼりした雪弥をちらっと見た。ごめん。心で謝った。子供相手にちょっと強く言い過ぎだ。あたしも俯き、トボトボ歩いた。
その直後、あたしは“反省した事”を反省した。
「太郎、おいで」
雪弥は急に走り出した。太郎も雪弥の後を追って勢い良く走り出した。あたしは、又太郎にいきなり引っ張られ、引き摺られた。
ザザザーッ。ビリビリ……。擦り傷が倍に増えた。
やっと屋敷の近くまで戻って来た。雪弥とは、二度と一緒に散歩に行くか! あたしは、涼しい顔の雪弥を睨み付けた。
その時、真っ赤なフェラーリが風音を発てて、あたし達の目の前を通り過ぎた。
何? あの気障な車! あたしは風に飛ばされた髪を整えながら、ムッとして車を睨んだ。その車は、藤代家の車庫に入っていった。
お客様? あたしは慌てて自分の格好を確認した。太郎に引き摺られて、あたしのTシャツも半パンもボロボロ。しかも土埃塗れ。顔も手足も傷だらけだ。
車のドアが開き、1人の超イケメンが、髪を靡かせサッとサングラスを外して下りて来た。まるで、グラビア撮影でもしてるかのようだ。
彼は、身長は180センチ位だろうか。手足が細くて長い。かと思えば、肩幅は結構広くてガッチリしている。クールで端整な顔は、モデルの様に小さく、細くて長い首。見るからにさらさらの少し肩に掛かる髪は、微かに風に揺れている。
はらはらと、彼の周りをバラの花びらが舞っている! ……いや錯覚だ。
こんな昼間に、こんな高級車を乗り回しているなんて、この男はきっと、超一流ホストクラブのNo.1だ。
「静兄お帰り」
お兄さん? 小5の雪弥に、ホストの知り合いがるのか? あたしは眉を顰めて雪弥を見た。
「ただいま、雪」
彼の声に、あたしは痺れた。さすがNo.1ホストだ。声も超いい。自分に向けれらた訳じゃないのに、あたしは彼の微笑みにぼーっと見惚れてしまった。
「雪、その人は?」
彼に振り向かれ優しく見詰められて、あたしの顔が赤くなった。雪弥がナムの反応にむっとして、ガン、とナムの足を踏ん付けた。
痛っ!
「雪の彼女?」
彼は悪戯っぽく笑って、雪弥を見た。
「冗談! 誰がこんなおばさんドブス!」
雪弥が派手に激しく抗議した。あたしは雪弥の耳元で、小声で言い返した。
「おばさんブスで悪かったね」
「どブスだよ」
ムッカーッ。
あたしは顔はにこやかなまま、イケメンの彼に気が付かれない様に、踵で雪弥の足をドンと踏み、ぎゅぎゅぎゅっと180度捻じってやった。
「やったなぁ!」
空かさず雪弥が反撃して、足が飛んで来た。
「可愛いお姉さんに向かって、ドブスなんて言うからだよ」
「事実だもん」
「踏み返してやるっ」
しかし相手はすばしっこい小学生。あたしは、何度も地球を踏ん付けた。
「逃げるな! 足出せ! 男の癖に卑怯だぞ! 元バスケ部を舐めんなよ! 絶対踏んでやるっ!」
壮絶な足踏み合戦に、太郎とその彼は、その場で固まっていた。
呆れて家に入ろうとした彼に、あたしは気付いてその腕を掴んだ。
「待って! お客様ですよね。今、ご案内します!」
血走ったナムの目。ナムの腕は、犯人を捕らえた刑事の手だった。
「僕はこの家の者だよ。雪弥の兄だから気は使わないで。で、君は?」
「あなた、雪弥の、お兄様ぁ……?」
確か奥様って30代前半で、子供は皆小学生以下で……。もしかして、あの奥様って後妻さん?
「ごめんね。この手、放してくれるかな」
あたしはパッと手を放した。
「ごめんなさい! 申し遅れました。私は大木奈夢と申します。今日からこちらのお屋敷に、ハウスキーパーとして住み込みでお世話になります。よろしくお願いします」
焦ったあたしは早口でそう言って、地面に着きそうな程、深々と頭を下げた。
「そうなんだ。僕は静弥。雪弥の兄です。聖稜医科大4年。よろしくね」
そう言って、静弥はあたしに優雅に手を差し出した。あたしは握手を求めるその仕草に、再び見惚れてしまった。夢心地で手を出した。
ハッとして、手を引っ込めた。静弥とは言え雪弥の兄貴だ。あたしは掌に朱肉が無いのを確認した。
「どうかしたの?」
「いえ、何でもありません。こちらこそ、宜しくお願いします」
良かった。あんな事するのは雪弥位だ。あたしはほっとして、満面の笑みで静弥に手を差し出した。
でもこの人、マジで雪弥のお兄さん? じゃやっぱ、あの奥様は後妻さんだよ。計算合わないもん。
後で、実は奥様はナムの母親と同い年だと聞いて、あたしは驚愕した。
横で、ナムと静弥の様子を大人しく見ていた雪弥が、差し出したナムの掌にポトリと何かを落とした。それは黒くて、ゴソゴソ動く物体。
何、何、毛虫? 蜘蛛? ゴキブリ? あたしはギョッとして、掌を確認した。
「ぎゃ――――――っ!」
耳を劈く様なあたしの雄叫びは、屋敷中に木霊した。そしてその物体は、あたしの掌から飛び出し、運悪く静弥の顔にくっ付いた。
しまったぁ! 慌てふためくあたし。……それは、良く出来たゴムの蜘蛛だった。
「雪弥っ!」
「雪!」
あたしが怒鳴ると同時に、さすがの兄も堪らず叫んだのだった。
「ごめんね、雪弥が酷い悪戯して。性も無い弟だけど、根はいい子だし悪気は無いから」
リビングに入って、静弥がさらりと言った。でも本当は、然程悪いとは思ってないらしい。静弥の口調はやけに軽い。
「雪弥の悪戯のお詫びと、菜夢さんの歓迎の気持ちを込めて」
あたしに、静弥の顔が近付いて来た。
「ピアノ、弾いてあげる」
耳元で囁かれて、あたしの体中の毛が逆立った。
「けっっっ、結構ですっ!」
あたしは両手を突き出し飛び退いて、壁に引っ付いた。
この人、かなりの女っ誑しだ。医大生だって言ってたけど、きっとホストのバイトもやっている。
静弥は、壁掛け状態のナムにはお構い無しで、白いピアノの前に座り、蓋を開けた。
え? このピアノ、奥様じゃなくてこの人が弾くんだ。あたしは壁に貼り付いたまま、目をパチパチさせた。
あたしは雪弥を見た。雪弥は無表情で黙ったままだ。
雪弥は、カウンターの、背凭れのある椅子を引っ張って来て跨り、背凭れを抱え面倒臭そうに顎を乗っけている。その表情からは、何を考えているのかあたしには読めない。逆に何か仕掛けて来るんじゃないかと、雪弥のその静けさがあたしには不気味だ。
「そう言えば、雪、今日仕事は?」
静弥が、ピアノの上に置いてあった楽譜を取り出して、ぱらぱら見ながら雪弥に訊ねた。
雪弥が仕事? こんな大きなお屋敷に住んでて、家政婦を雇う程の家のお坊ちゃまが仕事? 大木家じゃあるまいし。
でも実は、見た目だけお金持ちで、ホントは貧乏だったりして?
