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静弥編(前編)

本日も、お越し頂いた貴方様に感謝です。

長男静弥とのナムとのエピソード編、前編です。

前編の前半は、ナムの近況報告になっています。

本日も、最後までお付き合い頂ける事を切に願っております。

 11月22日は、錬弥の14回目の誕生日だ。

「おっ、お誕生日、おめでとうございます、ご、ご、ご主人様っ」

 9月15日のあたしの誕生日に、錬弥からもらったレモンイエローのメイド服。思わず口を滑らせてしてしまった契約で、あたしは自らそれを着て、錬弥の部屋にお茶を運ぶ破目となった。

 錬弥から貰ったコスプレ衣装は、大きなパフスリーブに、膝上10センチのヒラヒラワンピースだ。白い総レースのペチコートに、白のレースのニーソックス。これまたレースがいっぱいついた白いエプロンは、あたしの後ろで大きなリボンになっている。頭にも白いヒラヒラカチューシャ、って一体いったい……。

 肩に掛かる程度のあたしの髪は、錬弥のリクエストで無理矢理2つに縛り、大袈裟おおげさな赤いリボンを結んだ。その格好が、体育会系の体型のあたしには、オカマにしか見えない。あたしは顔面中神経痙攣で、口から頬から眉から耳までぴくぴくしている。

「誕生日限定で、メイドやったげる」

 あの時、思わず口走ってしまったあたしのこの口が、恨めしい。

 あたしが、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、錬弥の部屋に入った。

 珍しく机で期末試験の勉強をしていた錬弥は……。振り返ってあたしを一目見るなり、椅子から転げ落ちた。屋敷中に響き渡る程の大声で爆笑した。涙を浮かべ、ドンドンと床を叩いている。

 あたしは、日頃ひごろから藤代家の皆様には、充分笑いを提供している。なのに……、だ笑い足りないのかっ! あたしは、恥ずかしくて全身真っ赤になりながら、お盆を持ってドアの前で突っ立っていた。

 気が付かなかったが、錬弥の部屋のドアがキチンと閉まっていなかった。いや、あたしは確かに閉めた。なのになぜかドアには隙間すきまがあり、そこから何人かの目が、錬弥の部屋の中をのぞき込んでいた。押し殺した笑い声が、廊下から聞こえて来た。

 両親の為に生まれて来たはずの錬弥。お祖父さんの生まれ変わりの錬弥。生まれた時は、瀕死の未熟児だったらしいのに、皆に温かく見守られ過ぎて、いつの間にか兄弟一手を焼くやんちゃ坊主に育っている。今じゃ錬弥に、可愛気かわいげ欠片かけらも残ってない。

 いい加減、笑うのやめろって! あたしは、ドン、と脚を踏み鳴らした。


 あたしは、錬弥の誕生日のプレゼントに、水色のキルティング生地の、手作り道着袋を贈った。その可愛い袋には、フエルトで錬弥の似顔絵と名前を縫い付けた。顔は丸っこく漫画チックに、目は大きくアニメアイ。頬っぺたはアンパンマンで、髪型はイクラちゃん。名前のアップリケは、ひらがなのピンクの丸文字で縫い付けた。“れんや”

「どう? 可愛いでしょ」

「……あ、ありがと」

 とりあえず、受け取らないとナムは暴れる。錬弥は仕方なく、貰っておいた。

 それは、使うと言うよりはオブジェとなって錬弥の部屋の隅の角に掛けられていた。ナムがいつ錬弥の部屋を訪れても、それは定位置を保ち、埃にまみれて目立たない様に隠す様に掛けられていた。しかも、いつも似顔絵模様の無い裏面を向けて掛けてある。あたしが何度表に戻しても、直ぐに裏返しになっていた。

 その内、それは下に落ちていて……。その内その袋の気配は、錬弥の部屋のから消えて無くなった。

 しばらくすると、それは運動器具の下に、折畳んでクッション材として敷かれていた。


 あっという間に12月がやって来た。あたしが藤代家に来て早7ヶ月。そして2学期も、もう終わりだ。ひたひたと容赦なく近寄って来る受験は、直ぐ目の前だった。なのにあたしの希望大学模試判定は、未だ“B”のままだった。

 涼弥は、どこの大学のどこの学部でも、オール“A”。偏差値80らしい。でもあたしは気にしない。だってあたしは人間で、涼弥は宇宙人で、今日はクリスマスだもん。

 12月始めに、クリスマス用の大きな鉢植えモミの木が、藤代家に届いた。あたしは勉強そっちのけで、リビングにドンと置かれた樅の木を、雪弥と一緒に飾り付けた。あたしの鼻歌も、当然クリスマスソングメドレーバージョンだ。

「ナム、クリスマスなのに、なんでお経なんだよ」

 どこがお経だよ! 雪弥は野球を始めてから、球だけでなく音も変化して見える、いや聞こえるらしい。

 あたしは樅の木に飾る自前の靴下に、願い事を書いた紙を入れた。かかとに穴が空いてても、中身が落ち無い事は確認済みだ。

 パンパン。あたしはツリーに向かって拍手かしわでを打ち、こうべを二度下げた。

 あたしはツリーに、願い事を書いた折り紙も吊るした。

“合格できますように”

「ナム、これは七夕の笹じゃねーっつーの」

“無事大学生になれますように”

「正月の絵馬飾って、どーするっ!」

 あたしは雪弥には構わず、白い半紙を切って、その紙に文字を書いた。

「大吉、っと……」

「ナム、まさかそれ、ツリーに結ぶんじゃねーよな」

 ドキッ。ツリーの枝を掴んだあたしの手が止まった。

「男が一々うるさいよ。これは、御神籤おみくじなんかじゃないんだから」

「じゃぁなんだよ。大吉って」

「リ、リボン。“大吉”柄の……」


 あたしはお屋敷の門前に、イルミネーションの雪だるまを置いた。大奥様は猛反対したが、クリスマスなんだからひとつくらい、って説得した。でもー。

 それは、ナムお手製のオブジェだ。雪だるまだと言われても、誰の目にも雪だるまには見えなかった。

 あたしは、以前のバイト先のおじさんから、黄色い工事建設保安用の破損したパイロンをもらってきた。あたしはそれに、頭にみたてたビーチボールを刺し、円錐形のパイロン全体を白く塗った。パイロンの横に適当に棒を突き刺して、その棒にゴム手袋を被せた。ビーチボールには、極太黒マジックで顔を可愛く描いた。パイロンの中に電灯を入れて光らせたら、可愛らしい雪だるまイルミネーションの出来上がりだ。あたしは早速さっそく、藤代家の門前に置いた。

 ピュ~~。外に置くと、強い木枯らしにビーチボールの頭が一瞬で飛ばされた。ゴム手袋も飛んで無くなった。雪だるまは、白く塗られただけの円錐形の壊れたパイロンになった。

 その点滅するパイロンに、時々一般車両が、藤代家の門前で一時停止した。大迷惑なそのオブジェは、今あたしの部屋でパカパカ光っている。


 年に一度のクリスマス。静弥は、クリスマスディナーショーとかで朝から家にいない。ショー終了後はデート、とかで家には帰って来ないらしい。

 錬弥は、クリスマス稽古だとか。

 空手でクリスマス稽古? 先生が、サンタクロース仕様の真っ赤な道着とか着て、練習生にはサンタ帽子を被せて、稽古するんだろうか。でも空手って、キリスト教とか関係有るんだっけ? そう言えば、道場の神棚の下に、クリスマスツリーが飾られていた様な気がする。

