「お前の取り柄は計算だけだ」と笑った公爵家が、私を追い出した翌月に財政破綻した件
十年分の帳簿は、持参金より重かった。
ヴァイス公爵家の正門をくぐるとき、私は一度も振り返らなかった。
背中に感じるのは、使用人たちの視線だった。門の脇に整列した彼らの何人かが目元を赤くしている。料理長のグレーテルが小さく頭を下げ、庭師のヴィルヘルムが帽子を胸に当てていた。
右手に革鞄がひとつ。中身は離縁証書と、十年分の帳簿の写し。原本は書斎に置いてきた。公爵家の財産は公爵家のものだ。——たとえ、その数字を意味あるものに変えたのが私であっても。
左手には何もない。
十年前、この門をくぐったとき、左手には花束があった。十八歳の春。政略結婚とはいえ、少しだけ期待していた。新しい家族。新しい居場所。自分を必要としてくれる場所が、あるかもしれないと。
十年後。その手は空だった。
花束はとうに枯れた。期待はもっと前に。
でも、不思議と軽かった。空の手は、どこにでも伸ばせる。
三日前のことを思い出す。
あの日、夕食の席に呼ばれた。珍しいことだった。普段の私は書斎で帳簿と向き合い、夫とは月に数回顔を合わせる程度。食事を共にすることなど、年に片手で足りる。
食堂には義母のヘルミーネが上座に座り、夫のオスカーがその隣にいた。私に用意された席は、末席だった。十年間ずっとそうだったように。
「フリーダさん。今日はお話があるの」
義母の声は穏やかだった。穏やかすぎた。この人が穏やかな声を出すとき、その刃は必ず私に向いている。十年もいれば、そのくらいはわかる。
「オスカーもね、ようやく決心がついたのよ。——もっと華やかな方を、お迎えしたいの」
知っていた。
マリアンネ。侯爵家出身の愛人。蜂蜜色の巻き毛に薔薇色の頬、夜会の花と謳われる華やかな令嬢。初夜の晩からオスカーが通い続けた女性。義母が「やはり嫁は格が大事ですわね」と繰り返してきた、その答え合わせ。帳簿しか取り柄のない伯爵令嬢の、対極にいる人。
「フリーダ。すまないが、マリアンネを正妻にしたい。お前には……感謝している」
オスカーが言った。碧い目は私から少しだけ逸れていた。感謝という言葉に重さはなく、まるで使用人に暇を出すときの慣用句のようだった。
——感謝。何に? 十年間、あなたの帳簿を守り続けたことに? あなたが一度も開かなかった、あの帳簿を?
その言葉は飲み込んだ。
「承知いたしました」
私は微笑んだ。条件はふたつだけ。持参金の全額返還と、正式な離縁証書。私に非がないことを明記したもの。
義母が、ほんの一瞬、眉を上げた。
「……それだけ? 縋りつかないの?」
「縋りつく理由が、ございませんので」
義母の目が細まった。何かを計りかねている顔。十年間この家に尽くした嫁が、なぜ泣きもしないのか、理解できないのだろう。
理由は簡単だ。
泣くほどの期待を、とうの昔に手放していたから。
十年前。十八歳の私がこの屋敷に嫁いできた日のことを、よく覚えている。
広壮な公爵邸。磨き上げられた大理石の床。天井まで届く蝋燭立て。見るもの全てが伯爵家の実家とは格が違った。
結婚初夜。部屋で待った。夫は来なかった。
翌朝、給仕の少女がそっと耳打ちしてくれた。「旦那様は、マリアンネ様のところへお行きになりました」。その声は申し訳なさそうで、そして——どこか慣れた響きがあった。
初日で悟った。ここでの私の立場を。
義母が私の前に現れたのは、三日目だった。
「あら。伯爵家のお嬢様には、こういうお仕事がお似合いでしょう?」
渡されたのは、埃を被った帳簿の山だった。革の表紙が擦り切れ、ページの端が湿気で波打っている。何年も放置されていたのは一目でわかった。
辱めのつもりだったのだろう。華やかな公爵家で、嫁に帳簿管理を押しつける——それは「あなたにはこの程度の仕事しかありませんよ」という宣告だ。
義母の口元が僅かに歪んでいた。泣くと思ったのだろうか。反論すると期待したのだろうか。
「かしこまりました、お義母様」
私は帳簿の山を受け取った。重い。ずっしりと両腕に食い込む。
——ええ、わかっています。私の取り柄は計算だけですから。
書斎に運び込み、机の上に積み上げ、眼鏡の位置を直してから一番上の帳簿を開いた。
