朝倉 歩
「ただいま〜」
俺は革靴を脱ぎながら、背中から香るビーフシチューの匂いに安堵していた。
緊張の糸がゆるゆる解れていく。
「誠司さん、おかえりなさい。」
声の主は、俺の鞄を素早く抱えると、それをリビングへと運んでいった。
トタトタ小さな足音が廊下に響く。俺も間を置いてその後を追った。
ふいに目の前の少年が振り返り、キラキラした笑顔をコチラに向けた。
「あっ今日もお仕事お疲れ様でした!」
幼い笑顔が眩しいぐらいに弾け飛ぶ。
彼の名前は『朝倉 歩』。死んだ姉が里親として育てていた少年で、
姉が亡くなってからは俺が里親となり、彼を引き取った。
以来、この少年と生活するようになって1年ぐらいになると思う。
俺がスーツを脱ぎながらソファーに座ると歩君は手慣れた感じで、ソファーに乗った俺のスーツをハンガーに掛ける。
それから、すぐにビーフシチューが乗った皿が目の前に運ばれてくるのだ。
この子は本当に今年で十一歳なのか?と疑いたくなるような気配り上手だ。
もう奥さんみたいなもんだよな。
と思いながら、スプーンで掬った熱々のシチューを口に入れ込む。
これに慣れてしまった生活ではますます結婚が遠ざかる。
いや?それよりもこの子の将来の方が心配だ。
子供は子供の時に親に目一杯、甘えるべきだし遊ぶべきだ。
俺はもう一口ビーフシチューを口に運ぶと、炒められたであろう玉ねぎの凝縮された甘みと蕩けた肉をモグモグと口の中で噛み締めていた。
ここまで料理の腕を上げられたのは、俺の姉に教わったからだと歩君は言い張るが、
果たして姉はここまで料理が上手だったであろうか?
と疑問が常に生まれるほど料理が美味い。
「なぁ?歩君、いつも思っていたんだけど君は将来の夢とかはないのかな?」
エプロンを外しおえると、歩君は目の前の席に座る。
「えっ?そんなの誠司さんのお世話に決まっているじゃないですか。」
大丈夫かな…この子。
首を傾げながら、さも当然かのように答える歩君に、俺は心底不安を募らせる。
亡くなった姉はボーイズラブ好きだった。
…ということが遺品整理をしていた時に、大量のボーイズラブ作品が見つかってわかったことだった。
歩君に聞けば、歩君が寝る前、姉はいつも絵本の読み聞かせのように読ませていたらしい…。
何やってんだよ!姉貴!!
とそれを聞いて叫びたくなった俺の気持ちがわかるだろうか?
姉を今すぐ天国から引きずり降ろしてやりたい。
子供の大事な人格形成時期に変な思考を植え付けやがって。
それが、この子の将来にどんな影響をもたらすか?
社会に出て苦しむかもしれないのに。俺は姉が残していった業を何とか、軽いものにできるように歩君をしっかり優しく導いてやらなければと日々思いながら苦悩している。
また、そして俺は姉の死後、自分が死んだ後に見られたら恥ずかしいものは全てデーターベース化したことはいうまでもなかった。
異能警察が扱う事件はいつも凶悪だ。いつ命を落としてもおかしくない職種。
だからデータは全て俺が死ぬと共に削除される仕様にした。
とくに死後、後藤などには一番見られたくないと強く思う今日この頃。
遺品等をもし見られでもしたら、後藤がニヤニヤしながら
「先輩こんなのがお好きだったんだ。」とか言って一生のネタにされかねない。
『あーいう人ほど、マニアックな物が好きだったりするんすよ。だから、彼女が…。』
「いやいや、俺は恋人にそんなの強要したことないからな?」
…あっ、つい妄想にツッコんでしまった…。
静まり返るリビング。
「どうしたんですか?誠司さん?」
「いや、何でもないよ。」
そう言っても歩君は、しばらく俺を不思議そうに見つめていた。
姉とは昔から仲が良かったわけじゃなかった。
どちらかと言うと感情にすぐ振り回される人で、怒ると理屈が通じない。
そうなるといつも俺がひたすら謝るしかないという感じで。
だから、俺は姉といるのが窮屈でいつも程よい距離を保ってきていた。
そんな姉に変化が訪れたのは、姉が大学を卒業して、しばらく経った頃のことだった。
「最近、何か変わったな。」
