卒業(前編)
本日もお越し頂きまして、誠にありがとうございます。
やっと最終話、前編です。
2月末。あたしの受験シーズンを締め括る試験最終日だ。
試験を終え、ゾロゾロと会場の教室を出る生徒浪人生達に混ざって、あたしも受験会場の大学を後にした。
やったぁ~。終わったぁ~。大学の校門を出て直ぐ、あたしは雲ひとつ無い青空に向かって、目一杯大きく伸びをした。
結果はともかく、1年以上の長丁場をなんとか走り切った。この日の為に、あたしに出来る事は全てやった、悔い無し! と思う。
自己満足に浸るあたしは、澄んだ空気を大きく吸い込み太陽に胸を張った。何だか無性に叫びたい。
とは言え、あたしの志望校の入試が全て終わった訳ではなく、3月にも後期試験なるモノが有る。でも後期試験は、競争倍率も合格ラインもグンと上がる。涼弥ならいざ知らず、前期試験で受からないものが、後期で受かるワケがない。後期試験のあたしの合格率は、推定1%だ。
なんでもいいや。とりあえず終わったし、やるだけの事はやったし、後は神様の思し召しって事で。
ヴーヴーヴー。大学の校門で黄昏ていたあたしに、沙紀からのメールが届いた。
“ナムお疲れ! ティンカーベルの季節限定いちごパフェ、オゴったげるけど、今から来れる?”
“イクイク、直ぐイク!”
速攻送信。ケータイ画面を見詰めるあたしの目がニンマリ細くなった。あたしは後ろを振り返りもせず、飛んで走って最後の入学試験の会場を後にした。
なんて足が軽いんだろ。まるで足に羽根が生えたみたいだ。受験と言う足枷が外れて、あたしのスキップも大ステップだ。自然と腕の振りも大きくなった。通行人も振り返るあたしの華麗なスキップは、超器用な三拍子だった。
ウキウキ気分のあたしは、駅で偶然涼弥を見付けてしまった。気付きたくなかったのに、あたしは涼弥だと気付いてしまった。
えー? なんで涼弥がここにいるよ。そっか、確か涼弥の今日の受験大学は、この駅の近くだって言ってたっけ。天国だったあたしのテンションは、一気にダウンした。今、涼弥に捕まったら、きっと今日のあたしの試験の事を、根掘り葉掘り聞く。勝手にあたしの採点をして、そんな簡単な問題間違えたのか、と必ず扱け降ろす。
涼弥を見なかった事にしよう。あたしは今、ここにいなかった事にしよう。だってあたしのいちごパフェが、蔕を長ーくして、あたしを待っている!
あたしはバッグを持ち上げ、涼弥に見つからない様に顔を隠した。何気なく、改札口に向かって歩く。
ナム手作りのキルティングバッグには、大きな丸文字イニシャルが縫い付けてある。ナムが普通にしていれば、この人込みの中で涼弥がナムに気付く事は無い。プラカードの様にバッグを掲げて歩くナムに、改札を通る人達がジロジロ見ながら通り過ぎた。涼弥の視界にも、その見覚えのあるバッグが入って来て、思わず立ち止まり注視した。
「ナムか? お前、何やってんだ。試験帰りか?」
ギクッ。近付いて来る涼弥の声にあたしは立ち止まり、バッグの裏でオタオタした。
「ひっ、人違いです!」
あたしは声をひっくり返して、慌てて改札を通ろうとした。
「はぁ? それって俺と顔合わせたくないって事かぁ? って……、そっかぁ、そーゆー事かぁ……。ご愁傷様、南無南無」
涼弥は、ナムに向かって両手を合わせた。
「そんな事ないし!」
あたしはバッグを下げて、思わず叫んだ。
「あ、山本君!」
あたしは、駅に向かって歩いて来る人ごみの中に山本を見付けて、思わずその方向を指差した。涼弥がナムの差した方向に振り向いたが、似たような学生生徒が大勢駅に向かって歩いて来て、誰がその“山本君”なのかは分からない。
山本は、何か考え事をしている様に下を向いて歩いていたが、突然名前を呼ばれて顔を上げた。山本は、自分を呼んだ相手がナムだと気が付いて、彼女に笑って手を振った。
あたしは、ドンと涼弥を突き飛ばし、山本に満面の笑みで駆け寄った。
「山本君、もしかして今日試験だった?」
「うん。ナムもか?」
あたしも頷いた。
「俺もだけど、今日試験って大学、結構あるんじゃね?」
「そうみたい。トモちゃんもアキも、今日試験だって言ってた」
あたしはちらっと涼弥を見た。涼弥は“俺か?”と、ナムに確認するように自分を指差した。
「そんであたしも今帰り。試験、あんま自信ないけど、やれる事は全部やったつもり。で、あたし今日で試験全部終わりなんだー。やったぁ! って感じ?」
「俺も俺も。まぁ俺の本命は発表が明日だから、試験全部終わっても今はちょっと心配かな。
そうだな、今はナムも俺も、人事を尽くしたから天命を待つ、ってとこだな」
「心配ないよ。山本君なら絶対大丈夫だって! あたしと違って山本君、中学ん時からずっと頭良かったもん」
あたしは笑顔で言い、山本も笑った。
「で、あの人はナムの彼氏? もしかして俺、ナムのデート邪魔した?」
ナムから離れて一人改札口へ向かう涼弥を、山本がチラッと見た。
「は?」
一拍於いて、あたしは涼弥に振り返った。あたしは慌てて、改札口に入ろうとする涼弥の腕を、後ろから掴んで引っ張った。
「そ、そーなんだぁ。この人あたしの今彼。彼とは予備校で知り合ったんだ。それでこれからデート」
あたしは無理矢理、涼弥の腕をガシッと組んだ。
「お……」
驚いてナムを凝視する涼弥が、何か言おうとして……。あたしは慌てて涼弥の腕を、ぎゅーっと抓った。
「よかったな、ナム。俺より全然いい彼氏で。俺、ナムに先越されたな」
へへへ、と笑うあたしの顔は、きっと引き攣ってる。
「じゃーナム、登校日にな」
「うん、ばいばい。又ね」
山本は涼弥に軽く会釈して、改札口へ吸い込まれて行った。その後ろ姿が見えなくなるまで、あたしはその場でずーっと手を振り、ずーっと彼を目で追った。
「痛いなー。抓るなよ。それでいつから俺が、ナムの彼氏になったんだ?」
はっと我に返ったあたしは、慌てて涼弥の腕を放した。
「ごめん……」
何だか涼弥の顔が見れない。今更ながらいろんな想いが込み上げて、あたしは下を向いた。
「へぇ~。あいつがナムの元彼か? ナムにしちゃ、結構いい趣味してんじゃん。まっ、俺より落ちるけどな」
「ばーか」
あたしは涼弥に笑って、再び改札口を見詰めた。改札口もそこを出入りする人達も、あたしにはうねうねと歪んで見えた。あたしは涼弥に気が付かれない様に、慌てて潤む目を擦った。
あたしの1番は、未だ全然山本君なんだな。もう大丈夫かと思ってたけど……。
神様、不意打ちは卑怯だよ。突然目の前に姿現すなんて……。未だにモヤモヤする心に、あたしは苦笑した。
思い直して、涼弥に向き直った。
「ねぇ、これからあたし沙紀ちゃんとデートなんだけど、今のお詫びに一緒にどう?」
「行かない」
「えぇ~? ティンカーベルのいちごパフェって、マジで超美味しいんだって。涼弥もあれならイケルと思う」
「絶っ対、行かない」
元々涼弥は甘い物は苦手だ。だがそれ以上に、涼弥がそこのカフェで、ナムと沙紀の餌食になるのだけは避けたかった。
