雨のおもいで
『風に吹かれて』
白いモコモコとした雲が空を覆ってる。
遠くの山で雷の音が聞こえ、暖かい風がボクの頬をふうっと撫でて、短い前髪を揺らして過ぎていく。
「雨降りそうやから帰ろー」ボクは少し大きな声で前を走るほんの小さな女の子に声をかけた。
まだ植えたばかりの苗が、風に揺れて、水田に緑色のさざなみがたつ、苗の葉が擦れるサラサラという音で、ボクの声は霞んで消える。
少女の真っ白なブラウスは振り返らない、まるでスキップでもしているみたいに雷が鳴り響く真っ黒な森の方へ駆けてゆく。
水田は鏡のように灰色の空を映し、空と水田の灰色の世界は、少女の真っ白なブラウスを聡明に浮かび上がらせる。
ボクは仕方なく走りだす、ボクの足が地面を蹴る音に合わせて、空からはビー玉くらいの雨粒が、水田に映る空にトポンと波紋を作った。
トポン… トポン…ポトポトポト、波紋がモザイクをかけたみたいに鏡の空をぼかす、雨脚はどんどん強まってあたりは白く霞みはじめた。
少女の真っ白なブラウスは、そんなコトとは関係なく、相変わらずスキップをしているみたいにボクの前を駆けてゆく。
「そんな感じでいつも終わるねん」
ボクはベッドの上で柔らかな枕を背中に当てて、白い壁にもたれて窓に光る雨粒を眺めている。
「えっとカルタ。(ボクのあだ名)君そういう落ちのない夢の話って、トモダチにするもんなん?」
ボクの胸に、さらにもたれる少女は眠そうにそうつぶやいた。
少女の明るい水色の乾いたシャツが、除湿の効いたボクの部屋ではひんやりとしていてそれだけで気持ちがいい。
外は今日も梅雨の雨、ボクは水滴が窓ガラスに光の筋を描くのを心なしか待っている。
「なんか心地良くない? この夢の話。それに切ない感じが今のこの感じに似てたりして」
「…切ない?」少女はムッしたような哀しいようなそんな視線をボクに刺して遣す『アタシと一緒に居て切ないってどういうことなん?』という事なのか。ボクは少女に向かって「ここちいい」と繰り返した、そしてコーヒーの湯気を鼻から吸い、瞼を閉じてコーヒーを啜った。
ベッドの上で飲み物を飲むなって、このトモダチはいつもボクを叱るのに、今日は何も言わずにボクに抱きついた。
虚を突かれたボクはコーヒーを零してしまう。少女の背中の辺りに零れたコーヒーは、水色と混ざりあってエメラルドグリーンみたいな変な色の点々となった。少女は気付いた素振りも見せずに安心しきった猫のようにボクの中で丸くなる。そんな少女をボクはいつもとどこか違うように思ったけど、また窓の水滴を眺めてしまう。
その時ちょうど風に吹かれたたくさんの水滴が、線香花火の最後みたいにヒラヒラと弧を描いて散った。
『傘』
あれはボクが高校2年の時だった、バス停のベンチに座っていると、バスはいちいち停まってくれて、おまけに「○○行きです」とかってスピーカーで声まで掛ける。ボクは『ごめんなさい、違うんです』って謝ればよかったのかな? でもボクは、学校帰りの雨宿りをしていただけだったから、謝るなんて卑屈過ぎやしないかと思ったんだ。謝られた方だって実際に謝られたら『いやいいんですよ別に』なんて言って困ったような素振りを見せたはず。ボクはそんなうそ臭いやりとりが好きじゃなかったし、そんな面倒な過程を全て端折る事にした。バス停の軒先から零れ落ちる雨の雫を凝視し続ける事によって。そうすればそのうち『変な子』みたいにバスは離れていくだろ?
