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静弥編(後編)

長い文章にも関わらず、本日もお越し頂きまして、誠にありがとうございます。

静弥編、後編です。今話も疲れます。貴方様が最後までお付き合い頂ける事を、お祈り致しております。

 静弥は、自分の部屋でピアノを弾いていた。曲はショパンの“幻想即興曲”。リズムも旋律もばらばらで、目眩めまいがするようなその演奏は、今の彼の心情をつづっている様だった。

「そういえば、俺の推薦状どうしたっけ。捨てたっけか。……返事、今日までだったな。どうでもいいけど」

 ピアノの横の棚にあった、恭子先生と静弥との写真が入ったフォトフレームは、伏せてられていた。


 あたしは歩道を走り、駅のホームを走り、公園を突っ切り、息を切らして藤代家に帰って来た。バン、と乱暴に門も玄関扉を開けた。

 ダダダダ……。あたしはただいまも言わず、玄関に靴を飛ばし蹴散らし、派手に廊下を踏み鳴らして走り、大奥様の部屋に行った。

 バーン。あたしは、大奥様の部屋のドアを力いっぱい開けた。はぁはぁと肩で呼吸をしながら真っ赤な顔で叫んだ。

「だっ……、旦那様は、今どちらにいらっしゃいますか? ゼェゼェ……」

 ノックも無しに、いきなり現れたナムに、就寝の支度したくも整え、座卓に座ってお茶を飲んでいた大奥様の目は、点になっている。

「何です? いきなり。郁也さんは、だ大学だと思いますけど?」

「ありがとうございます」

 あたしは呆気に取られている大奥様を尻目に、荒々しく戸を閉め派手に廊下を走り、屋敷の外に飛び出した。


 日が落ちてから、時間が随分ずいぶんった。あたしが背中を丸めて必死に自転車を漕ぐと、容赦無い向かい風が、あたしの頬を突き刺す。押し戻そうと、行く手をはばむ。

 くっそー! 涙が滲むし、耳も痛い。鼻水も出る。頼むからあたしのチャリよ、進んでくれー!

 駅に着いたあたしは自転車を放り投げ、駅ホームの階段を2段抜かしで駆け登り、ドアが閉まりかけた電車に無理矢理身体を滑り込ませた。セ――フ。

 あたしは真っ赤な顔で、肩で息をはぁはぁとさせながら、電車の中を移動した。確か、あの駅の降り口ってもっと前だったよね。

 それにしても、電車のスピードが異常に遅い。しかも一々駅に停まる。ドアの開閉も遅けりゃ、アナウンスの喋り方も、乗り降りする奴等も、超トロい。

 乗降客の背中を、無理矢理押したくてイライラするあたしは、その場にじっとなんかしていられない。無駄に電車の中をうろうろ歩いた。

 このへたれ電車! 金返せ! あたしは、バン、と扉を叩いた。

 駅に着くと、あたしは開き始めたドアから飛び出し、階段を駆け登った。

 とにかく今は時間最優先だ。あたしは涙を振り切り、身を切る思いで、一人タクシーに乗った。このあたしが、たったひとりでタクシーに乗るだなんて、なんつー贅沢……(涙)

 大学に着くと直ぐに、あたしは旦那様への取り次ぎをお願いした。学長は今、教授達と会議中だとかで、あたしはその会議室の前で終わるのを待った。

 こういう時は、必要以上に時が経つのが早い。時計の針が、グルグル回っている。

 旦那様、早く早く早く! 今日が終わっちゃうよ。

 留学書類の提出期限は今日だ。明日には、斉藤先生から協会へ書類を提出しなければ、静弥の留学は流れてしまう。

 あたしはウロウロと廊下を歩いたり、椅子に座ったり立ったり、目を閉じ手を組んで、会議が早く終わる様にと必死に祈ったりした。

 ガラガラガラ……。会議室のドアが開き、中からゾロゾロと白衣姿の人達が出てきた。あたしは、最後に出てきた旦那様の腕を掴んで、静弥の留学の事を、息も吐かずに機関銃の様に話した。

「お願いします。お願いします。お願いします」

 あたしは旦那様に何度も頭を下げた。旦那様は、にっこり笑ってうなずいてくれた。あたしの顔が、ぱっと輝いた。

「ありがとうございます! でもこの事は、静弥さんには内緒にしてて下さいね」

 あたしは旦那様に大きく一礼して、直ぐに大学構内をダッシュして、来た道を戻った。

 学長は、今にも滑って転びそうに、危なっかしく走って帰るナムの後ろ姿を、唖然として見送った。

「ナムさん……。電話で済む事なのに、わざ々、こんな遅い時間に、こんな遠い所まで」

“いいえ旦那様! こういう事は、きちんとお顔を見てお願いしないと駄目なんです!”

「そうだね。私達は、そういう大切な事を、もう随分長い間忘れていたよ」

 学長は会議室の前でたたずみ、謝罪の言葉も感謝の言葉も、何でも電話やメールで済まそうとする自分に、ナムの言葉を当てめて苦笑いした。


 旦那様は大学に居たのに、奥様は居なかった。すでに家に帰っているらしい。もう夜も随分遅い。早くしないと、今日が終わってしまう。

 あたしは大学の階段を駆け降り、ひたすら廊下を走り校庭を抜けて、屋敷から大学迄来たルートを戻った。……身銭を切って、又もや一人タクシー。くぅ~っ!

 駅に着いた。あたしは倒れているチャリに、ごめんねと謝って、再び走った。来た時以上に風が痛い。目に沁みる。耳が千切れる。肺がむせる。

 いいや、あたしは元バスケ部。こんなもんで、へばって堪るかーっ! 白い息を鼻から噴き出しながら、あたしは歯を食い縛って坂道を登った。

 藤代家に戻った。あたしは自転車も靴も玄関前に放り出して、夫妻の部屋へ直行した。屋敷中に響き渡るような、酷い騒音を撒き散らしながら。

「奥様ーっ!」

 あたしは夫妻の部屋に入るなり、奥様に静弥の留学の事を一生懸命説明した。派手な振り付けと“あたし語”で。

「●▽×・! *$@■☆! ……!」

 自分でも、何を言っているんだかさっぱり分からない。

「分かってましたよ」

 なんて優しい奥様! でもあたしの日本語、通じたんだろうか。あたしはにっこり笑う奥様に、未知なる能力を見た。旦那様と奥様のホットラインの存在を、その時あたしは忘れていた。

 ドタドタ、バタバタ……。再びナムの足音が、屋敷中に響き渡った。

 次は大奥様だ。まだ起きているかなぁ。起きてて下さい。いや、寝てても叩き起こす! 大体、妖怪は夜行性だろ!

