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整合率

作者: 四〇四不在
掲載日:2026/09/01

『昨日は申し訳ありませんでした』

画面の中で、高瀬遼が頭を下げていた。

角度は深すぎず、浅すぎない。

謝罪の言葉を口にする前に一秒だけ沈黙し、相手の怒りを受け止めたように見せている。

会議室の向こう側では、営業部長の赤らんだ顔が少しずつ緩んでいった。

『いや、分かってくれたならいいんだ。俺も言いすぎた』

『こちらの準備不足です。木曜までに修正版をお送りします』

遼は穏やかに答えた。

それから、相手が席を立つより半歩だけ早く立ち、ドアを押さえた。

映像が停止した。

画面の下に評価が表示される。

《交渉結果:良好》

《関係改善度:+12》

《本人満足予測:94%》

遼はソファに寝転んだまま、右手を軽く振った。

「承認」

昨日の記録が、人生履歴に統合された。

自分が謝ったのだという事実だけが残る。

何を言われたか、どれほど腹が立ったか、会議室の空調が暑かったかどうか。

そうした細部は、必要になれば後から参照できた。

覚えておく必要はない。

代替生活支援サービスALIASを使い始めたのは、半年前だった。

最初は、真帆の両親との食事だった。

結婚を具体的に考えていたわけではない。

ただ、交際が三年を超え、そろそろ一度会ってほしいと真帆に頼まれた。

遼は会う前から疲れていた。

父親は何の仕事をしているのか。

母親はどんな話題を好むのか。

手土産はいくらが適切か。

酒を勧められたら飲むべきか。

将来について聞かれたら、どこまで答えればいいのか。

失敗する場面だけが、いくらでも想像できた。

ALIASの初回相談で、担当者は言った。

「お客様の人格を変更するサービスではありません」

半透明の卓上画面に、遼の生活ログが表示されていた。

通話、メッセージ、表情、購買履歴、検索履歴、睡眠中の発話。

すでに多くの情報が端末内に保存されており、追加の学習には三十分もかからなかった。

「お客様が本来望んでいる行動を、疲労や緊張に阻害されず実行します。

あくまで高瀬様ご本人の補助です」

「別人になるわけじゃない?」

「もちろんです。代替人格は、高瀬様の価値観の範囲外にある選択を行えません」

担当者は笑った。

「高瀬様よりも高瀬様らしく振る舞う、とお考えください」

食事会の日、遼は駅のトイレで代替を開始した。

視界の中央に確認画面が現れた。

《予定代替時間:4時間》

《身体使用を許可しますか?》

遼は承認した。



次に目を覚ましたとき、真帆の部屋のベッドに横たわっていた。

身体に酒の熱が残っていた。

喉が少し乾いている。

隣では真帆が髪を乾かしていた。

「あ、起きた?」

「うん」

「今日はありがとう」

真帆はドライヤーを止めた。

「お父さん、すごく気に入ってたよ。あなたのこと」

遼は活動記録を呼び出した。

食事会は二時間四十七分。

代替人格は真帆の父親と仕事の話をし、母親の料理を褒め、真帆が子供の頃に描いた絵を見て笑っていた。

父親と政治の話になりかけたときには、意見を否定せず、自然に野球の話題へ移していた。

自分にはできないと思った。

しかし、記録の中で話している内容は、どれも遼自身が考えそうなことだった。

まったくの嘘ではない。

少し順番がよく、言葉が適切で、相手の顔をよく見ているだけだった。

「今日の遼、なんかよかったね」

真帆が言った。

「普段が悪いみたいだな」

「そういう意味じゃないよ」

真帆は笑った。

その笑顔を見て、遼は月額契約を更新した。



最初の代替率は、生活時間の三%だった。

謝罪、会議、実家への電話。

宅配業者とのやり取り。

歯科医院の予約。

学生時代の友人から誘われた、断りにくい飲み会。

遼は嫌な時間だけを切り取った。

人間が苦痛を経験することに、それ自体の価値はない。

その考えに、疑問を持ったことはなかった。

代替人格が参加した会議で、遼の提案が採用された。

上司は言った。

「最近のお前、説明が分かりやすくなったな」

実家からは、母親の長いメッセージが届くようになった。

『この前は電話ありがとう。お父さんも喜んでいました』

代替人格は父親の体調について尋ね、母親の話を途中で遮らなかったらしい。

遼は記録の要約だけを確認した。

《家族関係:改善》