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
数字が目に飛び込んでくる。収入の欄。支出の欄。その隙間に、見えない数字が浮かび上がる。計上されていない負債。過小評価された資産。辻褄の合わない勘定。
——単式簿記。収入と支出を並べただけの、原始的な帳簿。しかも杜撰だ。数字が合わない。領地の税収は過少申告、支出は二重計上。債務はどこにも記載されていないが、返済の記録だけがぽつぽつと——
なぜ私にこれがわかるのか。
この世界に生まれて十八年、学んだことのない知識が頭の中にある。数字を見ると自然と手が動く。計算式が浮かぶ。それが前世の記憶なのかどうか、正直よくわからない。ただ、帳簿を開くと頭が冴える。数字の森の中で、私は迷わない。
ヴァイス公爵家の財政は、崩壊寸前だった。先代公爵の放漫経営が残した負債。膨らむ一方の支出。義母の宝石代だけで、領地の農民百人分の年収に匹敵する。
このままなら、五年もたない。
立て直せる。
埃まみれの帳簿を胸に抱えたまま、私は小さな書斎に籠もった。
まず帳簿を作り直した。
この世界の帳簿は、収入と支出をただ並べるだけのものだ。入ったお金、出たお金。それだけ。資産がいくらあるのか、負債がいくらあるのか、一冊の帳簿からは見えない。
私は新しい帳簿を作った。左のページに「借方」、右のページに「貸方」。取引のたびに、二箇所に記入する。金貨が入れば、左に「現金」、右に「収入」。借金を返せば、左に「負債の減少」、右に「現金の減少」。
二つの数字は、必ず一致する。一致しなければ、どこかに誤りがある。
——複式簿記。この世界の誰も知らない概念。私が「考案した」ことになっている手法。本当は、前世のどこかで叩き込まれた知識なのだろう。でも、出自はどうでもいい。数字は正確であればいい。
半年かけて、過去十年分の帳簿を再構築した。そこから浮かび上がったのは、公爵家の財政の惨状だった。
隠された負債が十二件。未収の貸付金が八件。帳簿上は黒字に見えて、実態は火の車。一年後には返済不能に陥る。
そこから十年、私は帳簿と格闘し続けた。
一年目。債権者との交渉。返済期限の延長。利率の引き下げ。夜を徹して試算表を作り、返済計画を組み上げた。
三年目。領地の税収を見直した。徴税の仕組みを最適化し、漏れをなくす。農地の生産性を帳簿から分析して、投資すべき区画を特定した。
五年目。黒字に転換した。その日の帳簿の最終行に、初めて黒い数字——利益を記入した。インクが乾くのを待つ間、胸の奥で小さな炎が灯るのを感じた。誰にも見せられない、密かな達成感。
余剰資金を交易に投資した。リスクを分散し、複数の商会に小口で出資する。帳簿の数字が、少しずつ膨らんでいく。
七年目。負債をすべて完済した。帳簿の「借入金」の欄がゼロになった日、書斎で一人、小さく息をついた。窓の外に目をやったが、誰もいなかった。
八年目の冬、危機があった。主要な交易路が豪雪で閉ざされ、公爵家が出資していた商会が連鎖的に損失を出した。通常なら数千グルド《金貨》の損害になる局面。
私は三日間眠らず帳簿と向き合い、代替の交易路を試算し、別の商会との緊急契約を提案書にまとめ、債権の一部を割引売却して資金を確保した。損失を最小限に食い止め、翌年には完全に回復させた。
報告書をオスカーの執務室に届けた。翌日、未開封のまま暖炉の脇に置かれていた。
十年目。資産は嫁入り時の三倍になっていた。使用人の給金は遅配なし。領地の税収は王国有数。公爵家の財政は、盤石だった。
——盤石に、してしまった。私がいなくてもいいくらいに。
いや。違った。盤石なのは、私がいる限りにおいて、だった。
その十年間。
「帳簿? ああ、やっておいてくれ」
夫は一度も、帳簿を開かなかった。
「あら、フリーダさん。またお帳面ですの? 少しは社交を覚えなさいな」
義母は一度も、数字の意味を聞かなかった。
書斎の窓辺に、灰色の猫が一匹いた。いつの頃からか居着いた、名もない野良猫。帳簿を開く私の膝に乗り、喉を鳴らす。
ある冬の晩、猫を撫でながら呟いた。
「……ええ。私の取り柄は、計算だけですから」
猫が、にゃあ、と鳴いた。書斎の中で、それだけが返事だった。
ただ——
「奥様。今月もお給金が出ました。ありがとうございます」