雪弥が、清掃服を着てモップを持っている姿が浮かんだ。……ナイナイ。
「俺? 今日はオフ。仕事だから行くだけだもん。先輩には来いって言われるけど、俺は仕事無い日は行かない。楽しくないし。
別に仕事だって、頼まれてるからやってるだけだし」
雪弥は足をぶらぶらさせ、どうでもよさそうに答えた。
聞きたくもなかったが、あたしは社交辞令で雪弥に尋ねた。
「仕事って何? 何やってんの? アルバイト? でも子供はやっちゃ駄目なんじゃない? 労働基準法とか何とかで」
静弥が代わりに答えた。
「雪は子役。3つの頃に子供モデルとしてスカウトされて“J-Boys”に所属してるんだ。仕事って、舞台とかテレビとかイベントとかだよ。テレビのバラエティやドラマにも出てるから、見た事あるんじゃない? その顔」
「えっっっ、ええ――――――っ!」
ピタッ。あたしは再び壁に貼り付いた。貼り付いたまま、繁々と雪弥の顔を見た。
あたしはさっきから、雪弥に悪戯ばかりされて気が付かなかったが、よくよく見ると、結構可愛い顔をしている。もしかしたら、テレビでも無意識に見てたかもしれない。
いや、そんなことより“J-Boys”と言ったら……。
あたしはキラキラと瞳を輝かせ、雪弥の前で跪き、雪弥の手を両手で握り締めた。
「あたし“J-Boys”の城田りゅうの大ファンなんだ! 雪弥の先輩なんだよね。素敵よね、カッコいいよね!
ねぇねぇ、雪弥今度いつ仕事に行く? あたし、一緒に行ってもいいかな?」
あたしは潤んだ瞳をパチパチさせて、雪弥の両手を、ぎゅ――っと握った。
「知らね。ナムみたいなバカ、連れてけるワケないだろ」
「誰がバカだって」
あたしは、むっとして雪弥を睨んだ。雪弥は、ナムの手を振り払って静弥に話し掛けた。
「静兄も今日は早いんだね。学校終り?」
あたしの眉が、ピクリと動いた。
静弥さん、今、学校帰り? でもさっき車だったよね? まさか、学校へ車で行ってんの? 学生なんだからチャリで行けよ、チャリで。あたしの中で、イケメンホスト静弥の評価が少し下がった。
静弥は、指輪と腕時計を外して、ピアノの上にそっと置いた。ピアノの蓋を開け、女みたいに細くて長い指で、鍵盤をポロンと鳴らした。
「僕? そうだよ、今日の講義は終り。で、これからデート。だから、着替えに帰って来たとこだ」
静弥は、白いTシャツの上に濃紺の薄手の綿ジャケットを羽織って、綿のベージュのパンツを穿いている。きっと、イタリアかどっかのブランド品だ。腕時計やネックレスやピアスや指輪は、当然本物だろう。
ラフな格好とは言え、あたしと比べたら、めっちゃお洒落だ。何も着替える必要は無いと思う。
でもデートって、もしかしてホストの同伴デートって奴? 凄いマダムが相手かな。あたしの妄想が駆け巡る。
「菜夢さんって、ナムちゃんって言うの? 可愛らしい愛称だね。でリクエストは何?」
静弥は優雅にあたしに振り返り、あたしの目を見詰めて優しく微笑んだ。
ぼ――――。あたし、薔薇色の異世界トリップ。
「ナムちゃん?」
静弥が、小首を傾げた。雪弥が、呆れて指摘した。
「ナム、ヨダレ」
「え? あ、ピアノですか? じゃ、ショパン、とか」
咄嗟にショパンと言ったものの、よくよく考えてみたら、ショパンなんて知らない。大体ピアノの曲なんか、あたしが題名を知っているのは、殆ど無い。
「えっと、エリーゼの為に……ってバッハでしたっけ? ……あの、本日のお勧めでお願いします!」
日替わりランチじゃ無い。
「いいよ“エリーゼの為に”を、ナムちゃんの為に弾いてあげる」
ウインクされて、粟っとした。
「け、結構です! じゃ、じゃぁあたしの行き付けスーパーの閉店時に、いつもかかって曲なんですけど。蛍の光じゃなくて」
静弥は、困った顔をした。
「スーパー? 僕、行った事ないんだけど」
スーパー位行け。どんだけお坊ちゃまよ。それでもあたしは、鼻歌でその曲を歌った。
「うーん、こんな曲?」
雪弥にはさっぱり理解出来ないあたしの鼻歌を、静弥は瞬時に聴き取った。“別れの曲”を右手で少し弾いた。
「そうそう。それです。この曲がかかると、一気に安売りモードになるんです。ラストスパートって感じで、気合入りますよね?」
ショパンの“別れの曲”で気合が入る奴は、そうそういない。静弥は思わず噴き出した。
「おもしろい解釈だね」
静弥はそう言いながら、ピアノの椅子に座り直した。
ポロン……。静弥がピアノを弾き始める。僅か数小節で、リビングは静弥の世界になった。あたしは言葉を失った。
流れるようなメロディー。いつもあたしが元気になる閉店の曲なのに、何故か切ない。心に届く旋律は、ピアノなのにまるでハープの音色に変わってあたしの耳に届いた。
ピアノから、音符の蝶々がフワフワ舞って来て、耳に触れて離れて行くみたい。なんて優雅で、透き通った音なんだろう。
学校の音楽とはワケが違う。今迄聞いたことも無いような調べに、あたしはうっとりして、息をするのも忘れそうだ。静弥のピアノひとつで、今このリビングは、俗世間から掛け離れた空間になった。
目を瞑ると、あたしは閉店セールではなく、兄貴がまだ高校生だった頃の、懐かしい町工場が浮かんだ。
