◆1-16:メラン 逃避行
隔壁が完全に閉じ切るのを待たず、メランはその壁を蹴って移動を始めていた。
分帰路を二度直角に曲がったところで運良く緊急用の保管庫を発見する。
生体認証でロッカーを開いて、救護キットから止血剤を取り出した。自己修復を促すナノ薬剤ではなく、開いた傷口に直接噴霧して物理的に圧迫固定するものだが贅沢は言えない。
様々な星系種族の寄合所帯である銀河連盟の探査艦に常備された救命ツールの故である。広範に過ぎる多様性のせいで安易に化学薬品に頼ることができないため、応急措置ではどうしてもこういった物理的手段に頼ることになりがちなのだ。
止血剤のノズルの位置を確認して切り裂かれた自分の胸部を改めて覗き込む。メランの動きがそこで一旦止まる。
あれほど大量にあった出血がほとんど止まり掛けていた。
このときメランの肉体に生じていた変化、その幸運を一口に説明することは難しい。
黒スーツの男の手刀によって大きく切り裂かれた傷口は、通常であれば間違いなく致命傷になるものだ。実際、いつ失神してもおかしくない量の血を失っていた。
そのメランが、意識を繋ぎ、アクロバティックな動きで敵を攪乱し、こうして逃げて来られたのは、彼の肉体に対し、様々な外因および内因が作用した幸運の連鎖があったればこそと言える。
だが当のメランには、自分の身を救った幸運についてつぶさに検分をしている余裕はない。手を止めて創傷の具合を確認したのはほんの数秒のことだった。血塗れの胸部にスプレーを厚く噴霧すると、ロッカー内にあった他の装備品を手に取りすぐに移動を再開する。
床を蹴り、再び無重力下の慣性に身を任せるメラン。しかしそれから程なく、通路に対し水平に、滑るように進んでいた自分の身体が段々と沈むようになることに気付く。足が床に付くたび蹴り直し、身体を前に進めようとするのだが、それを三度繰り返したところで、そんな横着した移動は諦めざるを得なくなった。明らかに下向きの重力が復活しつつあるのだ。
メランは重さを取り戻していく自分の身体を実感しながら、ぎこちない大股のスキップで前進を続ける。
メランが失った血量の報いを受け取るのはそれからが本番だった。
免除されていたはずの負債が急に返済の取り立てに遭うようなものだ。下方に引かれる血を心臓が懸命に汲み上げて全身に行き渡らせる必要が出てくる。手足が痺れ、酸素を欲するようになる。酸素。栄養。血液……。血が、血が足りない。とりわけ血を必要とするのは脳であった。脳が生命活動の窮地を感じ取り、狂ったように救難信号を発していた。
ズキズキと痛む頭を抱えながら歩き続けるメランに、さらに無情な艦内放送が追い打ちを掛ける。それは、このベルゲン自体が今や危機的な状況にあり、放棄を余儀なくされているという報せだった。
この艦の艦長フリードマンの沈痛な言葉によって、全住人に対し避難艇での脱出が指示される。
そして、艦長は現在進行形でこの艦に深刻な被害を与えているのは、統一銀河連盟に所属しない未知の知的生命体からの攻撃である可能性が高いと告げるのだった。




