◆2-1:メラン 医務室
微睡みの気怠さを感じながら瞼を持ち上げる。
それ以前からメランの耳には、甲高くたどたどしい、子供の遊びのような口調の艦内放送が届いていた。
『誰かいませんかー? 私たちショッピングモールの飲食エリアにいまーす。他の艦からベルゲンに社会体験実習に来たメンバーでーす。引率の先生とはぐれて大人が誰もいませーん。お忙しいところ恐れ入りますが、何がどうなってるか説明してくださーい。保護してくださーい』
きっとそこには何事か注意を払うべき情報が含まれているはずであった。そうは思うのだが、その放送は、完全に覚醒したとは言い難いメランの意識の上面をただの音階としてそよいでいくだけだった。
とにかく眠い。いいから、静かにして、もう少し寝かせて欲しい。
生物としての基本的な欲求。それを阻害された不快感が、再び瞼を閉じたメランの眉間に皺を作る。
「ん? 起きたんじゃない? いま──」
今度は艦内放送ではなく、メランのすぐ傍で声がした。
「本当? ねえ、貴方、大丈夫? どんな具合? 話せる?」
目を開けたメランはそこでようやく自分が仮眠室のような狭い部屋のベッドで横になっている事実を知った。
仰向けの視界には、自分の顔を覗き込む二人の女性の顔が並んでいる。どちらも若い。否、どちらかと言えば幼いその顔は、どこか躊躇いがちに、はにかんでいるように見えた。
声に釣られて目を開けたものの、メランはそのままの姿勢で起き上がろうとはしない。首どころか眼球すら動かすのも煩わしいのだと駄々をこねるように。瞼は半分ほど持ち上がったところで止まり、それを維持するだけでも随分と辛そうだ。瞼の端がピクピクと痙攣するように震えていた。
「名前。自分のお名前言えますか? あっ、あの、事情があって言えない場合は仮名でもいいですよ? 私たち絶対……、絶対内緒にできますから」
「馬鹿。セス、先走り過ぎっ。きっと状況も分かってないのよ」
意識を白濁とさせたままのメランに向かって興奮した様子で話しているのは、スペースヴァンパイア種のイザベルとフィライド族のセスの二人だ。
「貴女はベルゲンの〈宇宙クラゲ〉の中に一人で漂ってたのよ? そうなる前のこと憶えてる? なんでこんなときに外を泳いでたの?」
ベルゲン。宇宙クラゲ──。
少女の言葉にメランは心の中で首を傾げる。瞼をゆっくり瞬いて、分からないという返事を返そうと努めた。
視界が一度暗闇に閉ざされ、次に明るい光量下で少女の顔を見たとき、その顔にどことなく見覚えがあることを思い出す。だが、その記憶がいつ、どこで得たもので、彼女らが誰であるかという記憶が捉えられない。擦りガラスの向こう側の滲んだ輪郭に目を凝らすようなものだ。どれだけ目を見開いてもその粗いモザイクが鮮明な像を結ぶことはない。
「大変。後遺症かな?」
「やっぱり早くお医者に見せなきゃ」
そうする間にも、艦内には別の少女の声が大音量で流れ続けていた。
その口調は間延びしたものから、徐々に苛立ちと退屈を感じさせるものへと変わっていく。放送マイクの向こう側では、その少女以外の複数の声も混じって聞こえるようだ。
「うるさい! オラクル、この放送シャットアウトして」
イザベルが天井に向かって大声を発すると放送がプツリと途切れる。
だが、メランにとってそれは、音の発生源が変わっただけに過ぎなかった。
「失語症だったり? これって意識がある状態って言えると思う?」
「ねえミリィ、話せる? 貴女が無事なんだって、どうか私たちを安心させて?」
苦労して、やや深く息を吸い込む。久しぶりに喉を拡張させたことで生じる小さく鋭い痛み。だが今はそんな些細なことに思いを巡らすことすらも億劫だった。
「ミリィ……?」
メランがそう問い返した瞬間、二人がはしゃいだ声を上げ両手を握り合う。
「そうよ。貴女はミリィ。ミリィ・クアット。多分だけど。思い出せる?」
「会えて光栄です。私、最初に貴女のヴイを見たときからファンで──」
「そう。そうなの! この合宿に来たのも、本当は、ミリィがベルゲンで生ライブをやるって噂を聞いたからなの──」
競い合うようにしてメランに語り掛けはじめる二人。
二人が何をそんなに興奮して喜んでいるのか、メランにはさっぱり分からなかったが、そこに何か大きな勘違いが含まれることは想像が付いた。何故なら自分はミリィという名ではない。自分は──。
……自分は、誰だ?
ポッカリと開いた真っ暗闇の穴の底に落ち込んだような感覚がメランを襲う。
擦りガラス越しに目を凝らしていたはずが、そうする自分自身の姿さえ朧にしか分からない事実に愕然とする。
そんな筈はないと、不意に湧いた恐怖心を振り払うべく、頭を起こし自分の身体を検める。シーツの下からもぞりと姿を覗かせた腕は細くて白い。未成熟で、極めて頼りない身体つきに見えた。
観察したことで情報が得られた筈なのに混乱は増すばかりだ。何故自分は裸で寝ているのか? 目の前の彼女らは誰でここはどこなのか? 分からない。もどかしい……。
ミリィという名に覚えはないが、目の前で懸命に語り掛ける二人が言うのならそうなのではないか。それでいいのではないか、という投げやりな思いに囚われる。物事を筋立てて考えるには、事態はあまりに複雑で、自分の頭は回らなさ過ぎる。
表層に現れない無意識の思考の中で、メランの精神は容易く膝を折っていた。
「あ、服。服は今、取りに行ってもらってるから心配しないで。大丈夫。気密服を脱がせたのは私たち。他には誰にも見られてないよ」
「それよりどうしてあんな場所に? 誰かに狙われてるんですか? それで逃げてたんじゃないかって、私たち話してたんです」
「狙われて……。そう……だった……。逃げて、生き延びないと……」
細部はまったく思い出せないが、何かから必死で逃げていたというイメージには胸が逸る感覚があった。
忙しなく質問責めにしてくる二人の声を躱すために、とにかく口に出した思い付きの応答であったが、それを聞いた二人は、やっぱりという表情で申し合わせるように固く頷き合った。
「私たち協力します」
「安心して、私たちは貴女の味方だから」
その言葉を受けてメランの顔が安らぐ。幼い少女たちとの約束だけで安全が保証されたわけでもないだろうが、何も分からないという不安を、身体の内側から絶えず湧き出し続ける、より原初的な欲求が上回った。とにかく、眠いのだ。
何もかも分からなさ過ぎて、考える取っ掛かりがない。思考の焦点が定まらない。
自分が何者か。今がどういう状況か。それを見定めることの困難さが、億劫さが、思考する努力を放棄させ、本能的な欲求を余計に増幅させる。
「ごめん……。少し、寝かせ……て……欲しい……」
それだけ言い残すと、メラン──二人にとってはミリィという名の少女──は再び深い眠りに落ちていった。




