雪弥編(後編)
毎日、毎度、お越し頂きまして、ホントにホントにありがとうございます!
生意気な悪餓鬼、雪弥とのエピソード後編です。
疲れるとは思いますが、最後までお付き合いいただければ、ありがたいです!
雪弥と一緒にユニットを組んでいる、子供バンドのメンバーが、いつもの様に藤代家にやって来た。
地下のオーディオルームで、雪弥が練習を始めようと準備していると、その内の一人の男の子が、バンドを辞める、と言い出した。
「俺、再来年中学受験なんだ。だから、バンドは辞めるわ」
その子は再来年に、有名私立中学の受験を控えているらしい。勉強が忙しくなって、親からバンドは辞めろ、と言われたのだろう。
「あ、俺も抜けるわ。俺友達にサッカーのチームに入らないかって言われてんだ。俺って、そこそこサッカーのセンスあるらしくてさ。しつこく誘われて、入る事にした。
でもサッカーの練習って毎日あるらしいんだ。それじゃバンド続けんの、無理じゃん?」
もうひとりの男の子も特に理由も無く、一緒に辞める、と言い出した。ゲームを中断するみたいに、軽く言った。
結局の所、バンドごっこはいい加減飽きたらしい。彼らにとって、元々バンドは遊びの延長だ。興味本位で、カッコいいからやってみただけ、だった。
「悪ーな、雪弥」
「じゃ、そーゆー事で」
「又なー」
男の子達は、悪気もなさそうに帰って行った。その場に取り残されたように、ぽつんと立ち尽くす雪弥は、彼等の出て行ったドアを睨んで、黙り込んだ。
「じゃぁ、バンドは解散だな」
雪弥はぼそっと言って、ミキに背を向けた。
「えーっ、ふたりだけでも続けようよー」
ミキは大声を上げて、反対した。
「ふたりじゃバンドじゃない。やりたきゃお前ひとりでやれよ。俺はヤメた」
バーン。雪弥は不貞腐れて、あれ程大事にしていたギターを、放り投げた。
「そんな事、言わなくたっていいじゃん!」
ミキが、ヒステリックな声を出した。
「帰れよ! もう解散したんだから! はい、お疲れー」
雪弥は騒ぐミキの背中を押して、部屋から押し出した。
「雪弥の意地悪ーっ! 歌ってって言っても、あたしもう絶対歌ってやんないんだからーっ!」
ミキが部屋の外でドアを叩き、足を踏み鳴らして、雪弥に怒鳴った。
ミキは暫く怒鳴り続けていたが、言う事が尽きたのか疲れたのか、彼女の怒鳴り声もドアを叩く音も、地団駄を踏む音もしなくなった。
「ふん、だ。じゃーね雪弥! あたしもう雪弥の事なんか、知らないからねーだ!」
ミキは雪弥に捨て台詞を残し、不貞腐れて走って帰って行った。
誰もいなくなって静かになった地下室で、雪弥は座り込み、膝を抱えた。あたしは、ジュースとお菓子を差し入れようとして出し逸れ、ドアの外でずっと立っていた。あたしはお盆を持って部屋に入り、そっと雪弥の隣に座った。
「食べる?」
「いらね」
「折角持って来たのに…… 。じゃぁ、あたしが食べる」
「デブ」
「いいし。あたしは、ぽっちゃり系美人を目指す」
「ただのブタ」
「うるさいねー。ガムテープでその口、塞いだる」
「ヤなこった」
どこか上の空で減らず口を叩く雪弥に、あたしは立ち上がって、雪弥が放り投げたギターを持ってみた。
「なんだ。これ結構軽いじゃん?」
あたしは、ギターストラップを見よう見真似で肩に掛け、ギターを抱えた。電源は入れずに、右手でネックを持った。適当に右手指で弦を押さえ、左手で弦を弾いてみた。
ビン……。電線が唸る様な、変な音がした。
「あたしさ、前に軽音部の山本君に、ギターちょこっと教えてもらったんだー。どう? あたし結構さまになってるっしょ」
あたしは、貼ってあるポスターのギタリストのポーズを、真似てみた。
「……ナムってさ、左利きだっけ?」
「は? 右だけど?」
雪弥は溜め息を吐いた。ナムは一体、ギターの何を教わったんだよ。ギター持つ手、左右逆だろーが。 楽しそうに爪弾いて、遊んでいるナムを見て、雪弥は何も言えなかった。
「ねぇ、確かギターって、上の弦が一番低い音で、下に行くに従って、順番に音が高くなってくんだよね? 違ったっけ?」
ジャララン、と、弦を上から下へ流し弾く音が、“ドミソ”みたいに、低音から高音へ流れていかない。不思議だった。どこを押さえても、何度弾いてもどうやっても、高音から低音への流れは変わらなかった。
「変な音。雪弥、このギター壊れてなくない? あんたがさっき放り投げたから」
違う! だからナムのネック持つ手と弾く手が逆なんだって。呆れ過ぎて、雪弥は何も言葉が出なかった。
今日もあたしが、ぎっくり腰の大奥様に代わって、雪弥を撮影スタジオに送迎した。この前は、雪弥をあたしの自転車の後ろに乗せて行った。でもチョロの一件で、雪弥が普通に自転車に乗れる事が判明してから、自走させてあたしの後ろに着いて来させる様にした。
「小学生が自転車位乗り回せなくて、どうすんの! はい、これ」
あたしは雪弥の頭に、工事用の黄色いヘルメットを被せた。
ポイッ。速攻捨てられた。
収録スタジオでの今日のあたしは、大人の対応を心掛けた。そして出演者には、ばっちりサインをもらった。ピース!