そう言えば兄貴、元気でやってるかな。無事に大阪のお笑い芸人になれるんだろうか……。曲に乗せて、厳かに兄貴に祈りを捧げた。
いつの間にか、大奥様もリビングに来て、ソファに座って静弥のピアノに聞き入っていた。
残り僅かな夕日が、レースのカーテン越しに静弥に当たる。白いピアノが紅に染まって、幻想的な情景を描き出している。その映像は、既に芸術作品の域に達していた。
はぁ~。世の中に、こんな人が本当に存在するんだ。あたしは、静弥の存在に感動した。
余韻を残して曲が終わり、大奥様が拍手を送った。
「静弥さんのピアノは、いつ聞いても素晴らしいわ」
あたしも、力いっぱい拍手した。
「本当に凄いです。あたし鳥肌立っちゃった。この曲、気合が入る所か、こんなに切なくて綺麗な曲だったんですね。知らなかった。何て曲ですか? バーゲンとかは、関係ないですよね」
「ナム、バカ決定。これ別れの曲ってんだよ。これ聞いて気合いが入んのって、お前位じゃね?」
椅子に顎を掛けたまま、上機嫌のナムに雪弥が面白く無さそうに言った。
でもその時間にスーパーに居合わせた客は、あたしも含めてその曲を合図に気合いが入り、皆目が血走る。
「静兄はプロだからね。上手くて当然だよ。海外から呼ばれて行く事だって、しょっちゅうだし。先週だって、リサイタルあったばっかだし」
「プロ?」
あたしは思わず静弥の顔を、じーっと見た。
「ただのアルバイトだよ」
静弥はウィンクした。
アルバイト……。1回、何円だよ。きっと、No.1ホストより時給が高い。あたしの中で、ホスト静弥は消滅した。
でも~。雪弥といい静弥といい。あたしの、時給千円以下の女子高生のバイトとは、ワケが、いやケタが違う。
静弥は、壁に掛かっている大きな古時計に目を向けて、ピアノの蓋をそっと落として立ち上がった。
「もうこんな時間だったんだね。僕はこれで失礼するよ。春子さん、夜はご飯いらないから」
「静弥さん、デートでしたっけ。彼女ですか? マダムじゃないですよね」
「マダム? いいや。合コンで知り合った、ただの女友達だよ」
「女友達? じゃお帰りは、そんなに遅くならないんですか?」
「そうだね、彼女が僕を放してくれたら、ね。遅くとも朝迄には帰ってくると思うよ。明日も大学の講義あるし。じゃぁナムちゃん、これから宜しく」
そう言って、静弥はナムにウィンクすると、優雅にリビングを後にした。
朝帰りぃ~? 女友達とぉ~? あたしの静弥の評価点は、-100だ。
悔しいけど、静弥はどこを撮っても絵になる。さながらピアノ界の貴公子、と言った所だろう。医大生でピアニストで超イケメン。しかも真っ赤なフェラーリ。神様は絶対、依怙贔屓していると思う。
静弥が出て行ったリビングの扉を、あたしはボーっと見続けた。
「ごほん」
大奥様の咳払いで、あたしは現世に戻った。
「ナムさん仕事です」
「はい」
大奥様の名前、春子って言うんだ。見た目からは想像出来ない柔らかな名前に、噴き出しそうになるのを、あたしは必死に堪えた。
「ちょっと待って」
雪弥が、ポンと椅子から飛び降りた。
「俺、ナムに手伝ってもらいたい事があるんだけど。お祖母ちゃんの仕事って、後でもい?」
「手伝い? いいですけど。あなた、未だ宿題終わってなかったの?」
その日は、雪弥の家庭教師が来る日だった。
「うん、まぁそんなとこ。じゃ、いいね?」
雪弥はそう言って、あたしのTシャツの裾を引っ張った。あたしは、有無も言えずリビングから連れ去られ、階段を降りてスタジオの様な地下室へ引っ張り込まれた。
「ちょっとー! Tシャツ伸びるーっ」
あたしは、雪弥の腕を掴んだ。
「別にいいじゃん。そん位、俺の小遣いで買ってやるよ。どうせ、1万もしない安物だろ?」
「1万? バッカじゃないの。誰がTシャツに1万も払うか。Tシャツなんて3百円で充分よ。これなんか、閉店セールで買ったから3枚5百円!」
雪弥は思わず手を離して、ナムをじーっと見上げた。雪弥は、自分で服を買う事は殆ど無いが、下着靴下に至るまで、1枚千円以下の衣服を身に着けた事はない。
「苦労してるんだね」
雪弥は立ち止まって、思ったままを口にした。
雪弥は、徐に目の前のギターを手に取った。放送室の機材の様な音響機器のスイッチを、端からパチパチと入れ始めた。
ビ――――ン。エレキギターの尖った音が、地下の広いオーディオ室に響いた。あたしは思わず、両耳を塞いだ。
「小5の雪弥が、ギターなんか弾けるの? 手、届かんじゃない?」
「届くさ。これでも俺、バンド組んでるんだ。小学生バンドだけどな。
J-Boys は俺の仮の姿さ。俺は未来のスーパーギタリスト! 世界に羽ばたくロックン・ローラーだ――っ!」
ギュイ――ン。雪弥は大袈裟にジャンプして、絃を爪弾き派手な音を響かせた。
「ナム、ちょっと聴いてて」
雪弥が得意気に、ピックで弦を引っ掻き始めた。
ビビビ――――――ン。戸棚のガラスがビリビリ鳴き、振動で机や棚の小物が落ちた。大画面のスクリーンも細かく振動している。
気が狂いそうな大音響に、あたしはぎゅっと耳を塞いだ。やたらうるさいだけで、何を弾いてるんだかさっぱり解らない。リズムも音階も分からない。さっきの静弥のピアノとは、偉い違いだ。どこが“スーパー”だよ!