 大学受験生の涼弥は、今日も予備校へ行った。クリスマス特別模試があるとかで……。ここに来て、涼弥も受験勉強は大詰めだ。でも、あたしも確か受験生だ。

 雪弥も、クリスマスイベントのお仕事へ出掛けた。大奥様は雪弥の付き添い。奥様と旦那様は、二人揃ってどこかのパーティにお呼ばれで、屋敷にはいなかった。

 あたしは……。友達からのお誘いメール無し。着信無し。あてにしていた沙紀も、クリスマスは家族で過ごすらしい。今更、山本君も無しだし……。

 去年までのクリスマス、あたしは家族揃ってクリスマスのご馳走のスキ焼を食べていた。

 広い藤代家のリビングの、大きくて派手なクリスマスツリー。その前で、ポツンと一人佇たたずむあたし。

 あたしは、あたしの為に奥様が用意して下さった、リビングのテーブルの上に並んだご馳走を眺めた。

 生ハムやスモークサーモンや各種チーズのオードブル。オレンジ、メロン、イチゴ等のフルーツ。チーズもトッピングも大盛りのピザ、蟹たっぷりサラダにロブスター……。とても一人では食べ切れない。

 あたしは、お洒落しゃれなリボンが付いたこんがり焼けたローストチキンを、じーっと見詰めた。

 ガブッ。漫画の様に、両手で持って肉の真ん中に噛み付いてみた。

 …………。

 骨に思い切り噛み付いたあたし。ローストチキンの嚙み跡に、あたしの前歯の差し歯が刺さっていた。……テンション最低。

 あたし以外、誰もいない藤代家の古いお屋敷。リビング(ここ)以外の部屋の照明でんきは、全て消えている。あたしは少しでも聖夜の雰囲気をかもし出そうと、リビングの照明を消した。

 妖しく点滅するツリーの電飾と、揺ら揺らとほのめくケーキのローソク。それらの光りに照らされて、大きくなったり小さくなったりするあたしの影が、壁でゆらりゆらりと踊っている。

 あたしは“清しこの夜”を、ボソボソと低い小さな声で、溜め息を吐く様に歌った。……。それはまるで、ホラー映画のワンシーン。

 奥様の手作りケーキは、大粒苺や高級生クリームがいっぱいだ。わざ々あたしの為に作ってくれたケーキと、あたしの為に取り寄せてくれた、有名老舗レストランの料理。

 ここまで用意して貰って超嬉しいはずなんだけど、超美味しい筈なんだけど、あたしは全然味が解らなかった。

「メリー、クリスマス」

 あたしはひとりで、子供用シャンペンで乾杯した。照明も点けずに、黙々と高級料理を口に運んだ。

 ケーキのど真ん中に穴を開けて食べてみた。ケーキの上のイチゴだけを拾って頬張ほうばった。

「こんな大きなケーキを、一遍こんな風に、超我がままに食べてみたかったんだ……」

 ぼそっと呟いた。

 夢にまで見たあたしの願いが叶った。でも、あたしのテンションは一向に上がらなかった。

 早く誰か帰ってこないかな。雪弥でも大奥様でもいいから。


「明けまして、おめでとうございます」

 ヒュルヒュルヒュル、バーン。ババーン。新年になったと同時に、どこからか打ち上げ花火の音が、冬の、ピーンと張り詰めた空気を打ち破って鳴り響いた。

 午前零時、あたしは藤代家のリビングで、藤代家の皆様に新年のご挨拶をした。でもあたしの笑顔は、ピクピク引きっている。

 本当ならあたしは、年始休みを貰って、今頃両親の引越し先の1K木造ボロアパートで家族一緒に過ごしている筈だった。

 大木家では、毎年正月に、唯一の暖房器具のコタツに皆で脚を突っ込み、布団の中で壮絶なバトルを繰り広げながら、カセットコンロで餅が焼けるのを、皆でじーっと見詰めていた。テレビから新年の時報が成ると、お酒やお茶で乾杯した。あたしはお年玉に期待しつつ、ふくらみかけた餅越しに、ウキウキワクワクと親の機嫌をうかがっていた。

「今年は、お母さんもお父さんも元旦から仕事。だからナムはひとりで銭湯へ行って、ひとりでコタツに入って、適当に食べて勝手に寝てていいから」

 父も母も、新年早々仕事らしい。年末年始は掻き入れ時で、特別手当ても支給される、とか言っていた。

 大阪の大学生のあたしの兄貴は、お笑い芸人を目指している。そんな見習い芸人でも、年末年始は営業に借り出されるらしい。

「俺? 正月? 帰ってられっか。正月から妹の顔なんか見て、何が楽しいよ」

 今年の正月は、両親のアパートであたし一人で過ごす事になった。とは言え、あたしも受験生だ。正月だと浮かれている場合ではない。新春模試もあるし、誰にも邪魔されずひとりボロアパートで、受験勉強をしようと思っていた。

 大晦日も残りわずかとなった夕方。あたしは大奥様御指導のもと、藤代家の大掃除や御節作りを、なんとか無事終わらせた。

 あたしは自分の部屋を片付けて、誰も居ない父母のアパートへ持って行く着替えや歯ブラシ準備をし、藤代家の面々に年末の挨拶をしに、それぞれの部屋に赴いた。

 あたしは先ず、あたしを藤代家ここで雇ってくれて、一番お世話になった奥様に挨拶をしに行った。夫妻の部屋の中までは入らずに、ドアの前で挨拶を済ますつもりでいた。

「奥様、今年一年大変お世話になりました。来年もよろしくお願い致します。よい年越しをお過ごし下さい」

「ナムさん、ちょっと」

 頭を上げてサッサと部屋から出ようとしたあたしは、奥様に呼び止められた。何か、イーヤな予感もした。

 あたしは、目を輝やかせてニコニコしている奥様に腕を掴まれ、クローゼットに引っ張り込まれた。

「ねぇナムさん、どれがいい?」

 そこには、床一面広げられた色取り取りの着物の海。

「奥様だったら、何でも似合うと思います」

「あら、これは全部振袖よ。私じゃなくて、ナムさんが着るの」

「は?」

 キョトンとして首をかしげるあたしに、奥様はニッコリとうなずいた。

「え――っっ! あたしムリ! って、一体何枚あるんですか、振袖!」

「いいから」

 問答無用で、奥様の着せ替えごっこが始まった。あたしは、マネキン。

 学校の実験準備室程もある広いクローゼットは、まるで雪弥のドラマスタジオの、時代劇専門の衣裳部屋だ。もしかしたら、かつらも刀もあったりして。

「この振袖、全部私が着ていた物なの。娘が生まれたら着せようと思って、大事にとってあった物です。なのに、誰も着てくれなくて」

 そりゃそうだ。振袖なんて誰が着る? それでも雪弥だったら、仕事で着る事もありそうだ。でもそれは、だ先の話だろう。

 涼弥? 錬弥? ……あたしの中で想像した。超笑える! でも……。

 静弥さんだったらアリかも。きっとあたしより、静弥さんの方が遥かに似合うと思う。

「ナムさんには、これが一番似合うみたいね。凄く綺麗よ」

 何枚か羽織られた着物の中で、赤い振袖が奥様のめがねに適った様だ。

「でも奥様、あたし今日は両親のアパートへ……」

「気にしないで。ご両親のアパートへ行っても、今日は誰もいないんでしょ? 折角せっかくの年越しなんだから、皆でお祝いしましょ、ね」

「でも……」

「帯はどれがいいかしら……」

 全然気が進まないあたしの言葉は無視され、そのまま奥様の振袖を着付けられた。髪も結い上げ、かんざしも挿し、メイクも施された。奥様って、美容師の経験もあるんだろうか。

 それでもあたしは綺麗に着飾られて、すっかりその気になった。

 ふふん。こうすりゃあたしだって、全然イケソーじゃん? 両親のアパートに行く事は、どこかへ吹き飛んだ。

 コスプレが嫌いじゃないあたしは、すっかりお姫様だ。うつむき加減伏目がちでしず々と廊下を歩く。奥様に先導されて、あたしの気分は江戸時代の大名家のお姫様。あたしは早速さっそく、藤代家の面々が家族で年越しを過ごそうと集まっているリビングへと、赴いた。