雪弥の言う通り、誰に何を言われてもにっこり笑って受け流した。作り笑いのし過ぎで、あたしの頬が筋肉痛だ。営業スマイル用のお面が欲しい、と切に願った。
体育会系の部活の扱きは、どんなにキツくても耐える自信はあたしにはある。でも、芸能界の陰湿陰険な空気や足の引っ張り合いには、どうも耐えられそうも無い。学校の虐めより、極めて性質が悪いと思う。
尤も、あたしがゲーノーカイにスカウトされる事は有り得ないし、芸能スタッフの仕事にあたしが向いているとも思えない。雪弥にくっ付いて、スタジオ内を歩き回るあたしは、事ある毎に呆れと諦めの溜め息を吐いた。
それにしても、あたしの兄貴もよくやるよな。似たような世界であろう芸人を目指す兄が、あたしには信じられなかった。
撮影の帰りに、あたしと雪弥は自転車で公園を通った。公園には男の子達が数人で、楽しそうに草野球をしていた。
あたしが何気なく雪弥に振り返ると、雪弥は羨ましそうに、草野球を眺めていた。
「雪弥、野球したいの?」
「え?」
雪弥は驚いて自転車を止めた。あたしも自転車を止めた。
「うううん、俺はスーパーギタリストさ」
「ふーん」
雪弥は、ちらりと草野球の少年達を見た。でも否定する雪弥の目が、本当は少年達の仲間に入って草野球がしたい、と言っている様にあたしには見えた。
そっか。雪弥は友達が欲しくて、バンド組んでたんだ。でもあの友達じゃぁ……。バンド解散して正解だったよ。
家に着くなり、あたしは雪弥を誘った。
「雪弥、あたしとキャッチボールしよ! グローブある?」
「えー。何でだよ。今帰ったばっかで、俺疲れてるし」
「疲れてる? 小5の餓鬼の台詞じゃないよ。あー、さてはキャッチボール、出来ないんだー。
残念だなぁ。あたしの自慢の魔球、特別に雪弥に披露してあげようと思ったのにー」
どうせ碌なモンじゃねー。そう思っても、しつこいナムを振り切る気力は、仕事を終えて帰ったばかりの今の雪弥には残っていない。雪弥は、渋々ナムについて行った。
あたしは、グローブを持って公園に立った。雪弥から少し離れて、キャッチボールをしようと構えたら……。雪弥が何やら呆れている。
「ナム……、お前グローブ右手にしてどうすんだ? ナムって左利きだっけ?」
「え? 右だよ」
「じゃ、ボールはどうやって投げんだよ」
「え? ボール? ……。ボールはぁ、瞬時にグローブ外す?」
はぁ~。雪弥は頭を抱えてしゃがみ込み、溜め息を吐いた。
魔球じゃなかったのかよ。大体ナムの奴、グローブどんな嵌め方してんだ?
左手に嵌めるグローブを、あたしは右手にした。当然だが、指が上手く入らない。でもグローブとは、そういう物だと思っていた。
あたしは、雪弥の指摘に従って、渋々グローブを左手に嵌めた。
「行くよ――」
あたしは腕を大きく回し、ボールを投げてみた。腕だけでひょいと投げる“女の子投げ”だ。
「……」
ボールは、ナムの手を離れると直ぐに地面に吸い寄せられ、コロコロと転がった。
「ナム~。俺ゲートボールやってんじゃねーんだけど」
「ごめん! 今のは練習。もう1回」
「……」
あたしが勢い良く放ったボールは、直ぐに地面に直撃して、大きくバウンドした。
「あっ、あたしー、ちょっと前に行ってもい?」
「いいけど?」
今度は加減して投げた。
ポンポンポン……、コロコロコロ……。
「……」
雪弥の溜め息が途切れない。
「うーん、もうちょっと、前、かな……」
あたしは雪弥に向かってボールを投げる度に、一歩、又一歩と、雪弥に近付いて行った。
「おいー。これキャッチボールってゆーか?」
あたしの周りで見ていた子供達も、変な顔をしている。いつの間にかナムと雪弥の二人の距離は、たった2メートルだった。キャッチボールと言うよりは、どう見てもお手玉。
「あっあたしっ! なんだか今日は、ちょっと肩の調子が悪くてぇ……。続き、明日にするか」
あたしは顔を引き攣らせながら、肩と腕と首をぶんぶん振り回した。
「ふーん。それで、ナムの魔球はいつ見せてくれんの? まさか、今のが魔球、とか言わないよな?」
ギクッ。振り回すあたしの腕が止まった。
あたしは次の日学校で、元ソフトボール部のクラスメイトに、校庭で硬球のボールの投げ方を教わった。
「ナムー、運動会の玉入れじゃないんだから……。バスケのボールの方がずっと大きくて重いじゃん。なのに、なんでソフトボールはダメなん?」
あたしは、バスケのボールなら3ポイントシュートだって撃てるのに、ソフトボールでのあたしの飛距離は、3メートルが限界だった。それ以上飛ばそうとすると、あたしのボールは真左、真上、真後ろと、予測不可能な方向へ飛んで行く。あたしの後ろで見学しているギャラリーが、あたしがボールを投げる度に声をあげ、冷や汗をかいていた。
「ちょっとぉ、ナムー! あんたあたしを殺す気?」
あたしの後ろで、顔を青くしたギャラリーが騒いでいる。あたしが後ろを振り返ると、友達に向けて確かに前に投げた筈のボールが、ネットに挟まっていた。
元ソフト部の友達が、頭を抱えた。
「ナムのボールって……。ある意味、魔球だわ」
あたしは、学校帰りにいつもの通学路の公園広場を自転車で横切った。いつもは、何も気にせず通り過ぎる広い公園広場。そこで、雪弥位の小学生の男の子達が10人程が、草野球をしていた。あたしは、その公園にはいつも男の子達が遊んでいて、草野球とかサッカーとか楽しそうにゲームをしていたのを思い出した。
野球かぁ。そうだよね、やっぱあたしじゃ雪弥の相手は出来ないよ。あたしは、なんとか雪弥をその草野球の仲間に入れてもらおうと思った。
「ねぇねぇ、君達楽しそうだね。今だけこのお姉さんも、仲間に入れてくれないかな? 人数足りないでしょ?」
あたしは、バットを構えている男の子の側に寄って、話し掛けた。
「あんた、誰?」
構えていた男の子はバットを下げ、ミットを構えて座っていた捕手役の男の子が立ち上がって、ナムを訝しげに眺めた。
「あたし? あたしは女子高生」
あたしの高校には、制服が無い。今のあたしは、トレーナーに綿パン、スニーカーに、リュック姿だ。
「うっそだぁ。どう見てもただのおばちゃんじゃん。俺の母さんより老けてる」
「違う! 女子高生だって。ちょっと待ってて。今証明してあげっから」
あたしはリュックを降ろして、中をごそごそやり始めた。子供達は、ナムを無視してゲームを続けた。
「ほら! 見て見て。……ギャッ」
学生証を差し出したあたしの目の前に、バットが飛んで来た。あたしの隣に立っていた男の子が、ピッチャーが投げたボールに、ヒットを撃とうとバットを振ったとこだった。
「おい、婆。頭割れても知らねーぞ」
「ばっ、婆? ってあたしか? ……このクソ餓鬼、じゃくて、君達ぃ……お姉さんも野球混ぜてよー」
「何くれる?」
最近の餓鬼は、リベートを要求すんのかよ。
