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◆4-4:ケネスとメラン 通用路(2)

 メランがメランとしての意識を取り戻したのは、そんな二人のやり取りから数分後のことだった。

 自分がユフィとして過ごした間の出来事が、始めはぼんやり継ぎぎに、混ぜこぜになって立ち現れる。

 微睡まどろみの中で、目が覚める寸前に見ていた夢を思い起こすように。自動的に起こる生理現象だ。そこにメラン自身の意思は介在しない。

 再び幼年期の発達段階を迎えた彼の、柔軟な脳細胞がその枝を野放図に伸ばし、偶然に結び付いた結節が、彼に、ユフィとして過ごした記憶の断片を見せていた。


 徐々に頭のもやが晴れ始め、思考の焦点も絞れてくる。

 自分がケネスの身体に腕を巻き付け、もたれかかるようにしながら通路を歩いている今の状況も段々と思い出してきた。

 自我を取り戻したのち、最初に沸き上がった感情は恐怖だった。

 危うくあのまま永遠に意識を失い、全てを忘れてしまっていたかもしれないという自己喪失に関する根源的な恐れ。

 それから遅れて、自分がどれだけ時間を無駄にしてしまったのだろうかという焦燥が襲ってくる。


 全身に悪寒が走り、ぶるりと身を震わせた。

 背後にアキラがいるはずだという、記憶と直感の中間のような感覚を頼りに、足を止めて振り返ろうとしたが、頭ではそう思っても身体が動かない。

 歩いている足の感覚はあるのに、運動機能は統合されていないようだった。


 ──まずいぞ。これは。


 ふと、自分の中にある、もう一つの差し迫った感覚に気付き動揺するメラン。

 分かっているのに、自分では身体を動かせない。このままでは……。


「どうした?」


 ケネスが立ち止まりこちらを見た。

 お陰で足を止めることはできたが……、いや、これは順番が逆か。こちらが足を止めたから、ケネスも立ち止まったのだ。


「おしっこ」


 抱き付いて身体を密着させたまま、上目遣いでケネスの顔色を覗く自分の姿がありありと想像できた。


 これはあくまでユフィがやっていることだという自覚はある。

 なのに、自分の視点としてそれを見せられるせいで、それが自分自身がしでかしたことのように思えてしまう。

 顔が赤らみ、熱くなるのを感じるが、ユフィの方はそれを感じていないのか、ケネスから顔を背けようとはしてくれなかった。


 ユフィの視界に映るケネスの反応の方がメランの心情には近かった。

 ケネスはあからさまに動揺し、言葉を詰まらせている。

 助けを求めるようにその首が後ろを向く。


「さっき、トイレの前を通ったぜ。戻ろう」

「あ、ああ。そうだな」


 アキラの言葉に救いを見出し、まごつきながらもケネスが同意する。


 いや、いいんだ。そんな気まずくしなくても。

 ウィッグで髪を長くしているせいで女子のように見えるが、厳密に言えばこの身体に性別はない。


 その事実を強く訴え出たかったが、ユフィ自身はもじもじと脚を内股にすぼめるだけ。身体の主導権を得ていないメランは三人が見せるそんなぎこちないやり取りを、居た堪れない気持ちで見守るしかなかった。

 来た道を足早に戻るケネスに手を引かれ、トイレの場所まで戻ると、ケネスが送り出すようにユフィの背中をそっと押した。


「一人で大丈夫か?」

「うん。大丈夫」


 二人の男子が揃って安堵の息をつく。

 メランも自分の口から出た返事を聞いて同じく胸を撫で下ろしていた。一緒に入ってなどと言い出さなくて本当に良かったと。


 ケネスに促されたからでもあるだろうが、ユフィは迷うことなく女子用のトイレに入り、そこで限界まで我慢していた尿意を開放する。

 そこまでになる前に済ませておけばよいものを。我が事ながら情けない。


 どこでどうやって学習したのか、ユフィはちゃんと一人でトイレを使う知識は持ち合わせているようだった。

 済ませたあと、手を洗うしつけもできている。

 お前は俺なんだから、あんまり恥を掻かせるなよと、鏡の前に立つ自分に向かって言い含める。


「うん。分かった」


 あっけらかんとした返事。

 鏡の中でそう答えた緑髪の幼い自分を見てメランは一瞬呆気に取られてしまう。


 ──まさか、聞こえたのか。今の俺の声が?


