32 腐女子と傍観者
登龍殿から王太子殿下の住まう宮までは、結構距離があった。そこへ着く頃には、じんわりと汗をかいて服が身体に張り付くのを感じていた。
「ごめんね、私のわがままで歩かせちゃって……」
供の宮女にそう言いかけた時、ひゅうっと風が吹いた。カサカサッと何かが足元に触れ、私はそれを拾い上げた。
人物を描いた絵のようだ。
「あーっ、ごめーん! それ私のー!」
一人の女性がこちらに駆け寄ってきた。その手には紙の束を抱えており、そのうちの一つが風で飛ばされたようだ。
「あ、あなたは確か……」
「ごきげんよう、修美公主。私は王太子妃の青香香と申します」
「あ、そうだったそうだったー。いつのまにかあの子の妃になってた人~」
修美公主は、王太子殿下の姉君にあたる方だ。彼女とは、国王の誕生日会の時に一度挨拶させていただいた以来だった。あの時はまだ自分は王の妃ということになっていたから、"いつのまにか"という表現も納得だった。
周りの人間にとっても、王太子に妃が来ることにはなっていなかったはずなのに突然そうなったのだから、不思議な存在であるのだろう。
「あの子さぁ~、話すの苦手でしょ、大丈夫? 女の子と会話とか想像できないんだけど!」
「……ま、まぁ、だんだん打ち解けていただいてきたところで」
身内からの評価も、微妙そうだ。少し可哀想になったので、私は話題を切り替えることにした。
「あの、これお返しします」
「あ、ありがとう! 私が描いたんだー」
「え、すごい。お上手なんですね」
私が素直に褒めると、修美公主はにんまりと嬉しそうな顔をした。
「えへへ。ところで青妃、貴女は衆道はお好き?」
「シュドウ……ごめんなさい、知らない言葉です」
「なーんだ。知ったらね、世界が輝いて見えるよぉ~。興味あったらまた話そ」
そう言って、修美公主は立ち去って行ってしまった。このあたりは、国王の子ども達が住んでいる場だ。近くの殿舎が彼女の住まいらしかった。
私は先程の言葉の意味を、供の宮女に聞いてみた。
「シュドウって、知ってる?」
「えーと、はい……男性同士の恋愛のことを」
「それが、世界が輝いて見える、につながるの? 女には無関係な話じゃない?」
「修美公主は、衆道を描いた創作がお好きなのかと思います。ハマると何を見てもときめいてしまいがちなので、世界が輝く…につながるのかと。無関係だからこそ良いというか、女性の立場からそれを嗜む層は、一定数います」
それでさっきの絵は、男同士が抱き合っているような構図だったのか。細く美麗な線で描かれたその絵は、宮廷絵師の描くような猛々しい武人の絵とは違い、新鮮に思えた。
(ときめいて、世界が輝いて見える、か……)
*
「朱琳、朱琳」
「皓月様、息が上がってますよ? 大丈夫ですか」
「へへ……早く会いたくて、走ってきちゃった」
私は彼の額に滲む汗を手巾で拭きながら、その彼の気持ちに花の咲き誇るような嬉しさを感じていた。
「こないだの試験、合格したんだ。君に早く知らせたくて」
「ほんとですか? おめでとうございます。皓月様が努力してらしたから」
「君が応援してくれたお陰だよ、ありがとう。……あ」
彼は足元に咲いていた花に目をやり、かがんでそれを摘んだ。
「見て、この花。知的で可憐で、君にぴったりだ」
そう言って花に軽く口付けを落とし、私のこめかみに差し込んだ。差し込む時に、彼の手が私の頬と耳に触れる。そこにピリッと小さな電流が走るのを感じながら、私達は視線を絡ませた。
*
……クソなことを思い出してしまった。
確かにこの時、私の世界は輝きに満ちていた。
私の元へ走ってくる時の白い吐息も、日の光を反射する汗の雫も、道端に咲く花も、肌がわずかに擦れる瞬間も、すべてが私の世界を彩り、美しい風景画のようであった。
裏切られなければ、この景色は色褪せず輝いていたままだっただろう。
だが、現実はそうではなかった。
可憐な花は所詮ただの雑草であったし、肌の触れ合いは静電気の不快な刺激でしかなかった。
『無関係だからこそ良い』
なるほど確かに、と思わざるを得ない。
自分が関係していることならば、それは自身の感情の変化によって多大な影響を受けてしまうが、傍観者であれば、何があっても自分自身が傷を負うこともない。
そういう世界もあるのだと妙に納得しながら、殿下の住まう方へ足を運んだ。