 でもあの人は、“家” が大事な人だから、簡単に“うん” とは言ってくれないだろうなぁ。……藤代家の廊下を走る、あたしの気は重かった。

 あたしは大奥様の部屋の前で立ち止り、一瞬ノックするのを躊躇ためらった。ナムの踏音がピタリと治まり、屋敷に静寂が戻った。

「ナムさん、どうぞ」

 ギクッ。中から大奥様の声がした。なんで、あたしがここにいるって分かったんだろう。

 あたしはうやうやしく戸を開け中に入って、大奥様に落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて、説明した。

 将来、藤代家の当主になる静弥さんが、この家を離れるなんて事、はたして大奥様は許してくれるだろうか……。

「いいですよ。でもそれは、私に訊くべき事ではありません。本人次第なのですから」

 あっさり許可された。余りに拍子抜けして、ガクッと来た。でも大奥様は、意味あり気にあたしにニヤリと笑った。

 そうだった! 大奥様は昔、この家から駈け落ちしようとした人だったんだ。藤代家を捨てる覚悟で……。

 あたしは、大奥様に深くお辞儀をして部屋を出た。

 後は涼弥と錬弥と雪弥……。まぁいっか。あいつ等は、以下同文って事で。

 な-んだ。じゃぁやっぱ、何の障害も無いんじゃん。静弥さんは、一体何をそんなに怖がってるんだろう。あたしは不思議に思った。

 後は本人の承諾だけだ。何としても、うんと言わせなきゃ。でも、これがあたしにとって最大の難関だった。あたしは、きゅっと口元と気を引き締めた。


 コンコン。夜遅く、あたしは静弥の部屋の戸をノックした。

「静弥さんこんばんは。ナムです。よろしいでしょうか?」

「ナムちゃん? いいよ、どうぞ。もうすぐ試験だからね。頑張らないと」

 静弥は、座っていたソファから振り返って、ドアに立つナムに微笑んだ。

 ナムが静弥の部屋へ来る時は、いつも何冊ものテキストを抱えてやって来る。なのに、今の彼女の手には、1枚の紙キレだけだった。

「ナムちゃん、勉強って今日はそれだけ?」

 静弥は、ナムの手元を見て首をかしげた。

「はい、これを静弥さんに」

 あたしは静弥の前に歩み寄って、さっきあたしが斉藤先生から、新たにもらって来た留学の申込書を差し出した。静弥はそれを見て、目を丸くした。

「これ、昨日ナムちゃんが返してくれたんじゃなかったっけ? それとも……」

 あたしは慌てて首を振った。

「いいえ! 掃除でもないのに、あたし静弥さんの部屋に勝手に入ったりなんかしません! これは、今日あたしが斉藤先生の家に行って、貰って来たんです」

「斉藤先生? ナムちゃんが? 態々?」

「はい」

 あたしは、ニッコリ笑って元気良く答えた。逆に静弥は、はぁ、と大きく溜め息を吐き、額を押さえた。

「それ、僕には関係ないから……。受験で忙しいナムちゃんが、折角せっかく行ってくれたんだけど、無駄足だったね」

「そんな事ありません!」

 あたしは、静弥に食って掛かった。

「あ、ごめんなさい、大きな声だして。でもあたし、全然無駄だなんて思ってません。

 それとごめんなさい。あたし静弥さんに内緒で、勝手に斉藤先生の家に行きました」

 明らかに、余計な事してと言っている静弥の呆れ返った瞳に、あたしは一回大きく息を吸い込み、思い詰めた面持ちでしゃべり始めた。

「あたしは、どんなに遠くても難しくても、夢は絶対諦めません。貧乏でも才能なくても病気になっても、絶対諦めません。だって、諦めたらあたしがあたしでなくなっちゃう……。

 だから何年掛かってもお婆さんになっても、絶対、絶―っ対、叶えてみせます。

 チャンスがあるのに、夢を現実にするチャンスがあるってのに、それから逃げたりなんかしません。どんなに小さなチャンスだって、全トライです。

 夢を諦めて大人になるんだったら、あたしは大人にならない。そんな人生、絶対イヤ!

 障害持ってる子供達だって、みーんな夢持ってるんですよ? 一人一人頑張ってるんです。

 なのに、ここであたしが諦めたら、あの子達に何て言えばい? 夢は見るだけのもんで、叶えられるもんじゃない、なんて言えます?

 それに夢が叶ったって、それで終わりじゃないんです。その先に、又続くんです。お婆さんになったって、夢は死ぬまであるんです。どんなに小っさくったって、見つけて育てて叶えるものなんです。そうですよね? 静弥さん」

 あたしは、静弥に向かって一歩前に出た。

「そうだね」

 熱っぽく語るナムに、引き気味の静弥は苦笑した。

「静弥さんの夢って、何ですか?」

「だから僕は医者に……」

「違う! それは優等生の静弥さんです! 静弥さんの本当の夢は、医者になる事なんかじゃない!」

 静弥は目をみはった。あたしは更に表情を引き締め改まって、ソファに座る静弥の前で正座をした。

「今日、斉藤先生に会っていろいろ訊いて来ました。静弥さんには才能があるって事、この留学は静弥さん限定のチャンスだって事、そして多分もう一生無いって事も。

 他にも先生から、お話いっぱい聞いてきました。静弥さんのピアノの音がどんなに素晴らしいかって事。

 静弥さんには、欧米人には無い日本人限定の音を持ってるって言ってました。その音を、静弥さんの音楽を、静弥さんの世界を、世界中の人に聴かせてあげて下さい。色んな国の人達に教えてあげて下さい。

 静弥さんの音には、言葉も人種も国境も関係なく、皆の心に届く不思議な力があります。音楽音痴のあたしにだって、感動させる事が出来るんですよ?