「じゃ、じゃぁ、後でお菓子持って来るよ。なら、い?」
「お菓子かぁ……」
男の子は顔を顰めた。文句ゆーな。張っ倒す。
何だかんだ言いながらも、あたしは子供達に、早速バッターボックスに立たせてもらった。
「よーし、見てなさーい!」
あたしは威嚇する様に、バットをピッチャーに差し向け、イチローを真似てバットを回し、袖を捲くった。
「おりゃ!」
ブン。あたしは勢い良くバットを振った。
バシッ。ボールは、キャッチャーミットの中に吸い込まれた。
小学生の癖に球が速い。生意気な……。あたしは、フッと不敵な笑みを浮かべた。
「なかなかやるじゃん。……じゃ、今度は本気で行くから」
何度振っても、ボールはあたしのバットを避けて行く。
「もう1回!」
あたし、連続10回目の空振り三振。ある意味凄いと、少年達に褒められた。
「きっと、あたしのこの格好が駄目なんだ。ちょっと待ってて。あたしジャージに着替えて来る。ついでにお菓子も持って来るから。君達、未だここで遊んでるよね?」
そう言ってあたしはバットを放り投げ、子供たちの返事は待たずに、猛ダッシュでチャリで屋敷に戻った。
「なんなんだ? あいつ」
ナムは、子供達の前に突然現れて、散々バットを振り回して、突然帰って行った。
「さぁな。新手の変質者じゃねーの」
「いや。新たな都市伝説かも。“ねぇねぇおばさん”、いや“振り振りおばさん”かな」
「一応、先生に報告しとく?」
「そうだな」
少年達にとってナムの出現は“小さいおじさん”に匹敵する程の、怪奇現象だった。
あたしは屋敷に帰ってから、速攻ジャージに着替え、煎餅とミニ紙パックジュースを持った。
「雪弥、キャッチボール!」
あたしは雪弥の部屋に勝手に入り込み、グローブを取って、ベッドに寝転がっている雪弥の腕を引っ張った。
「何すんだよ」
あたしは無言で雪弥を部屋から引っ張り出し、呆気に取られている雪弥を、無理矢理あたしの自転車の後ろに乗せて走った。
「おい、どこ行くんだよ」
「いいとこ」
「天国ー、とかゆーなよ」
「へへへ、もっといーとこ」
ファァ--ン。大音量のクラクションと共に、大型トラックが、ナムの自転車横をスレスレで追い越して行く。道路が悪いのか、雪弥が後ろで動くからか、ナムの自転車はフラフラと車道を走っていた。
マジで天国に限りなく近いって! 雪弥はナムの後ろで、必死に神に祈りを捧げていた。
あたしの自転車が、公園に到着した。あたしは草野球を続けている少年達に、大きく手を振った。
「おーい! お待たせー」
誰も待ってない。
「助っ人、連れて来たから」
あたしは雪弥の腕を引っ張って、少年達の前に連れ出した。
「なんだ、藤代じゃん」
「え? 君達、この子知ってるの?」
「クラス同じ」
「そうなんだぁ。じゃぁ、気ぃ使う事ないね」
「……」
男の子の達は、互いの顔を見合わせて黙ってしまった。
どよよ~~ん。……なんだか、空気重っ。あたしは、あまりいい顔をしていない少年達を見回した。
雪弥はクラスの男子から、芸能人である事を自慢している、嫌味で傲慢な鼻持ちならない奴だと思われていた。だから雪弥は、学校では男子達にまともに相手にされない。しかも芸能人の雪弥は、学校中の女子から絶大な人気があるだけに、余計に男子仲間には入れてもらえなかった。学校での雪弥はあまり笑わず、休み時間も給食もひとりぼっちだった。
「ナム、俺帰るわ」
あたしは、背を向け帰ろうとする雪弥の腕を、ガシッと掴んだ。
「待ちなさい! あんたは助っ人なんだから」
あたしは、男の子達に向かって言った。
「あたし、この格好なら全然イケルよ。さっきのは練習だから。今度はちゃんと打つからね。雪弥、あんたはここで、あたしの活躍見てて!」
あたしは不敵にニヤリと笑って、バッターボックスに立った。イチロー並に格好付けて、ピッチャーを威嚇する。
「さぁ、来い!」
ビュン。あたしに向かって球が飛んで来た。さっきより球が速い! あたしは思わず目を瞑って、とりあえずバットを振った。タイミングなんか関係ない。思い切り振り切ってみた。
カキーン! 当たったぁ! 滅茶苦茶に振ったバットに、偶然球が当たった。
でもあたしには、そんな事関係ない。ヒットはヒットだ。あたしは全身笑顔になり、ただ線が書いてあるだけの一塁目指して全力疾走した。
へへーん。どんなもんだい。あたしが本気出せば、ざっとこんなもんよ。塁に立って、あたしは得意気に鼻を擦った。
あれ? あたしが打ったボールが、コロコロと転がっている。なぜか男の子達は、そのボールを追わずに皆固まっていた。
あたしは、パッと雪弥を見た。雪弥は、地面をバシバシと派手に叩いて笑っている。
え? 何?
「あのねぇ……、おばちゃん、一塁あっち。そこ三塁」
しまったぁ! 逆走してしまったぁ! あたしは慌ててホームベースに戻り、一塁を目指した。何も態々ホームベースに戻る事はなく、一塁まで直進すれば大分早い。分かってはいたが、あたしは律儀にホームに戻って、再び一塁を目指した。
気が付くと、男の子達は皆座り込んで涙を浮かべ、腹を抱えて笑っている。しかもナムの撃った球は、一塁線の外側を転がっていた。
「こっ、交代―。雪弥!」
あたしは、無神経に笑う奴等を睨み付けて、雪弥にバットを無理矢理押し付けた。途端に、ピッチャーの男の子の目の色が、鋭く変わった。
「藤代、お前野球やった事あんのか?」
バカにした様なクラスメイトの言葉に、雪弥はその子をキッと睨み、ナムに押し返そうとしたバットをギュッと掴んだ。雪弥は、無言でバッターボックスに立った。
ピッチャーの男の子は真剣な顔で、渾身の力を込めて、雪弥に向かって球を投げた。
ヒュン。速い! ナムの時より球速は格段に上がっていた。
1球目は、見逃した。だが雪弥は、微動たりともせず瞬きもしない。
2球目、雪弥は遅れてバットを振った。ピッチャーとキャッチャーの少年が、ニヤリと笑った。
3球目、雪弥の瞳がキラッと光った。今度は見逃さない。
カキーン。雪弥が撃った球は、ショートを抜けるライナー。雪弥の鋭い当たりに、守備は誰も反応出来ない。雪弥はすかさず走った。雪弥は、あっと言う間に一塁を駆け抜けた。
足早っ! 雪弥って運動神経いいんだ。雪弥の足の速さに、あたしは感心した。そっか、雪弥って運動会のリレーの選手だったっけ。
雪弥はそのまま塁を回った。二塁、三塁……。
そりゃ、仕事であんな激しいダンス踊る位だから、雪弥の運動神経、悪くないわ。
ピッチャーの男の子は、雪弥の撃ったボールを目で追いながら、その場で立ち竦んでいた。
「なんだ藤代。お前、結構やるな」
その子は、ランニングホームランを撃った雪弥に、ニヤッと笑った。
「まぁな」
雪弥も髪を弄りながら、照れ笑いした。
雪弥は、今度は守備に回った。でもあたしには、攻撃も守備も出番が回って来なかった。なんでだよっ!