何台目かのバスが去って行ったあと、ボクが凝視している雫の落ちる先を、水色の傘が遮った。
『ボトボトボト』小太鼓みたいにいい音を立てて雫が跳ねる。
軒先から零れ落ちる水を真っ芯に受けるその立ち姿はまるで、滝に打たれる修行僧かなんかのようだった、だけど修行僧は傘の下から白いブラウスとチェック柄のスカート、そして綺麗な脚を覗かせていた。
「入るか?」ぶっきらぼうだけど懐かしい声がした。
「入らん」ボクは少し間をおいてきっぱりと返した。
傘がこちらに傾むいて、弾かれた雨水がボクの足元を濡らす。
「入りいや」少女は先ほどよりもさらにぶっきらぼうに言う。このニュアンスを標準語に直すとしたら?(直訳『入りなさい、腹が立つ』となりそうだ)でもこの場合は、たぶん優しさの裏返しなので『遠慮しないで入りなさいよ、どうぞ』となる、だからボクは。
「わかったわ、入ったるわ」と応えた。
「なんでやねん」傘が正常な傾きに戻され、少女が笑った。つまり正解だったのだ。
その日、ボクははじめて一つの傘に二人で並んで歩いた。ボクの右肩と少女の左肩が、その時の二人の距離の分だけ雨に濡れた。
『白雨』
ボクは結局、少女を追いかけて神社のある森まで駆けてきた。森の中は昼間とは思えない程うす暗く、雨の音も水田の小路とは異なり、さーっと静かで他の音を全部吸い取ってしまいそうな、どこか寂しいようなそんな風に聞こえた。
雨は森の木によって三つの形に分かれて地面に落ちた。一つは雨の姿のままで、もう一つは木の葉を滴る大粒の玉になって、そしてもう一つは葉の上で弾じけて霧となりそっと舞い降りた。
ボク達はそれを神社の建物の床下から覗いて見てた、床下といってもこの建物(夏祭りなんかの日に、大人たちがお酒を呑んで騒ぐための建物)の床と固い地面までは、ボク達がかがんで歩けるだけの高さがあった。それにこの建物には壁がなかったから床下の柱と柱を結ぶ梁に腰掛けられた、上の板間に腰掛けるより、ボク達の当時のサイズにはこっちの方が合っていた。
『バリバリバリドーン!』空気を裂いて地面に穴が空いたような、とても大きな音がした。少女は思わずボクに引っ付いた、ボクは雷の音にも少女がボクに引っ付いた事にも、少女の濡れたブラウスがとても冷たかった事にも驚いてほんの一瞬飛び上がった。
そんなボクの複雑な心境を知ってか知らずか、ボクの顔のほんのすぐ横で少女はこっちに振り向いて、引きつった頬を無理やりつり上げて微笑んだ。ボクは恥ずかしかったのと、少女のその笑顔がなんだか可笑しかったのとで、どういう訳だか吹き出した。少女もそれを見て緊張が解けたのか『ぷっ』っと吹き出した。その後クスクスと二人で笑っているうちに、笑い声は大きくなり少女の肩も小刻みに揺れた。
ボクは少女の体温を改めて感じてドキドキしはじめた、もう離れてもいいはずなのに少女は離れない。ボクも少女が離れてしまわないように、呼吸や唾を飲む音なんかに気をつけた、そしてボクらはなんだか引っ付いたまま雷が去るのを黙って待った。
冷たかった少女のブラウスがお湯をかけたみたいに温かくなってきた頃、雷の音は遠くで聞こえるようになっていた。雨音も木の葉から零れる玉の雫が地面に落ちる音と、霧が舞い降りる空気の流れみたいな優しい音だけになった。
夜みたいだった森に、木と木の間から白い太陽の光が差し込んで、その光に霧雨が煌いた。玉のような雫が光の線を引いて、軒先から零れる雫はキラキラと輝いたから、ボク達の視線の先はまるで天国みたいに煌いた。ボクはその光景に嬉しくなって思わず隣にいる少女に微笑んだ、そしたら少女も大きくうんうん『わかるわかる』と声も出さずに頷いてくれた。
数日後、少女はその時も何も言わないままトラックの助手席に乗り込むと、呆然と見送るボクに手を振って、笑顔を絶やさないままこの街を去って行った。