3月1日。今日はあたしの高校の卒業式。制服の無い高校だから、皆めかし込んでのスーツ姿だ。胸の花が無ければ、父兄と見間違える。
卒業式と言っても、進路の決まっていないあたしは、心からお祝い気分にはなれない。あたしの第1希望の大学の合格発表は、未だだった。
それに卒業したって、受験の結果報告とかで何度か学校に来る事になっている。とりあえずの“卒業式”で、とりあえずのリクルートスーツだ。
それでも、もう教室の机に座る事はないと思うと、クラスメイト皆で集合する事は無いと思うと、感無量になる。
久々に見るクラスの仲間は、服のせいか、なんだか皆大人っぽく見えた。実質、2月始めから学校は休みだったので、1ヶ月ぶりのメンツの揃ったクラスに、あたしは既に、同窓会の様な懐かしさを感じた。
合格を報告しあう友達を尻目に、未だ発表がないあたしは、皆に“おめでとう”と言う立場だった。……寂しっ。
卒業式は、例年通りだった。無駄に長い校長の話、馴染みの来賓の祝辞、送辞に答辞に祝電の紹介、等々。
退屈な式だったが、さすがに“校歌斉唱 ”と“仰げば尊し”は泣けた。でも正直、校歌はサビ(校名が入る節)しか覚えてない。
在校生による見送りアーチは、背中をどつく奴、足を引っ掛ける後輩が必ずいる。去年のあたしがそうだった。
後輩達の前を潜ると、あたしの目も潤む。それは、彼女達に遠慮無く叩かれた背中がマジで痛いからだ。
バスケ部の後輩達が、部室で花束と色紙をくれた。毎年恒例の行事だが、貰える立場はやっぱ嬉しい。でもどうせなら、花より食べ物がよかった。
後輩達の寄せ書きを、手に取って見た。
“先輩、貧乏に負けないで!”、“1回使った湿布を洗って使うのは止めた方がいいです”、“スプレー糊とコールドスプレー間違えないで下さい”、“湿気た煎餅の差し入れ、ありがとうございました”……。贈る言葉、と言うよりは、嫌味とか忠告とかに近い。
あたしは、2年とちょっとお世話になった部室を覗いた。女子部の部室なのに、相変わらず臭くて汚い。でもそこに、ナム達3年生がいた痕跡は、もう微塵も残っていなかった。悪臭靴下事件とか、カビパン騒ぎとか、ゴキブリ疑惑とか――。数々の想い出。
まるで昨日の事みたい、って良く聞く話だけど、ホントその通りだよ。そんな事を思いながら、あたしは狭い部室を見回した。
あーっ、あった、あたしの痕跡! あたしが一昨年の夏、躓いて蹴飛ばし、ひっくり返した蚊取り線香の焦げが、床に残っていた。
あたしは、校門で山本を見付けた。彼は、クラスメイトや軽音部の仲間達と、大きな声で喋っている。
確か山本君、第一志望の大学の学部に合格したって、クラスの誰かが言ってたっけ。あたしに合格教えてくれなかったって事は、発表が未だのあたしに、気を使ってくれたのかな。
あたしは山本に、おめでとう、と声を掛けようとして……。ちょっと躊躇った。でももう、卒業だから―。
「やっまもっと君! 第一希望、合格したんだって? おめでとう、イェ~イ!」
あたしは笑顔で手を掲げて、山本にハイタッチを要求した。背後から突然ナムに声を掛けられて、山本は驚いていたが、ナムの手にパンとタッチした。
「サンキュ。何とかね。ナムは発表、未だなんだよな」
「うん明後日。でもちょっと不安。全力尽くしたし、自己採点もまぁまぁだったんだけど……。ちょっとだけ、自信無いかな。
滑り止めの私立は合格してるんだけど、行く気全然無いし。じゃぁ何で受けたんだよって、担任に怒られそうだけど」
「心配すんな。ナムなら絶対大丈夫だって! ナムの根性半端ないし」
バン! あたしは山本に、背中を思いっ切し叩かれた。あたしの目から火花が飛んだ。
「ガハッ……、ゲホ、ゲホ……。ちょっと……ゲホッ、あたし殺す気?」
あたしは座り込み、ゴホゴホと涙を流して咳き込んだ。
「ごめん」
声が謝ってない。
咳が治まった所で、あたしは立ち上がった。
「でもありがと。なんだか今ので合格したような気がして来た」
ナムに微笑み返す山本は、合格と卒業の双方に、満面の笑みを浮かべている。
もう、自分の未来に向かって歩いている山本君にとって、もはやあたしは過去の人なんだなー。そう思うと、ちょっと寂しかった。
あたしは山本と、自然な笑顔で握手出来た。じゃぁ、と離れて行く山本の指先に未練を感じて、あたしはちょっと胸がチクッとした。
次に、山本君に会えるのっていつだろう。そん時まであたし、絶対いい女になってやる! あの時振って惜しかったなぁって、山本君にマジで後悔させてやるんだから!
なーんて。そんな事思うあたし自身が・・・(点点点)だよ。あたしも卒業しないとね。山本君からも。
山本はナムから離れて、校門で卒業証書と後輩からもらった花束を手に、友達と大きな声ではしゃいでいた。
山本君、サンキュ。あたしは、山本の背中をじーっと見ていた。
山本君、バイバイ。
未練タラタラの思いを断ち切る様に、ばっと後ろを振り返ると、あたしの真後ろに沙紀が立っていた。
「沙紀ちゃーん!」
あたしは思わず、沙紀に泣き付いた。
「卒業なんて、卒業なんてーっ!」
あたしは大声で叫びながら、沙紀にぎゅーっと抱き付いてボロボロ泣いた。
「沙紀ちゃんとは、小学校からず―っと、ず――っと一緒だったのにぃ! もう一緒に居られなくなっちゃうよー!」
「くっ、苦しいって、ナム、首絞めんなっ!」
「ふぇーん。沙紀ちゅぁーん」
あたしは沙紀の首を掴んで、力いっぱい沙紀の頭をグラグラ振っていた。
「死ぬっ! 目が回る!」
「ごめん」
あたしがパッと手を放すと、沙紀は咳き込みながら絞められた首を擦った。
「もう……。あんたねぇ、どうせ又同じ大学なんだから。何も泣く事ないじゃん」
沙紀は推薦で、既に合格が決まっていた。あたしの第1志望の大学だった。でも、弁護士を目指す沙紀は法学部で、先生になりたいあたしは教育学部だ。
「だって、あたしが大学受かるかどうかなんて、まだ解んないじゃん。だめかもしんないし……」
「無い! 絶対無い。あたしが保障する! だって、あたしがどんなに必死で逃げたって、今迄一度もナムから逃れられてないんだから。高校だって、ナム無理矢理ランク上げて、あたしと一緒になったじゃん。3年間クラスも同じだなんて、有り得ないし、ってゆーか……。小、中、高って……。天文学的以上の、有り得ない確率だよ。10年間同じクラスだなんて。
それって、あたしがナムに祟られてるとしか思えんし。だからきっと今回だって、あたしはナムから逃げられない」
沙紀の変な説得に、あたしは安易に合格を確信した。
「てなワケで、ナムは絶対大丈夫。落ちたらどーしよー、なんてうじうじするな!」
バン! 沙紀があたしの背中をめいっぱい叩いてくれた。あたしの目から、又火花が飛んだ。
ゲホッ、ゴホッ……。沙紀ちゃ~ん、手加減してよぉ。あたしは背を丸め下を向いて咳き込んだ。
「ナーム! 合格したらあたしにも知らせなよ! 絶対合格だって信じてるけど」
ビシッ。あたしは咳が止まって顔を上げた途端、又誰かに背中を度突かれた。ゲホッ!