 選ばれて神様から授かった静弥さんの才能、皆に披露しなくちゃ意味無い。神様だって、ガックシです。

 静弥さん、何を怖がっているんですか? そんなの静弥さんらしくないです。あたしには、散々頑張れって言うくせに」

 静弥の顔が険しくなった。昨夜見た表情以上に、険しい静弥の鋭い視線があたしに突き刺さった。あたしの背筋がぞくっとした。

 でも次の瞬間には、静弥の表情はいつもの優しい笑顔に戻っていた。

「ナムちゃん、勉強ないなら今日はもうお休み。もう随分遅い時間だ」

 いつもの優しい静弥の声だった。微笑む静弥は、ナムを見ずにソファから立ち上がった。あたしは咄嗟とっさに、正座していた片足を出して、静弥の腕を掴んだ。

「旦那様も奥様も大奥様も、皆皆、静弥さんの事を思ってます。静弥さんの夢、叶えて欲しいって思ってます。

 旦那様も、家の事が重荷になってるんだったら、捨てちゃえばいいって言ってました。自分のせいで、静弥さんの人生を変えちゃう様な事があれば、それこそ一生静弥さんに顔向け出来ないって。

 静弥さん! 旦那様にそんな思いをさせないで下さい! 旦那様に、“静弥さん”ってゆー、十字架背負わせないで下さい!

 それに静弥さんが夢を諦めたら、3人の弟皆も、夢を諦めちゃうかもしれないですよね? だって静弥さんにだけ犠牲を強いておいて、自分は好き勝手な事をするー、なんてそんな事、あいつ等絶対出来ないって。

 あたしは、涼弥も錬弥も雪弥も、皆静弥さんを自慢してて、応援してるって知ってます。あいつ等ああ見えても、実は人を思いやる気持ちも、遠慮する気持ちも、結構強いって、静弥さん知ってます?

 だから夢を捨てた静弥さんを、弟として尊敬なんか出来なくなると思うんです。今迄通りの、好きなお兄さんじゃなくなっちゃう。自慢のお兄さんが、実は全然そうじゃなかった、なんて超ショックです……。

 そうなんですよ! 静弥さんが夢を求め叶える事で、弟さん達皆が生き生きするんです。そうして、初めて自分の好きな事が出来るんですから。

 だってその逆だったら、静弥さんどうします? 自分が弟だったら、そんなお兄さん好きになれます? 自分達が足枷あしかせになってるなら、そんなの取っ払って応援したいって思うんじゃないですか?

 分かってる癖に……。静弥さん、そんなのとっくに分かってる癖に。この家に縛っているのは、藤代家の誰でもない、世襲でもない、静弥さん自身だって。

 静弥さんって、勝手に責任背負い込んで、皆からの期待を勝手に妄想して抱え込んで、自分さえ我慢したらいい、なんて思い上がってません? でも静弥さんが思っている程、この家は静弥さんを必要としてません。期待なんかしてませんから!」

 あたしは片膝立ちのまま、ギュッと静弥の腕を掴み、静弥の瞳を見詰めて強い口調で訴えた。

 静弥は態度を硬化させ、鋭い目でナムを見下ろした。更に表情も険しくなった。

 しまったぁ~。あたし、言い過ぎたぁ~。豹変した静弥の冷やかな視線に、あたしもひるむ。背中も凍る。……冷や汗たら~~。

 いや、ここで引いてはいけない。負けるな、あたしっ!

「君には関係ない。君は部外者だ」

 低くとがった声だった。頑張れ、あたし!

「いいえ、部外者だからこそ言えるんです。家族だと遠慮してしまう事もあります。でもあたしならハッキリ言える」

 あたしは大きく息を吸い込んで、一気に言った。

「そんなの可笑おかしい! 静弥さんじゃない! 夢は叶えるものだって、静弥さんが証明して下さいっっっ!

 あたしは……、あたしはここの家に長く居るわけじゃない。だけど家族は、ずーっと静弥さんと付き合わなきゃなんないんだから。夢を諦めた、自分達のせいで夢を捨てた静弥さんを、一生見てなきゃなんないんだから! そんなのダメ、絶対ダメ!

 それに、失敗するかもなんて不安、皆持ってます。逆上がりだって、あたし最初は落ちるって思ってた。手が滑って頭から落ちて、死ぬんじゃないかって怖かった。けど、そこで止めたらずーっと出来ないまんまだった。跳び箱だって、飛び込みだって、受験だって!」

 静弥は表情を和らげて、苦笑した。

「逆上がりね……。

 怖いよ、確かに……。皆の期待を一身に集めて渡欧するんだから、失敗は許されないってね」

 静弥は、苦笑しながら俯いてふっと目を伏せた。まるで、何かの答えを掴もうとするかの如く……。

「そうだね。……家の事は、単なる僕の口実だったのかもしれない。プレッシャーから逃げ出す為の」

 静弥は目を開け、ナムに向かって微笑んだ。

「うううん、静弥さんだけじゃないです。誰だって皆怖いんです。でもしたくなくたって、失敗なんて誰でもするし何度でもする。

 生まれたばかりの赤ちゃんだって、おっぱい飲むの失敗してむせるんですよ。百歳のお爺ちゃんお婆ちゃんだって、やっぱり失敗するし。

 でも、失敗を怖がってやらないよりは、やって失敗した方がずっといい! あたしなんて、毎日失敗だらけです。鍋は焦がすわお皿は割るわ、とどめが失恋! ってそうじゃなくてー。

 静弥さん、行きたいんですよね? 留学して自分の実力試したいんですよね? 行って夢を追いかけたいんですよね? 世界中の人に、静弥さんのピアノ、聴いてもらいたいんですよね? ねっ、ねっ、ねっ!」

 あたしは静弥に、バッとにじり寄った。

「ナムちゃんには敵わないなぁ」

 静弥は、噴き出すように笑った。いつもの優しい笑顔だった。

 いやいや、ここで静弥さんのこの笑顔に惑わされてはいけない。あたしはきゅっと、眉を吊り上げた。

「そんな事言って。あたし、だまされませんから!