綺麗な情景や感情は儚くうつろうのに、記憶の中の切なさや悲しみは、思い出す度に紙の端で指を裂いた時みたいに心をスッと熱くする。ボクはボクの身体の一部となったその過去を明日に影響させながら毎日を過ごす事になった。
『ゆらめく月』
少女が引っ越したのは隣町だったらしい、だけど小学校低学年くらいだったボクにとって、そこは外国と同じくらい遠い世界で、自分のよく知った世界(巣)から飛び立つ鳥のように勇気を出すなんて事が、自分の頭で、足で、感情で出来るなんてことを、想像も出来ないほどまだ子供だった。だから少し大人になったらいつか会いに行けるはず、そんな風に現実の距離を希望や願望なんてもので混ぜこぜにして誤魔化すみたいに巣に留まった。
そのうち隣町が隣町くらいに感じられるくらいになった頃にはもう、会いに行く理由やタイミングなんかを完全に失ってしまい、結局その神社で会ったのを最後に、ボク達はもう会う事がなかった。
それがあの雨の日、あのバス停で、何の前触れもないのに少女と再会した。偶然というのは悪戯好きで、時に思慮深い。長い月日が経っていたせいか、いざ目の前に現れた少女にボクは、声を掛けるどころか、息をするのも忘れて雫を凝視し続けた、変な子ってバスは離れていくのにだ。
少女はそんなボクに『入るか?』と問い掛けた、それでもボクは『入らない』と応えてしまう。とても欲しかった物を前にしてボクは心の扉を閉ざしたのだ、きっとボクはそうやって傷付く事から自然と逃げてしまう子供になっていたんだ。
ちょうど十年ぶりだったのかな? 少女はさらに何年か後の偶然を待つなんて程、のんびりした性格ではなかったから、苛立ちと勇気を持って『入りいや』と繰り返したんだ。お陰でボクはほんの少しの勇気でそれに応えればよかったから、二人はまた、並んで歩き出すことが出来たんだ。
そして数年がたった今日の今も、ボク達二人は部屋でゴロゴロ抱き合ってレンタルビデオショップで借りた『トゥルーロマンス』なんて映画を見ている(題名みたいに甘いストーリーではなく、かなり血生臭いバイオレンスな映画だった、タランティーノの脚本が素晴らしい)在り来たりだけど幸せの時間を過ごしてた。
陽が傾きかけたので、大学生のボクと背中にエメラルドグリーンの模様を付けた少女は、通いなれた駅を目指して歩いてた、雨が降る公園を。
水たまりでは街灯とネオンの灯りが光の輪っかを作り出していた。(ポツン、ポツンと出来ては消えて)少女が雨降る夜空を指差して「月が出てる」と嬉しそうに言ったから、ボクも嬉しそうに何かを言ったんだ。だけど少女は聞こえなかったみたいにそれには応えず大事な事を口にした。
「アタシ来月からフランスに留学するから」完全に油断をしていた、幸せの時間に突如現れた腕の伸びたストレートパンチ。少女の顔が冗談では無い事を物語っていたから、ボクの頭はリングに崩れるボクサーみたいにぐるぐると回り始めた。ボクは冴えない一言「冗談やろ?」と返すので精一杯だった。
少女は月を見上げたまま、前から考えていた事だと言った。
「1年後、雨の日にあのバス停で待ってて、迎えにいくから」そんなまるでカッコいい台詞を吐くと、少女はボクの背中をポンと叩いて傘の中から飛び去った。ボクは水たまりに浮かぶ少女の駆けた跡と揺らめく三日月を見ながら「冗談やろ?」とまたつぶやいた。
4日後、少女はほんとに日本から消えていなくなった。
来月って言ったけど、あの時点で今月はあと3日しかなかったのだ。まるで詐欺にでもあったようなその来月の早さに絶望よりも怒り、怒りより失望に少女のその性格を呪った。
『ポスト』
少々大人になったボクにとっても、フランスは外国で、外国は依然としてまだまだ遠い世界だった。