「ナム! あたし大阪行っちゃうけど、ナムも元気でね! だから先に言っとく。合格おめでとう!」
バシッ。続け様に背中に平手が飛んで来る。ゴホゴホッ!
「ナーム、今月で“ルビーの瞳”終わっちゃうけど、大学生になってもギル様親衛隊は続けようね!」
ドカッ。……ゲホッ、ゴホッ。あたしが見詰める地面が、段々近くなる。
背中叩くなーっ! あたしは未だ合格しとらんわ!
「ナムーっ! ナムナムナムっ!」
バチーン。止めの一撃に、あたしは終に、KO。叩きのめされて、地面に両手を着いた。
こっのーっ! ナムナムゆーな! あたしは念仏じゃない! 唱えりゃ合格すんのか! 咽て声にならない。
既に合格が決まった友達が、平手にエールを込めて、次から次へとあたしの背中を度突いて来た。
目が飛び出る、涙と鼻水が飛び散る、背中じりじり、背骨バキバキ、息は絶え絶え……。死ぬって!
これはきっと、最後の虐めだ! 所謂お礼参りって奴?
なぜか調子に乗って、あたしを度突く奴等の中に、他のクラスの奴もいた。ドサクサに紛れて後輩達にも叩かれた。
それでも暫くすると、苦しむあたしに同情したのか、あたしのワンパターンのリアクションに飽きたのか、あたしを取り囲んでいた人集りは、他にターゲットを見付けて集団移動した。まるでイナゴの集団か軍隊蟻。
「沙紀ちゃ~ん」
やっと落ち着いて話が出来る様になったあたしは、潤む目で沙紀を見詰めた。
「やだーっ。あたし別れたくないよー。沙紀ちゃーん」
「汚い、寄るな! 鼻水付けるな! 折角のリクルートスーツ、クリーニング代請求するぞ!」
沙紀は迫り来るナムを突っ撥ねながら、今後も続くであろう腐れ縁に、頭を痛めた。
きっと大学もナムと一緒。大学卒業しても、全然関係無い職種でも、きっと同じ職場……。神よ。これも運命の赤い糸、って言うのでしょうか。沙紀は逃れられない運命に、深い溜め息を吐いた。
卒業して2日後、あたしの第一志望校の合格者発表がやって来た。ついに来た。
でもあたしの受験番号は、誰にも教えてはいない。自分より先に誰かに結果を知られ、しかも落ちてたりしたらショックだし、慰められる前にバカにされて笑われる。受験番号さえ解れば、ネットでも携帯でも合否確認が出来る。あたしは奥様に聞かれても、沙紀に聞かれても、親に聞かれても、ガン! として受験番号は教えなかった。
でも、もしー、なんて心配はしていない。だってあたしの部屋には、沢山のタコキャラクターが置いてある。(タコ=オクトパス→置くとパス!)
発表を見に行くに当って、験担ぎのお守りも持った。ジャイアントコーン(ジャイアント幸運)とウィンナー(Winner)。
発表の時刻、ネットでも調べられると言うのに、掲示板の前には沢山の受験生が集まっていた。あたしも受験生達に混じって、合格者一覧が貼られるのを、固唾を呑んで見守った。
あたしの受験学科は倍率3.2倍。実質倍率はもう少し低い。とは言え一緒に受けた受験生の、半分は確実に落ちる。
ナムがドキドキしながら掲示板を見詰めているその少し離れた場所で、涼弥、錬弥、雪弥+大奥様が、大学構内の建物や庭木の影に、それぞれ身を潜めて、遠くからナムの様子をじっと眺めていた。
合格者番号の一覧が貼り出された。あたしは手で顔を覆い、指の間から、お化けでも見る様に掲示板を覗いた。
先ず、あたしの受験番号とは掛け離れた若い番号から、順番に合格番号を見た。自分の番号に近付くと、今度は大きな番号から逆に見た。早く確認したい様な、したくない様な……。
合格者の受験番号は飛び飛びで、一気に20番も飛ぶとこもあった。
あたしは予防注射の時以上にどきどきした。何度も自分の受験番号を確認した。ウィンナーとジャイアントコーンを握る手にも、汗が滲む。
「あったぁ、俺合格だ!」
「お母さん! あたし合格したよ!」
合格者の歓声が、大学構内に響いた。
外野うるさーい! 一々叫ぶな! 気が散る! 合格に、一々わーきゃー、無駄に喜ぶ受験者を、あたしはじろっと睨んだ。
こっそり見に来た藤代家の人々は、ナムの様子に皆イライラしていた。
合格したのか? ダメだったのか? 一体ナムは、いつまで掲示板の前にいるつもりなんだ? 今直ぐナムから受験票を奪い取って確認してやろうかと、皆思っていた。
えーいっ! あたしは閉じていた目を、パッと開けた。その瞬間、あたしの顔が綻んだ。
「やったー! やった、やった、やった――っっっ!」
あたしの受験番号があった。あたしは何度も確認した。確認の度に派手に飛び上がった。飛び上がっては再び受験票を確認し、掲示板を確認し、又飛び上がった。大声で叫ぶナムは、周りの受験生の誰よりも声が大きく、1番うるさかった。
ジロッ。あたしは、合格出来なかった受験生に睨まれた。
でもそんなことは気にしない。直ぐさま、あたしの受験番号が乗っている掲示板の証拠写メを撮って、両親や友達や先生に一斉送信した。“合格したよ!”
直ぐに沙紀から返信があった。
“おめでとう。合格するのは分かってたけど。なにせナムとは最強の腐れ縁だから。これからもヨロ(涙)。で、ナムの受験番号ってどれ?”
あたしが送信した、掲示板の合格証拠写メには、10人分の合格者の番号が写っていた。
次々と返信される友達からの“おめでとうメール”、あたしはニヤニヤしながら液晶画面を眺めていた。
喜びに浸っているあたしの背中に、何かが飛び付いた。あたしは首にしていたマフラーを、ぐぐぐっと引っ張られて息が止まった。
「○X$■&*#▼☆……」
「よかったな、ナム」
顔を真っ赤にして手をバタバタさせるあたしに、背中から雪弥が声を掛けた。
なんでここに雪弥がいる? あたしは、チカチカする目を瞬かせてよく見ると、目の前にニコニコした大奥様も立っていた。
妖婆! いや大奥様。でもなんでここに? 幽体離脱か? ……ってそんな事考えている場合ではない! 息が出来ん! 死ぬーっ!
