10. 憧れの王子のため……?
午前でお嬢様の護衛任務が終わった私は、バートランド殿下のもとまで走った。
あんなことがあった殿下は、きっと今も泣くことも出来ずに苦しんでおられる。
言ってさしあげなければ!
殿下は悪くない、と。
お嬢様の涙を隠すためにしたということは分かっております、と。
殿下の住まうアパルトメントが見えてきた。
私はさっきの光景を思い出し、ふと立ち止まった。
『オレが隠している間に、全て流してしまえ』
殿下がお嬢様の背中に手を回したのを見て、私は胸がズキンッと痛んだ。
どうして胸が痛んだのは、お嬢様が殿下を拒んだ時じゃないの……?
これは本当に殿下のため、なんだろうか。
お嬢様のことが好きな殿下を見ていられない自分のためなんじゃないのか。
殿下に優しくしていただいて、変な欲が出たんじゃないか?
そんな邪な心で、殿下のもとに行くなど、許されるわけがない……。
殿下の住まうアパルトメントはもう目の前にある。
でもこれ以上私の足は動かず、ただ強くなる雨に打たれるだけだった。
顔を上げれば殿下の部屋の窓が見えることは分かっていた。
しかしそれすらも不敬なことに思えて、顔を逸らす。
結局私は訪ねることはできず、踵を返して再び走り出した。
そのときの私は、窓から殿下がこちらを見ていることに気づいていなかった。
*****
私はどうしようもできない不甲斐なさと自分の心の醜さを紛らわすため、走った!
走って気づいたら、クレヴィスの森まで来ていた。
ガムシャラに剣を振り回せば、少しは気が晴れるかと無意識に思ったのかもしれない。
森に足を踏み入れ、一心不乱に剣を振った!
ここは殿下が来たがった場所で。
殿下が楽しむために来た場所。
私一人で来ても、意味がないのにッ!
どれだけ剣を振っても心は晴れなかった。
余計に焦燥感が募るだけだ。
気づいたら意外と奥まで来てしまったようだ。
それでもまだ私一人で倒せる範囲だから、引き返せば大丈夫。
そう思った時だった。
周りの獣たちが、一斉に走り出す。
何かから逃げているようだ。
奥からもどんどん獣が走ってくるが、私のことは見向きもせず通り過ぎる。
背筋に冷たい汗が伝う。
すぐに逃げよう。
そう思った時、呻き声に引き止められた。
「うぅ……助けてくれ」
見ると足を怪我した冒険者が、木の根元で蹲っていた。
こんな所で足を怪我しては、助からない。
「大丈夫ですか!」
私は駆け寄り、傷の具合を確かめた。
これなら傷を塞げば辛うじて歩けるかもしれない。
「雨で滑って、うっかり一角リスの攻撃を受けちまったんです……」
私は木魔法を使って、冒険者の傷口を縫い留めた。
そして薬草で押さえ、その周りを固定する。
ここまで15秒。応急処置は慣れたものだ。
冒険者を立たせると、なんとか足を引きずりながら歩けそうだった。
「ありがとうございます! 騎士様」
もう走る獣たちもいない。
ここで冒険者に肩を貸して逃げることもできる。
しかしそれでは獣たちが恐れていた存在にすぐ追い付かれてしまう。
私は剣の柄に手をかけ、覚悟を決めた。
「うわぁぁあ!!」
冒険者が叫ぶと同時に、青い巨体が姿を現した。
氷爪熊だ。
左足からお腹にかけて焼け跡がある。
きっとあの時の爆発で負った傷だろう。
手負いとはいえ、氷爪熊だ。
戦って勝てる相手じゃない。
でもなんとかあの冒険者から注意を逸らさないと。
「早く逃げてくださいっ!」
私は覚悟を決めて、氷爪熊に向けて剣を抜いた。
氷爪熊の足を蔓で絡ませ動きを封じる。
そして氷爪熊に向かって一直線に走った!
何度か飛んでくる爪攻撃を避け、火傷を負っている左側に回り込む。
私が斬りかかろうと剣を構えた瞬間、振り上げた熊の爪から氷柱が出現して襲ってきた!
私はそれを後方にジャンプしてなんとか避ける。
足に絡ませた蔓は呆気なく爪で斬り払われていた。
そうだ。こいつは氷魔法も使うんだ。
こないだ帰ってから図鑑で調べた時に、書いてあった。
ちなみに苦手な魔法は火魔法!
当然私は使えない。
だけど氷爪熊はしっかりと私に狙いを定めている。
冒険者からは意識を逸らせたみたいだ。
それだけでホッと安堵した。
守りながらでは、膂力も防御力もない私では太刀打ちできない。
でも今なら攻勢に出られる!
勢いを付けて、氷爪熊の周りを走り回る。
爪も氷魔法も追いつかない速度で。
そして隙を見つけては一閃、左足に斬りつける!
浅い!
傷口は血が滲んだ程度だ。
これでは動きを鈍らせることもできない。
そんなことを考えている間にも、氷魔法が飛んでくる。
私はそれを右に転がって避けた。
何度か同じように斬りつけてみるも、どうにも決定打に欠ける。
それに森に入ってから気の向くまま剣を振り続けてきたので、もう大分体力を消耗してしまった。
息が上がってくるのを感じて、チラリと冒険者が逃げた方向を見る。
もう冒険者もある程度遠くまで逃げた頃だ。
私も別の方向から逃げよう。
方向を転換し、冒険者が逃げた方向から90度の向きに走った。
一人で対峙してみると熊は想像以上に早い。
足が速い方の私ですら、撒くことができない。
それに雨に濡れた草に足を取られて、余計に体力を消耗させられた。
私が走る後ろから何度も氷魔法が放たれ、それを避けながら進む。
後ろを見て、前を見ては、正直とても神経を使う。
何度か蔓で足止めしたが、それも瞬時に爪で対処して襲ってくるのだからたまったものではない。
次に後ろを見て、前を見ると、大きな木が立ちはだかっていた。
うっかりしていた!
