「噫、無情」
「噫、無情」
深く、深く、沈んでいく。
どこまでも深く、暗澹たる場所へと、沈んでいく。
周囲を満たしていた光が薄れ、やがて闇の沈黙が訪れた。
音はない。誰もおらず、世界は驚くほどの静寂に包まれている。
これが、これこそがずっと求め続けていた場所なのだと、憐れな少女は思う。
瞼を閉ざして、安らかな表情を浮かべる少女は、幸福の中で死に、そして沈んでいくのだ。
嗚呼、世界はこんなにも残酷で優しい。
それはもう、いっそ忌々しいほどに。
✳︎
冬も厳しさを増す十二月の海辺は、容赦なく肌を刺すような冷気に晒されていた。
どこか遠くで鳴った船の汽笛と、上空を旋回する鴎が発する鳴き声とが相まって、深夜にも関わらず周囲には音が絶えない。尤も、一定間隔で砂浜へと押し寄せる波のさざめきの影響もあるのだろうけれど。
数多のごみが無造作に散乱する砂浜を歩いていると、まるでこの世界には自分ただ一人しか存在しないのではないかという、荒唐無稽な錯覚に陥りそうになる。馬鹿らしいと唾棄するならそれまでだけれど、しかし、少なくとも海辺をたった一人で歩く少女エリスにとっては、それが救いですらあった。何故なら、自分が孤独であることが「仕方のない」ことに感じられるから。他に誰もいないなら、孤独であるのは当然だ。そこに特別性はない。そうであったらどんなにいいだろうかと、エリスはいつも考えていた。
だが、元より虚構と現実とは相入れないものだ。たとえ誰がどれだけ強く願おうとも、世界はあくまであるがままに回っているし、これからもその在り方を変えることはないだろう。
風にたなびく金髪を傷だらけの右手で押さえながら、海上を悠然と進む船舶を無言で見送り、堤防の上を行く薄汚れた浮浪者の姿を見やったエリスは、その絶望的な現実を嫌でも受け入れる他なかった。それは幼い彼女にとってあまりに重く、過酷な道理だった。
エリスは異なる人種間の交配によって誕生した混血児だった。
日本人の母親から受け継いだのはそれこそ顔立ちと性別くらいのもので、彼女を構成する外的要素の大部分は日本人離れした様相を呈していた。白人だった父親から受け継いだ特徴であろう、綺麗な宝石のような碧眼も、海面に照り返した月光を反射する金糸のような髪も、まるで童話の世界のお姫様のようではあるけれど、生憎、エリスが暮らすのはお城ではなく、ありふれた賃貸アパートの一室である。
何よりも普通であることが求められるこの場所において、エリスは異端でしかなかった。
エリスは心から思う。
普通に生まれたかったと。一見すると美しい碧眼も金髪も、エリス本人からすれば余計な代物に相違なかった。黒い瞳と髪でよかったのに、と嘆いたことなど数知れない。
だが、そうした鬱憤を母親にぶつけることはなかった。むしろどうすれば母親の助けとなれるか、エリスはそればかりを考えている。物心つく頃にはいなかったろくでなしの父親に代わって、女手一つで子供を育てる母親は、エリスにとって最愛の肉親に他ならないからだ。たとえそれが、酒に溺れ、男との肉欲に溺れ、働こうともせず、娘に虐待紛いの労苦を強いるような女であってたとしても。
エリスの母親は、名を沙織と言って、かつてはホステスとしてそれなりに名を知られた存在だった。
地元である海辺の街を離れ、単身で都会へと繰り出した当時の彼女は、とにかく刺激を求めていた。沙織がエリスの父親、イギリス出身の男と出逢ったのも、丁度その頃のことだった。
日常的に数多くの男と逢瀬を重ね刺激に飽いていた沙織は、金髪碧眼の偉丈夫に強く惹かれ、そして程なくして彼の子を孕んだ。その旨を伝えると、男は突然激昂して、身重の沙織を置いて何処へと姿を消してしまった。お腹の中の赤ん坊とたった二人残された沙織は、失意の中でエリスをこの世に産み落とすことになった。
彼女にとって、否、子供にとって最も残酷だったのは、分娩された赤子が沙織を捨てた男の特徴を色濃く受け継いでいたことだ。
