スプリンター
青年は駆ける。
うしろには、影が、まるで子供をあやす母親のように、優しい悪意で抱きしめようと迫る。
駆ける青年の左腕に「劣等感」が絡みつく。
劣等感が言う。
「ああ、可哀想な子。どんなに努力しても届かない。あなたは普通の人ができることができない。あなたは例外者。あなたは常に選ばれない」
右腕に「愛欲」が絡みつく。
愛欲が言う。
「ああ、気の毒な子。どんなに努力しても得られない。あなたを愛してくれる人はいない。あなたは醜い。あなたの渇きは常に満たされない」
左足に「虚無」が絡みつく。
虚無が説教する。
「可能性は捨てなさい。夢なんて戯言です。あなたは何も望まず、ただ言いつけに従えばよいのです」
右足に「憎悪」が絡みつく。
憎悪が叫ぶ。
「いつまで喰われる側でいなければならないのか!
いつまで惨めな思いでいなければならないのか!
幸せな人間が憎い!
奴らは我々をいつも侮辱する!
憎い!
憎い!
憎 い !!」
青年はついに影の中へと引き摺り込まれた。
女の顔をした「殺意」が、恋人がキスをするような仕草で、青年の頬をやさしく愛撫した。
殺意が諭す。
「ねぇ、私と一つになりましょう?
大丈夫。あなたは正しいわ。あなたは公正な裁き手となって、やがて英雄になるの。
あなたは失うのではなく、生命をその手に得るのよ」
青年は抗わなかった。
じっと、影の話に耳を傾け、頷きさえした。
徐々に自分の身体が黒く染まってくことを感じながら、しかし、その目を決して閉じなかった。
澄んだ目は暗闇の先を見つめ、その目の内側には、友人が、家族が、仲間が、愛しい人が、かつて信じた自分自身が写っていた!
彼らは微笑み、手を伸ばしてくれた。優しい言葉をかけてくれた。そして、彼らを守りたいと思ったのは、他ならぬ自分自身であることを思い出し、そして
自分、僕、私、俺が言い放つ!
自分、僕、俺、私が言い放つ!
自分、私、僕、俺が言い放つ!
自分、私、俺、僕が言い放つ!
自分、俺、僕、私が言い放つ!
自分、俺、私、僕が言い放つ!
「迷 わ ず 走 れ ! ! !」
こみ上げてくる情熱は、胸の中でゆっくりと、しかし、徐々に光を増していき、周囲を照らす。
纏わりつく影は青年をもの惜しげに離した。
今再び青年は駆ける。
追いすがる影と闇を振り払い、鋭く、真っ直ぐ、一心に翔ける。
かつて地に伏せ、倒れていた青年は今、全力で走っている。
青年の名は・・・