「じゃーん! どう?」

 あたしは、バンと勢い良くドアを開けた。上品なお姫様は、何処どこかへ飛んだ。

 あたしは得意になって、皆に振袖姿を披露した。日舞の様に袖を持ってくるっと回った。女形おやまの様にニッと笑って小首もかしげる。

「ペコちゃん。食い倒れ人形。松のモコ巻き。七五三。カーネルおじさん。オカメ、ひょっとこ、お岩、お菊……」

 目が点になっている4兄弟が、ナムを指差しボー読みで口々に言った。

「全部積算」

 ムッカー! 積算って何よ! 全部足したらどんなだよ! せめて平均にして! 口々に叫ぶ奴等をあたしは睨んだ。

 振袖姿なんて、やっぱ見せなきゃよかった。この反応は予想出来たが、嬉しくてつい見せに来てしまった自分が情けない。静弥ですら、噴き出していた。

 とは言え、あたしは結局そのまま藤代家ここで新年を迎え、御屠蘇おとそまで貰ってしまった。


 初詣。初体験の振袖に、草履ぞおりは歩き難く帯も苦しい。暗いし、どうせ足元なんか見えないんだから、靴下にスニーカーでも全然OKだとあたしは思う。

 初詣には、旦那様と奥様と雪弥の4人で出掛けた。強引に誘ったのに、後のメンバーは逃げた。あたしと一緒だと、芸人に間違われる、とかで。

 静弥は、家族での新年の挨拶が済むと、直ぐに車で出掛け、涼弥は勉強、とか言って部屋に逃げた。錬弥は、新年恒例早朝寒稽古があるから、と部屋に帰って寝てしまった。大奥様は……。十時を過ぎた頃から居眠りしている。

 新年を迎えた神社は、人でごった返していた。いつもあたしに悪戯いたずらを仕掛けてくる雪弥の手は、今は奥様と旦那様につなっている。何だかんだ言ったって、やっぱり子供だ。それは、微笑ほほえましい親子の光景だった。

 振袖姿のあたしは、何だか恥ずかしくて奥様の後ろに隠れて歩いた。他にも着物姿の女性はいたが、皆綺麗で上品だ。あたしは……。すでに着崩れている。

「ナムさん。そんなに恥ずかしがらないで、前にいらっしゃい。なんだか娘と歩いている様で、私も嬉しいから」

「そんな、そんな。娘だなんて。奥様とあたしじゃ姉妹ですよ。ってあたし、超ずーずーし。奥様とは赤の他人なのに」

 あたしは慌てて手を横に振り、姉妹だと言った事を否定した。

「いいえ、あなたは充分藤代家の人ですよ。いなくては困るもの。ナムさんがずっとこのまま藤代家に居てくれます様にって、今神様にお願いしましたから」

 奥様は、ニッコリ笑った。

「ありがとうございます」

 奥様の言葉に嘘はない。あたしは涙が出るほど嬉しかった。でも……。それって、今年もずっといて欲しいって事は……。大学落ちて浪人しろ? うーん、複雑だ。

 奥様と手を繋いでいた雪弥が、口を挟んだ。

「ずーっといたっていいんだぜ。俺様が毎日遊んでやっから。ま、俺はナム程暇じゃないけど」

 子供らしく両親と手を繋いでいても、雪弥の性格は変わらない。正月早々嫌味な雪弥を、あたしは思い切り殴りたくなった。

 神様は、雪弥こいつの根性どうにかしてくれって言うあたし、いや皆の願いは、果たして聞き届けてくれるのだろうか。

 今年のあたしのお賽銭さいせんは、大奮発して百円だった。去年の10倍だ。これならきっと、神様も願いを聞いてくれる筈だ。

 あたしは、大学合格祈願は勿論もちろん、生活向上、家内安全、商売繁盛、交通安全、良縁祈願、4兄弟の性格改善まで、思いつく全ての願いを百円玉1個に託し、うやうやしくお賽銭箱に入れた。チャリン。

 いつの間にか、あたしは後から来た初詣客に押し出されて、お賽銭箱の最前列にいた。何枚もの硬貨が、あたしに吸い寄せられて飛んで来る。あたしの目の前を、五百円硬貨が飛んで行く。紙飛行機に折られた千円札も飛んで行く。極貧のあたしは、手を伸ばしたい衝動を抑えるのに必死だった。

 神様、これはあたしに対する試練でしょうか。


 あたしの引いた御神籤おみくじは、凄い確率で3回とも大凶だった。

「ナム、ある意味凄い強運」

「ムカッ! 雪弥貸せ!」

 あたしは雪弥の3枚の大吉の札と、強制交換した。

 絵馬も買った。あたしの願い事は沢山ありすぎて、ここでは書き切れない。家に持ち帰り、最極細ペンで書く事にした。

 破魔矢も買った。嬉しそうに破魔矢を振り回すナムに、雪弥も夫妻も、彼女自身が最強の破魔だと思っていた。

「ナム、それ頭に刺さるんじゃね?」

 雪弥がふざけて、手に持っていた破魔矢を、ナムの頭に刺す真似をした。

「矢を頭に? それって簪? それとも手品? いや、ホラーかな。なんか面白そうじゃん?」

「……ひとりでやってろ」

 本当に破魔矢を頭に少し刺して、はしゃいでいるナムに、雪弥は背を向け他人の振りをした。

 あたしは、3兄弟にお土産、いやお守りを買った。さながらバーゲンセールのような人集ひとだかりの中、とりあえず手に掴んだお守りを、良く見ずに買った。あたしの振袖袋帯なんかなんのその、持ち前の江戸っ子パワーで、人ごみを掻き分ける。やっと掴んだお守りは、なんだかよく分からないが、安産祈願もあった。

「3つ買えば、ひとつおまけになんないの?」

 あたしは、巫女さんに食って掛かった。

「八百屋でも肉屋でも魚屋でも、駄菓子屋のおばちゃんだって、まんじゅうおまけしてくれるよ?」

 神様に、おまけはないらしい。それでもあたしは、ゲットしたお守りを手に、ニンマリ笑った。

 まぁお正月なんだから、神様にだってご祝儀だよ。お守り代をきっちり定価で支払ったあたしは、神様にお年玉をあげた気分だった。

 遠目で、その光景を冷ややかに見ていた藤代家の3人に、なんとか振袖姿を保っているあたしは、ぴょんぴょんジャンプしながら、両手を大きく振った。

「お守り、ゲットしましたよー!」

 振袖姿を保ってはいても、あたしの帯も髪も胸元も、崩れてボロボロだった。まるで夜鷹。それと、なぜか足袋たびの裏は真っ黒だった。3人はくるりとナムに背中を向けて、聞こえない振りをした。


「旦那様は、毎年、神社ここに来られるんですか?」

 帰り道の参道で、あたしは旦那様に訊いた。

「そうだね。毎年欠かさず来るよ。元旦とは限らないけど必ずね。神様への新年の御挨拶と、家族・子供達の無事への感謝と祈願、後、自分のけじめ、かな?

 神様には、毎年沢山のお願いをするよ」

「じゃぁ……」

 お賽銭、いくら入れているのか気になったが、聞くのは止めた。聞いたらきっと、あたしの腰が抜ける。

 それにしても、医学の最先端を行く大学病院学長の旦那様が、そんなに神様を信仰しているなんて、以外だった。

「私達は命を扱う仕事だから、時には神様の力も必要なんだよ」

「神様、ですか?」

 最先端の医療技術と知識を持っている旦那様の言葉だとは、あたしはとても思えない。それでも、あたしにニッコリ頷く旦那様に、最後はやっぱり神様なんだと、なんだか急に親しみが湧いた。

「それと……。子供達には自由に生きて欲しいと思っているから、彼等の好きな事が見つかるように、好きな道に進めます様にって、神様にお願いしているんだ。

 特に静弥は自分を抑えているからね。彼はもっと自由に、もっと好きにしてもいいのに」

 そうか? あたしには、静弥はかなり好き勝手している様に見える。旦那様は、静弥さんのどこを見てそう思うんだろう。あたしは小首を傾げた。

「そうですか? あたしには、静弥さんがそんな風に気を使っている様には、全然見えないんですけど?」

 いや待て。女の人には、必要以上に気ー使っているかも。

 あたしは以前静弥に、どうして医者になろうと思ったのかって、訊ねた事がある。

「そんなの、お医者さんごっこしたいからだよ。それに、医者ってカッコいいし女の子にモテるでしょ?」

 涼しい顔で応えた静弥を、殴りたくなった事を思い出した。彼はやっぱ、気なんか使ってない。

「ナムさん。静弥はああ見えても、結構責任感が強くて、面倒見もいいんだよ。誰よりも家族思いだし。でも照れ屋だから、直ぐに誤魔化す」

 えー、そっかー? 毎日の様に、取っ替え引っ換えの女癖に関しては、責任感があるとは、マジで思えない。

 神社の参道には、夏の縁日のように出店がのきを連ねていた。雪弥は奥様から、好きな物を買っておいでとお金を渡されて、りんご飴を4つ買った。でもなぜかあたしは姫りんご。