出産後で体力を消耗しているにも関わらず、金髪碧眼の赤子を目にして激しく取り乱した沙織は、即座に医師により鎮静剤を打たれた。こうして、この世に望まれない赤ん坊が誕生してしまうこととなった。
その後、エリスと名付けられたその赤ん坊は、沙織の元で育てられることになる。とはいえ、実質的に面倒を見るのは沙織ではなく、彼女の母、つまりエリスから見れば祖母に当たる人物だった。彼女は孫の誕生を喜び、娘の養育に協力的でない沙織に代わって育児を行ったが、エリスが四歳になる頃に急病で逝去した。それから、沙織のエリスに対する虐待はエスカレートしていった。
母親から振るわれる暴力について、エリスは歪曲した解釈をしていた。
曰く、この暴力は自分の過失による仕打ちであると。あるいは、この暴力すらもが母親による愛情表現なのだと。そのように思わなければ、幼く脆い自身を守ることが出来ない。本来一番に愛を注いでくれるはずの存在による加虐は、往々にして悲劇的な親子関係を構築する。長く虐待を受けて育った子供は、あろうことか虐待者に対して、正常な子供よりも深く悲しいほどの愛情を抱いてしまうのだ。幼児虐待の被害者の多くは、そうした一種の「ストックホルム症候群」に陥っている。
それはエリスとて例外ではない。決して自覚はなくとも、心の根底ではたしかに違和を感じている。殴られた時、蹴られた時、暴言を吐かれた時、家から追い出された時、その度にエリスは母親の行為を捏造する。そういうものなのだ、と好意的に解釈することによって、内心に燻る違和感を強引に黙殺し、エリスは今日もまた仮初めの安寧を演じ続けている。
真っ白なワンピース、その生地の下に窺える、無数の鬱血した暴力の痕跡。青痣だらけの体は見るも痛々しく、エリスの置かれた現状のやるせなさを象徴しているようだ。
彼女はきっと逃げられない。どれだけ孤独を憂い、滑稽な願いを抱こうとも、歪んだ母親への愛から目を背けることはできない。いわばそれが、それだけが、エリスという少女の在りどころと成り果てていた。
遥か水平線から、僅かな湿り気を含んだ冷風が吹き、どこか寂しげな音を残しながら消えた。
エリスは歩き続ける。もう、帰らなければならない。ふと想像する。あのうらぶれた部屋の、退廃的な空気の中で、見知らぬ男と絡み合う母親の爛れた姿を。その、全てを諦めたかのような、輝きを欠いた目がこちらへ向けられる瞬間を。
ぶるっと体が震えたのは、何も冬の寒さだけが原因ではない。
夢の終わりは、刻一刻と迫っていた。
夜の砂浜は驚くほどに冷たくて、少女はそこで初めて、自分が靴を片方履き忘れていたことに気がついた。
けれどすぐにもう片方も必要がなくなるであろうことに思い至り、すぐに脱ぎ捨てて、再び歩き始める。
打ち寄せる波の音が心地好い。ざわざわとさんざめく賑やかな昼の様子とは大違いだった。そのまま波打ち際までやって来て、ふとエリスは背後を振り返った。堤防越しに広がる街並み。少女が生まれ、そして育った街だ。その至る所に、かつての思い出は転がっていて、それを置いて行ってしまうのは、少し勿体ない気がした。
でも、エリスは行かなければならなかった。意を決して足を踏み出すと、ぴちゃりと音を発てて水滴が跳ねた。真冬の海の冷たさが、鋭い痛みとして足先から伝わるのを、顔をしかめて我慢する。迷いのない足取りで、一歩、また一歩と進んでいく。すると海面は瞬く間にエリスの首元まで及んだ。いよいよ口元まで海水が届こうとした時、エリスは一度だけ振り返って、何かを言った。その頬には、笑みが浮かんでいた。
そしてとうとう、少女の姿は海中へと掻き消えてしまったーー
その後、少女の姿を目にした者は誰もいなかった。
厚生労働省の発表によると、
平成28年度に全国の児童相談所が対応した、保護者の子供への虐待への対応件数は「13万3778件」
また、同年度の虐待による死亡人数は「49人」
公式に把握されている数字、実際にはさらに多くの被虐者の存在が想定される。