 静弥さん! ハッキリ返事して下さい。ウィーンの音楽院へ、行きたいんですか? 行きたくないんですか?

 行きたいんですか? 行きたいんですか? 行きたいんですか? 行きたいんですか? ……」

 まるで呪文。あたしは何度も問い掛けて、静弥に、般若の様な顔を近付けた。静弥はナムに気圧けおされて、ドタッとソファに座り込み目いっぱい身体を引き下げた。目を大きく見開いて、こわ々答えた。

「はい、正直言うと……。行きたい……、かな」

「かな? じゃなくてっ! 行きたいんでしょ? 行きたいんですよね? もうっ! はっきりしろー! 男ならウジウジすんな――っ!」

 もはやあたしは、為口を通り越して脅迫だ。あたしは立膝から完全に立ち上がって、ソファに片足を掛け、静弥の腕をぐいっと掴んで見下ろし、詰め寄った。

 今のあたしは、ソファでおびえる静弥に、指を詰めろと脅しているヤクザだった。三角形になったナムの怖い目に、静弥は小さくなって冷や汗も滲ませた。

「いっ、行きたいです!」

 静弥は、思わず口走ってしまった自分に驚愕した。

 しまったぁー。彼女に乗せられたぁー。俺とした事がこんな小娘に……。

 あたしの方は、してやったりだ。静弥に向かって、にんまり笑った。

「今の言葉、確かに聞きましたよぉ。あたし、ちゃーんと聞きましたからねぇ。男に二言無し。前言撤回、絶対無しですからねぇ」

 あたしは不敵に笑って、静弥から腕を離し、ソファに掛けた足も元に戻した。

「あーよかった。あたし斉藤先生に、命賭けるって言っちゃったから、これで、死ななくて済む」

 静弥は怪訝けげんな顔をした。

「命賭けるって何?」

「あ、いえ、何でも無いです。ちょっと……」

“命”書けなくてー、と、定番の親父ギャグが頭をぎった。でもきっと、雪弥でもそんな古典ギャグは言わない。

「それじゃ静弥さん。斉藤先生んとこ、今直ぐ電話して下さい。はい」

 あたしは自分のケータイを、静弥の目の前に差し出した。

「ナムちゃん、今日はもう遅いから、連絡は明日で……」

「駄目です! 今して直ぐして何とかして。だって静弥さん、明日になったら“何のこと~?”なんて言いそうだし」

 あたしは横目で、静弥をジトーッと睨んだ。

「そんな事言わないって」

「信用できない! それに斉藤先生への返事って、今日が期限じゃなかったですか?」

「先生には後からちゃんと連絡するから」

「ダメです。今して下さい! ほらぁー、さっさとする!」

 あたしは水戸黄門の印籠いんろうの様に、静弥の目の前にあたしのケータイを差し出した。

「分かった、分かった、分かりました。するよ、今しますって」

 静弥はそう言って、近寄るナムを手で制し、直接自分の携帯から斉藤先生へ電話した。

 ……………。

「こんなに遅い時間なのに、先生喜んでくれたよ。先生がナムちゃんに、ありがとうってさ。

 でも先生には、今日中に連絡するって言ってあったの? ずっと起きて、僕の電話を待っててくれたみたいだから」

「はい。先生、寝ないで待っててくれるって言ってました」

 アッケラカンとしたナムの笑顔に、静弥は呆れて苦笑した。

「ナムちゃん、でも僕が “うん” って言わなかったら、どうするつもりだった?」

「いいえ、静弥さんなら絶対 “うん” って言うって信じてたから」

 えへへ、と笑うナムが、静弥の目に急に愛おしく映った。

「ありがとうナムちゃん。さぁて、これから家族皆を説得するの、大変だな」

「大丈夫。皆、静弥さんの事応援してくれるって。既に藤代家全員の了承済み!」

 あたしは静弥にニッと笑って、得意気にピースサインを出した。

「マジ?」

 ニッコリ笑って大きく頷くナムに、静弥は彼女の行動力に驚かされるばかりだった。

「じゃぁ、今度は僕がナムちゃんを手伝う番だね。さぁ勉強しよっか」

「えぇぇ~? 今からですかぁ~?」

「ナムちゃん、試験まで後何日だっけ?」

「……はい」

 その晩あたしは、朝まで静弥の逆襲を受けた。


 翌日、静弥は大学の学長室に呼ばれた。息子とは言え一般学生が、何か特別な事情でもない限り、学長室に入る事は先ず無い。それだけに、何事か、と静弥は不思議に思った。

「失礼します」

 大学では、学長と一学生、通常の師弟の関係だ。

「掛けなさい」

 今は、父親の顔だった。二人は、学長室のソファに向かい合わせで座った。

「済まなかった。静弥の気持ちをんで上げられなくて。私は、ナムさんに先を越されちゃったよ」

 静弥の留学の件だった。

「それは俺が黙っていたからで、父さんに落ち度はないよ」

「いや、それでも私は父親だからね。静弥が考えている事位、解っていたよ。解っていても決めるのは静弥本人で、私は見守る事しか出来ないと思っていた。でも彼女は違った。

 父親として、大いに反省したよ。静弥にとってのその時期は、もっと先だと思っていたから。静弥に訪れるチャンスも、これから幾等いくらでも有ると。

 もっとも、静弥が藤代家ここに残って、医師研修まで終えたとしても、私はさっさと家から追い出すつもりだったよ。世襲制なんて、私で終わりにしたいと考えているから。

 だから静弥。藤代家ここに想いを残さないで、留学先むこうで精一杯やって来なさい。誰のでもない、お前の人生だよ。悔いの無いように頑張ってきなさい。

 まぁ中途半端で戻って来ても、私は静弥を家に入れる気は更々無いがね」

 父親の顔をした学長が、茶目っ気たっぷりに笑った。

 窓から差し込む日光ひかりが、春を告げるかように柔らかく暖かい。まるで母親が、家の中に閉じ篭もってないで外に出ておいでと、幼児おさなごを手招きしている様な、うららかな日差しだった。