 あたしは早速りんご飴を舐めながら、雪弥と並んでりんご飴をかじっている旦那様の後ろ姿を眺めた。雪弥と一緒になって喜んでいる旦那様に、あたしのかじかんだ手も、あったかくなる様な気がした。

 旦那様の様な、思いやりのある医師せんせいに診てもらえる患者さんは、きっと幸せだよ。あたしもいつか、旦那様のお世話になりたいな。

 健康優良児のあたしだったら……。捻挫ねんざとかり傷とか水虫とか、お産とか? 後、脱毛とか、二重ふたえとか、豊胸とか……。

 帰りの車中、後部座席の雪弥はナムの膝枕で寝てしまった。時計を見たら、もう3時だ。

 あたしは、車内を照らしては次々と通り過ぎて行く街灯で、雪弥の寝顔をしみじみと眺めた。長いまつげ、メイクさんに整えられた眉、子供の癖にすっと通った鼻筋。でも子供らしい可愛い唇におでこに頬。奥様似かな、女の子みたいに可愛い。それでいて、イケメン兄貴達にも似ている。アイドル事務所に所属するだけの事はある。

 でもやっぱ、こうして寝てるのを見ると、雪弥は未だ未だ子供だよ。大人ぶって、あんま無理すんなよ。あたしは、雪弥の髪をそっと撫でた。


 深夜3時半、あたし達は屋敷に戻った。大奥様はじき起床の時間だ。それまではきっと巣篭もりしている。錬弥はすでに新春稽古に出掛けたらしい。静弥は未だ帰って来ない。勉強中の筈涼弥は……。もう寝ちゃったかな?

 あたしはお守りを持って、涼弥の部屋を訪ねた。

 コンコン。……返事はないものの、部屋の鍵は掛かっていない。

「お邪魔しま~~す」

 あたしは、寝ているかもしれない涼弥を起こさないように、ドアをそーっと開けた。

 部屋には明かりが点いていた。涼弥は、シャーペンを握り締めテキストを枕にして、机上に伏せて寝ていた。机の上には、今日の模試の受験票が置いてあった。

 しまったぁ! あたしも今日、新春模試じゃん。 あたし、こんなとこでこんな事してる場合じゃないし……。

 でも―、ま、いっか。だって、ねぇ。今更何をやろーっての? 今日は元旦だし……。あたしは早々に開き直った。

 それにしても涼弥、こんなとこで寝てたら模試の前に風邪ひくって。あたしは涼弥のベッドから、毛布を引っ張って、彼の背中にそーっと掛けた。

「涼弥のお守り、買って来たから」

 あたしは寝ている涼弥の耳元で、コソッと報告した。

 あたしは、初詣に行ってゲットしたお守りを、涼弥の受験票の上にそっと置こうと……。

 あたしは、良く見ずに買って来たお守りを改めて見た。合格祈願と、交通安全と、良縁祈願と、安産祈願だった。

 とりあえず、あたしは合格祈願。静弥さんに、安産祈願は絶対駄目だからー。静弥さんには交通安全。錬弥は、好きなと上手く行く様に、良縁祈願?

 じゃぁ、涼弥には……。あたしは、残ったお守りを手に取った。

 受験って、お産みたいなもんよね? 合格したら、めでたい事には変わりないし。あたしは安産祈願のお守りを、受験票の上にそっと置いた。

“いいワケないだろ!” 寝ている筈の涼弥の眉間に、しわが寄った。

「うーん。着物って、やっぱあたしには合わないわ。この紐、きつッ」

 あたしは、お腹を締め付けていた帯締めをゆるめた。ぱらっ。背中で帯が崩れた。

「あれ? とれちゃった。まっいっか。どーせもう脱ぐんだし」

“ここで脱ぐなー!” 寝ている筈の涼弥の拳が、ぎゅっと握られワナワナと震えている。

「あっ」

 あたしが、自分の部屋に戻ろうとして体の向きを変えた途端とたん、あたしの足袋の指の間に、涼弥の部屋の床を覆い尽くすケーブルが、一本挟まった。

“今度は何だ?” 寝ている筈の涼弥の額に、薄っすらと汗が滲み始めた。暗くてよく分からないが、涼弥の顔は蒼褪あおざめている様にも見える。

 あたしは、ケーブルに足を取られてバランスを崩した。すっ転ぶ前に、トン、と壁に手を突いた。その拍子に、振袖の裾を踏ん付けてヨロけてしまった。

 危ない! あたしは両脚にぐっと力を込めて、何とか踏み止まった。床のケーブルは無事だっかが、弾みで帯は崩れて腰まで下がり、着物と襦袢じゅばんの裾も引きずった。

 今の物音で、涼弥、目、覚まさなかったかな。あたしは彼の顔を覗き込んで確認した。

“寄るな触るな近付くな!” ナムの息が、机の上に伏している涼弥の顔に掛かった。

「大丈夫、涼弥よく寝てるわ」

“誰が寝れるか!” 安心したあたしは、着物と襦袢の裾を腰まで捲くり上げた。下がった帯や紐は、踏まないように前で適当に結んだ。

「やっぱ、この方がずっと楽!」

 それまでずっと、小股内股でチョコチョコ歩いていたあたしは、大股外股で踵からどすどす歩いた。

 あー楽!

 あたしはドアに手を掛けて、ちらっと涼弥を見た。

 起きてないよね? 机上に伏せて寝ている筈の涼弥の額に、青筋が浮き立って見えるのは、きっと気のせいだ。

「お休みなさい」

 あたしは、涼弥に向かって小声で言い、静かにドアを閉めた。

 普通の女なら、和服が着崩れてはだけ、露わになった脚やうなじに色気が漂う。でも涼弥は、ナムのそんな姿は見たく無い。容易に想像が付くナムの着崩した振袖姿に、一目で笑いが止まらなくなるのは必至だからだ。

 涼弥は、ナムの足音が聞こえなくなるまで寝た振りを続け、決して目を開けないようにと、固くつぶっていた。


 結局あたしは一睡もしないで、初日の出を拝んだ。大奥様に改めて新春の挨拶をし、重い瞼をこすりながらお雑煮の準備をした。その後も、洗濯に太郎の世話にと、どこが正月なのか、あたしには日常との区別が付かない。

 あたしの新春模試は最悪だった。勉強もせず、無駄に朝まで起きていたから当然だ。その上朝から雪弥と新春バトル(太郎の散歩)して、体力も無駄に使った。頭も体力も、模試以前に飽和状態だった。


 そうこうしている内に日は過ぎ、藤代家での正月気分も抜け切らない内に、センター試験まで後10日を切った。当然涼弥も追い込みだ。漫画の仕事も一切お休み。あたしは、涼弥に教えてもらいたい過去問が山程あったが、涼弥に気を使って彼の部屋には近付かず、勉強の邪魔をしない様にした。

 最近は、静弥があたしの勉強を見てくれる。過去問や予想問題で解らない所は、静弥に聞きに行った。1問解く度に、あたしは一階の自分の部屋と二階の静弥の部屋を、行ったり来たりした。

「勉強が終わるまでここに居なさい」

 見かねた静弥が、あたしに言ってくれた。

「でも……」

 女の敵1号に油断は禁物だ。キュートなあたしの寝顔に、女ッたらしの静弥がときめいて、寝込みを襲われでもしたら……。あたしは静弥の申し出に首を振った。

「心配しないで。ナムちゃんは対象外だから。僕にとって、ナムちゃんは可愛い弟――、妹だよ」

「弟、ですか……」

 ふ~~ん、そうなんだ。別にあたしは、静弥さんに女だと思ってもらわなくても結構だし。あたしは何故なぜかムッとして、口がドナルドダックになっていた。

 それ以来、あたしは遠慮なく静弥の部屋に入り浸り、しばしば静弥の机の上で朝になった。

 それでも、どんなにあたしの睡眠時間が短くても、午前5時には、パチッと目が覚める。5時を過ぎると、大奥様が幽体離脱してあたしの夢枕に立ち、いやが応にもあたしを叩き起こすのだ。今朝も静弥の部屋で、大奥様と出逢う直前に、目を覚ます事が出来た。セーフ!