「うん?本を読むようになったからかしらね。知性で感情をコントロールしやすくなったような…。」
「なんで、そんな本を読むようになったんだ?」
俺がそういうと姉は頬を赤く染める。
「恋したからかな…。」
いつになく、しおらしい姉の表情が今でも印象的に脳裏に焼き付いている。
姉を劇的に変えたのは、姉をいつも振り回してきていた『感情』によってもたらされたもののようだった。
「ふーん、まぁ幸せそうで良かった。」
そんな会話から、ほどなくして姉から歩君の里親になることを聞かされた。
好きな男と何があったのか?とか
どんな経緯でそうなったのか?など姉は一切、口を割ろうとはしなかった。
それから、3年ほどして姉はもともと持っていた持病の病気が悪化して、あっという間に他界した。
だから歩君の過去や事情は何も知らない。
過去に一度、聞こうとは考えたことはあるが、俺から聞けば何か少年の心の傷に触れてしまうかもしれないので聞けなかった。
いつか、歩君から教えてくれるのを待とうと思っている。
『––––––次のニュースをお送りします。』
ふいに歩君がテレビを付ける。
その音で物思いにふけっていた俺は一気に現実に引き戻された。
『25日にカリプソフィアによって発表された新たな【ルチル アル・コーン】
−偉大なる統治者− 4名によるインタビュー紹介になります。』
「最近、このニュースばかりですね。」
「そうだな。」
ルチル アル・コーンとは、AIカリプソフィアが収集した住人データ情報よって、『人格』『知性』『能力』共に統治者として相応しい人物を大海都の住民の中から選別した者達のことだ。
何十年かに一度、大海都の統治者が代替わりする時に行われる。
今まで歴代の統治者達はカリプソフィアが選別したルチル アル・コーンの中から、誰がもっとも統治者として相応しいのか?を一人、最終的に住民が選挙して選ぶのだ。
どんな人物が選ばれたとしても、カリプソフィアが選別した統治者に相応しい人物のみとなっているので期待通りの活躍はしてくれる。
選挙をわざわざするのは最終的に住民達に選ばせることによって、『自分達が選んだ人物』という認識を与え、納得させる為に設けられた恒例の茶番みたいなものだ。
だが…今回は。
『…続きまして、最後に4人目となったルチル アル・コーン日上 明日香さんのインタビュー紹介になります。』
今、テレビに映った女性。
日上 明日香には皆、賛否両論の意見が挙げられていた。
彼女の年齢は25歳。今まで選別されたルチル アル・コーン達は、平均35歳以上は越えている。
若すぎるというのと、それに相まって女性というのが住民達の中で大きな波紋を広げていた。
女性でも勿論、ルチル アル・コーンに選ばれている。今回だって、彼女以外にもルチル アル・コーンに選ばれた女性はいる。
しかし、年齢が…というのが住民達の不安を煽っているらしい。
若すぎるという不安を拭うために、目に見える分かりやすい目立った職種、学歴や経歴等あれば良かったのかもしれないが彼女にはそれすらも全くないときている。
唯一あるとすれば、彼女は大海都創始者の子孫というぐらいか…。
カリプソフィアの発表では、彼女の場合『人格』が高く評価されて、今回の選別に選ばれたそうだ。
『人格』なんてそんな危ういもので、よくカリプソフィアも選んだものだな。
このあどけない表情の彼女が、そんな聡明で立派な人格の持ち主というのか。
推し量れるものがなければ、なかなか人々の信頼を勝ち取ることは難しいだろう。
俺はモグモグと口に料理を運びながら、テレビモニターを見つめる。
「この方、お若いのにルチル アル・コーンに選ばれるなんて凄いですよね!僕が投票権を持っていたなら、間違いなくこの方を応援してましたね。」
「そうかぁ? 俺はなんだかこの子は不安だな。俺は別の人間に投票するかな。」
「でも、大海都の創始者様の意志を受け継ごうとされていて立派なお考えがあるじゃないですか。」
「うーん、言葉ではいくらでも立派なことは言えるからな…。」
