表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

たーみーねったのーりたーん!「鰯の頭も信心から」

作者: 石田 昌行

 いわし──小難しい学問じゃあ、「魚類ニシン目ニシン亜目に属する複数種類の小魚」を総称してそう呼ぶんだそうな。

 で、学者さんに言わせれば、この日本ではニシン科の「マイワシ」と「ウルメイワシ」、カタクチイワシ科の「カタクチイワシ」、計三種を指すことが多いんだと。

 まあ、あっしら魚屋にとっちゃあ、そんな図鑑に載っているようなことはどうでもよくって、それが新鮮で、脂がのっていて、何よりも食べたら美味しいのかがわかっていれば十分以上だ。

 いまじゃ家庭の食卓にもあがらなくなった鰯だけれど、俺らがガキの時分には、そりゃあもう嫌っていうほど食べてたもんさ。

 刺身、塩焼き、フライ、天ぷら、酢のもの、煮付け。

 大衆魚といやあ、この国で誰もがあげる一番の魚だもんな。

 ところが、最近の若い奴らは、この鰯って魚をとんと口にしやしない。

 値段が高いからって訳じゃあないらしい。

 ようするに、この国全体が見栄っ張りになっちまったのさ。

 そういった連中は、鰯みてえな大衆魚にゃ見向きもしなくても、まぐろたいみてえな高級魚は無理してでも食べる。

 「餅は餅屋。魚は寿司屋」なんて謳われた握りの見世ですら、客が望みやしないから、鰯なんてネタはたいして仕入れもしなくなっちまった。

 高級魚こそ王道で、しょせん大衆魚は貧乏人の食いもの。

 そんなイメージが日本人の中に根付いちまった。嘆かわしいことさ。

 だが、あっしに言わせりゃ、そいつは職人どもの目利きが悪い。

 魚を見る目がねぇから、客に向かって「魚の味」で勝負することができなくなっちまったんだ。

 本当にうまい鰯って奴は、わざわざ遠くのどこかから運び込んできたkgあたりウン万もするクロマグロにだって太刀打ち出来る逸品さ。

 あっしは自慢じゃないが、魚の目利きにはちっとばかし自信がある。

 伊達に半世紀ほども、客のためにうまい魚を選んできたわけじゃねえんだ。

 知ってるかい?