勢いのまま、真っ直ぐ進めばぶつかってしまう。
それでも直径1.5メートルほどだ。
回り込めばなんとかなる――と思った矢先に足がもつれた。
「!?」
慌てて足元を見ると、私が出した蔓が絡まっていた。
これは熊の足に絡めた蔓?
氷爪熊が投げてきたのか!
剣で蔓を切り振り返ると、氷爪熊が氷魔法を放ってきた。
もう避ける余裕がない私は、剣で氷を弾く。
砕ききれない氷が私の周りにドスドスッと突き刺さった。
爪は力が強過ぎて無理だけど、氷魔法なら弾く程度はできそうだ。
近づきながら氷魔法を放ってくる氷爪熊に、何度でも弾いてみせた。
何度も氷を受けた剣を持つ手は、次第に冷たくなり、感覚がなくなってくる。
それに冷や汗を滲ませた私は、一歩下がる。
――トン、と背中に木膚の感触がした。
瞬時に逃げ場がない状況を理解して、背筋に悪寒が走った。
右も左も氷の残骸。
後ろは直径1.5メートルの木。
正面にはもうすぐ私に到達しようかという氷爪熊。
木の上から蔓を伸ばして、木の上に乗ろうと見上げた瞬間。
ドッと鋭い音を立てて、頭上に氷魔法が突き刺さるのが見えた。
まずい。
完全に逃げ場を失った。
絶体絶命のピンチってやつだ。
右も左も頭上も氷、目の前には氷爪熊。
幸い道は塞がれているから、あいつが来る方向は一直線だ。
それに加えて何度も斬りつけた傷が熊の左足にはある。
私では一閃では致命傷を与えられないから、何度も同じ箇所を斬りつけた傷。
そこに剣を突き立てれば、勝てなくとも怯ませるくらいはできる筈。
冷たくなった手で剣を構え、走り出した。
すでにある傷目掛けて、剣を突き刺す!
よし! 刺さった!
ギャアァァア!!
叫び声と同時に氷爪熊が片手をブンッと振った!
すると剣が宙を舞うのが、スローモーションで見えた。
次の瞬間には、私は元の場所に背中を打ち付けていた。
「ぐっ!」
(これはもう……駄目なんじゃないか……)
逃げ場がない状況に、剣まで失ってしまった。
流石にこれがどうにもならないことは経験から分かる。
あーあ、こんなことなら、さっき殿下の部屋に行っておくんだった。
きっとまた泣けずにお嬢様のことを考えておられるんだろうな……。
私じゃ何もできないかもしれないけど、少しでも話を聞いてさしあげることができたら……。
目を瞑れば、悲しそうなバートランド殿下のお顔が浮かんだ。
「さよなら……」
――ズバッ!!
ガアァァァアッ!!
(ん……あれ? 痛くない。もしかして一瞬で死んだ?)
ザッ、ザッ、と足音が近づいてくる。
雨で地面が濡れているから、その度にビチャッと水が跳ねる音もする。
(いや違う。これからかッ……)
タン、と肩の後ろの木を突いたような音がした。
ビクッと震えるも、一向に痛みには襲われない。
薄ら目を開けると、キリッとした鋭い眉毛と伏せた目にかかる長いまつ毛が見えた。
目の前にいたのは、木に肘をついて肩で息をしている殿下。
雨で濡れた殿下の前髪からは、雫がポタリまたポタリと落ちていた。
「殿下……なぜ……」
なぜまた助けてくださるのですか……。
本来であれば、私の方が殿下をお助けしなければいけないのに……。
「殿下……私は殿下に助けていただくような資格はありません……。助けていただいたことはありがたいですが、もうこのようなことはおやめください」
「なぜだ……?」
「私は騎士です。本来であれば殿下をお守りする側の立場。殿下が危険に晒されるくらいなら、この命はお捨てください」
私がそう言い切ると、殿下はギュッと強く私を抱きしめた。
「そんなこと、できるわけがないだろうッ!」
殿下の腕は痛いくらい私を締め付けた。
ああ、今の言い方はずるい。
お優しい殿下が私を切り捨てることなんて出来るはずないと分かっているのに。
「違うのです。そうでなくとも私には殿下に気にかけていただく資格なんてないのです」
「? どういうことだ」
「殿下が好きです。……私はいつの間にか殿下の一番をのぞんでしまっています。そんなこと許されるはずないのに」
殿下は鋭い目元を甘く細めた。
顎に添えた手でクイッと私の顔をあげ、私は殿下の熱い視線に釘付けになる。
そして優しく唇を奪われた。
「オレもクルトが好きだ」
「え…………? ……殿下がお好きなのはお嬢様では?」
「オレが一番好きなのはお前だ。一緒にいて楽しいのも、そばにいてほしいのもクルトだけだ」
お嬢様……よりも?
私……望んでもいいの……?
そう思ったら、熱い涙が頬を伝った。
殿下はそれを指で拭って、嬉しそうに頬を緩ませた。
「やっと自分のことで泣いたな」
「……へ?」
「いつもオレのことばかりでそんな顔をしていただろう。クルトはもっと自分のことで感情を出せばいいと思っていた」
私は殿下が好き。
殿下が悲しければ私も悲しいし、殿下が笑えば私も嬉しい。
でも自分の感情を殿下に向けるのは、違うと思っていた。
だって私は騎士だから。
でもそれすらも殿下は認めてくださるから、また感情が一粒こぼれ落ちた。
次の話でラストです。