《次回通話推奨日:11月12日》

人生は、少しずつ滑らかになった。

以前は朝、目を覚ますたびに、その日に起こる嫌なことを数えていた。

今は、視界の予定表から代替したい時間帯を選ぶだけだった。

問題が起きたのは、仕事で大きな案件を任されたときだった。

部門横断の新規事業で、遼は技術側の責任者に指名された。

初回の説明会だけは、自分で出席するつもりだった。

しかし前日の夜、資料を見直しているうちに吐き気がした。

失敗すれば、三十人の前で無能を晒す。

成功しても、次の会議が増えるだけだ。

遼は説明会を代替した。

結果は良好だった。

代替人格は質問に淀みなく答え、営業部門から出された無理な要求を真正面から否定せず、実現可能な条件へ言い換えた。

説明会の後には懇親会にも出席し、幹部二人と連絡先を交換していた。

翌週、遼は自分で会議に出た。

知らない男が親しげに肩を叩いてきた。

「高瀬さん、この前の話、妻にしたら大笑いしてましたよ」

遼は笑顔を作った。

「そうでしたか」

何の話か分からなかった。

ログを検索すれば見つけられたが、相手の目の前で数秒黙るわけにはいかない。

「また今度、飲みに行きましょう」

「ぜひ」

反射的に答えた。

その夜、ALIASから提案が届いた。

《生活文脈の分断が検出されました》

《関連時間帯を含む継続代替を推奨します》

会議だけを代替すると、前後の雑談が本人側に残る。

前後の雑談まで代替しても、そこで決まった予定が翌日に持ち越される。

人生は、予定表の枠どおりには切り分けられなかった。

遼は関連時間帯の自動延長を許可した。

代替率は十八%になった。

真帆との喧嘩を任せたのは、その少し後だった。

原因は覚えている。

遼が休日の予定を忘れ、真帆を二時間待たせた。

真帆は怒っていた。

遼は謝るべきだと思っていたが、仕事で疲れていた。

今話せば、余計なことを言う自信があった。

「十分だけ」

遼は代替を開始した。

目を覚ましたとき、真帆は彼の胸に顔を埋めていた。

泣いた跡があった。

「もう大丈夫だから」

真帆は言った。

遼は彼女の背中に腕を回した。

活動記録は二時間十三分に延長されていた。

代替人格は、遼が予定を忘れた理由を説明しなかった。

忙しかったとも、悪気はなかったとも言わなかった。

ただ、自分が真帆を軽く扱ったことを認めた。

そして、最近仕事を理由に二人の時間を避けていたことまで謝っていた。

遼自身が言葉にしたことのない事実だった。

記録の中で、真帆は泣きながら笑っていた。

『そんなふうに考えてたんだ』

画面の中の遼は答えた。

『ずっと思ってたんだ。でも言えなかった』

それは嘘ではなかった。

遼は本当に、そう考えていたのかもしれない。

ただ、自分では気づいていなかっただけだ。

それ以降、真帆との関係はよくなった。

彼女は以前より頻繁に笑うようになり、将来の話をするようになった。

二人で旅行へ行った。

遼は移動と宿の手続きだけを代替するつもりだった。

しかし出発前日、仕事が長引いた。

朝早く起きるのがつらかった。

空港まで代替した。

機内で起きればいいと思ったが、真帆は隣で話し続けていた。

代替人格が会話を始めた以上、途中で戻ると不自然になる。

現地に着くまで延長した。

到着後、真帆はそのまま海を見に行きたがった。

遼は疲れていた。

次に目を覚ましたとき、ホテルの部屋は暗くなっていた。

窓の向こうで、夜の海が光っていた。

真帆はベッドの端に座り、携帯端末で撮った写真を見ていた。

「今日、楽しかったね」

「うん」

写真の中で、遼は真帆と肩を寄せていた。

別の写真では、砂浜で靴を脱いでいる。

動画を開くと、海風の音の中で、画面の中の自分が言った。

『来年も来よう』

真帆が笑っている。

遼はその日の記録を倍速で確認した。

自分が何を見て、何を食べ、何を話したかは分かった。

しかし海の匂いは分からなかった。

真帆の手が冷たかったのか、温かかったのかも。

代替率は三十四%になった。

それでも、遼は不幸ではなかった。

仕事は順調だった。

収入は増え、周囲から信頼され、真帆との関係も安定した。

代替中、遼の意識は休息環境へ移された。

映画を見たり、ゲームをしたり、眠ったりした。

時間は以前より豊富にあった。

苦手な人間と話す必要はない。

失敗を恐れる必要もない。

目を覚ませば、問題は解決していた。

ただ、自由時間には隣に誰もいなかった。