 鰯って魚は、取れた季節によってだけじゃなく、その日に揚がった時間帯によっても脂ののりが全然違うってことをさ。

 奴らは小せえ回遊魚だから、身体に栄養分を蓄えておける量が少ねえんだ。

 だから、餌を食った直後、まさに栄養がその身に回りきったあたりに取れた鰯こそ最高に美味いって寸法なんだ。

 うちの店先に並んでいる鰯は、その“最高の時間帯”に水揚げした“最高の”鰯よ。

 そいつをあっしが直接目利きして、腕のいい漁師からじかに仕入れている。

 そこいらのスーパーに並んだのと一緒にされちゃあ、こっちがたまらねえぜ。

 ところがよ、最近のお客と来たらまったく魚を見る目がねえってくらあ。

 いつだって見ていくのは値札ばかりで、うちの魚とスーパーの魚を食べ比べようともしないのさ。

 特に、若い奥さんたちは大抵がそうだ。

 安い魚にゃ安いだけのわけがあるってことに気付かないのかね、まったく。

 あっしは日本人として情けなくなっちまうよ。

 もっとも、そいつぁ全員が全員ってわけじゃあねえ。

 何日か前からうちの常連さんになってくれたお嬢さんってのがとにかく──おっと、噂をすれば影って奴だ。

「御主人。件のものは仕入れてあるか?」

 文字どおり疾風みてぇにあっしの前に現れたこのお嬢さんは、今時の若ぇ娘たちみてえな甘ったるい言葉遣いなんてしやしねえ。

 たとえるなら、そうだな、武家の奥方みてえな話し方だ。

 あっしは実際に“武家の奥方”とやらにお会いしたこたぁねえが、当たらずとも遠からずってことは間違いねえと思っている。

 たぶん、学校からの帰り道なんだろうな。

 色気のねぇ白と紺の制服を、これまたきっちりと隙なく着込んでいらっしゃる。

 そのせいで、なおさらお堅く見ててしかたのねぇこのお嬢さんだが、あっしは好きだね。こういった日本刀みてぇなお嬢さんは。

 なんつうか、一本筋が通っているようで、ぐにゃぐにゃしたのがもてはやされる昨今の世の中じゃ、妙に光って見えるのさ。

 月、みてえな感じってか。

 それも満月じゃねえ、三日月よ。

 制服の左胸に付いている名札を見ると「多峰田」と書いてあるのが読み取れた。

 珍しい名前だねぇ。少なくとも、ここいらじゃとんと耳にできねえ名前だ。

 ひょっとすりゃあ、本当にお武家さんだとかお公家さんだとかの家系に繋がるお姫さんなのかもしれねえな。

 あっしがあと四十は若かったら、よしいっちょ口説いてみるか、と思っていただろうにねぇ。

 しかしま、いまのあっしはしがない魚屋のジジイにすぎねえ。

 ここはひとつ、愛想を振りまくだけで満足するとするとしますか。

 あっしはそう決めると元気一発、このお嬢さんに件のぶつって奴を差し出した。

 そいつは、笹を敷いた竹のざるに乗せられた三尾の鰯だ。

 そのどれもが、新鮮さを示す青い背中をお日さまの光に輝かせていらあ。

 まさしく、最高の鰯って奴よ。

 あっしは自信満々、こう言い放った。

「もちろんよ。この鰯は、お嬢さんのためにあっしが特別に選んで仕入れた取れたての逸品でさぁ」

「うむ。拝見させてもらおう」

 お嬢さんは、まるで親の敵でも見るみてぇな真剣な目で、あっしの差し出した三尾の鰯をまじまじと見詰めている。

 ちっ、悔しいが、この道ウン十年のあっしと比べても遜色のねえ眼力めぢからだ。このお嬢さん、ただ者じゃねえな。

 少しつり上がり気味で切れ長な目が、鰯を離れてあっしのほうへと向けられた。

「さすがだ」

 お嬢さんは、あっしに告げた。

「一目しただけで、近くのスーパーに並んだ同種のものより一割以上も多くのドコサヘキサエン酸(DHA)エイコサペンタエン酸(EPA)、そして各種ミネラルが含まれているのが見て取れる。もちろんカルシウムの量も豊富だ。これならば、あの男の身体管理に、必ずや役立つことだろう」

「はぁ、そんなもんですかい」

 あっしは、このお嬢さんが言っていることの半分も理解できていないおつむでそう応じた。

 まあ、誉められているこたぁ間違いないわけだから、悪い気がしねぇのは事実だが。

 気分がよくなると、あたりめぇだが世間話のひとつも言いたくなるのが、この商売しょーべぇの必然ってやつだ。

「お嬢さん、ひょっとして、こいつで彼氏に手料理でも作ってやるんですかい?」

「違う!」

 強い口調で、お嬢さんがあっしの言葉を否定する。

 やや、こいつはしまった。調子に乗りすぎたか、と咄嗟にあっしは口をつぐんだ。

 だが、お嬢さんはそんなあっしの態度なんかまったく無視して、臆面もなくこう言い切ったんだ。

「彼氏ではない。夫だ!」

 つり上がり気味の目尻をさらにつり上げ、このお嬢さんはあっしを睨んだ。

 なんだか殺意すら込められているような視線を突き付けられて、あっしは思わず小便をちびりそうになっちまったよ。

 そんなあっしの表情をちらりとうかがい、このお嬢さんは、さらに言葉を付け足した。

「もっとも、この国の法律上ではまだそうというわけでもないようだが、私はあの男の嫁以外の何者にもなる気はない。いや、すでに社会的には配偶者と断言してもなんら問題はないだろう。あやつの生活環境は、すべてこの私が整えてやっているのだからな」