携帯電話も解約して旅立った少女に、連絡の着けようもないまま、ただただ時間が束になったような毎日を(無味無臭な日々を)ボクは過ごしていた。そんなボクに、とても綺麗な絵葉書が届いたのは、それから一ヶ月も経ってからのことだった。
紫色の明仄の空を映す鏡のように滑らかな湖面に、先の尖った塔が幾本も空に向かってそそりたつ城の写真、その城はまるで天空に浮かぶ宝島のように嘘っぽいほど美しかった。
Mont Saint-Michel(モン・サン=ミシェル)と書かれたその悠然とした絵葉書の表(宛名側)には対照的なほど小さな文字で「そっちはどう? 元気?」とだけ書かれていた。(後にこれが修道院である事を知り、修道女にでもなって反省をしていますという彼女なりの冗談なのかとさえ考えた。しかし後のこないこの絵葉書に書かれた言葉だけが全てだとすると、どうやら冗談ではないという事はわかった)
一月も経ってたったこれだけなのか? たったこれだけのことを書くのに一月もかかったのか? ボクは完全に少女の心がわからないでいた。少女の心の中のボクのウェイトは、こんなにもスカスカだったのか。
それでもボクは確かめたくて少女に手紙を書いた『綺麗な城の写真より言葉をもっと書いて欲しい。例えばなぜ相談もなくフランスへ行ったのかとか、今何を考えて何を見てるのか』とかそんな風な事を。
だけど返事はこなかった。
郵便ポストを確認する夕方の日課も、少女に対する特別な感情も疎かになり始めていた秋の午後(少女が旅立って4ヶ月後)しとしとと降る雨の中、郵便ポストにまた綺麗な絵葉書が届いてた。
Cathédrale Notre-Dame(ノートルダム大聖堂)白い壁に重厚な彫刻が施された教会の空は青すぎるほど青く、お陰で空に浮かぶ雲や、教会の壁は純白のように真っ白に見えた。
だけどボクはそんな綺麗な写真よりも表に書かれた小さな文字を何度も何度も読み返していた。
もうしばらくこの街に留まることになりました。
帰りはいつになるのやら、
だから雨のバス停には行けそうもありません。
自分から言い出しといてごめんなさい。
いままでずっとありがとう。
留まることに・・・教会の絵葉書。いままでずっとありがとう。これはひょっとして結婚するからさようならなんて言ってるのか? ボクはおぼろになりかけていた少女への想いと突然自分の前から消えた少女への怒りと失望と、さようならと言われて気付く喪失感にベッドにヘナヘナと腰を下ろした。
外は相変わらずの雨。あの日、少女と会った最後の日と同じように窓に煌く雨粒を眺めてた、同じ時間を過ごしていると思っていたのはボクだけだったのだろうか。あの日、ボクの事をトモダチと言った少女、猫のように抱きついた少女、ボクの知らないところでボク達には見えない壁みたいなものが出来ていたのだろうか。窓に浮かぶ雨粒は時を告げるみたいに、するすると流れては消えた。
長い時間絵葉書を眺めていたら、小さく書かれた文字の所々が滲んでいる事に気が気付いた、最初は雨で滲んだものかと思っていたけれど、油性ペンで書かれた文字は乾けばなかなか滲まない。現にさっきまで濡れていたあたりは滲んでいない。だとしたら書いているそば、まだ乾かないうちから濡れて滲んだのではないだろうか。
この葉書を書きながら少女は泣いていたのだろうか、泣いていたのだとしたらどんな気持ちで泣いていたのだろうか。
ボクはその後も、白い壁にもたれながら穴が空くほど絵葉書を読み返した、だけど答えがあぶり出される訳もなく、相も変らない雨はしとしとと降り続いた。
次の日、前日に降り続いた雨はあがり、秋晴れの空は高く、澄んだ空気は幾分か気持ちを楽にした。