 早朝5時。外は真っ暗で当然静弥は夢の中だ。あたしは静弥を起こさないように、机の上の勉強道具を、物音を発てない様にそーっと片付けた。

 あたしは帰りぎわに、静弥が未だ寝ているのか、確認するように静弥の顔を覗き込んだ。

 じ―……。静弥さんって、どう見てもイケメンだよね。あたしは、ギリシャ神話の美青年神の、石膏像の様な静弥の顔を、マジマジと見詰めた。

 こうして見ると、やっぱ涼弥にも似てる。そうれに錬弥にも雪弥にも。やっぱ皆兄弟なんだなぁ。あたしはうなずきながら、静弥の寝顔を眺めていた。

 静弥は、男にしては色白で肌理きめも細かい。男なのに、ヒゲとかニキビとかも無い。睫は長く、キリリとした眉。々しくて柔らかそうな唇。鼻筋の通った高い鼻。

 突然、静弥の片目が開いた。

「キスしてもいいよ」

 どわっ! あたしはびっくりして、その場を飛び退き、壁に貼り付いた。

「けっ、けっ、結構です! ってゆーか、あたし起こしちゃいました? ってゆーか、起きてたんですか? ってゆーか……。いつから?」

 ピピピ、ピピピ……。あたしのケータイが鳴った。ケータイ目覚ましだ。

まずった遅刻! 静弥さんありがとうございました! お邪魔しましたお休みなさい!」

 あたしは荷物を抱え、慌てて静弥の部屋を飛び出した。

 ドタッ、ゴロゴロ、バサバサ、ザザザー、カンカンカラン……。様々な音が、階段から湧き起こった。


 貧乏とは言え、さすがのあたしも直前冬期講習に通ってみた。その高額な受講料の元を取ろうと、あたしは張り切って最前列の講師の先生の真正面で……、爆睡した。

 あたしは最近、受験や何やらで忙しくて気付かなかったが、この所あの遊び人静弥が、よく家に居る。病気でもなさそうなのに、丸一日家にいる事もある。受験間近のあたしとしては、専属の家庭教師が24時間待機してくれてるようで有り難かったが、どうもに落ちない。

「何で僕が家にいるのかって? それは、一生懸命頑張っているナムちゃんを手伝ってあげたいし、そんな姿を見てるのも好きだからだよ」

 静弥はそう言ってはぐらかし、本当にナムの勉強に何時迄でも付き合った。でもあたしだけじゃなく涼弥だって、受験勉強かなり頑張っていると思う。

「ナムちゃんの将来の夢は何? お嫁さんとか?」

 静弥の机を占領して勉強するあたしは、ソファに座っている静弥の問い掛けに、学習椅子をくるっと回して振り返った。

「あたしが? お嫁さん? ムリムリ。あたしは、お嫁さんってガラじゃないっしょ。まぁ、いづれはって思ってますけど。

 でも今はあたし、特別養護学校の先生に成りたいんです。その為の勉強です」

「どうして養護教諭? 一般の小中学校の先生じゃないの?」

 あたしは座ったまま、足で椅子をゴロゴロと前に移動させて、ソファに座る静弥に近寄った。

「はい。だって障害を持っている子って、みんな可愛くていい子なんです。勿論、雪弥とか、普通の小学生の子もそうだと思いますけど。

 養護学校の子供達は、人を思いやる心がとっても強いんです。どこも何ともない健常者のあたしが、失敗したり落ち込んでたりすると、逆に慰められたりするんですよ。

 義足でも車椅子でも、白杖突いてても関係ない。皆普通に人の多い街に出て、駅でもお店でも公園でも、どこへ行っても堂々としてます。通行人に特別な目で見られても、ちっともひるまない。逆に進んで街頭募金したり、ゆっくり歩くお婆さんを助けたり。

 障害を逆手にとって、パラリンピックへ出る、って頑張っている子もいます。

 それでも、初めて学校へ来る子は不安で不安で、自分の殻に閉じ篭もったりします。1年生の子なんか、生まれた時からずーっと傍にいたお母さんから、初めて離れて一人になって、いつまでも泣いていたりするけど。

 でも、そんな子は学校の皆が迎えてくれて、支えてくれるんです。たった一人の子の為に、学校中の皆が協力するんですよー。凄いでしょ?

 そんな子供達を見て、あたし、何度も感動をもらいました。だからあたし、皆に何か恩返ししたくて、少しでも役に立ちたくて、一緒に感動したくて……って、ベタ過ぎ?

 だから、そんな子供達の頑張りに比べたら、今のあたしの苦労なんか、うーんとちっぽけです。ダニくらい。

 だって、あたしにはちゃんと手があって足があって、見ることも聞く事も、しゃべる事も出来るんだから。それが当たり前だと思っていたら、心が欠ける。あの子達の心は、ホントまん丸なんです」

 目をきらきらさせながら、あたしはいつもの様に、熱く語ってしまった。何度も話を聞かされている、幼馴染の沙紀や涼弥は、毎回うんざりしていたが、そんな小さな事はあたしは全く気にしない。

「だけどあたしの努力、未だ足りないみたいで……」

 あたしは、新春模試の自己採点の点数を思い出して、溜め息を吐いた。

「はぁ~~、遠い道程みちのり

「心配ないよ。ナムちゃんならきっと大丈夫だよ。夢があるから。強い想いがあれば、何とかなるよ」

 静弥の言葉に、あたしはあっさり笑顔になった。自分でもかなり単純だと思う。真っ直ぐと、静弥の顔を見詰めた。

「そうですよね? 勉強も空手もピアノも、何でも出来るスーパーマンみたいな静弥さんに言われると、何だか勇気が湧いてきます。ありがとうございます」

 裏表の無い真っ直ぐなナムの笑顔に、静弥の方がはっとした。

「ナムちゃんには、そんな大きな夢があって、うらやましいね」

「静弥さんだって、あるじゃないですか。お医者さんに成るんでしょ?」

「まぁね」

 静弥は、寂しそうに笑った。その笑顔に、あたしは何か不自然さを感じた。

 静弥さんって、医者に成りたいんじゃないのかな? あたしは小首をかしげた。

「あのぉ~。もしかしたら、静弥さんって……、お医者さんより、音楽家に成りたいんですか?」

「まさか。僕のピアノは趣味だよ」

 でもあたしには、そうは思えない。静弥の笑顔がさっき以上に嘘臭く感じた。

「静弥さんは、いつからピアノを弾いているんですか? 奥様の真似をしてたって、聞きましたけど?」

「麗子さんから聞いたんだ」

「はい、ちょっと」

 ソファに座っている静弥が、長い足を左右に組み直した。

「麗子さんに聞いたと思うけど、小さい頃僕は甘えん坊でずっと麗子さんにくっ付いていたんだ。初孫で長男だったからね、お祖父さんやお祖母さん、叔父さん叔母さん、親戚中の皆に可愛がられたよ。

 僕は幼かったから良くは覚えていないけど、麗子さんのピアノの音を聴くと直ぐに真似をして、小さな指で同じ様に弾いたらしい。その時麗子さん、僕が天才じゃないかって、とても驚いたって言ってたよ。