「ぐ、ぐるじい(苦しい)、でぼ(手を)、でぼばなぜー(手を離せ)」
雪弥は、パッと手を離した。
「悪い、ナム」
錬弥は大学の塀に寄りかかって、遠くからナムと雪弥達の様子を、笑いを押し殺しながら眺めていた。すると、隣に涼弥がやって来て声を掛けた。
「ナムの奴、合格したみたいだな」
「ああ、バカみたいに派手に騒いでるよな。あれで俺より4つも年上で、涼弥と為だなんて全然思えんわ。で涼弥はどうだった?」
涼弥の発表も、その日だった。
「俺に不合格なんて言葉はないさ。既にネットで確認済みだ」
何でもない様に言う涼弥に、錬弥は苦笑いした。
そうだよな。どんな難関大学だって、涼弥兄貴に不合格はあり得ない。俺が心配する事じゃないか。
「来年は錬弥だな。錬弥がどこの高校を受ける気なのかは、俺は未だ聞いちゃないけど。まぁどこ行くにしても、それなりに頑張れよ。楽して入れる学校なんか、受けんじゃないぞ」
涼弥は錬弥の肩をポンと叩いた。
ふたりは、ナムには声を掛けずに大学の門を後にした。
何度も掲示板を確認しては、その都度飛び上がり万歳をし、大声を上げてはしゃぐナムは、合格記念、とか言って自分をメインに写メを取り捲っていた。その様子に、雪弥も大奥様も引いた。周りの受験生もナムから少し離れて、冷ややかな目で眺めていた。
ナムの派手な喜び振りが、いつの間にかどこかの報道写真に撮られ、テレビで放映されていた。
雪弥と大奥様とあたしの3人は、合格発表後直ぐに屋敷に帰って、涼弥の朗報を聞いた。あたしは、てっきり工学部へ行くんだと思っていた涼弥が、医学部に合格したと聞いて仰天した。
あたしは、リビングで奥様に医学部の合格と入学の手続きについて報告している、涼弥の袖を引っ張った。
「ねぇねぇ、涼弥っていつから医者になるつもりだったの? 旦那様と静弥さん見て、あれ程ヤダって言ってた癖に。意志の弱い奴。
でも、受験前に教えてくれたっていいじゃん。あたし、どこ受けるのかって何度も訊いたのに、ちっとも教えてくれなかったし。減るモンじゃないのにさ。
何? もしかして合格する自信無かった、とか? そうだよねー。あたしだけ本命受かったんじゃ、洒落になんないし?」
「バーカ。ナムに祟られて、万が一にも不合格になるのがヤだったんだよ!」
「あっそ。でも宇宙人涼弥の模試判定って、どの大学も文系理系の学部も、オール“A”だったじゃん? あたしの呪いなんか効かなかったよ。
それにあたし、涼弥に安産祈願のお守りあげたじゃん。涼弥の合格は、きっとお守りの御利益もあるって。無事出産、おめでと!」
「あのなー」
「そんで医学部なんて、涼弥も静弥さんと一緒でお医者さんごっこしたいの? 女子大生とか合コン相手とか? まぁあたしにゃ関係無いけど」
「そう言やぁ、ナムも合格したんだって? 教育学部。一応おめでとう、だな。俺の御蔭って事で」
「まぁ……」
当っているだけに、反論出来ない。
二人のやり取りを側で聞いていた奥様が、お祝いの言葉を掛けてくれた。
「改めて、おめでとう、ナムさん、涼弥さん。今晩は、二人の合格祝いのパーティね。派手にやりましょ」
「はい!」
奥様に伴って、あたし自ら合格祝いパーティの準備を、乗り乗りで仕切った。
錬弥に手伝わせて、リビングにダイニングのテーブルを運んだ。奥様がその上に、お洒落な白いクロスを掛けた。クロスの上には、花やグラスやお皿が並べられた。雪弥は、余ったクリスマスのクラッカーを持って来た。
料理って、この為に態々作ってくれたんだろうか。テーブルには、ローストビーフやミートローフ、フォアグラのソテー。スモークサーモンや生ハム、赤青白の色取り取りのチーズ、トリュフ、キャビア。そんな高級食材がふんだんに並んでいるオードブル。季節外れのスイカやメロンやマンゴー。あたしは、祝賀会が待ち遠しくて堪らない。早く旦那様、帰って来ないかなぁ。
その時、奥様の電話に旦那様から連絡が入った。
「ごめんなさい。主人はやっぱり遅くなるって。先に乾杯して、先に始めて下さいって。大学の仕事は早々に切り上げて、なるべく早く家に帰って来るそうよ」
「やったぁ! トーリュフ! キャービア! マーンゴ!」
料理を目の前に、お預け状態だったあたしは、小首を振ってリズムを取り、目の前のご馳走を繰り返して唱えた。
だって今日はあたしが主役じゃん! 何食べたって、どんだけ食べたって、文句無いよね?
なにが美味しいのかよく分からないけれど、キャビアやらトリュフやらフォアグラやら、始めて見る本物高級食材を、片っ端から掴んで口に放り込んだ。次から次へと忙しなく口に運ぶナムに、横で雪弥が呆れている。
「ナムって、飢えた錦蛇だな。顎外して食ってんじゃねーの?」
「外れるか。だってこれ、死ぬ前に一度は食べてみたかったんだもん。こんなチャンス、あたしにはもう二度と廻って来ないんだから、逃してなるかよ。
って、わぁ~! ケーキだぁ!」
奥様が、手作りケーキを運んで来た。生クリームが見えないほど、果物やチョコレートやお菓子で、側面までびっしりトッピングされている。それは全部、あたしのリクエストだった。
雪弥がケーキを見て首を捻った。
「なんでケーキに煎餅が付いてる?」
奥様がケーキを切り分けるのを、あたしは目を輝かせて見詰めた。
切り分けられたケーキを、あたしは早速お皿に取った。煎餅も乗っかっているトッピングだらけのケーキの上に、あたしは更にメロン、マンゴー、スイカを乗せた。まるで国籍不明パフェだ。
高級シャンペンで、皆で乾杯! でもあたしも涼弥も、一応未成年だ。けれどそんなの気にしない。お洒落なシャンパングラスに、あたしは恐る恐る口を付けてみた。
シュワシュワッ……。口で弾ける泡が、甘くて美味しい。コーラともサーダーとも、クリスマスの時のなんちゃってのお子様シャンペンとも違う。
美味しい! でもこれホントにアルコール? お酒だとはとても思えないあたしは、調子に乗って一気に煽り、更に手酌でぐびぐび呑んだ。
ナムの酒癖の悪さを知っている錬弥は、その様子をナムから離れてじーっと見ていた。
ナムの奴、あんなに飲んで大丈夫か? 確かあいつ、酒癖超最悪だったよな。錬弥は、いつかのナム乱酒事件を思い出した。
錬弥に心配されているとは、あたしは露程も思わない。その内あたしは、じーっとこっちの様子を窺っている錬弥に気が付き、側に行った。慌ててあたしから逃げようとする錬弥の腕を、ガシッと掴んだ。
「なぁ~に逃げてんのよぉ。あたしが無事合格してぇ、ここからいなくなんの、嬉しくないのかよぉ~?」