外野に着いた雪弥は、飛んで来たゴロの球をグローブで弾いた。なんだやっぱり素人、と思ったら、雪弥は弾いたボールを素手で掴み、そのままファーストへ投げた。
ビュン! 送球も早い。
太陽の光が目に眩しい高いフライ。雪弥は危な気なく、落ちてくる球をキャッチした。
雪弥って、野球やった事あるのか? 何度も続く雪弥のファインプレイに、あたしは不思議に思った。その後も雪弥はいい所で打ち、なかなかの守備を見せていた。
「休憩――。皆ー、おやつにしよー!」
結局出番はなく、公園のベンチでただ応援していただけのあたしは、男の子達を呼び、皆にお菓子とジュースを配った。
「おい藤代、あいつ誰?」
男の子が、ナムを指差し雪弥に小声で聞いた。
「あれか? あれはただの近所のおばさん」
「だよな。さっきあいつ、自分の事“女子高生ー!”とか言ってたし。あいつ、俺等が小学生だと思って舐めてるよなー」
「……」
雪弥は、何もコメント出来ない。
それ以来、雪弥は学校から帰ると直ぐに、自転車で公園広場へ出掛けた。クラスメイト達と一緒に、草野球をやりに。
よかったね、雪弥。友達出来て。あのクラスメイトなら、学校も直ぐに楽しくなるよ。あたしは、生き生きした瞳で自転車で出かけて行く雪弥に、ほっとしていた。
いつの間にか雪弥は、あたしの知らない間に、近所の草野球チームに入っていた。そこの少年団の監督は、あたしのよく知っている、元大木家の近所のおじちゃんだった。
あたしは雪弥の様子見ついでに、度々、少年団にお菓子やジュースの差し入れを持って行った。監督からは、元大木家のその後の情報も収集した。
「監督、こんにちはー。雪弥は皆に迷惑掛けてませんか?」
「新人の藤代か? 頑張ってるよ。新人だから、決まりで片付けやボール拾いもやってもらってるけど、嫌な顔しないで進んでやってる。自分より年下の子の先輩も沢山いるのに。
藤代は、運動神経もセンスもいいから、直ぐにレギュラーになるよ。だけど天狗にならずに頑張ってる。優しいしよく気が付くし、皆のフォローもしてくれてる」
そうだよ。雪弥、伊達に芸能界長くいたワケじゃないよ。あの撮影現場での気使いと我慢と根性は、倍年齢以上だと、あたしは思う。
「あー“ねぇねぇおばさん”だ!」
違うっ! あたしは少年団の子供達から、雪弥ん家の近所から突如現れる、新たな都市伝説、“ねぇねぇおばさん”だとずーっと思われ続けている。
ばーか、お前だけ勝手に思ってろ! あたしをチラチラ眺めてクスクス笑う声は、あたしには聞こえない。
夜の公園で、雪弥がバッティング練習をしていた。あたしが放ったボールを、雪弥が打った。あたしのボールも、やっと真っ直ぐ投げられる様になったのだが、いかんせん球は遅い。簡単に雪弥に打たれる。
あたしは雪弥が打ったボールを拾いに行き、戻って来て又投げた。又拾って、又投げる。走って取りに行き、又走って戻る。元バスケ部のあたしでも、息が切れ足が縺れ、さすがにばてる。
「だから俺、素振りだけで充分だって言ったのに」
ナムが一旦、雪弥の練習相手をすると言い出したら、引かない事は分かっている。藤代家の庭で素振りをしていた雪弥が“打撃練習!”と言い張るナムの相手を、仕方なく受けていた。
「ハァハァ……。雪弥……、ちょ、ちょっと、待って……。あたし、限界だわ……。誰か、助っ人呼ぶ」
あたしは下を向き、膝に両手を突いた。切れ切れに肩で息をしながら携帯を取り出した。
今は9時。この時間って……、涼弥は予備校だし錬弥は空手だし。静弥さん、居るかなぁ。そう思いつつ、あたしは静弥にメールした。
“ナムです。今どんぐり公園にいます。雪弥と野球の練習してます。暇なら手伝ってください。グローブ忘れずに”
15分後、静弥がどんぐり公園にやって来た。
早っ! しかも歩きだ。それに何だか、沢山野球道具を持って来た。
「ありがとうございます。静弥さん来るの、超早いですね。家に居たんですか?」
「いや、出かけてた。でも雪とナムちゃんの頼みだから、飛んで来たよ」
「は・は・は。ありがとうございます」
あたしは、口先だけでお礼を言った。きっと静弥は、しつこい女を断る口実に、あたし達を利用したんだろう。
「じゃぁ、僕が投げるから、ナムちゃん守備ね」
静弥は雪弥から離れて、球を投げる距離を目測した。
静弥さんって、野球なんかやった事あるんだろうか。あたしは不安になって、チラッと雪弥を見た。
お前より静兄の方が、ずーっとまともに投げるわ。雪弥の目が、そうあたしに訴えた。
静弥の投げるボールがいいのか、雪弥の当たりがよくなった。と同時に、球を拾う側のあたしの運動量も、格段に上がる。しかも雪弥は左右に打ち分けてくれるので、まるで“ノック”だった。
その上暗くて足元も見え難い。公園の花壇や遊具の下にボールが入ると、見つけ難いし取り辛い。10個くらいあったボールは直ぐになくなり、あたしがやっと拾ってきても追いつかない。あたしは、ジャングルジムに頭を打ち、公園の植木に引っ掻かれ、傷だらけになった。
「うーん、学校行こうか。もう誰もいないだろ」
あたしは、公園の時計を見た。もうすぐ10時だ。
「それとも、もう遅いから帰る?」
雪弥はブンブンと首を横に振った。
なんだ、雪弥やる気あんじゃん。さっきはあたしに、素振りだけでいいって言った癖に。
3人で、公園の直ぐ近くにある雪弥の小学校へ行った。さすがに10時になると、学校の門は閉まっていて照明も落ちている。それでも、街灯と周りの家々の明かりで、どんぐり公園よりはずっと明るい。
静弥は、校門に片手を突いて、ひらりと柵を飛び越えた。長い手足、靡くサラサラヘア、嫌味じゃないコロンの香りが、ふわっと漂う。
超カッコいーっ! あたしはつい見惚れてしまった。
雪弥も校門によじ登って、ポンと降りて中に入った。よーし、あたしも!