「私も母さんも、君達が藤代家いえを巣立っていく時を楽しみに見ているんだ。どんな風に飛んで行くのか、どこへ飛んで行くのか。自分の未来を、どうやって掴むのかを見届けたい。

 いつまでもにしがみ付いている雛は、蹴飛ばして外に放り出すつもりだよ。涼弥も錬弥も雪弥もね。

 私は、君達に親の七光りを与えない代わりに、藤代家いえに縛る気もない。君達の前に私の牽いたレールは無いんだから、自分で作るしかないんだよ。

 それに私も“家族”として静弥の応援はしても、社会的政治的立場からの支援は一切しないから、覚えておきなさい」

 静弥に対して、口調は穏やかだったが父親としての目は厳しかった。

「静弥は、小さい頃からずっと優等生だった。弟達の面倒もよく見てくれた。優等生は、もう卒業してもいい頃だ。涼弥達も、静弥がいなくなったって大丈夫だから。

 静弥が思っている以上に、あの子達は大人だよ。私も母さんも、まだまだ元気だし。お祖母ちゃんだって凄く元気じゃないか。

 だから家の事は、全く気にしないいい。もう自分を1番に考えなさい。医師の道も残したいのなら、学校の方は休学にしておけばいい」

 静弥は、俯き加減で父の言葉を聴いていた。

「父さんありがとう。でも大学は辞める。中途半端は嫌だから。……ごめん」

「そうか。私の余計な気使いは必要なかったな」

「うううん、心配してくれて嬉しいよ。父さんが、こんなに俺の事心配してくれてるとは思わなかった。俺の方が、一人で粋がって思い込んで、反省しなけりゃならないのに。

 今迄、何も言わなくてごめん、何も言えなくて、……ごめん。父さんの気持ち、全然分からなくて…………、ごめん」

 俯く静弥の瞳から、ぽろっと涙が零れた。父は静弥の隣に座って、ポンと彼の肩に手を置いた。

「子供は、親の気持ちなんか知らなくていいんだよ。いずれ静弥が親になった時に、分かる事だから」

 父の手のぬくもりを肩に感じながら、静弥は、もっと早く言えばよかった、と思った。


「ナムちゃん、いろいろありがとう。お礼って程じゃないけど、今から僕とデートしない?」

 留学出立の前日、静弥は強引にナムをドライブに誘った。

「えー、だってあたし……」

 掃除途中だったあたしは、問答無用で静弥の真っ赤なフェラーリに押し込められた。ジャージ姿の寝癖頭のまんまで。

 静弥は、ナムが失恋した去年の夏に連れて行った、海の見える小高い丘の公園に、再び連れ出した。今は2月の初めだ。その時一面緑だった夏の草原は、茶色く変わっていた。それでも、どことなく春の匂いがする。

 時折拭く強い潮風は、かなり冷たい。それでもあたしは、前回と同じ、海が見渡せる風が良く通る場所の枯れ草の上に座った。弱い風でも身体に当たると冷たい。日の良く当たる昼間とは言え、少し肌寒かった。

 お尻、冷えるかな? でも多分、ここは静弥さんの特等席だから、そんな事は気にしない。あたしは、隣に座っている静弥に微笑んだ。

「静弥さん、よかったですね。念願叶って、明日やっとあの海の向こうに行けるんですね」

「ありがとう。ナムちゃんの御蔭だよ。寒くない?」

「ちょっと。でも気持ちいいから平気です」

 迷いの無くなった静弥の笑顔に、あたしも釣られて笑った。

「あたしにも春が来るかなぁ」

 あたしはただ今、大学受験のトップシーズン真っただ中だ。公立大学、私立大学と、毎週の様に試験がある。

「ナムちゃんなら、きっと大丈夫」

「あのぉ~~。皆にそう言われるんだけど、それって根拠なくないですか?」

「うん」

「静弥さん、即答しすぎです!

 でも静弥さん、どうして大学辞めちゃったんですか? 休学でもよかったのに。

 二束の草鞋わらじって、世の中結構いるじゃないですか。医師でピアニスト、なんて超格好いいのに。勿体無いですよ。

 後2年でお医者さんになれたんでしょ? 念願のお医者さんごっこ、もう出来なくなりますよぉ?」

「お医者さんごっこは、いっぱいやったからもういいよ」

「……」

 多分静弥は、医者にならなくても、女性を脱がせるのは得意だと思う。もしかしたら男も……。

「僕は、逃げ道を作るのはイヤだったんだ。ギリギリの所まで自分を追い込まないと、どうしても甘えが出て、簡単に諦めてしまうような気がする。多分、留学先むこうにはそういった学生しかいないと思うし。

 簡単に帰れる場所を、僕は残したくなかったんだ」

 静弥の声は穏やかで優しかったが、その言葉は、いつもの軽い彼からは想像出来ない。静弥の強いおもいが、あたしにも伝わった。

「素敵な夢ですよね。あたしじゃ両手に抱えきれない程の大きな夢。華やかで真っ赤な薔薇みたいな夢ですよ。しかも世界中の人を幸せにする事も出来るし。うらやましいです」

「ナムちゃんだって、今夢に向かっているんだろ? 大丈夫、きっと叶うから! いつか」

「いつか、かぁ…………。はい」

 あたしは、微妙に笑って頷いた。

「それにしても、静弥さん、留学先むこうへ行くの、早くないですか?」

「そうだね。でも一日でも早く行って、留学先の国や街に慣れたいし、日本ここに長く居て、又臆病風に吹かれて、行きたくなるかもしれない」

「そんな事ないですって」

 大学まで辞めてしまって、静弥の気持ちがもう揺らぐ事は絶対に無い、とあたしは静弥の笑顔に確信している。

「あの、静弥さん。居なくなっちゃう前に、ひとつ訊いてもいいですか?」

「ダメ」

「……」

 笑われてもからかわれても、あたしは構わず質問した。

「静弥さんって、特定の彼女っているんですか? その他大勢じゃなくて、特別な彼女。守ってあげたいって思う人。

 なんかあたしが見る度に、静弥さんの隣にいる女性が替わってるんですけど」

「うーん、難しいね。なかなか一人には絞れないよ。ナムちゃんだったらいいけど?」

「静弥さん、この前あたしに、何て言ったか覚えてます? あたしは弟だって言ったんですよ?」

 この女ったらし。あたしは、プーッと頬を膨らませた。

「うんそうだね、ナムちゃんは可愛い4番目の弟、かな」

「せめて、雪弥より上にして下さい!