 僕は皆に誉められるのが嬉しくて、沢山練習して、誰の前でも弾いて聞かせる様になったんだ。とは言え子供だからね、かなり酷い雑音だったと思うけど。

 それから僕は、毎日毎日麗子さんと一緒にピアノを弾いて、歌を歌ったり踊ったりしていた。多分僕は、忙しい麗子さんを独り占めしたかったんだ。

 父や祖父母やお客さんの前で、僕は上達したピアノを披露するようになった。皆僕に拍手してくれた。皆が喜ぶと、麗子さんも嬉しそうだった。その時僕は未だ3歳だったけど、ピアノはかなり上手かったらしい。自慢だけどね」

 静弥が、ナムにウィンクした。

「3歳になって幼稚園に入った、と言っても僕は4月生まれだから、入園した時は4歳だったんだけど。

 7月に涼弥が生まれた。麗子さんが出産で入院した時、僕は麗子さんを探して、大変だったらしい。やっと帰ってきた時は、麗子さんの腕に小さな涼弥がいた。

 それから麗子さんは、涼弥に掛かりっきりになって、ピアノも麗子さんの後輩の先生が、僕に教えに来るようになった。

 それでも僕は、麗子さんに誉めてもらいたくて、一生懸命ピアノを練習したんだ。でも、麗子さんも父親も祖父母も皆、涼弥ばかりを可愛がっている様に思っていた僕は、家族に注目されたくて、幼稚園ではよく喧嘩して友達を泣かせていたらしい」

「それも奥様から聞きました。静弥さん、やんちゃだったって。奥様は、怪我させた子の家に行って、謝ってたって。それも何人も、何度も」

「そうらしい。僕があんまり暴れるから、空手道場に放り込まれた」

「静弥さんは、自分よりずっと強いんだって、錬弥が言ってました」

「いいや、今は錬弥の方が強いと思うよ。僕はしばらくやってないけど、錬弥は毎日のように道場に通っているだろ?」

 確かに錬弥は、ほとんど毎日稽古に通っている。家に帰っても、部屋の怪しげな健康器具で身体を鍛えている。

「麗子さんの代わりに、僕のピアノを見てくれた先生が、麗子さんの音大の後輩の恭子さん。ナムちゃんみたいな先生だったよ。面白くて明るくて、一生懸命で。ピアノだけじゃなくて、僕とよく遊んでくれた。

 子供なりに納得は出来なかったけど、僕がその先生から渋々ピアノを習う事にしたのは、勿論麗子さんに誉めてもらいたかったから……。なんだけど、段々恭子先生にも誉めてもらいたくなって、張り切って練習するようになったんだ。御陰でかなり上達したよ。コンクールにも、何度も入賞するようになったし。

 でもね、僕が中学に上がる時、恭子先生は結婚してイタリアへ行った。旦那さんがヨーロッパで活躍する音楽家で、恭子先生も一緒に行って勉強するんだって言って。

 その時、僕はピアノを辞めるつもりだった。でも恭子先生が、代わりに今の先生を紹介してくれて、辞めるとは言い出せなかった。それで、今もなんとな~く続いているってワケ。

 だから僕のピアノは、結構動機が不純なんだ。ナムちゃんみたいに、それ程強い思いがあるんじゃないよ」

「そうなんですか?」

 でもあたしには、そんな風に見えない。なんとなくー、であんなにピアノが上手くなる筈がない。不純な想いで、人を感動させられる演奏なんか出来るワケがない。

「ごめんね、ナムちゃん。今、受験で一番大変な時期なのに、退屈な話しちゃったね」

「いいえ、なんか感動しました。でも……。

 なんとなく続いている、ってゆー割には、静弥さんの弾く音には凄く心が篭もっている様な気がします。そんな半端な気持ちじゃ弾けないってゆーか……。

 あたしには、芸術って良く分わかんないですけど、静弥さんが、そんな軽い気持ちで演奏しているようには、全然思えないんですけど?」

「ありがとう。ナムちゃんにそう言ってもらえると嬉しいな」

 そういえば、静弥さんの部屋に……。

 何度も掃除をした静弥の部屋。あたしは、楽譜が仕舞ってある本棚に写真があった事を思い出した。小学生位の男の子と、学生っぽい女の子の2ショットだ。あたしはてっきり、親戚の叔母さんとの写真だと思っていた。

 あたしは思い切って訊いてみた。

「楽譜の棚にある写真って、静弥さんのピアノの先生だったんですか?」

「あー、あれ?」

 静弥がソファから立ち上がって、棚からその写真を持って来て、ナムに手渡した。

「この写真、静弥さんもめちゃめちゃ可愛いけど、先生も可愛いですよね。女子高生みたい」

 ピースサインをした、弾けるような笑顔の女の子だ。

「からかい甲斐のある、ナムちゃんみたいな女の子だったよ。って、僕より20歳近くも年上なんだけどね」

 先生をからかう? 先生に対して“女の子”? 静弥さんも小さい頃は、雪弥とおんなじ悪戯いたずら好きの悪餓鬼だったんだ。

「もしかしたら、この先生って静弥さんの初恋の人? とか?」

 静弥が苦笑いした。

「あ、ごめんなさい……。

 えっと……、あたし生意気な事言いますけど。静弥さんの初恋の想い出だけで、ずっとピアノを弾き続けるなんて、出来ないと思うんです。

 あたしは、ショパンとかよく分からないけど、静弥さんのピアノには、もっと強い想いがあるような気がします。ってゆーか、聴衆を引き込むような艶? があるってゆーかー。

 誰かを想う気持ち以上に、ピアノが本気で好きじゃなかったら、あんな音は出せないと思うんです、けど……」

 一瞬、静弥の顔から笑顔が消え、目付きが鋭くなった。直後、いつもの静弥に戻っていた。あたしは、その険しい表情がただの見間違かと、自分の目を疑った。

 静弥が、チラリと壁の掛け時計を見た。

「もうこんな時間だ。ナムちゃん、朝早いんでしょ? 今日はここまでにしよう。又明日おいで」

 静弥の口調は柔らかく、いつもの笑顔も優しいが、あたしは、帰ってくれ、と言っている様に聞こえた。

 あたし、なにか静弥さんの気に障る様な事言ったのかな。もしかして静弥さんを、怒らせちゃった?

 静弥は、勉強机に散らかっているナムの勉強道具を、さっさと片付け始めた。

「あっ、あたしやります!」

「いいよ。手伝うよ」

 静弥の声は、音も言い方も優しい。だがあたしは、静弥に追い立てられる様に彼の部屋を後にした。

「静弥さん、ありがとうございました。お休みなさい」

 あたしは勉強道具を抱えて廊下に出て、ドアの所で、なんだか寂し気な笑顔の静弥に、深々と頭を下げた。

 あたしは自分の部屋に戻って、勉強道具を放り投げた。その横で、ゴロンと畳に寝そべった。静弥の態度が気になって、あたしは勉強の続きをする気にも、寝る気にもなれなかった。

 静弥さん、ああ言ってたけど、本当はピアニストになりたいんじゃないかな。でも長男だからって……、もしかして諦めてる? あたしは、天井の木目をじっと見詰めた。

 何とかしてあげたい。だけど、藤代家と丸っきり関係ない、赤の他人のあたしに、一体何が出来るって言う?

 あたしは起き上がって、放り投げた問題集を片付けながら、深い溜め息を吐いた。

 あれ? 過去問の冊子に、違う紙が挟まっていた。

 何これ? 売り出しのチラシか?

 それは、ウィーン音楽学院への留学通知だった。

 え? 静弥さん、留学するの? よく見ると、申し込み書類の提出期限が迫っている。

 そうか。それで静弥さん、最近は女の人と遊びにも行かないで、家に篭もってピアノの練習してたんだ。でも何で何も言ってくれないんだろう。

 静弥にそんな話があるなんて、あたしは奥様からも誰からも聞いてはいなかった。

 そうか。静弥さん、未だ誰にも話してないんだ。もしかして迷っている? 医者とピアニストと天秤に掛けて……。静弥さん、長男だから。

 でも行きたいんだよ。ホントは直ぐにでも行きたいんだよ。遊びにも行かないで、デートもしないで、毎日ピアノの練習してる位だもん。

 そうだ! あたしは、バンと部屋を飛び出して、ダダダと階段を駆け登り、涼弥の部屋のドアを勝手に開けた。

 バーン!