 手洗い台に手を突いて、前のめりに自分の顔を覗くメランであったが、それに対する返事はない。

 ユフィはまるでこちらの心情を映す鏡のように、驚いた表情でこちらを見つめていた。

 そのまま固まって、微動だにしなくなる。


「終わったのか?」


 トイレの外からケネスの声が呼び掛けてきた。

 鏡の中のユフィが振り向いて、その方向を見たとき、メランはようやくそれがユフィではなく、自分が意識して行った動作であることを知った。


「終わった……よ」


 思わず口をついた幼い物言いのせいで、メランは再びこの身体の主導権を失ったのかと焦りを覚えてしまう。

 無論違う。メランはとっさにユフィの物真似をしようとしたのだ。

 だが、それがあまりに滑らかになされたせいで、自分があのユフィに成り代わったような奇妙な感覚に襲われていた。


「終わったのなら出てきてくれ。少し急ぐんだ」

「…………」


 メランはもう一度鏡に向き直り、ユフィ姿の自分を目に映す。

 改めて見ても本当にあの頃の妹とそっくりに見える。おそらくウィッグの色の型番も同じなのだろう。多少違うとすれば髪の長さくらいである。


 大丈夫だ。絶対にバレない。

 この少女然とした肉体に、成人した男の精神が居付いていることなど、外から観察して気付けるものではない……はずだ。


 メランはそう自分に言い含め、なだめすかし、勇気づけながら、足を前へと運んでいく。

 だが、トイレから顔を覗かせてケネスの後ろ姿を見たとき、メランは次なる決心を迫られた。


 あのユフィならどうするか。

 ユフィの振りをするならどのように振舞うのが正解なのか。

 明確過ぎるその答えにメランは懊悩おうのうとする。


 その逡巡の間に、ケネスから少し離れ、向かい合うようにして立ったアキラと目を合わせてしまう。

 アキラの目が何かに気が付いたように急に輝き出した。

 ほんの僅かな間ではあったが、メランが事態を把握するにはその一瞬で十分だった。


 なんのことはない。バレバレなのだ。

 姿形は変わらずとも、普段のユフィと今のメランの違いは一目瞭然に違って見えるらしいのだ。少なくとも、幾らかの事情を知るアキラにとっては。


 ケネスの身体越しにこちらに向かって口を開き掛けるアキラ。

 メランは慌てて人差し指を立て唇に当てた。


 アキラはすんでのタイミングでメランの意図をみ口をつぐんだが、今度はケネスがその気配を察して顔を上げる。

 ケネスは無言でアキラを一瞥いちべつしたのち、彼が目を見張る方向へと身体の向きを返す。


 もはや逡巡している場合ではなかった。

 この一部始終を第三者であるアキラに目撃されていると考えると、やりにくいことこの上ないが、そのことを恥ずかしがっている余裕もなかった。

 ケネスが振り返り、ユフィと顔を突き合わせる直前。

 メランは──今はユフィであるところのメランは──上体をかがめ、ケネスに向かって頭から突進していた。


 今の、この動揺が見え見えの顔を見られては必ず何かを気取られてしまう。

 そう思ったメランはケネスの身体の陰に頭を潜り込ませ、彼の目から自分を隠そうと目論もくろんだのである。

 それは、形だけ見れば先ほどユフィが見せていた、極めて親密な身体的接触と何ら変わらない。

 擬態を続けるためとはいえ、それを自分自身の意思で行うことになろうとは──!


「どうした? いなくなったと思ったか?」


 優しく語り掛けるケネスの声がメランにさらなる追い打ちを掛ける。

 胸の奥にポッと灯った安堵の感情が、自分とユフィのどちらのものだか分からなくなる。


 ユフィからの過度の接触を、いつもどおりの甘えた態度と解釈したのだろう。

 ケネスはユフィの髪を指でくように撫でながら顔を覗きこうもとする。

 そんなことをされてはならじと、メランの方はより一層強く、ケネスの腹に自分の顔をうずめた。


「ちゃんと手は洗ったか?」

「あ、洗ったぁ!」


 ケネスの腹の上でくぐもった声が響く。

 その振動がこそばゆかったとみえ、ケネスは小さなうめき声を上げながら身をよじった。

 その力はケネスの小柄な身体に比して思い掛けないほど強く、ユフィの身体は呆気なく吸い寄せられ彼の腕の中に抱え込まれてしまう。


 そうして元通りの体勢に落ち着いた二人は、再び艇の端を目指して歩き始めていた。

 そんな二人の一連の動きに最も困惑していたのはアキラであろう。

 彼にしてみれば、一瞬前に見たユフィの反応が幻覚であったかのように思えたはずだ。


 それでも彼なりの視点で気付けることもあった。

 まったく同じように見えて、トイレに行く前までに見せていた彼女の仕草とは微妙に異なるのだ。

 手の置き場に惑いながら遠慮がちにケネスの身体に触れるユフィ。若干引き摺られるようにして歩く彼女の細い脚を見つめながら、アキラは神妙な面持ちで二人の後を追うのだった。

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