第一話
大都会よりも田舎、ど田舎よりも都会。そんな町の片隅にひっそりと佇む小さな喫茶店があった。
色褪せたレンガ調の壁。深紅の店舗テント。緑色の扉には、『営業中』の札が掛かっている。扉の硝子部分には『喫茶ひととせ』と記されていた。
喫茶店の中、お気に入りの場所であるカウンター席の隅っこに座って、私は待っていた。
……文字通り首を長くして。
長い首の私に臆することなく、女性店員が目の前のテーブルの上に慣れた様子でティーポットとティーカップ、そして砂糖入れを置いた。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
「ゆっくりしていってくださいね」
そう一言告げて、女性店員はカウンターへと戻って行った。
カウンターにいるのは、女性店員とこの店の主人である男性だ。
二人の周りはきらきらとしていて、そこだけ違う空気が流れているようだ。
――うーん、今日も目の保養だわー!
微笑み合う二人の姿を眺めつつ、私は独りごちる。
だが、そう思っているのは私だけではない。
ちらりと横目で近くの席を見遣る。自分と同じくカウンター席に座っている長い髪の女性の様子を窺えば、頬を赤らめて心ここにあらずといった様子で惚けていた。
長い首を活かして後ろへと顔を向ければ、コーヒーを飲みつつも一つ目の男性がその眼をかっと開いて、その眼に焼き付けるように二人を凝視している。
美しいものに惹かれるのは人であろうとなかろうと同じのようだ。美味しいものに惹かれるのもまた同じ。
――わかります!わかります!二人とも眼福ですよね!
と、私は激しく同意した。
だが、知らない他の客に声を掛ける勇気など私には更々なかったので、その言葉は心の中に留めておくだけにした。
たとえ人でなくても――妖怪でも、人見知りはしてしまうのである。
「さて……」
私は使い込まれた銀色のティーポットを手に取った。
他の店はカップに紅茶を淹れて持って店もあるのだが、この店は自分でティーポットから好きなだけ紅茶を注ぐスタイルだ。
溢れないように気をつけながらカップに静かに紅茶を注いでいく。
真っ白なカップに溜まるのは一番綺麗な瞬間の夕焼けの色だ。その中に、ソーサーの上に添えられた輪切りのレモンを浸す。
その果肉をスプーンで少し潰してから取り出し、ザラメの混じった白砂糖を入れてかき混ぜる。ぐるぐると回る渦。残ったザラメの欠片がゆっくりと底に沈んだ。
カップを口元に持っていき、火傷しないように少しずつ紅茶を口に含む。ほのかなレモンの香りが口内を満たし、甘さと少しの酸味とほろ苦さを残して喉を通って落ちていく。その部分があたたかい。
――あー、落ち着く……。
私はほっと息を吐いて、カウンター内の二人を再びそっと見遣る。
店主は慣れた手つきでコーヒーを淹れている。
マスターだから当たり前のことかもしれないが、まだ若いだろうに凄いなぁと私はその姿を見る度に素直に感心するのだ。
そして、彼が淹れたコーヒーの隣に阿吽の呼吸のように女性店員が今日の日替わりデザートを置く。優しい微笑みを携えた、そんな二人の姿が眩しい。
紅茶を口に含みつつ、長い首をゆるりと揺らしながら、私はうっとりと目を細める。
――今日も美しい笑顔と美味しい食事をありがとうございます!そして、いろいろとご馳走様です!ありがたやーありがたやー。
テーブルの下で極々自然な動作で二人を拝むように彼女は合掌した。
つい首がどんどん伸びてしまったが、それを咎めるものはいない。
普通の喫茶店だったらこうはいかない。人間社会に溶け込むためには、妖怪の部分を見せてはならのだ。気が抜けない生活はとても苦しくて厳しいものがある。
でも、この喫茶店はそんなことを気にしなくてもいい。勿論、他の客に迷惑になり過ぎることはいけないし、マスターや店員さんを困らせるのも良くないけれど、多少妖怪の部分を出したところで誰もそれを気にしない。私以外にも客の中に妖怪がいるからだ。
――はぁ……やっぱり居心地がいいわぁー。
美味しい紅茶やコーヒーに、時々頼む日替わりデザート。そして、何と言ってもイケメンなマスターの爽やかスマイルと美人店員の可愛げな表情。それらを味わいながら、人目を気にすることなく寛げる。彼女ーーろくろ首たち妖怪にとって、この喫茶店は憩いの場であり、ここで過ごす時間まさに至福のひとときであった。
*
はぁ、と深い溜息をついたのは、カウンター内にいるわたしこと、祈理である。
そんなわたしに、この店の主人――春夏秋冬志貴さんが訊ねてきた。
「それで、今日の夕飯は決まった?」
「それが、まだ考え中なんですよねぇ……。何か食べたい物はありますか?」
「何でもいいよ」
「即答しないで少しは悩んでください。それが一番困るんですよ」
「そうか。それなら、言い方を変えよう。祈理が作ってくれる料理なら何でもいい」
「う、うわぁ……」
「何だよその反応」
「いやだってですね……というか、さらっと言いましたけど、そういうこと自分で言ってて恥ずかしくないんですか?」
「正直自分でもちょっと鳥肌立った」
「ふふふ」
「まあ、本心だけど」
「……う、うわぁ」
「引くか照れるかどっちかにしろ」
顔を覆ったわたしの頭を志貴さんが小突く。だが、わたしを見つめるその眼差しは酷く優しいものだった。……何だか苦いコーヒーを飲みたい気分になった。
客の妖怪たちは、わたしたちのことを「おしどり夫婦」言ってくるが、まだ結婚はしていない……同棲はしているけど。
何が楽しいのか、そんなわたしたちを一目見ようとやって来る妖怪たちは少なくない。まあ、志貴さんを見たいという気持ちはわかる。わたしには勿体無いくらいのイケメンで、いつも対応はスマートで、時々意地悪なところもあるし、子どもっぽいところもあるけれど、そのギャップがまた良いのだ。
志貴さんの美貌に顔を染めるのは人間も妖怪も一緒のようで、それを見る度に「わかるわかる!そうなるよね!」と頷きたくなる。
ふと、窓の外を見遣れば、ゆっくりと、だが確実に、丸い丸い夕日が沈んでいくのが見えた。
その光に少しだけ目が眩んだ。
「……まるで紅茶の中のレモンみたいですね」
わたしがぽつりと独り言のように呟いた。そして、はっとした。
「いけないいけない。志貴さんみたいな表現をしてしまった」
「えー、いいじゃん別に」
「あー、やだやだ!」
いつも一緒にいるから、似たようなことを言ってしまうのだろうか。
何だか恥ずかしくなってわたしはパタパタと手で顔を扇ぐ。
それに志貴さんが小さく笑っていたら、お客さんからオーダーが入った。
「すみません、コーヒーください」