「涼弥、パソコン借りるねー」

 夜遅く、ノックもせずにいきなり部屋に入って来たナムに、勉強中の涼弥は声も出せずにおののいた。あたしは驚く涼弥を無視して、ノートパソコンの前に座り、勝手に立ち上げた。

「ナム、こんな遅くにいきなりなんだよ。お前、勉強はー? 調べ物か?」

「ん、ちょっとね」

 そう言ってあたしは、ウィーンの音楽院の事とか、静弥のピアノの先生の事とかを調べ始めた。一瞬のまばたきもせずに、じーっとモニタを睨んだ。

「斉藤藤先生、住所、学校は……。これじゃない。えっと……」

 涼弥が怪訝けげんな顔でナムを見ていると、ナムはホームページから何やらメモり、いきなり立ち上がった。

「涼弥、ありがと」

 ナムはパソコンもそのままに、バタバタと涼弥の部屋から出て行った。涼弥の部屋のドアも閉めずに。

 涼弥は、今何が起こったのかさっぱり分からない。竜巻の様にやって来たナムは、涼弥の部屋を荒らして、あっと言う間に去って行った。

 涼弥は、ナムが開きっ放しで行ったパソコン画面をのぞいた。

「ウィーン音楽院? パンムジカ、って何だ? あいつ、一体何調べてるんだ? もうすぐ試験だってのに、又変な事に首突っ込んで」

 涼弥は溜め息を吐きながら、ノートパソコンをパタンと閉じた。


 あたしは涼弥の部屋から、同じ階の静弥の部屋を訪れた。深夜だったが気にしない。

 コンコン。あたしは小さく控えめにノックした。

「静弥さん、起きてますか?」

 鍵は掛かっていない。あたしがそーっとドアを明けると、部屋には未だ照明あかりが点いていた。

「あれ? ナムちゃんどうかしたの? 忘れ物?」

 ソファで、何か考え事をしている様にぼーっと一点を見詰めていた静弥が、ナムの声にはっとして振り返った。

「遅くにごめんなさい。あの、これ……。静弥さんのですよね。あたし間違えて持ってってしまいました。大事な書類ですよね。お返しします」

 あたしは、ソファに座っている静弥に、留学通知の紙を両手で大事そうに手渡した。

「これ? ……ああ、ありがとう。わざ々持って来なくても良かったのに」

 静弥は、ナムに渡された書類を、片手で受け取ってじっと見詰め……。ポイっとゴミ箱へ投げ入れた。

「あーっ! 静弥さん、留学するんじゃないんですか?」

「しない」

 速攻で返事が帰って来た。

 あたしは、どうしてって訊こうとして、口をつぐんだ。あたしから顔をらす静弥は、あたしに、何も訊くな、と釘を刺す様な険しい目をしていた。

「……お休みなさい」

 始めて見る静弥の怖い表情に、あたしはそれ以上何も口に出来ない。あたしは小さな声で挨拶だけ言って、静かにドアを閉めた。


 翌日、あたしは試験前の大詰めの、冬期講習をすっぽかした。

「ナム、お前どこ行くんだよ? センター試験は今週だぞ!」

 駅で涼弥が、予備校とは反対方向のホームへ階段を駆け登って行くナムに、叫んだ。

「大丈夫――! あたしには、来年もあるから――っ!」

 大声を上げて涼弥に手を振ると、あたしはひたすら走った。

 涼弥は、ざわざわするホームに立ち、向かい側のホームで手を振るナムを呆然と見詰めていた。ナムは涼弥が見ている前で、入って来た電車に乗って行った。

 ナムの奴、浪人するつもりか? 他人ひと事とは言え、涼弥はナムが心配になった。


 あたしは、静弥の留学通知に書いてあった、ピアノの斉藤先生の家に向かった。居るとは限らないけれど、このあたしがじっとして居られるワケがない。その先生が勤めている音楽大学に頼み込んで、無理矢理住所を聞き出した。

 藤代家程ではないにしろ、静かな高級住宅地の、結構大きな家だった。

「突然お邪魔して申し訳ありません。私は藤代静弥さんの知り合いの、大木奈夢と申します。静弥さんの留学の件で、先生にどうしてもうかがいたい事があって、ここに参りました」

「申し訳ありません。先生はただ今外出中です。お帰りは何時になるか分かりません。先生とご連絡の上、後日又改めてお出で下さい」

 突然のアポ無し訪問。門前払いは当然だろう。でもホントに留守なのかな……。あたしは、断られる事は覚悟していた。

「では、先生が帰っていらっしゃる迄、ここで待たせて頂きます」

 元々持久戦は覚悟の上だ。あたしは腹をくくった。

 それにしても昼間なのに、何この寒さ。氷の様に空気が冷たい。今のあたしの気分とおんなじだ。

 指先足先が冷たい。あたしは飛んだり跳ねたり体操したりして、末端体温の上昇を試みた。

「おりゃーっ。とぉーっ。あちょーっ」

 掛け声も出してみた。ラジオ体操の伴奏を鼻歌しながら、体操もした。でも、ラジオ体操の順番を良く覚えていないあたしは……、途中で止まった。

 通行人が、そんなあたしの姿を見つけると、一瞬足を止め出来るだけ離れた隅を歩き、足早に去っていった。子供があたしを見て、来た道を戻っていった。又新たな都市伝説が、始まる予感がした。

 半日ほど経った。先生が帰って来たのかそれともあたしに根負けしたのか、さっきの声の女性が、あたしを家の中へ入れてくれた。

 意外と早かったかも? 1日覚悟だっただけに、ちょっと拍子抜けした。やっぱ、日頃のあたしの行いだよね。

「始めまして、斉藤先生。私、大木奈夢と申します。高校3年生です」

 あたしは通された応接室に入ると直ぐに挨拶をした。

「おもしろい名前だね」

 ソファに座っていた上品な初老のおじさんが、ニコッと笑った。

「はい、両親が大きな夢を持って欲しいと洒落しゃれで、いえ願いで付けたそうです」

「では大木さん。どうぞ座って下さい。高校3年っていったら、受験生かな?」

「はい。今週センター試験です。あ、失礼します」

 あたしは一礼して、ソファーにちょこっと腰を置いた。

「それにしては、随分ずいぶん余裕だね。私の大学でも、今試験の準備で大わらわだよ」

「いいえ、余裕なんて全くないです。でも諦めません。夢がありますから……って、今、それは関係ないですね。すみません」

「いいですよ。でもそのあなたが、静弥君の何の御用?」

「はい、静弥さんは留学するんですか?」

 あたしはずずっと前に出て、単刀直入に聞いた。

「その話ですかー。いや、彼はしないと言っている」

「あのー、留学話これって毎年あるんですか?」

「いいや。彼にとっては今回だけのチャンスだね。それも一生に一度の。……彼は、年齢的にもぎりぎりだからね。

 去年の10月に、ウィーンの音楽祭で若い音楽家たちのリサイタルがあってね、静弥君も招待されて行ったんだ。その時、静弥君の演奏を気に入ってくれた音楽院のピアノ科の先生から、留学の声が掛かったんだよ。

 彼のピアノには、西洋とは違う音がある。いにしえからの日本の伝統や、極限にあっても他人を思いやる心、逆境に負けない忍耐力……。能楽の、静の中にひそむ強い喜怒哀楽の情、かな。

 彼は音大生じゃないから、とかく欧米の真似に終わってしまいがちな、音大の教え方や学風に染まっていない。だから彼の音は、ヨーロッパの古典音楽でもアメリカのジャズでもないし、失敗も恐れず、自由でのびのびしている。

 彼が医学を学んでいる事も、音に影響してるんじゃないのかな。彼の音に、命の尊さを感じる事がある。

 そんな所が、コンクールで高い評価を受けているんだろう。私ですら出来無い事を、彼は躊躇ためらう事無く、難なくやってのけるよ」

「それなら! 先生がそこまで静弥さんを買って下さるなら、何で先生は、無理矢理にでも静弥さんを留学させようとしないんですか?

