第48話 豹変する黒幕1
しずかな夜であった。
勿忘草の花に似た、あざやかな青い月が中天にのぼり、学園一帯を照らしている。
どこにも欠けたところのない明月は、学園の建物のひとつ、いまはつかわれていない旧校舎をも等しく照らす。
旧校舎の一室である魔法実験室の中にもまた、月光は降りそそいでいた。
魔法は戦闘用のものだけではなく、産業や家事に用いることのできる種類のものもあり、そうした危険の少ない魔法を学ぶための部屋が魔法実験室である。
校舎内の物品のほとんどはすでに撤去されていたが、床に据えつけられている頑丈な実験台はそのままのこっていた。
数々の生徒の実験を見まもってきたその机は、表面がはげているところもあるものの、いまだにドッシリとその威容をたもっている。
かろやかな鼻歌が、部屋のなかをおどるように反響した。
いかにもきげんがよさそうな様子で、小枝のような肉体の聖女ベネクトリックスが歌っている。
一本一本、丁寧にナイフを拭いて、ならべた。
そのすぐそばには、頑丈な実験台のうえに、全身を丸太のごとくに鍛えあげたひとりの女性が横たわっていた。
その女性とは、むろん──コマンゾネスである。
コマンゾネスは猛獣用かと思うほど太い鉄の鎖でがんじがらめにされており、魔法にて眠らされている。
一本のナイフを手にとり、月明かりにかざして満足そうにほほえんだ聖女は、卒然ナイフを振りおろし、コマンゾネスの太ももに思いきり突き立てた。
しかし、ナイフはその厚く堅い筋肉に阻まれ、根もとからボキリと折れる。
聖女の妖しげな笑みはゆらぎもせず、
「どうしたら殺せるのかしら」
もう一本のナイフを取りながら、服の買いものでもしているときのような気軽さでつぶやいた。
「なにかかゆいと思いましたら……」
目がうっすらとひらき、意識のもどってきたコマンゾネスが言葉をもらした。
「あら、おはようございますコマンゾネスさま。ふふ、〈スリープ〉はちょっとの刺激で目をさましちゃうから困っちゃいますねぇ」
聖女が楽しげに笑うと、コマンゾネスはほとんど動けないながら目線だけ周囲に走らせた。
「……おはようございます。少し寝すぎてしまったようですわね」
「いえいえ、むしろ、ちょうどいいタイミングで起きてくださいました」
「ここは……」
言葉を切ると、聖女が継ぐ。
「旧校舎の魔法実験室です。下見のときに来て、ここならコマンゾネスさまを拘束するのにピッタリ! って思いまして。まあ、万が一の備えのつもりだったんですけどね……」
聖女は憂鬱そうにため息をつく。
「あなたが黒幕……“フードをかぶった男”だったのですか? 男というのは、ご自分のウソ? いえ、アレクシスさまたちも同じ証言をしていたはず。どうやって……」
「ああ、そのカラクリはのちほどお教えしますわ。それより、麻痺の魔法はきちんと効いていますか? 動けませんよね?」
「さあ、それは、どうでしょうね」
コマンゾネスはニヤリと笑ってみせる。
が、実際には指をわずかに動かすことができるにすぎず、それもぶっとい鎖に縛られているとなると動かせないも同然であった。
筋肉の回復に集中力をそそぎながら、聖女に問いかける。
「あなたが、悪魔と契約し、王国の崩壊をたくらんでいたのですか?」
まったく気づいていなかった自分の愚鈍さに腹を立てつつ、いっときは信頼しようとしていた相手でもあるため、困惑が胸をかき乱す。
「うーん、前半はイエス、後半はノーです」
事態の深刻さをまったく反映しないかれんなしぐさで、聖女がそのしなやかな指をくちびるにあてて答える。
「後半がノーということは……」
「私は別に、王国の崩壊を望んではいません。私はただ、国全土の深刻な混沌……ど派手な戦乱を、欲しているだけです」
「なぜ、そんな……」
「なぜ? コマンゾネスさま、私が、この聖女という立場の人間が、何百年に一度生まれるかご存じですか?」
「多少の誤差はありますが、約300年に一度、と言われていますわね」
「そう、300年に一度……。おとぎ話でしか知らなかった聖女に、自分が選ばれたのだと、そのご信託を受けた日の私のよろこびが、あなたにわかりますか? 生まれながら貴族……それも、頂点のひとつである公爵家に生まれたあなたに、親の顔も知らず、孤児院でいじめられながら泥をすすって周囲のごきげんうかがいをしてきた女が、ある日選ばれた特別な存在であると告げられ、ひきあげられたよろこびがわかりますか? 世界が、ひっくりかえったかと思った……。なにもわるいことのしていない私を追いつめるこのまちがった世界が、ひっくりかえるんだと、思った……」
聖女は、陶然と窓のそとの月を見ながら語った。
しかしそこで言葉を区切ると、憤怒の形相で、ナイフをコマンゾネスの腹へと突き立てる。