あたしはケラケラ笑って、錬弥の背中をバンバン叩いた。一応空手を習っているナムに、手加減なく叩かれて、錬弥の目に涙が滲む。
こいつに空手教えたの、誰だ! って俺か。酔っ払いのバカ力め。こいつ絶対酔ってる! 錬弥は、マジでナムの手を振り切り、組み手の体勢を取った。
「錬弥、何ケーカイしてんのよ……ヒック。来年は、錬弥の合格祝いだね、ヒック。あたし、合格祝い絶対来るから忘れず呼べよ、ヒック」
こいつ! 俺を出汁に、ただ酒が飲みたいだけじゃん! あたしは警戒する錬弥の頭を、力任せにクシャクシャ撫ぜた。ヒック……。
いつの間にかあたしのシャンペンは、ウーロン茶に摩り替わっていた。
「で、雪弥は中学受験どうすんの?」
あたしは、傍にいた雪弥に尋ねた。
「俺か? 未だ決めてない。家庭教師には、一応受験の準備はさせられる。でも……錬兄が通ってる区立中学でもいいんだ。錬兄がまともに通ってる位だから、噂程酷い学校でも無んじゃね。錬兄情報もある事だし」
錬弥がまともに通ってる学校だから、危ないんじゃん! でも、やっと出来た雪弥の友達。何でも言える仲間達だ。何人かは私立中学へ行ってしまうが、雪弥はあの悪餓鬼仲間と一緒に中学生活を送ってもいいかな、と思っていた。
ふっと北叟笑む雪弥に、あたしは、雪弥も少し大人になったんだ、と感じた。身体だけじゃなくて。
そう言えば、錬弥も随分背が伸びて顔も男っぽくなっている。あたしが藤代家に来て、未だ1年も経ってないのに、皆随分変わったよね。あたしも少しは成長したんだろうか。雪弥と錬弥を見てふと思った。
「ナム、大学入ってから、俺ん大学と合コンしねー?」
涼弥が、あたしに嫌味っぽく耳打ちして来た。
「遠慮しとく。大体さぁ、医学部だったら合コン大学なんて選り取り見取りじゃん? 女子大とか。OLだって拒否らないよ。
それに医学部には看護科もあるんでしょ? 総合大学なんだから、他学部からだって申込み殺到だろーし。それを、態々あたしん大学に申し込むのってさ、それ超嫌味じゃん。それにあたしの大切な友達、オタク涼弥には絶対紹介したくないしー」
「あっそ。ざーんねん」
「残念で結構。女子大生になってまで、涼弥の顔なんか見たかないもん。やっと理不尽な主従関係切れるってのに、何で又コンよ。涼弥だって、早くあたしと縁切りたいって思ってる癖に」
あたしの薔薇色大学生生活には“藤代”の文字も“メイド”の文字も無い。
「まぁ、りょうセンセのアシくらいはしてあげてもいいけど? あたしベタ塗り得意だし、トーンも上手く貼れるし。そん時はバイト料弾んでねー」
涼弥は、苦笑いした。
「それとお前、俺の誕生日には絶対来いよ」
涼弥は、あたしの耳元で低い声で脅した。
「な、何の事?」
「誕生日の、お・や・く・そ・く。忘れた、とは言わせねー」
あたしは、11月22日の錬弥の誕生日と、2月14日の雪弥の誕生日を思い出した。思い出したくも無い、アキバ系メイドコスプレの、埴輪状態のあたし。
「あ、あたしそんな約束したっけ?」
「つい最近、雪弥ん時にやったばっかじゃん。なんなら、今ここで俺の約束果たしてくれてもいいけど」
「絶っっ対、イヤ! そんなのいい見せもんじゃん。今日はあたしが主役なのに」
「主役? お前が? どっちかってゆーと、俺が主役じゃね? ナムは、つ・い・で」
あたしは涼弥に鼻先で指を差された。確かに……。あたしは、藤代家とは縁も所縁もない赤の他人だった。
「あのさ、涼弥に衣装返してもい? あたし、あと何日かで藤代家の家政婦卒業だし。あの約束は、あたしが藤代家にいる期間限定で有効だから。
それに、涼弥の誕生日っていつだったか、あたし覚えてないし……」
7月7日なんて、超分かりやすい涼弥の誕生日を忘れるワケが無い。勢いで、涼弥の誕生日に涼弥からもらったメイド服でコスプレする、と約束してしまった事を後悔した。
涼弥からもらった、フリル大盛りの白い総レース超ミニメイド服が、頭に浮かんだ。
「あっれ~おっかしいな。俺、去年ナムに俺の誕生日教えなかったのに、確かお前、俺に変なガラクタ押し付けたよな。ナムの超自己中な短冊だらけの。忘れた、なんて言わせないし」
ギクッ。あたしは、涼弥に拒否られたミニ七夕飾りの誕プレを思い出した。
「今年も絶対来いよ。ナムの変なガラクタも貰ってやるわ。それにお前コスプレ好きじゃん」
「そ、そうだけど……」
あたしの誕生日、得意気に涼弥に貰ったメイド服を着てみたら……。胸から太腿までのストレートなボディに太い手足。姿見に映っていたのは埴輪だった事を思い出した。
「ねぇ涼弥、パスって何回までOK?」
「0回」
「ジョーカーは」
「無し」
「エンガチョ」
「無効」
「コックリさん」
「信じない」
こいつ! 呪ってやる!
ガチャ。旦那様が帰って来た。旦那様は、既にスーツから部屋着に着替えていた。旦那様は、早速涼弥の隣に行って、合格のお祝いを言った。そしてあたしにも。
「ナムさん、大学合格おめでとう。よかったね。ナムさんの夢の第一歩だ」
「はい、ありがとうございます。もう超嬉しくて。でも、本番はこれからなんですよね。これからが、本当の頑張り所です」
普段あまり家に居ない旦那様とは、あたしは滅多に話をしない。でも、訊きたい事はいっぱいあった。
「あの、あたしの今後の人生の参考として、旦那様に是非お聞きしておきたいんですけど……」
「何ですか? 私には、平凡な人生経験しかないよ。未だ50年しか生きてないし」
「そんな事ないって。じゃぁ、旦那様の成功の秘訣って何ですか? 医者として、学長として、恋愛とか家庭とか勉強とかお金とか……」
「ナムさん、残念ながら私には、成功した事なんかひとつも無いよ。失敗は山ほどあるけどね」
こんな大きな屋敷に住んで、医科大学の学長で、あんな素敵な奥様を捕まえて、しかもイケメンって、どこが“失敗”だよ!
「じゃぁ旦那様はどうやって、あんな綺麗な奥様を射止めたんですか?」
昔、旦那様が超イケメンだったと言う噂は聞いたし、若い頃のモデルの様な写真も見せてもらった。でもそのルックスだけで、あのお嬢様の奥様が堕ちるとは思えない。いくら旦那様が藤代家のお坊ちゃまでも、将来有望な医学生でも、あの奥様を射止める為にそれなりの努力はした、とあたしは踏んでいる。
「さぁ何でだろ。奥さんに聞いてみて」
にっこり笑って、逸らかされた。
パン。その時、雪弥が鳴らしたクラッカーが、諸にあたしの頭に当った。
こいつーっ!