「うっさ――いっ!」
あたしは、雪弥の騒音に負けない位、大声で叫んだ。
雪弥が気がついて、手を止めた。
「わりー。音、ちょいデカ過ぎた」
ちょい、じゃねーだろ! 雪弥は、音響機器を操作して、音のバランスを調整し出した。その様子に、あたしは溜め息を吐いた。
「あのねえ、雪弥宿題は?」
「そんなのとっくに終わってる。ナム、いいからそこに座ってて。これは俺からナムへのプレゼント。ショパンなんかより、もっとパンチの効いたやつさ。
タイトルは、ナム狂騒曲第一番、夜逃げ」
いらんわ! ふん、悪かったね、リアル夜逃げで!
不気味な不協和音が、あたしの頭を揺さ振る。雪弥はギターを叩きながら、何やら宇宙語で叫んでいる。
あたしは、鈍器で思い切り後頭部を殴られた上に、脳みそを攪拌され、精気までもが吸い取られて行く気がした。段々意識も薄れて行く……。これは絶対、害虫駆除か悪魔祓いに使うベキだと思う。
一通り弾き終わったのか、気が済んだのか疲れたのか、雪弥はどうだ、と言わんばかりに満足気にギターを置いた。あたしは、感想とか訊かれる前に雪弥に尋ねた。
「ねぇ雪弥って何番目? 静弥さんが1番上なの? 確か男ばっかの4人兄弟なんだよね?」
「うん。俺は末っ子の4番目。静兄は1番上。後、錬兄と涼兄がいる」
「ふーん。皆仲いいの?」
「普通」
「普通ねぇ」
あたしは、自分の兄貴を思い浮かべた。あたしと兄貴は、顔を合わせると互いに罵声を浴びせていた。あたしは江戸っ子、兄貴は関西お笑い芸人の乗りで、遠慮無しの言いたい放題だ。
鶉卵一個シシャモ一匹牛乳一口を、取り合い奪い合い騙し合いの、毎日が生き残りを掛けたサバイバル。髪を引っ掴んでの喧嘩は、当たり前だった。
そんな自分達が、兄妹の真の姿だと思っていたあたしは、雪弥と静弥のホームドラマの様な微笑ましい関係が、実在するとはとても思えなかった。
あたしは地下室から戻って来て、大奥様の下で、夕飯の準備をした。あたしは大して動いてもいないのに、ずっしり重い疲労感に襲われた。
それにしても、広いキッチンだ。まるで料理教室だった。キッチンテーブルも、牛1頭丸々捌ける程広くて大きい。大型シンクも2つある。オーブン、レンジはもちろん、一度に何枚ものピザが焼けそうな、本格的石釜もある。ここで料理出来たら、そりゃ楽しいでしょう。
あたしは、大木家の狭い台所を思い浮かべた。狭くて底の浅いシンク。壁一面に吊るされた鍋やフライパン。目の前にぶら下がる、布巾に手拭き台拭き。でもそれらは、台所作業中一歩も動かずに、全てに手が届いた。
大奥様に言われた仕事を始めた。ジャガイモの皮剥き、玉葱のスライス、胡瓜の輪切り―。大木家での、あたしの毎日の作業だった。
あたしは、いつもの様に手早く卒なく終わらせ、大奥様の次の支持を待った。大奥様はあたしの横で、滑らかに動くあたしの手付きをじっと見ていた。
「まぁまぁね」
取り合えず、あたしの包丁捌きは、大奥様の及第点を貰えた様だ。
あたしは大奥様の横で、魚を捌く大奥様の手付きをじっと見詰めた。骨と皮を残して、次々と下ろして行く。その手付き手際は、見事で鮮やかだった。こんな大きなお屋敷の大奥様だったら、家事など一切やらないかと思っていたのに。
呆気に取られている間に、次々と料理が出来上がていった。煮物、和え物、焼き物、揚げ物。大奥様は、水も火も電気も食材も、少しも無駄にしない。動きも全く無駄がない。
鉄人! あたしは暫く大奥様の行動を、羨望の眼差しで眺めていた。
「ナムさんは、私が何も出来ないと思った?」
「はい。あ、いえ。ただちょっと、こんな大きなお屋敷の大奥様なのにって、驚いただけです」
「私はこれでも、戦争体験者ですからね」
大奥様は、出来て当然と言った口調で、手を休める事なく話を続けた。
「戦中当時は、裕福も貧乏も関係ありません。生き伸びる為に、何でもしました」
あたしは、祖父から戦争の話を聞いた事がある。この辺りは空襲で大変だったと。でもあたしには、応仁の乱も太平洋戦争も、同次元の昔話だ。
でも、戦時中って事は……。大奥様って藤代家にお嫁に来たんじゃなくて、元々ここのお嬢様だったんだ。
「それでもこの家は少し裕福で、親族も顔の広い人ばかりでしたから、食べる物には困らなかったわね。と言ってもお芋ばかりでしたけど。
亡くなった私の父も病院長で、入院患者や病人怪我人に、食料を分け与えていました。食べるには困らないって言っても、私達家族にも余裕は有りませんでした。食料は、取っておく物ではなく、皆で分ける物でしたから。
それでも、疲れて帰って来る家族に、少しでも栄養の有る物を、美味しい物を食べさせたかった。亡くなった私の母と一緒に、私はお芋でも雑草でも雀でも蛙でも、飽きない様に色々工夫して作りました」
雀? 蛙? お嬢様でも、そんなモノ食べたんだ。想像しただけで、気分が悪くなる。
「今の人は、簡単に大根や牛蒡の皮や葉を捨ててしまうけど、勿体無いわね。旨みや栄養が沢山詰まってる部位なのに」
そう言って、チラリとナムを見た。
「同感です!」
野菜くず、魚のアラ、肉のガラ料理が専門の大木家。あたしは大きく頷いた。
「食べ物を粗末することは、許しませんから」
大奥様は鋭い目付きで、釘を刺す様に言った。
「当然です! 根菜の葉っぱとか皮って、凄く美味しいですよね。魚や鳥の骨だって、血合や臭みを抜けばいい出し汁に成るし。捨てる所なんて有りませんよ」