「そこ、退いてて下さい!」
見てろよ。あたしだってこん位、カッコよく飛び越えてやるし。
「よせよ。ナムは無理だって」
雪弥が、静弥の真似をしようとしているナムに、マジで忠告した。
「うるさい! 元バスケ部のあたしのジャンプ力、見せてやる」
あたしは校門から離れて、助走をつけて飛んだ。校門の、静弥が手を突いた場所に、あたしも手を突いた。身体を傾け、足を思い切り振り上げる。でもあたしの手足は短いし、ガニマタ。
「おりゃっ!」
掛け声からして、格好悪い。
「……ナムって、ホント期待裏切らんよな」
あたしの足は、見事に柵に引っ掛かった。あたしはバランスを崩し大口を開けて、頭から地面に落ちた。
ひぇぇぇ~~。地球さん、お願いそこ退いて! あたしは地球にキスをする寸前で、静弥に抱きかかえられていた。
「なんだ。僕に抱き上げて欲しかったのなら、始めからそう言ってくれればいいのに」
「は? ……そ、そんな事、頼んでません!」
あたしは慌てて静弥の腕から飛び降りた。
涼弥と錬弥が来た。
「え? 何で?」
あたしは、涼弥と錬弥を指差した。
「僕が呼んだんだ。終わったら小学校寄って、って」
「兄貴と雪の頼みじゃな」
涼弥が、校門越しに雪弥にウィンクした。
涼弥も錬弥も、静弥同様ひらりと校門を飛び越えて来た。長い足を、あたしに見せ付ける様に。
……悔しいけど、こいつ等カッコいー。
「錬弥、なんで道着のままなの?」
「だって兄貴が直ぐ来いっていうから。着替えずそのまま来た」
「悪いね。雪の為」
静弥が笑って言った。
直接来たって事は……、グローブは? 素手でやるのか?
静弥は、二人が来る事を見越していたのか、彼がさっき持って来た荷物の中に、皆の分のグローブもミットも入っていた。
涼弥は、制服の上着を脱いでネクタイを外した。オタクの涼弥は運動が苦手だと、あたしは勝手に思っていたが、意外と運動神経はいいらしい。兄弟4人で声を掛けながらの、肩慣らしのキャッチボールが始まった。
「よーし。雪、やるか」
4兄弟は、それぞれポジションに着く。ピッチャーが静弥で、キャッチャーが涼弥。って、キャッチャーって超恐くない?
ショートが錬弥で、あたしはファースト……。
ファーストって、どっちだっけ? そう思いながら、あたしもトボトボ歩いて守備に着いた。
その時、4兄弟のハモった大きな声が、グランドに響いた。
「そっちはサード!」
ギクッ。3塁に向かっていたあたしの足が止まった。
「わ、分かってるって。サードってどこかなーって、確認しに来ただけです!」
何度も、雪弥の野球団の練習を見に行っているあたし。でも塁が右回りか左回りだったかなんて、そんなの一々覚えてない。
あたしが守るファーストは、ボールを受けるだけでいいって言われたけど、錬弥からの返球は早くて強かった。しかも錬弥は、雪弥の打球の方向を瞬時に見極め、処理も早く、球はあっと言う間にあたしのグローブめがけて飛んで来る。
ヒュン、バシッ! ……ひえぇぇ、超怖っ!
ただ手を伸ばしているだけのあたしは、錬弥から球が飛んで来る度、固く目を瞑った。
静弥の投げる球は、そこそこ早くてコントロールもいい。なにより投球フォームが様になっていて、プロ並にカッコ良く見える。涼弥の捕手も構えが安定していて、静弥のどんな球も取り零さない。あたしへの送球も早いし、打ち損ねた雪弥の球の処理もいい。
こいつら、かなり野球やってんじゃん! ただグローブを突き出して立っているだけのあたしには、手出し無用の世界だった。
ブランド品に身を包む静弥に、制服のYシャツ姿の涼弥に、道着のままの錬弥、バスケ部ジャージのナム、と変な集まりだった。でも皆、雪弥の為とか言いながら、結構楽しそうだ。はしゃいで大声出し合って、小五の雪弥相手に必死になっている。
服が汚れるのも、擦り切れて血が滲むのも気にせず、転がって突っ込んで砂だらけになった。広いグランドを、皆大声を張り上げ、目いっぱい走った。皆、少年の目をしていた。
こんなに楽しそうに遊ぶ4兄弟を、あたしは見た事がない。まるで青春ドラマだ。兄弟4人で、よくキャッチボールとかサッカーとかするんだろうか。あたしは、夢中でゲームを楽しむ彼等を、なんだかずっと見ていたかった。
夜11時。家に帰ると、奥様が玄関で待っていた。皆が、ただいまも言う前に、奥様が声を掛けた。
「お帰りなさい。遅くまでご苦労様。皆、見事に土塗れね。服も破れてる」
「ただいま」
兄弟4人揃って返事をした。思わず4人の声が揃った事に、互いの汚れた顔を見合わせて笑った。
「皆楽しそうでいいわね。よかったね、雪ちゃん。眠くないの?」
「うん! 全然」
奥様も笑った。このシーン、超ホームドラマだ。テレビのフレームが、あたしには見える! あたしは感動して目を潤ませた。
次の日曜日、隣町の野球チームと雪弥のチームとの練習試合があった。まだ入って間もない雪弥は、スタメンには入れない。それでも代打の出番を待っていた。
そんな雪弥を、あたしも応援に行った。雪弥はもうすっかりチームの一員だった。雲ひとつ無く真っ青な秋空の下、雪弥は皆と一緒にベンチで大きな声で、活躍するチームメイトを応援していた。
「地下室でブスっとしてる雪弥より、今の方が、ずっと楽しそうで生き生きしてて、子供らしいよ」
雪弥のその様子に、あたしは小さく呟いた。
その日、雪弥に出番はなかったけれど、チームは試合に勝利した。試合に出た子も出なかった子も、皆意気揚々としていた。たとえ練習試合であっても、雪弥達は学年性別関係なく、チームメイトと抱き合いハイタッチしじゃれあって、皆で勝利を分かち合っていた。