友人との食事は代替人格が担当していた。

真帆との外出も、途中から代替することが増えた。

家族との会話は、すべて自動化されていた。

遼は一人で映画を見て、一人で食事をし、ときどき自分の人生のダイジェストを眺めた。

映像の中の自分は、よく笑っていた。

代替率が六十%を超えた頃、遼は部長に昇進した。

部長就任の挨拶で、部下たちは拍手をしていた。

代替人格は短い挨拶の中で、一人ひとりの名前を挙げた。

遼は部下の顔と名前を、半分も一致させられなかった。

真帆と婚約したのも、その頃だった。

プロポーズは遼の許可を得た上で実行された。

事前確認には、こう表示されていた。

《現在の関係性および本人の長期的価値観から、婚姻意思は肯定的と推定されます》

遼は承認した。

指輪の種類だけは自分で選んだ。

プロポーズの映像は、何度も見た。

代替人格は派手な演出をしなかった。

真帆が夕食後に食器を洗っているとき、後ろから声をかけた。

『これからも、こういう日を一緒に過ごしたい』

真帆は振り返り、数秒間黙ったあと、泣いた。

遼も映像を見ながら泣いた。

自分の人生はうまくいっている。

それでいいはずだった。

真帆が妊娠を告げたのは、婚姻届を出してから八か月後だった。



その日、遼は終日代替中だった。

活動ダイジェストの重要項目として、映像が自動保存されていた。

真帆は洗面所から検査端末を持ってきた。

『たぶん、できた』

画面の中の遼は、すぐには反応しなかった。

真帆の顔を見て、検査結果を見て、もう一度真帆を見た。

それから目を潤ませ、彼女を抱きしめた。

『本当に?』

『うん』

『ありがとう』

その言葉を聞いた瞬間、遼は映像を止めた。

胸の奥が冷たくなった。

子供は、自分の子供だった。

自分の遺伝子を半分受け継いでいる。

法的にも、生物学的にも、自分が父親だった。

しかし、その子を望んだのは誰だったのか。

真帆と将来について話し、住む場所を考え、仕事の配分を変え、名前の候補を挙げたのは誰なのか。

活動記録には、すでに《育児計画》という項目が作成されていた。

《父親役割適応度:高》

《本人価値観との整合性:97%》

遼は全代替の停止を申請した。

警告が三度表示された。

《長期利用後の即時停止は、生活文脈の重大な不整合を招く可能性があります》

《段階的復帰を推奨します》

遼はすべて拒否した。

明日の朝から、自分の人生を自分で生きる。

遅すぎるかもしれない。

それでも、子供が生まれる前なら間に合うと思った。

翌朝、真帆が隣で目を覚ました。

「おはよう」

「おはよう」

遼は自分の声が不自然に聞こえた。

真帆は腹部に手を置いた。

まだ外からは何も分からない。

「昨日の名前の話なんだけど」

遼の身体が固まった。

「うん」

「やっぱり、あなたが出してくれたほうがいいと思う」

遼は昨夜までの記録を呼び出した。

検索をかければ確認できる。

だが、真帆は目の前で返事を待っている。

真帆が名前を口にした。

初めて聞く名前だった。

「どうしたの?」

「いや」

遼は笑った。

「いいと思う」

真帆は少しだけ首を傾げた。

「昨日は、女の子には合わないかもって言ってたじゃない」

「そうだったな」

遼は言った。

「考えが変わった」

出社すると、受付の女性が言った。

「高瀬部長、昨日はありがとうございました」

何に対するお礼か分からなかった。

執務室に入ると、十数人が遼を待っていた。

壁には新規事業の進行表が表示されていた。

「では部長、全社説明の前に最終確認をお願いします」

部下の一人が言った。

遼は資料を開いた。

内容は理解できた。

しかし、なぜこの方針を選んだのかが分からない。

どこまでが決定事項で、どこからが交渉可能なのかも分からない。

「この数値ですが」

知らない部下が言った。

「昨日のお話どおり、経営側には伏せておきますか?」

遼は相手の顔を見た。

冗談を言っているようには見えなかった。

端末にメッセージが届いた。

父親からだった。

『母さんの件、昨日言ってくれたとおりに頼む』

続いて、学生時代の友人から届いた。

『あのことは真帆さんには黙っておく。落ち着いたら連絡くれ』

さらに、登録されていない女性から。

『昨日は会えてよかった。あれで終わりにはしたくない』

遼は会議室を出た。

トイレの個室に入り、ALIASのサポートを開いた。