元気いっぱいのあたしの言葉に、大奥様はにっこり笑った。
あたしは、大奥様を好きになれそうもないし、あたしが大奥様に気に入られるとも思わない。でも、話が合う事も多少は有りそうだと、少し嬉しくなった。
大奥様の作った料理を、味見をさせてもらった。一口食べて驚いた。
「美味しい!」
薄味ではあるが、きっと一流料亭にも負けない味だと思う。さすが鉄人! この味ならきっと、結構なお金が取れる。
「ただいま」
玄関で、男の無表情な声がした。台所から姿が見えるワケは無いのだが、あたしは声のした玄関へ振り返った。
「涼弥さんが帰って来たようね」
「涼弥さん?」
雪弥の兄だ。何番目だろう。
「大奥様、あたしちょっとご挨拶に行って来ます」
あたしは、彼が自分の部屋に入る前に挨拶をしようと、慌てて台所から飛び出した。
「ナムさん、それは置いて行きなさい」
あたしの手には、良く切れる包丁がキラリと光っていた。
声の主を拝もうと、あたしはエプロンを外しながら玄関に走った。
いた! 彼は、ネクタイの制服姿で帰って来た。彼も、どことなく静弥に似ていてる。所謂イケメン? いかにも頭が切れそうな、彼の眼鏡が冷たく光った。ジロリと睨まれて、あたしはちょっと怯んだ。
いるいる、こーゆー無感情タイプ。どこの学校にも一人はいる。あたし苦手なんだよねぇ。でも、一応あたしのご主人様だ。あたしは、思った事が顔に出ない様に、にっこり笑顔を作った。小首を傾げて可愛くポーズをとった。
「お帰りなさいませ。私は、今日からここで、住み込みの家政婦としてお世話になります、大木菜夢と申します。宜しくお願いします」
あたしが全部言い切る前に、彼は無言で階段を上がって行き、とっくにあたしの目の前から消えていた。誰もいない玄関で、あたしは1人で玄関に向かってお辞儀をしていた。
「ちょっと待ってよ!」
あたしは慌てて彼の後を追い、階段を1段抜かしで駆け登った。
ズルッ。焦ったあたしは、3歩目の階段を踏み外し顔を階段の強打した。
ドタッ!
「っ! 痛~っ。オデコ打つの、今日二度目」
太郎の散歩の時、引っ張られて転んでおでこを強打した。あたしは、また打ったおでこを恐る恐る触ってみた。あたしのおでこのタンコブは、今のでダブルになり、触れた手に血が着いた。ダブルって、サーティーワンだったら超嬉しいのに。トッピングは、血じゃなくてチョコがいい。
階段の上で笑い声がした。
あれはきっと雪弥だ。全く! 誰のせいで、おでこにこんなタンコブ作る羽目になったよ! 超ムカついて頭に血が上り、あたしのたんこぶの痛みが倍増した。あたしはガニ股で階段をドスドス上がって行き、大声で怒鳴った。
「雪弥―っ、人をバカにするのも、いい加減に……」
固まった。そこにいたのは、雪弥ではなく涼弥だった。涼弥は、雪弥以上に人を小バカにした冷めた笑いを、あたしに浴びせた。
「君って面白い人だね。じゃ」
そう言って、彼は眼鏡に手をやりキラリと光らせ、固まっているあたしの前を、ふふん、と鼻で笑って通り過ぎた。
パタン。涼弥は、次男の部屋に入って行った。
「何よアレ。マジであたしをバカにしてるし。そりゃあ、確かにあたしはバカだけど、あたしの友達は皆頭いいんだから」
ムカつくと同時に、あたしのダブルタンコブが、再びズキズキ痛んで来た。
何なのあいつ! あいつはきっと、頭と顔は良くても性格は最悪だ。歌も下手で運動音痴。狡賢く冷酷で極悪非道で、きっと影で人を操るタイプだ。学校や風俗街で裏番張ってるかも。今始めて会ったばかりの涼弥に、あたしの創造が先走りした。
あたしはふと、大好きな連載少女漫画“ルビーの瞳”の、ヒールキャラのアランを思い出した。
あたしは涼弥の部屋の前に行き、ここが次男の部屋ね、と指を差して確認した。さっきの、冷たく笑う彼の顔が扉に浮ぶ。
ムカつくとタンコブが更に痛い。でもムカつく。やっぱムカつく。やたらムカつく。あたしは指を口に突っ込んで、扉に向かって思いっきり横に引っ張った。
「い――っ。アッカンベ――」
ガチャ。涼弥のドアが開いた。運悪く、外開きのドアが、又あたしのおでこにぶつかった。
痛っ。元々触れない位痛かったタンコブ……。あたしは目をぎゅっと瞑り、顔を顰め、その場にしゃがみ込んだ。声も出ない。涙が滲む。
涼弥は、ドアの前にナムが立っていて驚いていたが、その後噴き出し、派手に笑った。
誰のせいだよ! あたしはタンコブをそっと触ってみた。痛っ! 更にムカついた。
「そこまで笑うか? レディに対して失礼だし」
「レディ? 誰が?」
「あたしです!」
あたしは立ち上がって自分を指差した。又、涼弥に噴き出された。
勝手にしろ。相手にしない。あたしは、笑う涼弥を無視して仕事に戻ろうとした。
ふと、涼弥越しに彼の部屋の中が見えた。かなり広い。教室1個分位はありそうだ。机やベッド以外に、パソコンが数台並んでいて、怪しげなメカとかが繋がっている。科学雑誌やパソコン雑誌、工具箱とかが、整理はされているが、そこら中に積まれていた。怪しげな熱帯魚の水槽もある。
やけに部屋の空気が冷たく重い。蛍光灯も反射防止が施してある。無機質な感じがする、水槽のポンプの音だけが響く、モノクロの部屋だった。フィギュアとかは置いて無いが、見るからにオタクワールドだ。
いや、あたしの目を引いたのは、そんな物ではない。ケーブルだらけの部屋の隅に、ナムの大好きな少女マンガ“ルビーの瞳”が並んでいた。