あたしは、なんとか大学入学手続きも終え、入寮の準備を整える慌しい毎日を過ごしていた。でも、着々と女子大生に近付いていく毎日が、あたしは嬉しくて楽しくて仕方ない。
長く辛かった藤代家でのメイド生活も、後1週間で終わる! そう思うと、あたしの顔は緩みっ放しだ。
あたしは、5月末に藤代家に来た。今日までの10ヶ月、4兄弟からは散々扱き使われ、からかわれた。色んな事件にも捲き込まれた。その10ヶ月が、あたしにとって長かったのか短かったのか、辛かったのか楽しかったのかは、自分でもよく分からない。
大人気少女漫画“ルビーの瞳”の連載も完結し、あたしの、文月りょう、のアシも終わった。全てが、あたしの卒業の為に仕組まれていた、神様からの試練だったような気がした。
あたしが藤代家を出る時が、子供から大人への本当の意味での卒業なんだ、きっと。そしてあたしに待っているのは、夢と希望の輝ける薔薇色の大学生生活っ!
あたしの新しい門出に静弥さんはいないけど、でも必ず大学受かるって信じてくれてたし、遠い他国から見守ってるって言ってくれた。
静弥さん……。思わず空港での出来事が頭を過ぎって、一人で赤面した。
あたしの受験合格発表当日、あたしは早速静弥に手紙を出した。合格の報告と共に、一緒に過ごした9ヶ月間のお礼を込めて。
メールでもよかったんだけど、それって何だか安っぽく感じられて、あたしは直筆でお礼を書きたかった。
静弥に手紙を書いていると、どうしてもあの事件を思い出す。あたしは赤面しながらも、あの静弥からのキスは無かった事にして、手紙を綴った。
静弥から、メールが届いた。
“ナムちゃん。改めて卒業と合格おめでとう。こんなに離れていたら合コンも出来ないね。でも夏休みには日本に帰るよ。出迎えは、ナムちゃんのキスがいいな。ナムちゃんのキスだったら僕はいつでも大歓迎だよ。
オーストリアの空の下から、ナムちゃんに愛を込めて、僕から熱い接吻を送ります。チュッ♡”
ピッ。削除。
引越しの前日、あたしの荷物は大してないけれど、3兄弟が荷造りを手伝って(?)くれた。押入れの中に押し込めてあったモノをダンボールに詰め、壁の、やたら書き込みの入ったカレンダーを外し、あたしの大好きなポスターを剥がし……。
後から大奥様もやって来て、綺麗に片付いた部屋の掃除を手伝ってくれた。畳、押入れ、壁、天井、窓や戸まで。まるで、あたしが藤代家に居た痕跡を全て消し去るかのように、力を込めてゴシゴシ擦っている。ここの部屋の浄化が全て澄んだらきっと、あたしが二度と入ってこないように、盛り塩をして結界を張る。
5月末に、あたしが藤代家にやって来た時は……。鍋釜までも布団袋に詰め込んで、それを背負ってやって来た。しかもマイチャリで……。
あれから10ヶ月、いつの間にか増えたあたしの荷物。自転車なら3往復くらいはよゆーで掛かりそうだ。そんなあたしに、お父さんが軽トラで運んでやると言ってくれた。
改めて広げてみるあたしの荷物。町工場から夜逃げした時もそうだったが、やっぱり片方だけの靴下や、小学校の時の赤白帽があった。それと、底がパカパカと笑うスリッパ。
増えたのは、受験の問題集や参考書にノート。それと、10ヶ月分の奥様手書きのあたしのお給料明細書と、見かねてくれた奥様のお古の衣服。
あたしが10ヶ月使っていたこの部屋は、西日の当る、いつも物が散らかっていた雑然とした4畳半の和室だった。それが今は、ダンボール箱が積まれただけの殺風景な部屋になった。
荷作りを手伝ってくれた涼弥が、何気なく壁の画鋲の痕を撫ぜている。そこにはさっきまで、ルビーの瞳のポスターが貼ってあった。
「俺的には、ナムが藤代家に残って、アシスタント続けてくれる方が都合がいいんだけどな。新しいアシ探すものメンドいし」
ナムに背を向け、壁に手を触れる涼弥の声が、なんだか少し物寂しい。
「あたしがアシ? 残念でした。これ以上涼弥に扱き使われて堪るかっつーの。それに、ホントは涼弥だって嬉しいんでしょ? 見飽きたあたしの顔、毎日会わせなくても済むし、うるさい小言も歌も聞かなくて済むし。アシやってた時も、涼弥あたしに文句しか言わなかったじゃん」
「お前、セーカクサイアクだな」
「ありがと。それって褒てんだよね」
「うん」
大きく頷く涼弥に、あたしの拳に力が入った。
錬弥が真剣な顔で、訊いてきた。
「ナム、お前ひとりで生きて行けんのか? 今迄ひとりで生活した事なんかないだろ」
「ご心配ありがと。でも藤代家で何とかなったんだから、ひとりでもどこでも何とかなるっしょ。中学生の錬弥が心配する事なんか、全然ないから」
ナムは偉そうに言って、モデルのポーズを取る様に、積み上げたダンボール箱に何気なく手を突いた。
ズルっ。ドサドサ、ドッターン……。箱は、あたしに押されてスライドし、落ちてぶつかって、パンパンで丸く変形していた箱のガムテープが剥がれた。あたしは、ボロボロと崩れ落ちたダンボール箱とその中身に尻餅を搗き、埋もれていた。
「ちょ、ちょっと休憩……」
3兄弟の、呆れを通り越した哀れみの顔。ダンボール箱の中で座り込んでいるあたしは、ヘヘヘと苦笑した。
雪弥は、ひっくり返りガムテープが剥がれた箱から、ちょろっと食み出した紐を引っ張っり持ち上げた。
「へぇ~~」
雪弥が紐を抓まみ上げて繁々と見ていたのは、あたしのブラだった。
「ナムに、これ必要無くね?」
「ゆっ雪弥―っ! 見るな、返せっ!」
雪弥は、ダンボール箱に埋もれたナムの勢い良く伸ばして来る手を、彼女の目の前でひょいとかわした。雪弥は、ナムの目の前でブラをヒラヒラさせながら、取り返そうと何度も手を伸ばすナムに、くるっと背を向けた。
「あー、でもこれ、スポンジいっぱいくっついてる。やっぱナムの胸って、偽物だったんだ」
「返しなさいっ!」
あたしは立ち上がって、後ろから雪弥に襲い掛かった。雪弥はヒラリとナムの前から飛び退いた。あたしは勢い余って、再びダンボール箱に埋まった。
あたしに乗っかられ壊れ、中身が弾け飛んで、バラバラボロボロになったダンボールの箱達……。
「お前さぁ……、マジメに引っ越す気、あんのか?」
あたしの髪にブラのホックが引っ掛かり、あたしの視界を塞いだ。
その日の晩、あたしは藤代家の人々に暇の挨拶に行った。その日も帰ってこない旦那様には、あたしは事前にお礼を伝えておいた。
先ずは雪弥を攻略する。7つも年下の悪餓鬼だけど、一応ケジメだ。
雪弥の部屋に入るには、毎回覚悟が必要だ。日頃から何かしら小細工がしてあるドアに、こんな時に仕掛け無し、何てハズが無い。
「雪弥、入るよ」
あたしは廊下で、雪弥の部屋のドアから離れて壁に貼り付き、箒の柄の先でノックした。
シーン……。無反応。午後9時の3階廊下は、静まり返っている。