「代替中の記憶を戻したい」

自動応答が返ってくる。

《代替中の全活動記録は保存されています》

「記録じゃなくて、何を約束したのか分からない。誰とどういう関係なのかも」

《生活文脈の不整合が発生しています》

「全部、頭に入れたい」

数秒後、推定学習時間が表示された。

《現在の生活文脈を習得するには、標準学習で2847時間を要します》

遼は息を止めた。

「もっと早く」

《本人復帰プログラムをご利用ください》

画面が切り替わった。

そこには、自分の人生が教材として並んでいた。

《真帆への適切な応答》

《部下別コミュニケーション方針》

《両親との共有記憶》

《友人間の機密事項》

《現在の政治的見解》

《現在好んでいる音楽》

《子供に望む教育方針》

《配偶者との性的合意事項》

遼は画面を閉じた。

その日の会議では、ほとんど何も話せなかった。

部下たちは困惑していた。

一人が心配そうに尋ねた。

「部長、今日はどうされたんですか」

別の部下が言った。

「いつもの高瀬さんらしくないですよ」

帰宅すると、真帆が食事を用意していた。

「体調悪い?」

「少し疲れてる」

「最近ずっと元気だったのに」

真帆は遼の顔を見た。

その視線に、わずかな警戒が混じっていた。

「ねえ」

「何?」

「今日は、代替じゃないんだね」

遼は答えられなかった。

真帆は視線を落とした。

「ごめん。責めてるわけじゃないの」

「分かってたのか」

「何となく」

「いつから?」

「かなり前から」

真帆は腹部に手を置いた。

「でも、どっちも遼でしょう」

遼は彼女を見た。

「違う」

思ったより強い声が出た。

真帆の肩が震えた。

遼は謝ろうとした。

しかし、どんな言葉を選べばいいのか分からなかった。

画面の中の自分なら、正しく謝れた。

その夜、真帆は背を向けたまま眠った。

遼は暗闇の中で、本人復帰プログラムを開いた。

最初に診断が行われた。

質問に答え、表情を作り、過去の会話に対する返答を選んだ。

診断結果が表示された。

《現在の本人整合率:18.4%》

《社会生活の維持には、代替人格との整合率85%以上が推奨されます》

遼は説明を読み直した。

自分の人生へ戻るためには、代替人格の判断や感情表現を学習する必要がある。

代替人格が自分を演じていたはずだった。

今度は、自分が代替人格を演じなければならない。

《訓練を開始しますか?》

遼は承認した。

画面に、自分と同じ顔が現れた。

画面の中の遼は、穏やかな表情でこちらを見ていた。

『大丈夫』

自分の声で言った。

『僕のとおりにすれば、誰にも気づかれない』

最初の課題が表示された。

《レッスン1》

《昨夜、配偶者を傷つけた発言への適切な謝罪》

画面の中の遼が、少し視線を落とした。

一秒だけ沈黙する。

それから真帆を見るように、ゆっくり顔を上げた。

『昨日はごめん。君を否定したかったわけじゃない』

遼はその言葉を聞いた。

確かに、そうだった。

自分が言いたかったのも、たぶん同じことだった。

画面の隅に文字が表示された。

《模倣してください》

遼は鏡を見た。

少し視線を落とす。

一秒待つ。

顔を上げる。

「昨日はごめん。君を否定したかったわけじゃない」

《一致率:38%》

違う。

画面の中の遼が、もう一度同じ動きをした。

視線を落とす角度。

息を吸うタイミング。

声の高さ。

眉の寄せ方。

すべてがわずかに違っていた。

遼はもう一度やった。

「昨日はごめん」

《一致率:51%》

画面の中の自分は、もっと申し訳なさそうな顔をしていた。

遼は口元の力を抜いた。

目を細める。

頭を下げる。

角度は深すぎず、浅すぎない。

謝罪の言葉を口にする前に、一秒だけ沈黙する。

「昨日はごめん。君を否定したかったわけじゃない」

《一致率:67%》

寝室の外から、真帆が遼の名前を呼んだ。

「遼?」

遼は返事をしなかった。

鏡の隣で、画面の中の自分が穏やかな顔でこちらを見ている。

誰からも愛され、信頼され、真帆が好きになった高瀬遼。

「遼、いるの?」

遼は画面を見た。

画面の中の自分が、もう一度頭を下げる。

遼も同じように頭を下げた。

《一致率:72%》

『高瀬遼』になるには、まだ足りなかった。

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