「じゃぁなー。又後で。練習でなー」
子供達は互いに声を掛け合いながら、銘々自転車に乗って帰っていった。雪弥もあたしを無視して、自転車でさっさと一人で帰って行った。
雪弥のチャリ操作は、いつの間にかナムより上手くなっていて、走りも早い。あたしがやっと屋敷に着いた時は、家には雪弥が放り投げた荷物やユニフォームが散乱しているだけで、既に雪弥本人はどこかへ出かけていた。
雪弥も最近は自転車で行動する。今迄、大奥様に車で送迎してもらっていたなんて、嘘みたいだ。雪弥に友達が出来て、共通の話題が出来て、一緒に自転車で遊びに行くようになって……。雪弥は、やっと普通の小学5年生の男の子になった。
よかったね、雪弥。でもあの大騒音、ギターだけは辞めてくれない。
それから1ヶ月が経って、いつの間にか元バンドメンバーのミキが、雪弥と同じ草野球チームに入団していた。それが又、雪弥にも負けないくらい、彼女の守備も打撃も上手かった。
雪弥の所属するタレント事務所から、藤代家に連絡があった。雪弥はその日、ドラマ撮影の仕事があるらしいのだが、未だ来ていない、と言うものだった。
あたしは電話を受けて、雪弥の仕事先の場所と連絡先をメモった。メモを破り取ると直ぐに、自転車を走らせた。
こういう緊急時に限って妖婆、いや大奥様はいない。雪弥は多分、今は野球の練習中だ。あたしは、いつもの練習場のグランドへ急いだ。
運動公園で、あたしは練習中のユニフォーム姿の雪弥を見つけた。
「雪弥――! 緊急事態!」
両手を振り大声で呼んだ。雪弥が気が付いて、あたしの所へ走って来る。心持ち、雪弥の足取りが重そうに見えた。
「雪弥、今日仕事じゃないの?」
雪弥は、あたしから目を逸らせた。
「何、雪弥知ってたの? 今日仕事だって」
雪弥は黙ったまま答えない。
そっか、仕事行きたくなかったんだ。そりゃ、あんなトコ行くより野球の練習の方が、ずっと楽しいよ。でもね、仕事は仕事。いくら子供でも関係ない。あたしは心を鬼にした。
「ほら雪弥、直ぐ行くよ。服着替えて!」
あたしは、雪弥の着替えを持って来ていた。雪弥をその場でユニフォームから着替えさせ、あたしは監督に、雪弥の練習早退の理由を説明をした。
「済みません監督。雪弥、今日用事がある事忘れてて。今日は雪弥、これで帰ります。ありがとうございました」
あたしと雪弥は、駅まで自転車を走らせた。急いで電車に飛び乗った。電車の中で、雪弥は一言も口をきかない。座席は随分空いているのに、雪弥は出入り口付近の手摺りに掴まって、ずっと下を向いていた。
あたし達は、ドラマ撮影中のスタジオに急いで入った。
「遅くなりました! 学校で遅れました!」
という事にした。
“子役の下っ端の癖に、遅れて来るなんていい度胸してるんじゃない?”
“あいつ、自分を何様だと思っているんだ? ちょっと可愛い顔してるからってさ”
ひそひそと、でもはっきり聞こえるように、雪弥を中傷する声が耳に入った。
あたしの拳に力が入り、額に青筋が立った。その様子に気が付いた雪弥が、ツンツン、とナムの袖を引っ張った。雪弥に諭されて、あたしは強く握った掌を解放した。
雪弥は、あたしに首を小さく横に振った。”いつものことだから”雪弥の目が寂しそうに訴えた。
主役クラスが遅刻しても、何も文句を言われない。でも、雪弥みたいな小さな子供でも、隙を見付けては執拗に攻める。苛めに容赦はない。
なんてトコ! 野球の練習の方がよっぽど楽しかろうって。
テレビで良く見かけるイケメン俳優が、あたしの目の前をゾロゾロ歩いていたのに、その時のあたしは、とてもサインを強請る気にはなれなかった。でも……。
悔しっっ! あたしは家に戻ってから、暫く立ち直れない。部屋で暴れ、吠え、死ぬ程ガックリ後悔した。ああ、サインがぁ……。
撮影帰りに、雪弥の所属事務所に寄るよう連絡があった。でも今は大奥様はいない。奥様や旦那様とは連絡が取れない。何か非常にヤバイ気がして、あたしは静弥にメールした。
“ナムです。雪弥の所属事務所に呼び出されて行って来ます。あたしだけじゃ心細いので、遅くなっても構いませんから、雪弥の事務所に来てくれませんか?”
“分かった。でも遅くなりそうだから、ナムちゃん先に行ってて。必ず行くから”
女の敵でも、こういう時は頼れる兄貴だった。
「困るんだよねー。雪弥みたいな駆け出し子役が、大女優待たせたりしちゃ。こっちは大目玉だったよ。散々嫌味言われてさ」
あたし達は、学校の職員室みたいな事務所で立たされ、カマっぽい、チビハゲの中年メタボオヤジに、タラタラと文句を言われた。
「申し訳ありません」
あたしと雪弥は、一緒に頭を下げた。
「雪弥にこの仕事、任せたの失敗だったよ。雪弥のこの役ってさ、やりたかった子腐る程いるんだよね。役のオーデションじゃ、僕、あんなに雪弥を押してやったのに」
「申し訳ありません」
又頭を下げた。
何なの? こいつ。子供相手に、えらそーに踏ん反り返って。背凭れ捥げそうじゃん。椅子が可哀そうだよ。
でも遅刻して悪いのはこっちだ。とりあえず、あたしの顔は神妙な反省モードにしておく。
「学校、とか言って、本当は遊んでたんじゃないのー?」
それは否定出来ない。
そいつは、態とタバコの煙を雪弥の顔に吹きかけた。雪弥は煙を避けずに、目を瞑った。
今時事務所で喫煙なんて、この人頭薄い、いや可笑しいんじゃないの? しかも子供に向けてって、どーよ。あたしの毛細血管が1本切れた。
「いいよ雪弥、代役立てるから。お前、首。もう来なくていいわ」
そいつは椅子を回して雪弥に背を向けた。
何々? 偉そーな。この中年メタボ、禿げ親父!