今度はあたしは、手を思い切り伸ばして雪弥の部屋のドアノブを掴み、壁に貼り付いたままでそーっとドアを押し開けた。
あれ? いつもは開けた途端、ドアの上からムカデや蛇の玩具やら、家蜘蛛の死骸やら、生ゴキブリ入りのホイホイ、なんかが落ちて来る。でもその時は、何も落ちてこなかった。
あたしは下を見た。床にも何もない。絵の具も油も塗っていなかった。
あたしは、恐る恐る部屋の中を覗いた。雪弥はドアに背を向け床に座り込んで、ハムスターのケージを開けて、チョロと遊んでいた。
なんだ、今はチョロのお世話タイムか。あたしはちょっとホッとして部屋に入った。とその時、あたしは足裏に何か違和感を感じた。
キター! あたしは反射的にその場から飛び退いて、壁にペタッとへばり付いた。あたしは暫く、その状態で事の成り行きを観察した。雪弥が呆れて振り返った。
「ナム、何やってんだよ。俺が何かするとでも思った? あーあ、タオル、落とすなよ」
あたしが踏んだのは、フェイスタオルだった。
「ご、ごめん」
あたしは、なんでタオルが床に落ちてるのかと不思議に思いながらも、拾って雪弥に手渡した。心なしか、タオルを受け取った雪弥の肩が、小刻みに震えている。
あたしは、雪弥の隣へ座った。ナムの黒いトレーナーの背中には、白い絵の具で大きく“バカ”と描かれていた。
雪弥は、今までのナムの行動パターンから、予め、ナムが壁に貼り付く事と貼り付く場所を予想して、白い壁に白い絵の具で細工をした。ナムは黒のトレーナーを着て来た上に、雪弥が思った以上に上手く行き、ドンピシャで壁に貼り付いた。雪弥は下を向き笑いを堪えて、小さくガッツポーズした。
「おいで、チョロ」
あたしは、チョロに手を伸ばした。
「ねぇ雪弥。この子随分大きくなったよね? 秋に来たばっかの時は、梅干みたく小っちゃかったのに」
「もっと可愛い例えはねーのかよ」
雪弥は呆れてナムを見た。
あたしは、掌にひまわりの種を乗っけて、手を出してチョロを誘った。チョロは、ナムの指先の臭いを嗅いで、少し齧った。どんなに小さくても齧歯目だ。
「痛っ! いったー。痛いじゃん」
あたしが思わず手を引込めてぶちまけたヒマワリを、チョロはせっせと拾って頬袋に仕舞込んでいる。
「ナム、一々騒ぐなよ。それチョロの挨拶だって。こいつ賢いから、間違ってもナムの指なんか食わない」
「そんなの分かんないじゃん。あたしは甘いよ、きっと。でもま、許したげるわ。チョロちゃんとも、もう最後だし。
じゃぁね、三代目チョロちゃん。二代目みたく、元気で長生きしてね。保険証は作っといた方がいいよ」
あたしは餞別に、又ひまわりの種をあげた。チョロは直ぐに種を奪い取って頬袋に仕舞った。立ち上がって、もっと、とお強請りをする頬がパンパンだ。
「あんた未だ欲しいの? 頬っぺ、パンパンじゃん。ひまわりは別腹、じゃない別頬か?」
チョロは、もうヒマワリはくれないと分かると、さっさと寝床に隠れた。ハムスターの癖に、ゲンキンな奴だ。
雪弥は、暫くチョロのゲージの蓋を開け放して、ケージの寝床でヒマワリの種を頬から出し、両手で持ってカリカリと皮を齧って中身を食べるチョロの様子を、じっと見ていた。
突然雪也が勢い良く立ち上がった。雪弥の隣で一緒にチョロを見ていたあたしは、何事かと思って驚いた。
「今からこの俺様が、ナムの為に旅立ちに相応しい曲をプレゼントしてやるよ」
「いいって! 遠慮します! 雪弥の気持ちだけ受け取る!」
速攻、あたしは大声で断った。大きく首を横に振り、あたしは雪弥の足にも縋って、必死に懇願する。
だって、静かに感傷に浸りたい藤代家最後の夜を、これ以上邪魔されたくはない。
雪弥のどこにそんな力が有ったのか、あたしは雪弥に腕を掴まれ引き摺られて、無理矢理地下拷問室に連れ込まれた。
「雪弥様、何でも言う事聞きますから、それだけは勘弁して下さい。あたしの鼓膜が……」
雪弥が、そんな事言うなよ、と寂しそうにナムを見上げた。その表情に、あたしはハっとした。
雪弥でも、あたしがいなくなると寂しいって思ってくれるのかな……。まぁ、最後、だし?
あたしは覚悟を決めた。鼻を摘まんで、ふん、と耳抜きをした。
雪弥がニヤリと笑った。あたしは、雪弥がドラマや舞台で活躍する一人前の役者だと言う事を、すっかり忘れていた。
バババ、ギュイィィィ――ン、ガンガンガン、キ――ン……。
歯科医院の音やら、ガラスを引っ掻く音やら、建築現場の鉄筋を打ち込む音にドリルの音に、軍基地の戦闘機の爆音。象の鳴き声から絶叫悲鳴から……。
相変わらずの雪弥の大爆音を、あたしは散々浴びせられた。一体これのどこが“旅立ち”なのか、さぱり分からない。地下室は、トンネル工事現場か動物園だった。でも……。
この騒音、今日で最後なんだよね……。しゃーない。今だけ我慢してやっか。
そうは思っていても、いつの間にかあたしはテッシュを丸めて耳に詰めていた。
雪弥は一通り演奏し終わって気が済んだのか、パタリと静かになった。ギターを抱えたまま、無言で下を向いている。必死で何かを押し隠している様に、肩が微かに震えていた。
そうか。やっぱあたしがいなくなるの、寂しいんだ。案外可愛いとこもあるじゃん。あたしはちょっと、雪弥が愛おしく思えた。
「雪弥、男だろ。泣くな」
あたしは雪弥の隣に立った。いつの間にか背が伸びて、あたしが背伸びをしないと見えなくなった雪弥のツムジ。その雪弥の頭を、あたしはぐしゃぐしゃ撫でた。子供扱いされてむっとした雪弥だったが、何を思ったのかギターを放り投げ、衝動的にナムに抱き付いた。
「泣いてなんかないっ! ナム、どこにも行くなよ。ここにいろよ!」
倒される程の勢いで抱き付かれて、あたしはびっくりした。幼い子供の様に泣きじゃくる雪弥を、あたしはぎゅっと抱き返した。
あたしは雪弥の頭に頬を寄せ、雪弥の髪をそっと撫でた。目を閉じて、今迄の雪弥との出来事を思い出しながら、お姉さん声で囁いた。
でも、あんまいい思い出じゃ無い様な気がする。
「雪弥、大きくなったねー。5センチは背が伸びた? あたしがここに来たばっかの時は、チビ……」
言い切る前に、あたしはぐいっと雪弥に髪を引っ張られた。
「痛っ! 何す……」
あたしの頭は強く引き下げられて、雪弥の顔にぶつかりそうになった。慌てて顔を背こうと……。
間に合わなかった。いつの間にか、雪弥の手がナムの頭をぐっと押さえ付けていて……。
ブチュッ! あたしは暫くその状態で、目をパチパチさせていた。目の前の雪弥の瞳を、何事? と見詰めた。可愛い唇が、しっかりあたしの唇に重なっている。
はっと我に返ったあたしは、咄嗟に雪弥を突き飛ばした。あたしの行動が読めたのか、雪弥はちゃっかり横に避けていて、あたしの突っ撥ねた腕は空振りした。