そうですか…と歩君は少し悄げると、テレビの電源をリモコンでピっと消した。
「まぁ、そんなことよりも今日は、お仕事どうでした?」
「えっ?仕事?」
「はい!」ニコニコと歩君は満面の笑みを浮かべながら、テーブルに肘を付く。
「うーん、今日はね。東堂っていう俺の中学時代の同級生が俺達の部署に配属することになったんだ。」
歩君は異能警察の仕事には興味あるのか、こうやって毎日、署で何があったかを聞いてくる。
本来、署の内部情報をペラペラと外に漏らすのは、あまり良くはないことだが、相手は小学5年生、しかも本当に重要な事件の内情は話せないように気を付けているつもりだ。
「…同級生ですか?」
「歩君?」
なんか、同級生と聞いた途端、歩君の表情が曇ったような…。
「そいつは、誠司さんにとって良い奴ですか?」
俺は白いご飯を一口運んだスプーンを加えたまま、宙を仰ぐ。
「うーん、まぁ良い奴ではないかな。正直、苦手なタイプだよ。」
「…なるほど、そうですか。」
歩君は、そう一言いうと押し黙ってしまった。
いつもなら、そのまま根掘り葉掘り、今日あった仕事場での出来事は何だって聞きたがるのに、もうこれ以上聞いてこないのは珍しいな。
それから静かすぎる夕食の時間は過ぎていき、俺はビーフシチュを平らげると歩君にあるお願いをして就寝することにした。
どう考えても、歩君の様子が少しおかしかった。でも、きっと些細なことだ。
俺はそう思い、朝までそのことについて深く考えたりもしなかった。
…が、そろそろ歩君の様子のおかしさに焦点を当てて考えた方が良いよな。
俺は署の通勤途中に頭を抱えながら、溜息をつく。
角を曲がる所に設置されているミラーに少年の影がチラついて見えた。
俺は、素早く角を曲がり終えると勢いよく後ろを振り向く。
「歩君!学校はどうしたんだ!?」
「はぅ!!!!」
ランドセルを背負った歩君はビクと一回、宙に飛び上がる。
「せっ誠司さん、僕は日頃から誠司さんみたいなカッコイイ職に憧れていまして、だから誠司さんのお仕事を少しでも拝見できたら良いなと考えていたら、いつの間にかにこう…。
勝手に足が誠司さんに釣られてここまで来てしまったんです。」
と歩君は「こら!駄目じゃないか!」と自分の足をペチンペチンと叩いて叱る真似をする。
「ふ〜…あ・ゆ・む君!」
「あっ駄目です。コイツ、誠司さんが好きすぎて学校なんて、どうでも良いと申しております。もぅ〜困った奴だなぁ」
やれやれと手を振る歩君に俺はジトーと呆れた眼差しを送る。
「誠司さん!この世界では、学校で学ぶことよりも大事なことってあるでしょう?
僕はそれを大事にして生きてる小学生なんです。大人なんです。立派なんです。誠司さんが心配することなんて何もありません。」
「いや、もう心配だらけだよ…」
俺は頭を抱えると軽く項垂れる。
「歩君が大事にしているものの基準が世間一般とズレ過ぎている。俺は歩君にあまり苦労をして欲しくはないんだ。な?」
俺は目線を歩君の高さに合わせて屈む。
「僕は苦労しても構いません!むしろ苦労して得られるものがあるならオールウェルカムです!!」
「君はそこまでして一体何を得たいんだ…」
どうしようこの少年はこの年齢にして、向いてはいけない方向に情熱を燃やしし過ぎている…
「歩君、本当に異能警察に憧れてるって言うんなら、いつか先輩に頼んで俺が職場見学させてあげるから、でもそうじゃないと言うなら、今すぐ学校に回れ右して戻りなさい。じゃなきゃ俺、歩君のこと嫌いになっちゃうと思うな。」
融通が利かない時の歩君にはこの言葉が異常なほど効くのだ。
「はい!!!」
歩君はビクッとした表情を見せると、本当に回れ右して来た道を急いで戻っていった。
本当に効果ありすぎて、今までのやりとりは一体何だったんだろう?と少し寂しさが残るほど。
「あれ?」
俺はその場にすぐに取り残された。
「歩君、遅刻だからって焦って怪我しないようにね!」
益々、彼の将来が不安になったがこの問題については一先ず保留だ。
「もっと時間が経てば、歩君の考え方も変わるかもしれないしな。」