 じゃぁやっぱ、お母さんとか結婚しちゃったピアノの先生とかが、静弥さんの理想ですか?」

「理想を言えばキリ無いね。だからそんな事は、始めから求めないよ」

「えーっ。でも一緒にいる人って、皆綺麗な人ばっかじゃないですか? 選んでる風にしか見えないんですけど?」

たま々じゃない?」

 絶対違う。

 でもこの人は、女の人に何を求めているんだろう。あたしには、やっぱりお母さんを追い駆けている様な気がした。


 屋敷に戻ると、珍しく奥様がリビングにいた。優しい音のバラードかなにかのCDを聴きながら、お洒落なティカップを持ってくつろいでいる。

「奥様。お帰りになってたんですね。すみません、お迎え出来なくて。あたし、今ちょっと出掛けてましたから」

「いいえ、気にしないで。ナムさんは私の秘書じゃないんですから」

「それにしても、奥様今日はお早いんですね。普段どんなに早く帰ってきても、十時は過ぎるのに」

「ええ、暫らく静弥さんとも会えなくなるから、今日は早めに帰って来たの。でも静弥さん、お出掛けよね?」

「うん、そうなんだ。ごめんね麗子さん。先に言ってくれたらそんなの断ったのに。でも夏休みには帰って来るから、直ぐに会えるよ。

 そうだ、偶には麗子さんのバイオリン、聴きたいな。僕と一緒に演奏しない?」

 何、奥様ってピアノだけじゃなくバイオリンも弾けるの? あたしは奥様の顔をじーっと見詰めた。

「バイオリン? でも暫く触ってないから、調弦に時間が掛かるわよ?」

「いいよ。待ってる」

「じゃあ……。曲は?」

「そうだな、このお嬢さんでも一度は聞いた事のある、ポピュラーな曲。愛の挨拶、なんてどう?」

 急に振られて、あたしはびっくりした。

「あたし? はい、何でも」

 奥様は早速バイオリンを持ち出して来て、優雅に調弦を始めた。奥様を、目を細めで見詰める静弥の姿が凄く優しい。やっぱり静弥さんの1番の女性は、お母さんなんだ。あたしは穏やかな静弥の表情に納得して、小さく頷いた。

 二人が演奏を始めると、途端に室内の空気が変わった。いつもの静弥の澄んだピアノとは違う。バイオリンからは可愛らしい小鳥のさえずりを、ピアノからは森を包み込むような優しい春風を感じた。

 奥様の演奏は、ミスがないばかりか、暫らくバイオリンを弾いていなかったとは、とても思えない程の滑らかさだ。しかも二人の演奏は、正に “愛の挨拶”。ぴったりと息の合った、恋人同士の甘い囁きだった。

 静弥は、楽譜最後の鍵盤から指をそっと離すと、壁掛けの振り子時計を見上げた。時間を気にする静弥の様子に、あたしは予定を尋ねた。

「静弥さん、これから送別会ですか?」

 さっき、静弥がそんな事を言っていた事を思い出した。

「うん、そうなんだ。そろそろ出掛けないと。麗子さん、ごめんね」

「いいえ、私の事は構わないで。友達と楽しんでいらっしゃい」

 静弥はピアノの蓋をして、楽譜を片付けた。微笑みと余韻をその場に残して、リビングから出て行った。

 ピピピピ……。ドアが閉まるのと同時に、奥様の携帯が鳴った。

「大学からだわ。今日はもう仕事はしないって言ったのに……。ごめんなさいナムさん」

「はい、奥様。お茶はそのままにしておいて下さい。後であたしが片付けますから。

 行ってらっしゃいませ、奥様。お気を付けて」

「ありがとう、行ってきます」

 奥様も、慌ててリビングから出て行った。

 春を感じる暖かな日差しが、白いピアノに落ちて柔らかく反射している。あたしはその光に目を細めながら、静弥と奥様の演奏の余韻に、一人でぼーっと浸っていた。


 今日は、静弥が日本を発つ日だ。藤代家の家族4人+他人1人 (あたし)で空港へ見送りに来た。

 パスポートと縁のないあたしは、めったに来ることの無い国際空港に、大はしゃぎだ。国内線の空港と大差ないのだが、それでもあたし的には、異国情緒が感じ取れる。

 ナムが一人で騒いでいるのをよそに、静弥と涼弥は並んで歩き、さっさとカウンターへ向かった。

「涼、お前、医学部受けたんだって?」

 静弥が、スーツケースを転がして歩きながら、隣を歩く涼弥に訊ねた。

「うん。でも親父の大学じゃないし、まだ発表もないけどね」

「涼が落ちるワケないだろ。でも医学部って、俺のせいか?」

「兄貴は関係ない。俺は兄貴の代わりになろうとは思わないし、なれない。俺は俺だ。大体、兄貴が大学辞めるって聞いたのも留学を知ったのも、ついこの前だし」

 ナムは静弥に、家族皆の了承を得た、とか言いながら、実は3弟には報告もしていなかった。

「だよな。なら医学部、いつ受ける気になったんだ?」

「俺、親父と兄貴を間近で見てて、医学部なんか全然行く気無かった。医者だけには成りたくなかった。だけど担任にしつこく言われて、一応準備だけは前からしてた。親も兄貴も医者なんだから、お前も受けろってうるさくてさ。現役生徒の医学部合格ってのは、学校としても体裁ていさいいいらしいし。

