最後に部屋を出たのは誰か
最後に部屋を出たのは誰か
その違和感に気づいたのは、事件が「完全な密室」と呼ばれるようになってからだった。
私は、最後に会議室を出た人間を見ている。
だが――誰も、その意味を問い直さなかった。
その夜、私たちは四人で残業をしていた。プロジェクトの遅れを取り戻すための臨時会議で、開始は定時を過ぎていた。会議室には長机と四脚の椅子、壁際にホワイトボード。窓は開かない構造で、出入口は一つきりだ。内側から施錠できる、ごくありふれた部屋だった。
被害者の高城は、会議の終盤になると露骨に苛立ちを見せ始めた。
「この進捗で本気か?」
資料を机に叩きつけ、誰にともなく吐き捨てる。
最初に席を立ったのは宮本だった。
「今日は無理だ。頭を冷やす」
そう言い残し、彼は会議室を出ていった。
次に立ち上がったのは佐伯だ。
「続きは明日にしましょう」
感情の起伏を感じさせない声で告げ、彼もまた扉の向こうへ消えた。
会議室には、高城と私の二人が残った。
私はすぐに立ち上がらず、資料を揃えるふりをして時間を置いた。高城は背を向け、ホワイトボードの前で何かを書いては消していた。
「……お前も、もう帰るのか」
振り返らないまま、そう聞かれた。
「ええ。終電もありますから」
私はそう答えた。
それが、高城と交わした最後の言葉だった。
数分後、廊下に悲鳴が響いた。
私たちが会議室に戻ったとき、扉は内側から鍵がかかっていた。呼びかけても反応はない。警備員を呼び、合鍵で開けた扉の向こうで、高城は机の脇に倒れていた。すでに息はなかった。
外傷は見当たらず、凶器も発見されなかった。
窓は閉じたまま、出入口は一つ。
内側から施錠された密室だった。
警察の事情聴取で、私たちはそれぞれ同じことを述べた。
宮本は言った。
「俺は先に出た。戻ってきてない」
佐伯も言った。
「私も同様です。高城と二人きりになる前に退出しました」
私もまた、事実だけを口にした。
「私は、最後に会議室を出た人間を見ています」
その言葉に、嘘は含まれていなかった。
ただし、十分でもなかった。
警察は第三者の侵入は不可能と判断し、事件性は低いと結論づけた。社内でも、誰かを疑う空気は長く続かなかった。
それでも、私の中では、小さな違和感が消えずに残っていた。
誰も、私が「いつ」部屋を出たのかを尋ねなかった。
誰も、私が「どこで」悲鳴を聞いたのかを確認しなかった。
そして誰も、「最後に部屋を出た人間」が誰なのかを、具体的に問い直さなかった。
佐伯だけが、一度だけこう言った。
「君は、ずいぶん冷静だ」
私は曖昧に笑って、その場をやり過ごした。
冷静でいられたのは、理由がある。
あの夜の光景は、今でも正確に思い出せるからだ。
宮本と佐伯が、扉を出ていく背中。
会議室に残された二人分の気配。
そして――一つが消えた瞬間。
私は、会議室を出ていない。
高城がホワイトボードに向かっている間、私は背後に立った。声をかける必要はなかった。彼がこちらを振り返ることもなかった。ただ、ほんの短い時間。
倒れた高城を確認したあと、私は椅子に腰を下ろした。
扉の鍵を、内側から回した。
時間は十分にあった。
資料を整え、鞄を閉じ、呼吸を整える。
それから私は扉を開け、廊下に出た。
その直後、誰かに聞こえるよう、悲鳴を上げた。
私は確かに、最後に会議室を出た人間を見ている。
その人物は、私以外の全員だった。
密室は、最初から完成していたのだ。
私が外に出た、その瞬間に。
警察は調書を閉じ、事件は記録の中に収まった。
高城の名前も、やがて話題に上らなくなった。
数日後、私は一人で会議室に入った。
無人の部屋は、驚くほど静かだった。
扉を閉め、鍵に手を伸ばす。
その動作は、考えるより先に体が覚えていた。
私は、最後に部屋を出た人間を見ている。
その事実は、今も変わらない。
なぜなら――
最後に部屋を出る人間は、
いつも一人だけなのだから。




