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◆3-20:メラン WC

 ユフィ姿のメランが駆け込んだのは男子トイレ。

 どちらが今の自分に相応しいかなど一切鑑みることなく中に入ったのだが、小便器の前でショートパンツのホックを外したときになってようやく判断の誤りに気付く。


 その瞬間、いろいろなことが思い出された。

 どうしようもなく目の奥が熱くなり、そこから古く切ない記憶が滲みだしてきた。

 だが、感傷に浸っている暇も、女子トイレに入り直すことの倫理性について頭を悩ませる余裕もなかったメランは、背後の個室のドアを開け、そこに腰を下ろすことにした。

 肩口から垂らした後ろ髪に手櫛てぐしを入れながら一息。


 男女どちらのトイレを使うべきかは、幼い頃のメランにとっては重大な問題だった。

 男性として成人することを希求していたメランとしては、当然男性用のトイレを使いたかったが、男性用の小便器で用を足すには、どうしても身体的に不足するものがある。

 幼年期にはそのことで何度か両親と喧嘩をしたものだが、結局、物心付く前から母親がそうさせていたように、幼体の間は女性用の便座を使い続けることになった。


 そのことに限らず、性差がはっきりとしている他の子供たちの中でメランが男子として振舞うことには困難や混乱がつきまとったはずで、性別を持たずに生まれたメランをひとまずは女子として育てることにした両親の判断は、客観的に見れば妥当と言えるだろう。

 メラン自身も最終的には、格闘技好きのボーイッシュな少女というパーソナリティで過ごした幼年期を、百点満点とはいかなくとも、六十点ぐらいの満足度で評価する気分になっていた。


 大人の手練手管を持つ両親が、幼いメランを説得するのに用いた材料は主に二つ。

 一つは、世間からタブー視されるノイテニア族の生態のことが周囲に知られると、家族揃って船団社会から追放されてしまうという脅しに近い嘆願。

 もう一つは、あなたに表れた遺伝体質はノイテニア族の祖先が子孫を残すために獲得したものなのだから、将来男性になりたいのなら幼体の期間はむしろパートナーになり得る女友達に囲まれて過ごした方がよいという諭し聞かせである。


 どちらの話も、どこまで真実だったのか分からないが、少なくとも子供だったメランにはもっともらしく聞こえた。

 そして今となっては真偽など気にしてみても仕方がない。

 兄妹二人の成体化を機に、家族揃って引っ越しをしたメランにとっては、望みどおりたくましい男性体を手に入れたことへの満足と、二人の特異な体質に向き合い全面的に支えてくれた家族の愛情にのみ感謝をすべきと捉えられていた。


 そう。全ては過ぎ去った出来事。幼少期の懐かしい想い出に過ぎない。

 そう思っていたのだが──。


 気付くとメランはトイレを出て、どこかの通路を歩いていた。

 用を足すぐらいは無意識で済むことだが、スーツのを訊き出すため、この無駄に広い艦内でイザベルを探すとなればそうはいかない。ケネスに気取られないように、という条件が付けばなおさらだ。

 上の空で、当て所なく彷徨っていた自分に対し、そう言っていさめたとき、通路の先に人影が見えた。


 こちらに背中を向けて並んで歩く二人組。

 それを見ると急に心が逸った。

 早く追い付きたい、追い付かなければ、という出所不明の強い欲求に衝き動かされる。


 二人の背中がぐんぐん近付き、今の自分が追い駆けている背中はどちらもイザベルではないぞと確信してからもその衝動は収まらなかった。

 駆けてくる気配に気付き、その背中が振り返る。


「わんわん!」


 屈託のない明るさにまみれた少女の幼い声。


「あわわっ! なに!?」


 少女に渾身の体当たりを食らわされて床に倒れ込んだのはドッドフだ。

 彼が肩に掛けていた掃除用具がガラリと音を立てて転がった。


「あれ? あなた一人? あのイケメン君、この子一人ほっぽりだして何してんのよ?」


 ドッドフの隣を歩いていたセスが呆れた声でぼやく。

 彼女に見下ろされるユフィは、コロコロと笑いながら真っ白でふかふかな体毛を揉みしだくのに夢中になっていた。

 そのときには、メランの意識はどこか深い場所へと沈み、跡形もなく霧散していたのである。

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