よく見ると壁にはポスター、本棚にはコミックが全巻揃ってる。その上、棚にはナムも知らないプレミアグッズが並んでいる。そこだけは別世界だ。まるでかぐや姫の竹の様に、それらグッズはキラキラと光を放ってあたしを誘っていた。
ピクピクッ。あたしの片眉が上がった。あたしは引き寄せられる様に、涼弥の部屋にずかずか入り込んで、勝手に“ルビーの瞳”のコミック本を手に取った。
「ねぇ涼弥さんって、もしかして“ルビーの瞳”ファン? あたしもあたしもー。あたし大ファン! 台詞だって、全部覚えてるんだから」
あたしは、本に頬をすりすりした。
「止めろ汚れる! お前の顔の皮脂が着く」
そんな事、あたしは聞いちゃいない。尚も激しく、本にすりすりした。
「涼弥さんって、誰のファン? やっぱヒロインのレイ王女だったりする?」
あたしは目を輝かせて、涼弥に顔を近付け、彼の眼鏡を覗き込んだ。
「べ、別に。誰でもいいだろ」
涼弥は、何だか慌てて顔を背け、目の前のナムの顔を押し戻した。
「あたしは何と言ってもギル様! ギル様命よーっ!」
あたしは、ヒロインの王女を守る騎士ギルベルトの大ファンだ。あたしは、本を胸に抱いてうっとりして、目を閉じた。
「ね、誰? あなた誰のファン? なんかあたし達、仲良くなれそーじゃん?」
ニッコリ笑って、あたしは又涼弥に顔を近付けた。
「寄るな! お、お前さ、祖母さんに言われて何か仕事してたんじゃないのか?」
涼弥は、ナムの迫り来る勢いに強姦の危険を感じた。
「あっ、そうだった。あたし、芋の皮剥き途中だった」
妖婆、いや大奥様が包丁を研ぎながら、あたしを待っているいる姿が目に浮かんだ。
「早く行けよ!」
あたしは涼弥に背中をどつかれ、部屋の外に放り出された。
「あ、涼弥さん、本!」
あたしの手には、“ルビーの瞳”のコミック本がしっかり握られていた。
「いい、貸してやる」
閉まったドアの向こうで声がした。
「え? いいの? ホントに貰っちゃっても。
キャーっ、超嬉しい! 涼弥さんって超いい人。あたしこの巻、メッチャ欲しかったんだぁ」
チュッチュッ! あたしはコミック本に何度もキスをした。
バン! 突然涼弥の部屋のドアが開き、瞬時にドアは閉じられた。
一体、今何が起こったのかあたしには分らない。あたしは呆然として、その場に立っていた。ただ、あたしの手に確かにあったコミック本は、消失していた。
そう言えば、あの涼弥って人何歳? 何年生? あたしよりずっと大人っぽいけど、制服着てたし。ダブってなけりゃ、高3のあたしとタメか下だよね。
確か、あの制服って―……。超エリートが行く、中高一貫のお坊ちゃま校のじゃなかったっけ。あの細い銀縁眼鏡、いかにもー、だし。性格超腐ってるし。180度の根性曲がりだよ。その上危なくて怪しいオタク。きっと運動とかも出来ない。絶対音痴だ。
ってあたし、こんなとこでこんな事してる場合じゃないし。さっさと台所へ戻ろーっと! あたしは急いで階段を下りた。
その時、玄関から誰か上がって来る足音がした。あたしは手摺から身を乗り出して、吹き抜けの下の玄関ホールを覗き込んだ。
足音の主は、学ランを着た中学生位の男子だった。今、学校帰りなのだろうか。
あたしは、雪弥が“錬兄と涼兄”って言った事を思い出した。さっきの人は涼弥だったから、この人は錬…、錬弥?
彼は、黒帯で結んだ、丸めた白い柔道着か何かを肩に掛け、その手にはバンテージが巻いてあった。もう片方の手はポケットに突っ込み、学ランのボタンは全開で、下に真っ赤なTシャツを着ている。定番の硬派の不良学生姿だ。チビで幼い顔付きの癖に、威圧的な態度で目付きは鋭い。まるで族の頭か暴力団の幹部だ。
挨拶をしようと急いで行ったのに、あたしは彼を目の前にして、彼の醸し出す尖った空気に一瞬怯んだ。でもとりあえず、挨拶はする。
「お、お帰りなさい、まひぃ。わ、わたくひ今日からぁ……」
挨拶するあたしの声が、ひっくり返った。タドタドしく挨拶するあたしを、彼はチラッとも見ずに、そのまま横を素通りして階段を上がって行った。
静弥さんが長男で、涼弥さんの部屋が2階だったから涼弥さんは次男で、雪弥が末っ子。って事は、あの子は3男だよね。あたしより確実に年下じゃん。
あのやろ、このお姉さんに向かってシカトしやがって。子供の癖に、一匹狼気取ってるただのチンピラじゃん。あー、ヤダヤダ。こんなんじゃ旦那様も期待薄だよ。藤代家でマトモなのは奥様だけかぁ。あたしは、深い溜め息を吐いた。
あたしは3階まで錬弥を追いかけて改めて挨拶をする気にもなれず、大奥様の待つ台所で、芋の皮剥きの続きをしようと階段を1段下りた。そのナムの横を、サーッと錬弥が通り過ぎ、トントントンと先に下へ降りて行った。
出掛けるのかな? あたしは慌てて彼の後を追った。
「出掛けるの? もう直ぐ夜ご飯だよ」
「いらね」
年下の癖に冷たくバカにした言い方に、あたしはムカついた。階段を一気に飛び降り、錬弥の先回りをして玄関扉の前で両手を広げ、錬弥に立ち塞がった。午後8時を回り、外はすっかり暗くなっている。
「ご飯です! あなた中学生でしょ? いらないワケないじゃん。ちゃんと食べなさい。しかも今日のご飯は、あたしも手伝ったんだよ! あ、未だ芋作ってない」
「はぁ?」
あたしは、呆気に取られている錬弥の顔をまじまじと眺めた。よく見ると、結構可愛い顔をしている。粋がってはいても目線はあたしより下だし、顔も丸くて未だ幼く、声も可愛い。