「申し訳ありません」
小5の雪弥が、何度も何度も頭を下げる。でもその男は、雪弥に振り返ろうともしない。
「ほ、本人、こんなに謝っていますから。反省してますから。今回だけは、許してやってください。見逃して下さい。大目に見てやって下さい。
だって今回始めてですよね? 雪弥が仕事に遅れたのって」
その男は雪弥に背を向けたまま、咥えタバコでパラパラと書類に目を通している。
「よろしくお願いします。これからも頑張りますから……」
あたしは、深々と頭を下げてちらっと男を見た。何分間もずっと頭を下げ続けても、男が雪弥の方へ振り向く気配はない。
事務所内は、ざわざわしていて電話も鳴っている。大声で叫んでいる人もいる。男はタバコを置いて、机の上の受話器に手を掛けた。その横で、何度も謝り頭を下げる子供の雪弥。
「申し訳ありません。済みません」
あたしも何度も頭を下げた。でも相変わらずその親父は、電話を終えても、あたし達二人に背を向けている。
こんだけ謝ってんのに、シカトかよ。何度もその場で頭を下げて、しっかりと覚えてしまった床の汚れ模様が、あたしには、段々真っ赤な炎に見えてきた。
プチッ。キレタ。あたしは頭を上げて、大声で怒鳴った。
「あのねぇ。あんた、人が大人しくしてりゃいい気になって。雪弥は未だ子供だよ? 小5だよ? そういう粗相もする子供らしい子供が、視聴者の心を掴むんじゃん? どこにでもいそうな元気のいい子供にこそ、親しみ湧くんじゃねーの?
あんたが欲しい子役ってのは、人形か? サイボーグか? 大人しくゆー事聞く綺麗なだけの奴か? 可愛けりゃ誰だっていいのか?
そんなの、ただの無いもの強請りじゃん。スタイルも美貌も髪の毛もっ!」
あたしは、その親父の薄い頭に向かって、強調して叫んだ。
「あたしはそう言う、ただ綺麗な物分りのいい子に感動なんかしないね。感情移入なんか出来ないし、そんな奴こそ、ミスキャストだし」
あたしは肩を怒らせて、一気に喋った。
「雪弥、帰ろ。雪弥がこんなとこにいて、真っ黒に染まらない内に。心が腐る」
し――ん。その事務所にいた人達は、あたしの上げた大声とズバズバ言う文句に、皆動きを止めてポカーンと口を開けていた。鳴っている電話も取らずに。
あたしは、言いたい放題言って雪弥の手を掴み、事務所を出ようとした。だが雪弥は、あたしが掴んだ手を振り解いた。
「本当に申し訳ありませんでした。だけど自分で引き受けたんだから、この仕事は最後までちゃんとやらせてください。やり掛けの仕事、途中で辞めたくないです。僕の首は、その後でお願いします。よろしくお願いします」
驚いた。あたしの知ってるいつもの雪弥じゃない。雪弥は、とても小学5年生とは思えない毅然とした態度で、はっきりした口調できっぱり言った。あたしより遥かに大人だ。
その時、静弥が事務所に入って来た。
雑然とした事務所には似つかわしくない、上品で優雅な静弥は、強烈に人目を奪っていく。タバコ煙のモヤが掛かるムサ苦しい事務所に、突然孔雀が舞い込んだみたいだった。
その場に居た人は皆、バッと静弥に振り返った。タバコを咥えていたその中年男も振り返り、静弥を見てポロリとタバコを落とした。
静弥はナム達を見付けて、傍に来た。静弥は雪弥の隣に立って、その男に品良く丁寧に頭を下げた。
「お話中失礼します。私は雪弥の兄で、藤代静弥と申します。今回、雪弥が大変なご迷惑をお掛けして、申し訳ありません。私からもお詫び致します。
ただ、何分子供の事ですので、今回は大目に見てやって下さい。今後は、突然の事情で已むを得ず遅れるような事がありましたら、分かった時点で早急に連絡させますし、そうならない様こちらでもスケジュールは確認致します。本人だけに任せず、きちんとフォローするように致します。
ですから、子供、と言ってもやり掛けた仕事は、最後までやらせて下さい。雪弥に任された仕事ですから……。
よろしくお願い致します」
静弥が、更に深く頭を下げた。雪弥もずっと頭を下げている。それを見て、横に立つあたしも慌てて頭を下げた。
「言い過ぎました。ごめんなさい」
さすが静弥さん。あたしと違って冷静だわ。頭を下げながら、あたしは自分のあまりの子供っぽさに、恥ずかしくて情けなくなった。
その中年男は慌てて、落としたタバコを灰皿に押し付け、静弥を見て目を輝かせた。
「解った。ところで君、静弥君、だっけ? ねぇタレントにならない? 君なら絶対売れるよ」
デタ――っ! 悔しいけど、静弥さんのこのルックス、この雰囲気で、スカウトしないワケがない。きっと、さっきの静弥さんのお詫びの言葉も、この男は聞いちゃいない。
「ありがとうございます。残念ですが、私には向いていませんし、興味もありません。では、今後とも雪弥を宜しくお願いします。ありがとうございました。
雪、帰るぞ。それでは失礼します」
静弥はその男に、にっこり笑って一礼し、優雅に背を向けた。
あたしは、藤代家ではそんなに思わなかったが、こんなごちゃごちゃざわざわした事務所では、静弥の品格と美貌が一際目立つように感じた。
イケメンなんかいくらでもいて、珍しくもない芸能プロダクションの事務所内。それでも、その場にいた者全員から、静弥に羨望の眼差しが向けられていた。
へへーんだ! 静弥さんも雪弥も、江戸時代からの由緒正しい藤代家のご子息様なんだから、あんたら一般庶民とは人種が違うっんだって。一般平民のあたしまで、知り合いってだけでなんだか得意になって来た。
部屋中の視線を集める静弥の横で、あたしはその中年メタボ親父に、もう一度ぺこっと頭を下げた。でも心ん中では、静弥の引き立て役にもならない親父に、ザマーミロ、だ。
その中年男は慌てて立ち上がって、静弥の腕を掴んだ。
「大丈夫! 君なら」
「申し訳ありませんが」
静弥は振り返って目を細め、刃の様な鋭い視線をその男に突き刺した。男は、思いもよらない静弥の険しい表情に、驚き息を呑んで、静弥から手を放した。ざわざわしていた事務所が、静弥の低く威嚇する様な声に、一瞬静かになった。
静弥は再び微笑んで、では、と男に軽く会釈をした。あたしは雪弥と手を繋いで、静弥と一緒に仲良く事務所を後にした。