小声で、廊下で、洗濯物を抱えた侍女が頭を下げた。
料理長のグレーテルが、私の書斎にだけ焼き菓子を届けてくれた。「お夜食です」と微笑んで。
庭師のヴィルヘルムが、書斎の窓辺に毎朝花を置いた。何も言わず。
彼らは知っていた。自分たちの給金がなぜ遅れなくなったのか。領地の暮らしがなぜ良くなったのか。帳簿の中の小さな数字の向こうに、誰がいるのかを。
夫と義母以外の、全員が。
門を出て、馬車に乗った。
伯爵家の実家に戻る馬車の中で、私は窓の外を見ていた。公爵領の街並みが流れていく。整備された石畳。活気のある市場。豊かに実る麦畑。十年前、ここは荒れ果てていた。
——さようなら。
心の中で呟く。建物にでも街にでもなく、あの書斎に。猫に。窓辺の花に。
私がいなくなったことに、あの人たちが気づくのはいつだろう。
いや、正確に言えば、「私」がいなくなったことには気づかない。「帳簿係」がいなくなったことに気づくのだ。それも、すぐにではない。
でも、確実に気づく。
帳簿の不在が現実を蝕み始めるのは——月末の返済日だ。
一ヶ月後。
後にグレーテルからの手紙で知った話だ。
ヴァイス公爵邸の執務室に、怒号が響いたという。
「なんだこの書類は! 全く意味がわからん!」
オスカーが帳簿を叩きつけた。私が残していった帳簿——左右に分かれた見慣れない書式。借方と貸方。数字の対応関係。オスカーにはただの数字の羅列にしか見えない。
「返済期日が今月末だと? いくらだ!」
「それが旦那様、帳簿を見ましても、どの数字がその……」
「使えん! 新しい会計士を雇え!」
二日後。王都から呼び寄せた会計士が、帳簿を開いた。
そして、青ざめた。
「これは……複式簿記、でしょうか。私は見たことがありません。この体系は——独自の概念です。解読には相当の時間が……」
「時間などない! 月末までに返済金を用意しなければ——」
「恐れ入りますが、それ以前の問題です。この帳簿を作った方がいらっしゃらなければ、現在の資産状況すら正確に把握できません」
帳簿は置いてあった。数字もすべて書いてあった。しかし、その数字を「読める」のは、書いた本人だけだった。
翌月。債権者から督促が届いた。
「ヴァイス公爵家様。先月の返済が確認できておりませんが——」
返済のための資金はあった。フリーダが組んだ運用に、返済原資は組み込まれている。だが、どの金庫のどの資金をいつ引き出してどの債権者へ届けるか——そのスケジュールを、誰も知らなかった。
三ヶ月目。
投資先の商会から契約解除の通知が届いた。「窓口であったフリーダ殿が退任されたと聞き、今後の取引継続は困難と判断いたしました」。フリーダ個人への信頼で成り立っていた取引が、次々と消えていく。
そして——義母ヘルミーネの出費だけは、変わらなかった。
フリーダがいた頃は、帳簿の中で巧みに上限を設け、気づかれないように制御していた。宝石を三つ注文すれば二つだけ届くよう手配し、差額を返済に回す。夜会の予算を少しずつ絞り、余剰を投資に充てる。すべて帳簿の裏側で、静かに。
その「見えない手綱」が消えた。
義母は遠慮なく散財した。秋の夜会のために新調したドレスが三着。ルビーの首飾り。王都の仕立て屋への特注。かつてフリーダが月の予算として密かに設けていた上限の、四倍の額が一月で消えた。
それが公爵家の最後の体力を奪った。
「お義母様、このままでは——」
「うるさいわね。公爵家の暮らしを落とすなんて、ありえませんことよ。あの嫁が帳簿をきちんと引き継がなかったのが悪いのだわ。去り際に何か仕組んだに決まっていますわ」
正妻候補のマリアンネが控えの間で甲高い声を上げた。
「私、こんな話聞いておりません! 公爵家は裕福だと——オスカー様、これはどういうことですの!?」
華やかな侯爵令嬢の夢見た「公爵夫人」の座には、莫大な負債がもれなくついてきた。
オスカーは頭を抱えた。華やかな金髪は乱れ、碧い目は血走っていた。
「誰か——誰かフリーダの代わりを——」
けれど、代わりはいなかった。
この世界に、複式簿記を理解できる人間は、ほとんどいないのだから。
季節がひとつ変わった頃。
レヒナー伯爵領の実家で、私は静かな日々を送っていた。父の書斎を借りて、実家の帳簿を整理する。小さな領地の素朴な帳簿。公爵家の複雑な財務に比べれば、まるで絵本のようだ。