ボクは朝から借金の無心に駆け回り、翌々日に、フランスに向けて住み慣れた巣を飛び立った。
『さつき(前編)』
シャルル・ド・ゴール空港に着いたのは夜の9時過ぎだった、空気はひんやりと冷たく、寝不足のボクには返って気持ち良いくらいだった。空港での手続きを済ませたボクは早速タクシーに乗り込んだ。
旅先で使うフランス語手帳という本と少女の絵葉書の住所を見せて「Va ici(ここへ行ってください)」とだけ告げるとシートに深々と座り込んだ、運転手が『ウィ』と言ってタクシーを走らせてくれたから、ボクはほっとした気分で窓の外に広がるパリの街並みをぼんやりと眺めた。
頭の中では少女にかけるセリフをもう何十回と繰り返していたけれど、気が付けばまたボソボソと呟いている。そうこうしているうちにタクシーは、パリの郊外らしき人気の少ない一画でハザードランプを点滅させて停車した。
これと言うセリフは何も思い浮かばない、運転手はそんなボクに『ココがそうだ』とフランス語と身振りで告げていた『ココがそうか』ボクは運転手に深く頷く、ついに来たのだ。
オレンジ色の街灯の灯りに浮かぶ石畳の歩道、ボクは古いレンガ造りのアパルトマン(日本で言うアパートの事らしいのだけど、きっと建てられてからとても長い歳月が経っている)の入り口に掛けられた住所を見て歩く。
目的のアパルトマンは案外簡単に見つかった、だけどポストに書かれた名前が少女と違う、住所に間違いはない。それでもポストには日本人の名前が書かれていたから、少女と何らかの関係がある人であろう事はわかった、でもどういう関係なのかがとても重要な問題となってボクをやきもきさせた。
これはもう結婚してるとかそういうことなのか? その場合フランスくんだりまで借金をして飛んできたボクは、なんて言えばいいのか。呼び鈴を鳴らし、ドアの向こうから男が出てきたら、ボクはいきなり殴りかかってもいいのだろうか。
気が付けば、ボクは呼び鈴を鳴らしている。(拳に力を入れて)
木で出来た古いドアの真ん中の少し高い位置には、奇妙な鬼のような顔をしたドアノッカーがボクを見下し薄らと笑っている。ボクはそいつの口に咥えられた輪っかを引っ張ってその薄ら笑いをやめさせてやりたい衝動に駆られた。
しばらくしてインターホンから女性のフランス語が聞こえてきた。
ボクは予想外の出来事に、アワワアワワと少女の名前を口ずさむので精一杯だった。
「ちょっと待ってて」今度は日本語が返ってきて、慌てた様子の女性はインターホンをがちゃがちゃと乱暴に置いた。
その夜、少女の先輩であるという女性(大田さん)は、自分の部屋にボクを通して、ボクの知らない少女の話をしてくれた。話のあいだ中、大田さんはボクの事を『カルタ君とか雨の彼』と呼んだ。そしてあの絵葉書は自分が書いたという事やもっと重要な話を聞かせてくれた。
次の日の朝、ボクは大田さんに礼を言うと、大急ぎで飛行機に飛び乗って、日本に居るという少女に会いに向かった。
『さつき(後編)』
ボクは空路2万キロと近鉄電車の駅5つ分の距離を飛び越えて、隣町までやってきた。
その部屋はとても静かで窓のそばには椅子があって、その椅子の背もたれには水色のシャツがかけてある、背中にエメラルドグリーンの変な模様が付いているあのシャツだ。
ボクはシャツを手に取りゆっくりと椅子に腰を下ろした。あの日少女は気付いてたんだ、ボクが背中にコーヒーを零した事も、ボクの事がとても大切だって事も。ボク達はあの日、同じ時間の中にいたんだ。
少女はビニールで出来た天蓋の中、真っ白なベッドの中で鼻に管を通されて眠ってる。
部屋の外で、少女のお母さんと久しぶり会った。
お母さんはそれから病気の事を説明してくれたけど、ボクの耳にはほとんど入ってこなかった。
