◆3-4:ケネス WC個室(1)
一番近くのトイレに入り個室の鍵を掛けるまで、ケネスは頭から一切の考えを取り除いた。少なくともそうしようとは努めた。
もたもたしている間に誰かに呼び止められるという同じ過ちは繰り返せない。やっと巡ってきたチャンスをふいにはできなかった。
便座に腰掛け、デバイスにタッチする。
一瞬で水平に展開されるホロディスプレイとともに、頭の中の靄がたちどころに晴れ、自分が選択すべき最良の手段が目の前に広がる。……そんなことを期待したのだが、残念ながらそうはならなかった。
ホロディスプレイはケネスが最後に操作していたときのレイアウトを記憶しており、〈F3回路〉のダイヤルも、今ははっきりこれだと分かるものが表示されていた(あのときは、要領を得ないコガネイの説明を苛立ちながら何度も聞き返していたのだ。だからと言って、赤髪の男に不意を打たれ遅れを取った責任をコガネイに押し付けるつもりはない)。
しかしながら今は、そのダイヤルをどう回せば良いのか判断が付かなくなっていた。
果たしてこの艇の今の状態は、なるべくしてなっている安定した状態なのか。それともごく細い糸の上で奇跡的にバランスを保っているだけの危機的状況なのか。ケネスの中ではそういった迷いが生じていたのだ。
前者であるならよい。あの獣人種の子供、ドッドフからケネスに所有者を移し、それから惰眠を貪っているあいだに二時間以上経過したにも関わらず、未だこの艇の航行に大きな変化が見られない事実はその考えの正しさを後押ししている。
だが、問題は後者であった場合だ。子供たちだけを乗せた艇が、これまでほとんど何のオペレーションもなく亜光速で宇宙空間を飛び続けていること自体、天文学的な確率の上に成り立った奇跡のような状態だとは考えられないだろうか。
ヴェエッチャやコガネイ、その他大勢の仲間たちは、巨大な艦を丸ごとこの宇宙から消すつもりで破壊活動を行っていた。
そんな明確な悪意をものともせず、今なおこの艇が健在であるという幸運は、〈F3〉が作り出す特殊な地場の力なしには説明できないことも確かなのだ。
……だとすればだ。
ケネスとしては目の前にあるダイヤルを操作することに慎重にならざるを得ない。
限界まで上限に振られたつまみを少しでも下げた途端、これまで奇跡的に保たれていた均衡が崩れ、この艇全体が一瞬で塵と化すことだってあり得る。
これから亜光速からの減速シークエンスに入るというならなおさらだ。イザベルやネムリら、あの子供たちには幸運という助力が必要なのではないか。
だが、ダイヤルをそのままにしておくことも同じくらい危険である。
今ケネスが感じている僅かな不安──亜光速航行中の艇が突然安定を失って分子崩壊する──が現実となる未来を引き寄せることにもなりかねないからだ。
こうして選択する自由を与えられた今、いったい、自分はどうすべきなのか……。
ケネスは何かに拝むように両手を合わせ、そこに額を当て黙考する。
〈F3〉が及ぼす結果には、ある種の指向性がある。
観測者目線の物語性が強ければ強いほど、及ぼす作用も大きくなるのだ。
このデバイスが、巡り巡って自分の手元に戻ってきた因果を問わねばならない。
想像するに……、おそらくあの赤髪の男の、命を賭した最後の願いがこの艇を護っているのではないか。
現に起きている事象を鑑みればそう考えるのが自然だろう。
あの男は死の間際、子供たちの姿を見たのかもしれない。
あの男が願ったこと。
今の自分が望むこと。
望みながらも、その実現が極めて困難なこととは何か。
見出すべきは奇跡が重なり合う一筋のベクトルであった。
先ほど救難信号を発信するマニュアルは運よく見つかったようだが、事はそれほど単純に運ばないことをケネスは知っていた。
ベルゲンが航行する宙域には、局所的なジャミングが施されているので生半な方法ではそれを突破して味方に位置を報せることはできないはずであった。
襲撃から丸一日経過しているし、それだけ距離も離れているから、すでにその障壁の外に脱している可能性もあるが……、怪しいところだ。何故なら本艦から分離し消息を絶った避難艇が現にまだ──。
ケネスが頭を上げる。
合掌した手はそのままに、あてがう位置を額から顎へと替える。
束の間、眼球が忙しなく動き、それに合わせてホロディスプレイの重なりから幾つかのパネルが前面に繰り上がってくる。
両手を広げ、その中に納まっていたデバイスを左手の上に載せ直す。
空いた右手でホロを何箇所か触ったあと、静脈が透き通って見える青白い手首を無造作に握った。
「コール。ケネス175182。俺だ。ヴェエッチャ、聞こえるか? コガネイでもいい。応答してくれ」