「頼んだ覚えはねーし、お前には関係ねー。退けよ」
「だめ! 関係あるし。あたしはあなたに、ご飯をちゃんと食べて欲しいの。育ち盛りでしょ?」
「だからなんだよ。邪魔だ、退け」
「退かない!」
「退け!」
「やだ! ご飯食べなさい!」
あたしは扉に貼り付いて、死守した。
「あのなぁ……。今会ったばっかの癖に、お前は俺の母親にでも成ったつもりか?」
そう言う彼の声は未だ幼く可愛く、言ってる言葉使いが妙にアンバランスだ。
「残念でしたぁ。あたし、今こんな格好だけど、メイドだもん。コスプレしたらメッチャ可愛いんだから。ウフッ」
「見たかねー。メイドなら、ご主人様の俺の言う事は聞くんだろ? そこ退け」
「駄目です! ご主人様の健康管理も、メイドの仕事の内です!」
錬弥が呆れて、溜め息を吐いた。
錬弥は足で、両手を広げ扉に貼り付いているナムの脚を払い、簡単に玄関脇に転がした。
「あっ!」
あたしは、不意を衝かれて不覚にも転んでしまった。でもタダでは転ばない。
「つっかまっえたっ!」
腹ばいになったあたしは、錬弥の片足首を掴んで顔を上げ、ニカッと笑った。転がった拍子に又おでこを打ったが、今はそれどころじゃない。再び同じ箇所を打ったあたしのタンコブは、もう何段だか分からなかった。
錬弥はナムの手を払うのも忘れて、呆れてナムの顔を見下ろした。
「お前は子供か」
「メイドです」
あたしは錬弥の足を両手でしっかり掴んで、又ニッコリ笑った。
錬弥は、はぁと哀れみの溜め息を吐いた。足を軽く蹴り上げて、いとも簡単にナムの手を解いた。一瞬の事で、あたしの目は点。
「じゃぁな」
「あっ卑怯者! か弱い婦女子を足蹴にするか? 男らしくないぞ! 根性腐ってる! 弱い者苛めすんな! 硬派気取るんじゃねぇ! ※▲X$●#□◆%◎……」
ナムの言葉は、やたらうるさい耳障りな高周波だった。
「うるさいだまれ! 道場に忘れもんしたから取りに行くだけだ。帰ってから飯食う、って言やぁいいんだろ?」
錬弥は、玄関に寝転んだままのナムに呆れて言いい、玄関の扉を押し開けて、肩で風を切って出て行った。慌ててあたしも立ち上がって、玄関の外へ出た。
「なんだよ。未だ何かあるんか?」
錬弥は振り返って、ナムをジロッと睨んだ。
「いえ、あたしは一応家政婦で、あんたは一応ご主人様だから。
お帰り、お待ちしておりますぅ。早く帰ってきて下さいませね。うふっ」
あたしは小首を傾げてウィンクし、錬弥にメイドカフェスマイルを送った。へへん、歳下の中坊なんか、このお姉さまに掛かったらちょろいもんよ。
錬弥は、あたしの可愛い笑顔に何故か怯み、顔が青褪めていた。彼は急いで門の外へ出て行った。
あいつ、錬弥って言ったっけ。可愛い顔してなかなか鍛え甲斐がありそうじゃん? あたしはジャージに付いた埃を払って、n段重ねのタンコブを擦った。
道場? あいつ柔道か何か習ってるんだ。んじゃ、エールでも送ってやっか。
「おーい、錬弥ー! 頑張って来いよー。あたし、ご飯食べずに待ってるからねー! ファイトっ、オ――!」
あたしはこの5月で、中学からずっと続けていたバスケット部を引退した。久々に大きな掛け声を上げると、気持ちがいい。しかも、あたしの声が煉瓦塀に木霊して、更に気分がいい。
あたしは、裸足で石畳みの上をピョンピョン飛び跳ねながら、錬弥に向かって両手を大きく振り、エールを送った。たかが、忘れ物を取りに行くだけで。
いいや、何事も最初が肝心だ。これだけあたしの心が篭もっていれば、錬弥と心通わす日も、きっと近い。
「イタ、イタタ。痛いし!」
あたしの足の裏に、小石が当たる。小石にムカついた。藤代家のお洒落な石畳は、あたしの裸足には優しくない。
硬派を決め込んでいる錬弥は、ナムの不可解な行動に必死で笑いを堪えていた。しかし、ナムのたんこぶやらメイドスマイルやら、玄関に這い蹲った姿やらを思い出して、門の外にでると直ぐに耐え切れずしゃがみ込んで爆笑した。
錬弥を見送ったあたしは、ふと顔を上げ屋敷に振り返った。風のせいか、幾つかの窓のカーテンに映る人影が振動している。なんだか、その人影の頭と肩がやたら揺れている様に見えるのは、きっと気のせいだろう。
これで、あたしがご挨拶していないのは、後ご主人様だけだ。あの4兄弟の父親にして、あの奥様の旦那さん。しかもあの大奥様の息子……。とりあえず、発声練習。
「あ―、あ―……。始め―、始めまして―。わたくしは―……。えへん、えへん」
その場で、挨拶の練習を始めた。
「ただいま」
夜9時を回って、ご主人様と奥様が一緒に藤代家に帰って来た。
“早く帰る”って言ってたから、あたしはもっと早いかと思っていた。夜10時なら、充分早い方なのだろうか。遅いって言ったら、夜中の2時とか3時とかなんだろうか。
あたしは急いで玄関先にお迎えに上がった。あの兄弟の父親で、あの大奥様の息子なんだよね、一体どんな人だろう。改めて興味が湧く。
「お帰りなさいませ。始めまして。今日から住込みの家政婦としてお世話になります、大木奈夢と申します。宜しくお願い致します」
あたしは顔も見ずに、いきなり頭を下げ挨拶をした。練習通りはっきり丁寧に、考え抜いた台詞を一気に喋った。
「藤代郁弥です。一応この家の主人です。こちらこそ宜しくね、ナムさん。詳しい経緯は奥さんから聞いたよ。大変だったね」
彼は、ナムを見て微笑んだ。
奥様に聞いた? 詳しい経緯って……、奥様は一体あたしの何を話したんだろう。あたしは不安になって、恐る恐る頭を上げた。