病室のドアノブを握る手に少しばかり力が入ってしまい、スライド式のドアは勢いよく開いてしまう。
ほのかに明るい病室の中は静寂が支配していて、ボクは少しの間その空気に心と身体が馴染むのを立ち尽くして待った。でもいくら待ってもボクとこの空間とは、大きな隔たりがあって、だからボクはそっと部屋の中央で眠る少女に近づいた。少女はとても痩せていて、眠っているのになんだかとても辛そうに見えた。
パリのアパルトマンの一室で、ワインを飲みながら大田さんは涙を拭きもせずに話してくれた。
「早く病気を治してカルタ君を迎えに行くって、だからそれまでは吐いても髪の毛が抜けても、頑張ろう。そして全部済ませて綺麗さっぱりケロッとした顔して迎えに行こうって。だけど思うようによくならなかったのね。先週くれた手紙に、カルタ君を迎えに行けそうにない。それにこんな姿見せられない、たぶん私は近いうちに死ぬ、だから会ったら死ぬのが嫌で堪らなくなる。そう言ってあの絵葉書の言葉をカルタ君にって……私はせめてあの教会の絵葉書を選んだの」大田さんはくしゃくしゃに涙を流してた。
ボクはシャツを握りしめたまま、ビニールのカーテン越しに少女の寝顔を見つめてた。頭にはテレビなんかで見たことのあるニットの帽子を被っていて、瞳は外国の人に見えるくらい窪んで痩せていた。少女の眉間がピクピクと動いた、どこか痛むのかそれとも何か夢でも見ているのか。
「さつき、聞こえる? 待たせてごめんな、迎えに来たで。さつき」
ボクは初めて少女を名前で呼んだ、ボク達は幼なじみだったからお互いをあだ名でしか呼んだ事がなかった、でもなんだか今日は少女を名前で呼んだ。
少女はゆっくり瞳を開けて、うつろにボクを見つめると、彼女らしくない小さな声でささやいた。
「おそいわ、なにしてたん?」瞳がふわふわと泳いでいて、まだ夢でも見ているようだ。
「ごめんな、飛行機と近鉄に乗ってたらこんなに時間がかかってん。遠かってん、近かったのに…」
「どっちやねん?」少女は薄っすらと微笑んだ。しばらく考え込んだあとまた小さな声でささやいた。
「カルタ? なんでここにおるん?」ボクも微笑んだ。
「泣き虫の大田さんに全部聞いたから」きょとんとボクを見つめるさつきは、小さな声で笑った。
ボクはそんなさつきの笑顔に息を詰まらせる。
美しいものは儚くうつろう、砂で出来たモン・サン=ミシェルの塔が黒く立込めた雲から吹く風にさらさらと崩れていく、ボク達の時間は戻る事のない砂のようにさらさらと消えていく。頭の中でフラッシュを焚いた様な雷鳴が鳴り響き、大粒の雨が砂の表面にボテボテと降り注ぐ、空に高くそびえた美しい塔はやがて、砂の山となり、雨に打たれ風に吹かれて現実的な形を失っていく。
ボクは大切なモノを知ることで失うモノの大切さを知るのだ、戻る事のない二人の今を、無に向かっているはずのこの時を、さつきは美しく微笑む、やがては荼毘に付され、煙になり灰になるのに。
それでもボクはその時とてもさつきに触りたいと思った。
ボクはさつきを一生忘れる事はないだろう、それが哀しみに満ちた記憶なのか、苦しくなるほど幸せの記憶なのか、そんな事はわからない。一秒が同じ速さで流れるものだとしても、今のこの一秒は明日からのボクの一生と共にある。同じ時の流れの中にある特別な今に、今だから。ボクはさつきに触りたい。
この衝動はどうする事も出来ない、ボクはさつきに手を伸ばす。
さつきも弱々しくベッドから手を伸ばす、ボクは花嫁のベールを持ち上げるみたいにビニールのカーテンを持ち上げて、さつきの手をとる。さらさらとしていて冬の枯れ枝のように細く白い手、ボクはそっとその冷たい手を握りしめると、さつきに微笑んだ。
さつきは微笑んだまま『うんうん』と大きく頷いて瞳を閉じた。