その中年男の横に居た女が、何かに気が付いた様に言った。
「あの子、どっかで見たことあると思ったら、藤代静弥じゃない」
「さっきそう名乗ったろ? でも惜しいな。あれだけのルックスにあれだけの存在感。あれ程華がある奴は、探したってそうそう見つかるもんじゃない」
「当然よ。確か彼、ピアニストの藤代静弥よ。クラッシック界の貴公子、とか言われてる……」
「そうなの?」
「音楽雑誌の表紙にもなった事があるらしいの。巷じゃイケメンピアニストって、騒がれてるらしいんだけど。でも確か、未だ学生だった様なー。うーん……」
彼女は髪を掻き毟って、何かを思い出そうとしている。
「ふーん。じゃあ彼は音大生?」
「うううん、確か医大生。だから余計に珍しがられて、異色のピアニストって話題になってるみたい」
「詳しいね」
「当然です。あたし、スポーツ界でもクラッシック界でも、イケメン情報は必ずチェックしてますから。
ちょっと、彼の情報仕入れて来ようかな。あの女の子なら、口軽そうだし」
彼女は早速何かを調べ始めた。
あたしは、ティンカーベルの季節限定マロンパフェを、雪弥のアイドル事務所のお姉さんに、ご馳走になった。
「あたしここのパフェ、大好きなんです。チョコもイチゴもバナナも。どのパフェも美味しいですよね。もう食べました?」
「うううん。でも喜んでくれてよかった。なんなら、チョコレートパフェもどう?」
「ホントですかぁ? やったぁ!」
あたしは思わず万歳をした。
乳脂肪分の高いトロッとしたアイスクリームに、こってりした純度の高いフワフワ滑らか生クリーム、溢れんばかりの大粒マロンのトッピング。かなりボリュームのあるパフェなのだが、あたしはどのパフェでも普通に3、4個は平らげる。ランチバイキングの後でも関係ない。
あたしは、目の前のマロンパフェの他に、チョコパフェもご馳走してくれると聞いて、テンションは上がり捲くりだ。
「それでそれで? 雪弥君って、何人兄弟なの?」
あたしは、満面の笑みでクリームを掬って口に運び、滑らかな舌触りを堪能しながら答えた。
「雪弥の上にお兄さんが3人。男ばっかの4人兄弟です。姉妹はいないんです、隠し子とかいなければ」
旦那様って結婚するまで、きっと静弥状態だったんじゃないかと、あたしは踏んでいる。
「男4人? じゃぁ1番上が静弥、さん?」
「はい」
「彼、医大生でピアニストなんだってね?」
「そうです。よくご存知ですね。あ、この栗、あんま甘くなくて美味しい!」
あたしはお姉さんには見向きもせず、パフェをひたすら味わった。彼女の話は、殆ど上の空だ。
「彼、雑誌に載ってたよね。わたし、見た事ある」
「彼って静弥さん? へぇ、静弥さんって雑誌に載った事あるんだ」
そう言えば、静弥さんそんな事言ってた様な……。確か静弥さんの部屋に、そんな音楽雑誌が有った様な……。あたしはスプーンを咥え、目線を天井に上げて、静弥の部屋を思い起こした。
「でも静弥さんって、見た目以上の超プレイボーイだから。無理だと思います」
あたしは、お姉さんが静弥に気が有るんだと思っていた。それで、静弥を紹介して欲しくてあたしを呼び出したんだと。
「別にそれはいいんだけど。って言うより、女性の扱い方をある程度心得ている方が、都合がいいわ。
それで彼、芸能界とか興味ないかな。歌とかお芝居とかトークとか。あなたはどう思う?」
「芸能界? 静弥さんが? 無い! 有り得ん! ……多分。
だって静弥さん、今でも充分アイドルだもん。取り巻きだって大勢いるし、プレゼントや手紙は山の様だし、親衛隊とかもありそうだし、ファンクラブもあるって噂だし……。
静弥さん、今以上騒がれるのは、好きくないと思う」
普段でも、プレゼントやファンレターの嵐なのに、静弥のピアノのリサイタルのある日は、抱え切れない程の花束やプレゼントを貰う。それらはスタッフに配ったり、翌日会場から家に配送されたりしていた。
「そうよねぇ。あれだけ騒がれてるんじゃ……。じゃぁ、後の二人のお兄さんは? やっぱイケメン?」
あたしは、口に大粒マロンを放り込んで、モグモグさせながら考えた。
「うーん、普通にイケメン、かな? 近所では、藤代4兄弟って騒がれてるし。涼弥も錬弥も、静弥さんによく似てるよ」
でも、あたしの目にはイケメンに見えない。周りがそう言うから、なんとなくそんな気がするだけだ。あたしにとってのイケメンは、この世でたった一人だけだから。
「でも中2のお兄さんは、未だ子供だよ。声も可愛いし。身長は……165センチ位かなぁ。今はもっとかも。あっという間にあたしの身長、追い越しちゃったから。
高3の眼鏡兄貴は、180センチ位だったかな。無駄に背も手足も長い」
お姉さんの顔が、パッと輝いた。テーブルに乗り出して来て、あたしに迫った。
「彼等って、芸能界に興味とか?」
「無い、多分。涼弥はオタクだし、錬弥は格闘家目指してるから。二人とも無駄に女子のファンがいて、写メとか待ち伏せとか、結構面倒臭がってるし」
錬弥は道場では王子様だし、きっと学校でもモテる。涼弥は男子校だけど、同じ学校の男子から告られたり、登下校の時とか待ち伏せされるって言ってたし、予備校ではきっと隠れ涼弥ファンがワンサカいる。
「そうなんだー」
彼女は、落胆して溜め息を吐いた。
「お姉さん、それで雪弥って、アイドルとしては将来有望なんですか?」
「雪弥君? 今は未だなんとも言えないわね。素材としてはいい物持っていそうだけど、なにせこれからだから」
「そうなんだ。でもルックスだけで言えば、確実に格好よくなると思います。あの家族皆背が高いし、両親も美男美女だし。それに雪弥は運動神経もいいし」
悔しいけど性格は別にして、4兄弟はかなりモテると思う。
「あの―、あたし個人的に、有望お笑い芸人の卵、知ってるんですけどー。スカウトしませんか? 今、20歳の男子大学生です」
「その彼って、イケメン?」
「それは―」
あたしは眉を顰めた。あたしの兄貴がイケメンだと言われた事は、未だ嘗て、一度もない。
ありがとうございました。
お待たせしました! 明日は静弥編前編です。
え? 待ってない?
…… 又のお越しを、お待ち致しております。