 本気で受験を決めたのは……。7月、かな?」

 夏から本気を出してこの余裕とは、さすが涼弥だ。だてに東大確実、と言われてない。静弥は涼弥の秀才ぶりに感心した。

「それって、ナムちゃんの影響か?」

 涼弥は苦笑した。

「無きにしもあらず、かな。

 あいつ、人の役に立ちたいって言ってた。弱い立場の人の手助けしたいって」

「ああ、聞いた。彼女、特別養護学校の先生になりたいんだって?」

「らしいね。それで、俺も何度かナムに付き合わされて、養護学校連れてかれてさ。俺、あいつに漫画の仕事手伝ってもらってるだろ。無下むげに断れなくて。

 でもあいつ、人使い荒いの何のって。養護学校の子供達の相手だけだったら未だしも、その学校の掃除らや校庭の草取りやら、大工仕事までやらせるんだぜ? 家じゃそんなの一度もやった事の無いこの俺が、だ。

 まぁ、それでもその内に、結構楽しくなったけどな。人との関わりなんか面倒臭いだけだったけど、満更悪くもないかな、なんて思ったりもして。

 その内、ひょっとして、俺も誰かの役に立てるのかなー、なんて柄にも無く思ったりして」

「それで医者?」

「俺に、学校の先生は無理」

「だよな」

 静弥は噴き出しながら、納得して頷いた。

「涼、後はヨロシク。あんまりナムちゃん苛めんなよ。彼女、もう直ぐ藤代家から居なくなるんだろ?」

「兄貴が心配する事ないよ。兄貴がいなくたって、何にも変わらないさ。ナムもね。

 なんかあいつ、4月になっても、ずーっと藤代家うちにいるような気がする」

「俺も」

 二人は、顔を見合わせて笑った。

「何話してるの?」

 後方で、雪弥と足踏みバトルをしていたあたしは、何やらヒソヒソと怪しく話をしている静弥と涼弥の間に、背後から割り込んだ。あたしは静弥と涼弥の二人と腕を組み、怪訝な顔で交互に二人の顔を見上げた。

「ひ・み・つ」

「な・い・しょ」

 何やら怪しげに、アイコンタクトをする静弥と涼弥。

「ケチーっ。教えてよー。どーせあたしの悪口なんでしょ?」

 あたしは、ぷっと噴き出す二人に、頬を膨らませ口を尖らせた。


 手続きを済ませた静弥を、あたし達は出国ゲートまで見送った。既にゲート前には、静弥の大勢の見送り客でごった返していた。

 あたしは見送りの人の中に、静弥のピアノの恩師、斉藤先生を見付けた。あたしが遠くからペコッとお辞儀をすると、先生はあたしに気が付いて、微笑んで、うんと頷いてくれた。

 静弥の医大の友達も見送りに来ていた。当然だが、看護学科の女子も沢山いる。その上、明らかに学生っぽくない年配女性やら、中高生っぽいうるんだ瞳の女子達やら……。どうやら、静弥ファンの人達らしい。どこからか静弥の留学の噂を聞き付けて、勝手に押し掛けて来たのだろう。

 何気に清掃服のおばちゃんや、売店のおばちゃんも、手を止めて静弥をうっとり眺めている。

 オーケストラのメンバーなのか、静弥は綺麗な女性達に囲まれて、談笑していた。なんかそこだけ、パッと花が咲いた様に華やかだ。まるでオペラの舞台の様に。

 静弥は、斉藤先生に歩み寄り、丁寧に頭を下げて握手をした。友人達とも握手をして、そのまま抱き合った。

 その様子を遠巻きに見ていた女の子達に、静弥は手を振り、笑顔とウィンクを振りまいた。

「キャ――ッ♡」

 静弥が振り向く度に、黄色い歓声が空港ロビーに沸く。

 うっさ――いっ! 全くなんてウザい女共だ! 雪弥のギター騒音の方が全然マシだし! あたしは、無駄に愛想を振り撒く静弥にも、無駄に騒ぐ女達にも、異様に腹が立った。

 とは言え、あたしも余り他人にモノ言える立場じゃない。だって城田りゅうは別だもん。一日の内に、何度も城田りゅうのポスターに話し掛けキスをするあたしは、アイドルにキャーキャー言いたい気持ちも、出演しているテレビドラマやCMに手を振る気持ちも分かる。

 静弥の取り巻きらしき集団の内の一塊が、藤代兄弟を指差して何かヒソヒソと話をしている。その内、彼女達の目の色が変わり、騒ぎ出した。

 なんて浮気っぽい女共だ! 確かに、藤代兄弟は目立つけど。

「ねぇねぇ、あの人達って静弥さんの弟さんかな? 静弥さんにちょっと似てるよね? 超イケメンだし。それとあの小学生くらいの男の子、あたしテレビで見た事ある」

「え? そう? …………。

 あーっ、あるある。見た事あるわ! 月9のドラマに出てた子に似てるー!」

「でしょ? あのドラマに出てた子って、名前何だったっけ。えーっと、なんとかゆきや……。何ゆきや、だっけ?」

「藤代雪弥じゃ、なくない?」

「そうそう、藤代雪弥だ! 確か、チョコのCMとかにも出てたよね」

「うんうん。じゃぁあの子役の藤代って、芸名じゃなくて本名? やっぱ藤代静弥の弟って事?」

「でも、納得だよね。静弥さんの弟君だったら、絶対可愛いって」

「だよねー。確かにあの子、テレビよか全然可愛いし」

「ねぇそれと……。あの横の人も、超イケメンじゃない? 左の子の方は、なんか未だあどけない感じもするけど」

 彼女達は、明らさまに涼弥と錬弥を指差して騒いでいる。

 超ウザ! あんたら、静弥さんを見送りに来たんじゃないんかい! あたしのはらわたは、グツグツ煮え立った。

「ねぇ、側にいるあの女、誰? 親戚の子ぉ? にしては、全然馴染んでないし。存在自体が超不自然。はっきし言って、惹き立て役にもなんない超ブス。しかも、見た目に分かる下半身デブ。よく人前歩けるよね、って感じ……。なんか、超笑えるー!」