 だって本当は静弥さん、行きたいんです。あの遊び人の静弥さんが、この所毎日ピアノ練習してるんですよ。朝も昼も夜も。

 でも長男だからって遠慮してて、家族の誰にも留学の事相談していないんです」

「知っているよ。彼はそういう性格だ」

「じゃあどうして? 先生は、静弥さんが自分から言い出せないって知ってて、どうして強引に留学を勧めてくれないんですか?」

「そうは言っても、行くのも決めるのも彼だからね。他人ひとに言われて行く様では、長続きしない」

「でも静弥さん、行きたいんです! 迷っているだけなんです! 静弥さんが何も言わなくたって、そばにいると分かるんです。赤の他人のあたしにだって、分かるんです。行きたいって想いが、ヒシヒシ伝わって来て……。

 あー、もうーっ! あたしは一体どうすればっっっ!」

 あたしは両手で、頭をぐしゃぐしゃと掻きむしった。

「先生! あたし必ず、必ず静弥さんにうんって言わせます。あたしが静弥さんの迷いを、千切ってバラバラにして吹き飛ばします。だから先生、静弥さんの留学の手続き、先行して進めて下さい。お願いします!」

 あたしは深く頭を下げた。先生はナムを見て、苦笑しながらはぁと溜め息を吐いた。

「彼は、ああ見えても頑固だからね。一度決めた事は譲らないと思うよ。たとえ私が頼んだとしても」

「いいえ、これは静弥さんの夢なんです。夢は諦めちゃ駄目なんです。静弥さんだってそう思ってます。

 このまま医学の道を進んでしまったら、お父さんの後を継いで大学病院の学長になってしまったら、静弥さん忙しくてピアノ所じゃありません。趣味でやるには、静弥さんの才能が勿体無いです。神様から選ばれて与えられた才能、生かさないなんてばちが当たります!

 それに、静弥さんがこのチャンスを諦めたって知ったら、逆に家族皆を悲しませる事になっちゃうし……。

 こう言っちゃ何ですが、旦那様はー、静弥さんのお父さんは、跡継ぎとしての静弥さんには、なんの期待もしてません。跡取りだなんて思ってません。静弥さんには好きな事をして欲しい、遠慮せずに好きな道を歩んで欲しいって、そう望んでます。

 静弥さん、絶対行きたいんだから。何の障害もないのに、自分一人が我慢すればいい、なんて偽善者ぶってるんです。今を後悔しちゃいけないのに……。

 あたし、説得します。絶対に静弥さんを説得しますから。だから先生! 留学の話、進めて下さい。お願いします!」

 先生は何も言わず、又苦笑いした。あたしはソファーから降りて、先生に土下座した。

「お願いします! あたしじゃダメなんです! あたしじゃ静弥さんの夢を叶えてあげられない。

 だから先生っっ、お願いしますっっ!!!」

 あたしは何度も何度も、頭を床に着けた。

「大木さん、頭を上げて下さい。あなたの気持ちは分かりました。でもね、あなたがどんなに彼を想ってくれても、本人にその気がなければ、私はどうしようもない。ごめんね、力になれなくて。

 それで申し訳ないんだけど、私はこれから打ち合わせがあるので、これで失礼させてもらいますよ。大木さん、気を着けて帰って下さいね。静弥君にもよろしく」

 先生の言葉に、あたしは俯いたままそっと立ち上がった。低い声でお礼を言った。

「先生……、忙しいのに、あたしの話を聞いて下さって、ありがとうございました」

 あたしは顔を上げて、先生の瞳をキッと見詰めた。

「でも、先生がうんとおっしゃるまで、私は門の前で待っています。静弥さんの夢を叶えてあげて下さい。お願いします」

 あたしは、大きな声ではっきりと言い切って先生に大きく一礼した。屋敷を出て、又門の前に立った。

 今は4時半。外は大分だいぶ暗くなっていた。あたしは慌てて、ケータイで大奥様に遅れるむねを連絡した。

 風の無い昼間は、ポカポカと暖かかったのに、日が傾くと急に冷える。4時も回れば、あたりも急に暗くなる。ポツンポツン、と街灯も点き始めた。

 ぴゅぅぅ~~。……うーっ! 冷たい風が、あたしの頬を撫ぜた。

 くっそー、木枯らしめ。少しは可哀そうな女子をいたわれ! あたしは、マッチをりたくなった。

 でもマッチを擦ったら、物語の様に暖炉やご馳走が現れるのではなく、ろくでもない藤代4兄弟が、順番に出てきそうだ。それにあたしは、マッチを持ってない。

 ってそんな事考えてる場合じゃないし。木枯らしなんかに負けてたら、女がすたる。あたしは気合いを入れる為に、パチンと両頬を叩いた。

 あたしは今迄、何度も静弥さんに助けられた。熱中症にかかった時、錬弥の喧嘩に巻き込まれた時、失恋した時、雪弥の事務所に呼ばれた時、それに受験勉強……。ここで恩返ししなくて、一体どこでするんだよ、あたし!

 ヒュルヒュルヒュル……。うー、寒っ……。

 あたし、マッチのともしびと優しかったお祖母ちゃんに導かれて、明日の朝にはこのまま昇天してるかも……。でもあたし、マッチ持ってない。

 これが城田りゅうのコンサートだったら、あたしは吹雪だろうが台風だろうが、炎天下だろうが何時間並ぼうが、徹夜も全く気にならない。城田りゅうに“挫折”の文字は無い。今は城田りゅうの出待ちしてるんだ、とあたしは無理矢理そう思い込んだ。

 7時を過ぎ、8時になった。……冷える。深々と冷え込んで、容赦ない寒さがあたしを襲う。うー、トイレ借りときゃよかった。

 あたしの指先足先の感覚は、既に無い。頬がピリピリする。きっとあたしの鼻も耳も真っ赤だ。何だか背中もゾクゾクしてきた。

 ひゅーっと木枯らしが吹くと、あたしはその都度息を止め、しゃがみ込んだ。

 そうだ、錬弥に教わった空手の型や組み手をやってみよ。少しは暖まるかも。

「あちょーっ、とりゃーっ」

 足を蹴り上げ、突きをやってみる。……でもやっぱ、寒いもんは寒い。

「大木さん、分わかりました。あなたのその心意気に免じて、静弥君の留学の話を進めましょう。でも、必ずあなたが静弥君を説得して下さいよ」

 何の前触れもなしに、突然あたしの背後から声がした。振り返ると、あたしの目の前には、玄関灯に照らされた人影が、音も無く不気味に立っていた。

「ぎゃーっ」

 その気配に、あたしは全く気が付かなかった。すぅ~、と薄く現れたその人影は、間違いなくこの世の者じゃない。でも……。

「さ、斉藤、センセ?」

 先生だと判ると、あたしは慌ててペコッと頭を下げた。

「えっと、話って……」

 先生は、コクン、と笑顔で頷いた。

「本当ですか? ありがとうございます。ありがとうございます。私、命懸けて説得します。必ず説得します。静弥さんには、絶対夢を叶えてもらう。

 先生、ありがとうございました」

 あたしは、頭が地面に付くかと思う様な深いお辞儀を、勢いよく何度も繰り返した。

「じゃ、センセ。早速帰って静弥さん説得して来ます。朗報、楽しみに待ってて下さい!」

 既に走り出したあたしは、後ろ向きで先生に手を振った。あたしは前を向くと、真っ赤な顔で真っ白い息を吐き、全速力で来た道を走った。

「静弥君、いい友人を持ったね。あんなにキラキラした、真っ直ぐな目を見たのは、久しぶりだよ」

 斉藤は、ナムの後姿を見ながら微笑んで呟いた。

長い文章、誤字脱字にもかかわらず、ここまで辿り着いて頂いて、誠にありがとうございうます。

明日は、静弥編、後編です。

又、お越し頂ける事を期待しております!

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