8 ポォン、来来
それは、ある昼下がりのことだった。
「青妃さまっ、『先触れ』がございましたっっ!」
一人の侍女が慌てた様子で、部屋に飛び込んできた。
「先触れ?」
「つまり、国王陛下が今夜この登龍殿へいらっしゃるとの知らせです。妃にとっても、お迎えの準備などございますから、突発的なことでない場合にはこのように事前に知らせがあるのです」
いつもと変わらない落ち着いた調子で、菖蒲が解説を加えた。それから彼女は、テキパキと周りの侍女達に指示を出し始めた。衣装の用意、殿舎の内外の清掃、寝台の整備など、途端に全体が色めきだって騒がしくなった。
「……」
ついに、来るのか。
数日前に夏妃から「まだ王の渡りがないのはおかしい」と指摘されて気になってはいたが、いよいよその時が訪れてしまったらしい。
嫌だ、とも言ってはいられないが。そもそも、このためにこの国へ来たのだから、役目は役目で、きちんと果たさなければ。
私が深呼吸をして顔を上げると、ニコニコと満面の笑みを讃えた侍女が目の前に立っていた。朱琳だ。その手には、いくつかの髪飾りが載せられた台座が掲げられていた。
「おめでとうございます、青妃。この時を心待ちにしておりました」
心底嬉しそうに弾ませた彼女の声に、思わずかっとなって立ち上がりそうになった。しかし、パタパタと部屋中を走り回り支度をしている他の侍女達に不審がられてはいけないと、顔だけ上げて睨みつけた。
自分でも自覚できるほど、全身が震えていた。
「わなわなと震える」というのは、誇張表現ではなく現実にあることなのだと、この時理解した。
そんな私を見ても、朱琳は表情を崩さず笑顔のまま、髪飾りについて語り出す。
「どんなものが良いですかね? 青妃は由貴妃とは違ってお若いですから、愛らしい雰囲気のものが素敵でしょうか。暗闇でも映えるように、石の沢山付いたものもいいですね。……すぐに外してしまうのでしょうし、壊れにくいものを選んで参りました」
『すぐに外してしまう』という表現がこの夜起こることを想起させて、私の震えはより一層強いものとなった。
(……この野郎、誰のせいで! お前が、お前が立場を放棄しなければ!)
自分で発したこともなければ、彼女に対して考えたこともない言葉が、この時突如湧き上がってきた。
朱琳ーーと呼ぶのも本当は嫌だったが、慣れてきてしまっているのも事実ーーは、自分が『キモいから無理』という理由で私にその役目を押し付けたことに、何の罪悪感もないのだろう。あったならもう少し控えめにするはずだ。……いや、そんなもの抱く人間ではないことは、初めからわかっていたではないか。
気遣いなど期待するだけ無駄なことだ。
そして、それはそれとして私がこの役目を果たさねばならないことは、あの瞬間に決まっていたのだから。
私はもう一度深呼吸をし気持ちを落ち着けてから、彼女がおすすめしたうちのどれでもない、特徴の薄い髪飾りを手に取った。
それから念入りに湯浴みをしたり化粧をされたりしているうちにあっという間に時間は経ち、気づくと日はとうに暮れていた。それからまもなくして、国王がこの登龍殿へ到着したとの知らせが入った。
他の侍女達が一斉に出迎えに向かった時、朱琳だけが踵を返し、私の側へ歩み寄ってきた。そして私の耳元で、こう囁いた。
「青妃、国王陛下に抱かれるのは、嫌ですか?」
「……は?」
この期に及んで、この女は一体何を言い出すのだろうか。
「嫌とか嫌じゃないとか、そういう問題じゃないでしょ?」
そんなことを考えても、何ら意味のないことだ。
こちら側には行動の選択権などないのだから。
「立場とかしがらみを抜きにして、貴女自身の気持ちを答えて」
暗がりでもわかる大きな目で射抜くように、彼女の瞳が真っ直ぐ私を捉える。それは彼女が主で私が従であった頃の関係を呼び起こさせ、自然と従わざるを得ない空気に飲み込まれた。
「……そ、そんなの……ぃゃ、に決まってる。でも、拒否なんてしたら、国はどうなるの。貴女の御父上や、お兄様は」
「だからぁ、……ま、いいわ。わかった」
朱琳は呆れた様子でふぅと一息ついて、私から身体を離した。
「ちょっと、お化粧が崩れてしまっていますわ。直しますから、目をつむってください」
その言葉に、私は抗う気力もなく素直に従った。
一体、何故あんなことを言ったのだろう。
事の直前にそんなことを指摘され、前向きに役目に臨めると思うのだろうか。せっかく準備の数時間で作り上げてきた覚悟が、このせいで全く台無しだ。
無為に感情を揺さぶられたことに、改めて怒りが込み上げてくるのを感じていた。
化粧直しを終え、跪いて待つ私に、朱琳が浴びせた言葉は、またしてもこちらの神経を逆撫でするには充分すぎるほどであった。
「栄えある御役目、立派に果たされくださいませ」