「うん、あの、格好も変だしセンスゼロ。“家政婦は見た”のおばちゃんっぽい」

 あたしに聞こえる様に、わざと大きな声であざけ笑っている。当っているだけに、反論出来ない。あたしはギロッと彼女達を睨んだ。

「お前等の方がよっぽど笑えるわ。帰って鏡見て見ろってーの。いくら頑張ったって、ぜーったい静弥さんに相手なんかされないって。アホバカ女」

 般若の様な形相で彼女達を睨み、ボソボソ呟くあたしの横で涼弥がくすくす笑っていた。

「涼弥、あんた何笑ってるよ」

 あたしはドスの利いた低い声で脅し、涼弥を睨んだ。

 静弥は、一通り友人来賓への挨拶を終えて、最後に家族の前に来た。奥様と旦那様は今日も仕事で、静弥の見送りには来られなかった。

 静弥は大奥様に向き合った。

「春子さん、行ってきます」

「静弥さん、しっかり者の貴方あなたの事だから、私は何も心配していません。それでも、身体には充分気を付けて下さいね。今迄の様に、1週間とか10日程の滞在ではありませんから」

「分かってるって。ありがとう。春子さんもあんまり無理をしないでね、歳なんだから。又ぎっくり腰になるよ。だから任せられる事は遠慮せずに、母さんとナムちゃんにお願いして。僕が心配なんだ」

「ありがとう。でもまだまだ他人には任せられません」

 大奥様は、ちらっとナムを見た。横で聞いていたあたしは、涼弥の後ろにこそこそ隠れた。

「雪も、野球頑張れよ」

 静弥は、雪弥の頭をクシャクシャ撫ぜた。雪弥は怒ったふりをして、静弥の手を振り解いた。

「俺、もう子供じゃないって!」

「ごめんごめん。そうだよな」

 笑う静弥に、雪弥もぺろっと舌を出して笑った。

「静兄、向こう行ったら写真送れよ。引越し先とか学校とか。可愛い女子とか」

「分かった。雪も、あんまりお母さんやお婆ちゃんに心配掛けるなよ」

「うん」

「後、ナムちゃんにもね」

「こいつはいいの」

 ムッカー! 7才も年上のレディに向かって、こいつ呼ばわりかよ。

 静弥は錬弥と向き合った。錬弥は視線を外して照れ臭そうに、言いたい事は分かってるから、と軽く手を上げた。

「錬弥、稽古に励むのもいいけど、勉強も頑張れよ。お前も受験だろ。それと、無茶して皆に心配掛けるな。喧嘩も程々にしとけ」

「言われなくたって」

 普段、静弥とは殆ど顔を合わせなくても、いざいなくなるとなると寂しいのか、錬弥は誤魔化すようにプイと顔を逸らせた。

 静弥は涼弥に向き合った。

「涼 “後” はよろしく。涼の発表、心配はしてないけど、合格したら知らせろよ、一応」

「分かった。“後”ってのは、頼まれたくないけど。

 でも俺は次男だ。どこに居たって、兄貴が藤代家の長男には変わりないさ」

 涼弥は眼鏡越しに、静弥にウィンクした。

 最後に静弥は、涼弥の後ろに引っ込んでいたあたしの前に立った。藤代家の家族でも親戚でもない、赤の他人のあたしにも、静弥は挨拶をしてくれた。

「ナムちゃん、行って来ます。できれば僕が藤代家いえに帰って来るまで、ずっと居て欲しいな」

「それは無理。だってあたしもう直ぐ大学生ですから。でも、静弥さんが日本に戻って来る時は “歓迎” のハタ持ってお迎えに上がります! 夏休みとかお正月とか」

「嬉しいな。約束だよ」

「はい。行ってらっしゃいませ。

 向うに行ったら、水とか病気とか気を付けて下さいね。他にもそのぉ、あっちの女性は強引だってゆーし、ゲイも多いって聞くし、静弥さん無駄に愛想いいし……。あ、いえ。

 あ、あたし大学合格したら、静弥さんに必ず連絡しますから!」

 やだあたし、何言ってんだろ。公衆の面前で静弥に優しく見詰められて、なんだかドキドキした。

「ナムちゃん、受験結果、必ず連絡してね。落ちてもね」

 うっ……。あたしの笑顔が、固まった。

「ナムちゃん、ホントにいろいろありがとう。僕が今ここに居られるのは、君のお陰だよ」

 静弥の、心からの感謝の気持ちがあたしに伝わって来た。一生の別れじゃないのに、なんだか涙が出そうだ。あたしは目線を落して、小さく首を横に振った。

「いいえ、それは全部静弥さんの実力ですから。あたしなんか、何の役にも……」

 その時、静弥の長い指が、すっとあたしの頬に触れた。

 え? あたしは驚く間もなく、大勢の見送り客が見ている前で……。

 チュッ。……突然のキス。しかも唇に。

 あたしは、今自分の身に何が起こったのか、全くの理解不能。目を見開いたまま呼吸も止めて、ただマネキンの様に立ち尽くした。

「じゃっ」

 静弥は何事もなかった様に、集まった皆に軽く手を上げて、涼しげにゲートへ消えて行った。

 我に返ったあたしは、ヘナヘナとその場に座り込んだ。真っ赤になった顔を上げられない。その後暫く、ナムは静弥の取り巻き女子達の中傷やブーイングの嵐に、さらされていた。

 やってくれたな、と涼弥と錬弥は苦笑いし、雪弥は口を尖らせ不貞ふて腐れた。

 しまったぁー。あたし、完全に油断してた。今の今まで細心の注意を払って、女の敵第1号を避けて来たのにっ! よりによって! よりにもよって! 最後の最後でこんな事になるなんて――っ!! 大ドンデン返しに、あたしは頭を抱えた。

 誰かーっ! 今直ぐ巨大台風連れて来て、あの飛行機をメチャクチャに揺らして、急乱高下させろー! エンストして、不時着しろー!

 あたしは、静弥の乗った飛行機に、必死に呪いを掛けた。

ありがとうございました。

明日はいよいよ最終話、卒業編の前編です。

果たしてナムは、無事大学に合格して藤代家を卒業する事が出来るのか?


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