「ゆっ雪弥――っ! 何すんのっ。痛いじゃん、じゃなくて、髪抜ける、じゃなくて……」
18歳の(もうじき)女子大生が、11歳の小学生相手にドギマギして赤面までした。
「そ、そーゆーのは、あたしじゃなくてぇ……」
「え? ナム、もしかして今の本気にした? バーカ。ドラマの練習に決まってんじゃん。ナムが居なくなるんで俺が寂しがってるー、とか、マジで思ってんじゃねーよな。
だって俺、ナムがいなくなって清々してるし。一々文句言うウザい奴がいなくなってくれて、ホントよかったわ。明日から俺は、薔薇色生活だぜ!」
雪弥はあたしにあっかんベーをして、走って地下室を出て行った。あたしは、ぽかんと口を開けて雪弥の後姿を見送った。
ふん、強がっちゃって……。
でも雪弥、ありがとね。心臓、抉って脳天カチ割る様なー、世界一耳が痛くて、吐き気がする程うるさくて……。世界一心の篭もった演奏。
あたしは、雪弥に放り出された楽器をそっと手に取って、雑巾で手の痕や埃を丁寧に拭いた。綺麗にコードを纏めて、定位置に片付けた。あたしは、部屋にある楽器や物が綺麗に整頓されているのを、ゆっくりと見回して確認し、そっと部屋の照明を切った。
やだ遅くなっちゃった。壁に掛かっているレトロな大時計は、9時45分を差している。
大奥様、未だ起きてるかなぁ。普段は10時過ぎたら、もう寝てるらしいし。無駄に朝早いんだからー。全く妖婆の癖して夜行性じゃないなんて。
でもあたしは、なんとか今日中に挨拶を済ませたい。引越しの明日はきっと忙しいから。
あたしは、急いで大奥様の部屋へ向かった。
コンコン。もしかしたら既に就寝中かも、と思ったあたしは、控えめにノックした。
「どうぞ」
中から、大奥様の声がした。
よかったぁ、未だ起きてる。あたしがそっと戸を開けると、中で大奥様が姿勢良く正座して、澄ましてお茶を飲んでいた。
部屋の壁には、一面読めないサイン色紙が貼ってある。文机の上には、大旦那様の写真が置いてあった。
「そんな所に立ってないで、どう? ナムさんお茶でも」
「あ、はい。では頂きます。でも夜にお茶は……。眠りを妨げませんか?」
「温かい麦茶です」
麦茶なら、就寝前でも平気なんだろうか。あたしは大奥様の前で正座をし、コポコポと温かい麦茶を入れてもらった。
時計の音も無い、シーンとした大奥様の部屋。いつも騒音に塗れているあたしには、居心地が悪い。かと言って、自分からこの沈黙を破る勇気も無い。あたしは音を発てずに静かにお茶を飲んだ。
「ナムさん、今日まで良く持ちましたね」
「はぁ……」
「直ぐ居なくなるかと思ってましたが、良く今日まで我慢しましたね」
うんうん。全くその通りです。あたしは麦茶の茶碗を握り締め、感慨深げに大きく頷いた。
大奥様の無愛想な視線を感じて、あたしは慌てて首を振って否定した。全然そんな事はありません、って。
「我慢だなんて……。あたし、大奥様から色々勉強させて頂きましたし、藤代家の皆さんにもよくして頂きました。皆優しくて、辛い事なんかなんにも……」
あたしの脳裏に、4兄弟から散々からかわれ意地悪された事が、ポンと浮かんだ。
「あっと言う間の10ヶ月でした。ありがとうございました。ホント、楽しかったです」
って事にしておく。あたしは、引きつりながらも必死で笑顔を保った。それも後12時間で終わりだし。
「ナムさんにそう言って頂けると、こちらも嬉しいです」
そう言う大奥様の顔は、ちっとも嬉しそうじゃない。
「いつでも藤代家へ戻っていらっしゃい」
絶対イヤ! 即効言いそうになって、あたしは慌てて麦茶を頬張った。
「なんなら、お嫁に来てもらっても構わなくてよ?」
ブッ! あたしはお茶を噴き出しそうになって、慌てて口を塞いだ。
「x▼☆@*$……」
口を両手で塞ぎ、口に含んで吐き出しそうな麦茶を、無理矢理ゴクリと飲み込んだ。熱っ!
「えっ、遠慮しときますっ!」
富士山が爆発しても、大津波で日本が沈没しても、月が日本に落っこちても、それだけは絶対無い! マジ有り得ない! 大体、誰の嫁にする気なんだ?
「仲がいいと思ったんですけどねぇ」
誰とだよ。
「あのー。大奥様、あたしまだ18で、学生なんですけどー。それに、藤代家の皆だって未だ学生じゃありませんか。雪弥ー、雪弥さんに至っては、まだ小学生だし。
そもそもこのあたしが、藤代家の嫁に相応しいとお思いですか?」
「今のままのナムさんが、藤代家に嫁に来るのは無理です。あなたには到底務まりません。最低でも3年は、藤代家で修行をして頂く事になります。私の下で。
それを見越して言っているのです。ナムさんが一人前の嫁候補になる頃には、雪弥も一人前の男性になっています」
何十年先の話をしてんだよ!
「あの、大奥様? あたしは、丁重にお断りさせて頂きます、って言ったんですけど」
きっぱり! しかし大奥様の目が、お黙り、とあたしの言葉を嗜めた。
ゾッとした。もしかしてあたし、大奥様に気に入られた? まさかまさかまさかまさか……。あたしの額から、冷や汗が流れ落ちた。
お願いです大奥様! あたし何か大奥様に祟られる様な粗相をしたでしょうか! ……思い当たり過ぎて、特定出来ない。
お、お願いです大奥様! 後生ですからあたしに取り憑かないで下さい! あたしなんかに恨み残さないで、綺麗さっぱり逝って下さい、じゃなくて……。
あたし未だ死にたくない! やっと始まったあたしの人生、ここで死没したくないんです! あたしの強い念を大奥様に送った。
「それでですね、先ずはナムさんの、その言葉使いを直して頂きます。藤代家の一員としては……」
あたしの念は届いてない。あたしには見えないけど、きっとそこら中に、あたしの念など簡単に跳ね返す結界が張ってある。
大奥様は、その後も女の気構え十ヶ条だの、心の準備だの、まるで娘を嫁に出すかの如く、うだうだくどくど……。イヤ、親身になって説いてくれた。
この部屋、ティッシュどこだ? あたしはティッシュを丸めて、耳に栓をしたかった。
そうこうしている内に、いつの間にかあたしの足は仮死状態になっていた。あたしは大奥様に、あたしのこの脚こそ、なんとかして欲しかった。
まぁそれでも、これがあたしに対する大奥様なりの激励方法なんだろう。あたしは10ヶ月間大奥様と付き合って来て、気丈で照れ屋な彼女の人柄を、ちょっぴり垣間見た様な気がした。
「では大奥様、もう遅いのであたしはこれで失礼します。今迄ありがとうございました。それと、麦茶ご馳走様でした。お休みなさい」
あたしは立たずに(立てずに)、ずるずると戸の所まで後退りし、座ったまま戸を開け一礼してそっと閉めた。あたしはその後、暫く廊下で死んでいた。
ありがとうございました。
いよいよ明日で最後です。
最後まで付き合って頂ける事を願っております。