 どうやら、この態度から察するに、お嬢さんの言っているこたぁ本当のことらしい。

 最低でも、嘘を言っているわけじゃあねえってことぐれぇは、あっしにもわかった。。

 だから、あっしはお嬢さんの言っていることを信じることにしたのさ。

 なんたって、お客を信じるのは商売人(しょーべえにん)の基本だからな。

 それにしても、夫とはねぇ。

てえこたぁ、このきれいなお嬢さんは人妻ってわけかい。

 最近の若い衆は進んでいるとは聞いていたが、まさか学生の身分で結婚とは。

 いやはや、こいつは驚いた。

「なるほどねぇ」

 ちょっと馴れ馴れしく、|あっしはこのお嬢さんに尋ねてみた。

「で、今晩は旦那に元気になってもらおうと、これから腕によりをかけて食事の準備をなさるわけだ」

「もちろんだ」

 そう断言し、お嬢さんは胸を張った。

「我が夫、昭彦の適正な栄養管理に努めるのは嫁である私の責務だからな。特に私たちふたりは同じ漁師町出身の幼なじみだ。食卓に魚の類は欠かせない」

「漁師町の出ですかい。それなら、お嬢さんが魚に目が利くのも納得だ」

「目が利くのは魚だけではないぞ」

 お嬢さんは、あっしの世辞を聞いてもにこりともせず、鋭い眼差しを崩そうとしない。

 「私が夫と出会ったのは、あやつがまだ幼少時の頃だった」と話しを切り出したお嬢さんがむかしを懐かしむように語り出したのは、その直後のことだ。お嬢さんは語った。

 出会っていきなり、私の口に飴玉をねじ込む空気の読めない子供であったが、思えばその瞬間に、私があやつを求めることは決定づけられたのやもしれん。

 それ以降、私はあやつを鍛えに鍛えた。

 全裸にむいて海に沈めたこともある。

 漁協の冷凍庫に監禁し、一晩放置したこともある。

 協力者とともに身柄を拘束し、干潮の波打ち際にその身を埋めたこともある。

 だが、あやつはそのことごとくに耐え、ついにはこの私をも打ち破るほどの男になりおおせたのだ。

 その時、あやつが私に告げた言葉を、いまでも鮮明に思い出す。

 男は、女に手をあげちゃならねえ。

「もう、これは嫁になるしかないな、と私は確信した。正直、これほどの男に育つとは、当初の私も思っていなかったほどだ。改めて自分自身の先見の明に恐ろしさをすら感じる」

 それはそれは、その旦那さんとやらも災難なことで、とあっしは心の中で涙した。

 並の男じゃ、このお嬢さんに対して尻に敷かれるという表現ですまされるとは思えなかったからだった。口説いてみてぇと言った前言は、きっぱりと撤回させてもらう。

「しかし」

 口元をひくつかせるあっしを一直線な眼差しで見据えながら、お嬢さんはなお発言を続けた。

「さすがの私も、この鰯という魚類がこれほど有用な食用生物たりえるとは思わなかった。私の記憶している“鰯”という名の生命体とは大違いだ」

「へ?」

「私の知っている“鰯”とは、普段は深海に潜み、産卵期が近付くと集団で空を飛びながら人間を襲う、恐るべき生き物だった」

 これ以上もない真顔を浮かべて、お嬢さんはあっしに告げた。

「かつて日本列島近海で“鰯”が大量発生した時、鎮圧にあたった機械化歩兵中隊が一時間と持たずに全滅したと聞いたこともある」

 それはいったいどこの世界のお話しですかい、とあっしは聞こうと思ったが、お嬢さんの真剣極まる口振りに、なんとかそいつを思い止まった。

 たぶん、冗談の類なんだろうな、と必死で自分自身を得心させる。

 お嬢さんは、その身形と同様の隙のなさで古臭い緑色のがま口財布を取り出すと、あっしにお代を支払われた。

 釣り銭無用。あたりまえのように、一円の桁まで小銭をきちんと用意してらっしゃるのが、あっしにとっちゃあびっくりだ。

「毎度っ!」

 代金を握り締めた右手に力を込め、|あっしはお嬢さんに元気よく告げた。半分以上は御世辞だが、残りのすべては本心だ。

「お客さん、きっといいお嫁さんになられますぜ。旦那さんがうらやましいや」

「夫に恥をかかせるわけにはいかぬからな。私があやつの妻として、自分自身に完璧たるを求めるのは当然だ。だが──」

「だが?」

「願わくば、あやつがもう少し男として積極的であって欲しいと思わないでもない。ときに御主人。何かこう人体の維持に優良なだけでなく、男性の持つ種族保存本能をも促進させる食用魚類などに心当たりはないものだろうか?」