ある午後、来客があった。
父の執事が緊張した面持ちで告げた。
「フリーダ様。王都から——第三王子クラウス殿下がお見えです」
第三王子。王家の財務改革を担う、若き王子。名前だけは知っていた。
応接室に入ると、黒髪に灰色の瞳の青年が立ち上がった。王族にしては飾り気がない。指先にインクの跡が残っている——書類仕事の多い人なのだと、すぐにわかった。
「突然の訪問を許してほしい。フリーダ・フォン・レヒナー殿、ですね」
穏やかな声だった。威圧感はない。ただ、目だけが真剣だった。
「はい。恐れ入りますが、殿下が私に何のご用でしょうか」
クラウス殿下が、鞄から一冊の帳簿を取り出した。
見覚えがあった。私の字。私の書式。借方と貸方。——ヴァイス公爵家の帳簿の、写しだ。
「公爵家が財政破綻の申告を出してきてね。財務調査に入った。その過程で、この帳簿を見つけた」
殿下が帳簿を開いた。ページを繰る指が、少し震えている。
「これは——複式簿記だね? 取引を二面的に記録し、必ず借方と貸方が一致する。貸借対照表、損益計算書。こんな体系は、見たことがない」
「……ご存知なのですか」
「知っている、わけじゃない。でもわかる。この帳簿がどれほど革新的か。一冊目を読んで、震えた。二冊目を読んで、眠れなくなった。十年分すべて読み終えたとき——」
殿下が顔を上げた。灰色の瞳に、光が宿っていた。
「——この帳簿を書いた人に会わなければならないと思った」
胸が、少しだけ熱くなった。
十年間、誰にも見てもらえなかった帳簿。「またお帳面ですの?」と嘲られた帳簿。「やっておいてくれ」と放り投げられた帳簿。
初めて、帳簿そのものを見てくれた人がいた。
「フリーダ殿。王家の財務顧問に就任していただきたい。——あなたの才能を、正しい場所で使ってほしい」
涙が出そうになった。
出さなかった。十年間の癖は、そう簡単には抜けない。
「……ありがたいお話でございます。ですが、殿下。私は公爵家を離縁された身です。経歴に傷が——」
「傷?」
殿下が首をかしげた。心底不思議そうに。
「この帳簿より雄弁な経歴書を、私は見たことがないよ」
殿下はそう言って、少し照れたように視線を逸らした。耳の先が赤い。王族がこんな表情を見せるものだろうか。
「……正直に言えば、帳簿を読んで才能に感嘆しただけじゃない。行間から伝わってくるんだ。この数字を書いた人が、どれだけ孤独に、どれだけ誠実に仕事をしてきたか。十年分の帳簿は、十年分の手紙のようだった。返事のない手紙の」
不意に、目の奥が熱くなった。
窓の外で小鳥が鳴いた。伯爵領の庭は質素だけれど、陽当たりがいい。公爵家の薄暗い書斎とは違う。ここにいると、数字以外のものが目に入る。空の色。風の匂い。
十年間忘れていたものだ。
そして、あの日が来た。
王都のレヒナー家別邸。王家財務顧問の任命式を翌日に控えた夕暮れ。
門の前に、馬車が止まった。
降りてきたのは——かつて華やかだったはずの男だった。金髪は手入れされず乱れ、仕立てのよかった上着は皺だらけで、碧い目の下には深い隈が刻まれていた。
「フリーダ」
オスカーの声は掠れていた。あの尊大な響きは消え、代わりに縋るような音色が滲んでいた。
「頼む。戻ってきてくれ。お前がいないと——公爵家は——もう、どうにも——」
彼は私の前に跪いた。石畳に膝をつく音が、夕暮れの静かな庭に響いた。
十年間、一度も見せなかった姿だった。帳簿を見てくれたことはない。「ありがとう」と言ってくれたこともない。書斎を訪ねてくれたことすらない。
それが今、膝を折って「戻ってきてくれ」と言う。
けれどその目に浮かんでいるのは、私への想いではなかった。恐怖だ。財政破綻という現実への、ただの恐怖。
——あなたが欲しいのは「私」ではない。「帳簿係」だ。十年前から、何も変わっていない。
「オスカー様」
私は静かに言った。
「おっしゃる通り、私の取り柄は計算だけでございます。ですから、計算いたしました」
「計算?」
「十年間。あなたのために数字を整え、公爵家をお支えしてまいりました。その対価を」
一歩、下がる。
「感謝の言葉は——ゼロ。ねぎらいの言葉も——ゼロ。帳簿を開いてくださった回数も——ゼロ。収支は、合いません。これは、私の能力では立て直せない赤字です」