その男性は、見るからに上品で優しそうな紳士だった。背が高くて渋くて、ダンディで素敵なおじ様。映画俳優並みのイケメンだ。メンズ雑誌のモデルでも充分イケる。
旦那様は眼鏡を掛けているが、その印象は涼弥とはまるで違う。柔らかい感じの眼鏡フレームが、返って旦那様を優しく見せていた。
それにしても若い。奥様も若く見えるが、旦那様にしても、大学4年の息子がいるだなんてとても思えない。
旦那様のイケメン振りに、マジであの静弥や涼弥の父親なんだと、あたしは納得した。ただ、彼が妖婆の息子だと言う事は、納得出来ない。
旦那様は、優しい目で奥様の方を見て頷いている。奥様も、旦那様と顔を見合わせてにっこり笑った。夫婦二人のこの空気に、あたしには入り込めない。
でもよかった。この旦那様なら、きっとあたしの味方に成ってくれる。妖婆からあたしを守ってくれる。あたしは、自分の予想以上の初見にほっとした。
「お夕食は?」
存在を忘れていた大奥様が、突然言葉を発して、あたしはビクッとした。妖婆……。いたんだ。
「頂くよ。僕も麗子も、未だ済んでないんだ。外食は身体に良くないからね。病院の食事は身体に優しくても美味しくないし、食堂閉まるのも早いから」
多分夫妻は、仕事を終えてこの時間に帰って来れる時は、家で夕食を取るようにしてるのだろう。
旦那様も奥様も、仕事や行事や付き合いなんかで、高級レストランや料亭やホテルとかで最高級のグルメな食事をされてる筈だ。ほぼ毎日、何らかの付き合いが有ると思うのに、遅くなっても家に戻ってから食事を取るなんて、それって栄養バランスだけが理由じゃないと、あたしは思う。
大奥様の手料理は、凄く美味しい。グルメな旦那様にとっても、大奥様の手料理はやっぱり美味しいと思う。子供の頃から慣れ親しんだ味である上に、栄養バランスも整っている。
大奥様の料理は、糖分も塩分も脂肪も控えめなのに、給食や病院食とは味が全然違う。見事な調理の腕前に、今直ぐ一流シェフになれると思うし、一流の栄養管理士にもなれると、あたしは思った。あたしは大奥様が調理する姿は、さっきのたった一度しか見ていないけど。
「僕は、仕事上已むを得ず外食する事もあるけれど、毎回付き合いとか、学長室での孤食とかはよくないね」
「でも旦那様は、大学では奥様と一緒にいる事が多いんじゃないんですか? 学長さんと理事長さんなんだから」
「いいや。この奥さん僕より忙しいからね。なかなか一緒に居られないいんだ。同じ大学にいても、会議でもない限り会えないんだよ」
「そんな事ありません。あなたの方が、大学にすらいない事が多いですよ。私と時間が合わないだけです。私が学長室いっても、いつもいらっしゃらないじゃないですか」
「それは失礼。でもお互い様だよね」
夫妻は顔を見合わせて笑っている。二人の醸し出す空気に、玄関がぱぁっと明るくなる。見ているあたしも照れる。なかなか夫婦一緒にいられないみたいだから、余計に仲がいいのかも。
「私は暇さえ有れば、なるべく家にいて子供達とおしゃべりしてますよ。一応母親ですからね。
たまにはあなたも早く帰って来て、子供達の話を聞いてあげて下さい。特に雪ちゃんは、まだ小学生なんだから。強がっているけど、きっと寂しい思いしてますよ」
「分かってる」
穏やかな会話を交わしながら、夫妻は仲良くダイニングへ向かった。大奥様の手料理を食しに。
あたしは大木家の日常を思い出した。例え、話す内容が藤代夫妻の会話と同じ(子供の事とか)であっても、大声を張り上げ派手なジェスチャで喋る大木家だったら、他人から見たら喧嘩だ。でも大木家ではそれが普通だった。
モーター音や金属の研磨音等、機械音が絶えない町工場では、小さな声は聞こえない。だからあたしも、子供の頃から声は人一倍大きい。でも……。
普段でも声が大きな相手だと、ついついこっちも大声になる。大声になるとはっきりモノを言うし、勢いで思った事も何でも言ってしまう。まぁそれが大木家なりの思いやりであり、家族仲の良い一因なんだと思う。
大木家の晩餐。皆仕事を終えて、家族揃っての遅い夕食。お笑い番組を見て、一緒に大声でげらげら笑う。親子でも言いたい事を言い合い、喧嘩もする。全く遠慮なんかしない……。
又、大木家の家族皆揃って、一緒にバカ笑いする日が直ぐに来ると、あたしは祈って、いや信じている。
「それにしてもナムさん、そのおでこの派手な傷はどうしたの?」
旦那様が、何を思ったのか急に振り返って、ナムのタンコブをじっと見詰めた。急に声を掛けられて、あたしの方が驚いた。医学的に面白い症例なんだろうか。
「これですか? これは……。悪性腫瘍じゃありません! これは」
偉いお医者様から見たら、おでこの傷が何だかすぐ分かる。それでもあたしは、格式の有る旦那様に笑われたくは無い。
「何でもありません。ただ……、強力な蚊に刺されました。しかも同じ所を何度も。痛っ」
あたしはn段たんこぶに触れて、傷を擦ってしまった。ジ~~ンとぶり返す痛みに、じっと耐える。
「蚊に刺されたの? 同じ所を何回も? ナムさんのおでこの血って、よっぽど美味しいんだね」
たとえスズメバチに刺されたって、こんなに青くなり、こんなに大きく膨れるワケが無い。旦那様はにこやかに笑ってはいたが、彼の声は微かにビブラートが掛かっていた。
ありがとうございました。
次話は、ナムと次男涼弥とのエピソードです。