 固い言葉でぼかしちゃあるが、早い話そいつは“夜”のネタだった。

 あっしの言葉で翻訳すりゃあ「淡泊なウチの旦那をその気にさせる食いもんはないか」って、このお嬢さんはおっしゃったわけさ。

 こんな真面目そうな娘さんからそんな相談をふっかけられて、|あっしは思わず息を飲んだ。

 極めてデリケートなはずの話題をこうも淡々とお話しになる若いお客さんとは、あっしも初めて遭遇するからだ。|

 あっしは、率直な答えをお嬢さんに返した。

「時季外れではありゃあすが、うなぎの生き血なんかはえらく精が付くって聞きますがねえ」

「鰻、か」

 深く考え込むように腕を組んで、お嬢さんは唸った。

「確か、サルガッソー海に棲息する体長三〇〇mにおよぶ大魚だったな。あれの生き血を入手するとなると、なかなかに手間がかかりそうだ」

 三〇〇mの鰻ですかい。そうですかい。

 それ一匹で、いったい何人分の蒲焼きが用意できるんでしょうかね。あっしには想像もできませんや、ははは。

 だんだんこのお嬢さんが冗談を言っているように思えなくなったあっしは、とりあえずその発言を徹底的に聞き流すことにした。

 このままではあっしの中にある常識が欠損しちまいそうなので、一気に話の筋を切り替える。

「しかしまあ、なんですな」

 動揺する|内心をあらわにしないよう気を付けて、あっしは言った。

「お嬢さんみてぇにおきれいなかたにそこまで迫られて、それでも据え膳めしあがらねえとは、その“旦那さん”、いまはやりの草食系って奴ですな」

 完璧な失言かとも思わないでもなかったが、あっしは不思議とこのお嬢さんなら受け止めてくれそうな気がしたんだ。

 案の定、お嬢さんは怒りもせず、このジジイの台詞に応えてくれた。

「昭彦は、いわゆる照れ屋なのだ」

 お嬢さんは、槍みてえな真剣な眼差しであっしを刺した。

「だから、お互いにこれ以上もない両想いであるにもかかわらず、自分の気持ちに正直になれないでいるのだ。この私が、あやつのすべて、そうその若さゆえに決して抑えることの叶わぬ野獣のような情欲でさえも、この全身で受け止めて男としての喜びに昇華させることをいとわないと告げているのに、あやつはついぞその気にならないとくる」

 どうすればその気にさせることができるものかと、私はほとほと困り果てておるのだ。

真面目な顔でそう言って、このお嬢さんは力強い弁舌を締め括った。

「好いた相方から求められねえってのも、なかなかにつらいものですなあ」

 意図的にしんみりした雰囲気を形作って、|あっしはお嬢さんに言ってやった。

「特に、お互いの気持ちが被っている場合にゃ、なおさらだ」

「被っているだと!」

 その言葉を耳にしたお嬢さんが、はっと顔を上げてあっしのことを睨み付けた。

 なんだなんだ、何かまずいことを口走ったか?、と慌てるあっしをないがしろにしてお嬢さんが言い放つ。

「そんなはずはない! 昭彦が“被っている”はずなどない!」

 このとんちんかんな回答に、|あっしはもう目を白黒させる他はねえ。

 お嬢さん、いったい何をおっしゃっておられるんで?

 端から見りゃあ、危ない人と紙一重だ。

 しかし、このお嬢さんは、なおも興奮気味に独り言を続ける。

「あやつの“アレ”は、この私が直接この手で切断・除去に成功したのだ。分離完了した部位はあやつの飼っていたプロカンバルス(アメリカザリガニ)に餌として与えたから、私に隠れて昭彦が回収・再接続できたとも思えぬ!」

「はぁ……」

「いや、待て。しかし、もしそうなのであれば、昭彦が私を求めてこないことに厳然たる説明が付く。あるいは、あの年齢層の男子であれば、人体末端部分にかんして強力な再生能力が働くのかもしれぬ。これは、私自身がこの目で確かめる必要がありそうだな」

 お嬢さん……あなたって人は、そのむかし旦那になる男に対して、そんな残虐非道を働いていたのですかい。

 あっしは、自分がそういった目にあうことを想像しただけで、身体の一部が震えあがってしまうですよ。

 でも、端から見るととんでもないと思える行為も、あなたにとっちゃ本当に“好意”の裏返しなんでしょうな。

 来た時と同様、疾風のようにあっしの前から去っていったお嬢さんの背を眺めながら、あっしは本気でそう思った。

 人間若いうちは、なにやったっていい。

 こんなジジイが言うのもなんだが、失敗することだって、立派にひとつの経験でさあ。

 大事なのは、その行動が自分の決意によって行われたこと。それだけだと思いやすよ。

 お嬢さん。

 あんたは少々変わり者だが、周りに流されることなく、自分の信念で生きていかれるのが似合っていやす。

 自分自身を信じること。

 それが傍目に莫迦げていると見られても、その一心に準じることができるなら、あなたの人生はきっと満たされるものになるでしょうな。

 あっしは応援いたしますぜ。

 そう、「鰯の頭も信心から」って言うじゃないですか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 魚屋さんのこねくり回すような口調が独特で面白いですね。すごくいいアジ出しております>_<
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