背後で、足音が近づいた。
「フリーダ殿」
穏やかな声。クラウス殿下だった。任命式の打ち合わせのために来てくださったのだ。
殿下は跪くオスカーを一瞥し、それから私に向き直った。
「こちらが、例の元ご夫君かい」
オスカーの目が見開かれた。王族の紋章。第三王子。
「殿下……なぜ、フリーダと……」
「フリーダ殿は明日から王家の財務顧問だ。この国の帳簿を見ていただく」
沈黙が落ちた。夕暮れの風が、オスカーの乱れた金髪を撫でた。
私は微笑んだ。十年ぶりに、自分のための笑みだった。
「申し訳ございません、オスカー様。もう私は、公爵家の帳簿係ではありませんので」
オスカーの顔から、最後の色が消えた。
「——お体にお気をつけて。帳簿の原本はすべてお残ししてございます。読める方が見つかるとよろしいですね」
踵を返す。クラウス殿下が、さりげなく横に並んだ。その手が、ほんの一瞬だけ私の背に触れた。支えるように。温かかった。
背後で、何かが崩れ落ちる音がした。膝の力が抜けたのだろう。あるいは、十年間支えられていたものが、音を立てて壊れたのかもしれない。
振り返らなかった。もう、振り返る帳簿はない。
王城の財務室。
新しい書斎は、広かった。天井が高く、窓が大きく、午後の陽射しが白い壁に金色の模様を描く。整然と並んだ書棚。上質な紙。新品のインク壺。
あの公爵邸の片隅にあった薄暗い書斎とは、何もかもが違う。
ただ——窓辺に、灰色の猫が一匹座っていた。
「あら」
思わず声が出た。あの猫だ。公爵邸の書斎に居着いていた、名もない灰色の猫。
「ああ、その猫」
クラウス殿下が、書類の束を抱えて入ってきた。
「公爵邸から使用人が届けてくれたんだ。『奥様の猫です』と言って。——奥様というのは、もちろん君のことだね」
猫が、にゃあ、と鳴いた。十年間聞き慣れた声。
「……グレーテルですね、きっと」
「料理長だったかな。『この子は奥様のそばでないと食べないのです』だそうだ」
猫を抱き上げた。温かかった。喉が鳴る。変わらない。帳簿を開く私の膝で、ずっと眠っていた温もり。
十年間、この子だけが。いや、使用人たちも、ずっと見ていてくれた。
涙が一粒だけ、猫の灰色の毛に落ちた。
「フリーダ殿」
殿下が、新しい帳簿を差し出した。革の表紙。まっさらなページ。
「王家の帳簿を、見ていただけますか」
帳簿を受け取った。厚みがある。これまでで一番大きな仕事。一国の財政。
でも、怖くなかった。数字は嘘をつかない。正しく記せば、正しく答えが出る。
「——喜んで」
机に向かった。インクに羽根ペンを浸す。新しい帳簿の、最初のページを開く。
ふと、余白に目がいった。
まっさらな余白。何も書かれていない、白い空間。帳簿にはいつも余白がある。記入しきれなかった数字のために。後から修正するために。
十年間の帳簿に、私自身の数字を書いたことはなかった。
ペンを走らせた。新しい人生の最初の記入。
借方に——「十年間の忍耐」。
貸方に——「これからの自由」。
残高は。
猫が膝の上で丸くなった。窓から午後の陽が差し込んで、新しい帳簿の白いページを金色に染めていく。
残高は——プラス。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今作のテーマは「パッシブざまぁ」——主人公は復讐なんてしません。ただ、いなくなるだけ。それだけで全部崩れる。フリーダがどれだけ公爵家を支えていたかは、彼女がいなくなって初めてわかる。見えない仕事の価値って、現実でもそうですよね。
一番書きたかったのは、フリーダの「感謝の言葉は——ゼロ」のシーンです。十年分の怒りを、彼女は怒鳴ることではなく「計算」で突きつける。帳簿係らしいざまぁの形を見つけられたかなと思っています。
あと、猫。公爵邸の書斎にいた灰色の猫が、使用人の手で新しい書斎に届けられるシーンは、書いていて自分が一番泣きそうになった場所です。十年間フリーダを見てくれていた人たちの気持ちが、あの猫に全部詰まっています。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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