9.書作品制作の心得
最初は何も分からず、先生のお手本通り、言われるままに書いていました。
それが、良い作品を書くための一番の方法だと思っていました。
でもそれは、「私が書いた作品」ではあるけれども、「私の作品」ではないと、いつからか考えるようになりました。
私は、ただ表面をなぞっていただけだったと。
そして、自分の作品を書くためには、私には知識が不足していると感じました。
まず、使用する道具の知識がありませんでした。
筆、墨、紙などの種類、良し悪し、向き不向き、何も知りません。
先生に勧められたものをそのまま使っていました。
今でも知識不足で、先生や道具屋さんに聞きながら選んでいますが、本を読んだり、お店で実際に見たり、話を聞いたり、使用したりして、前よりも自分で選択できるようになってきました。
次に、文字についての知識がありませんでした。
その文字の成り立ち、意味、書体、何も考えずにその文字から受ける印象だけで、なんとなく書いていました。
今は、辞書を引いて、成り立ちや意味などを調べ、どのような書体で、どの筆で、どの墨で、どの配置で、どの強弱で表現するのが相応しいかを細かく考えるようになりました。
道具が違えば書き方も違ってきます。
今まで半紙に書いてきた技術では、大作を書く時はあまり役に立ちません。
まずは、道具を使いこなすために、慣れることから始めなければいけませんでした。
初めて大きな筆を持った時、すごく感動したことを思い出します。
この筆に慣れるまで一体何枚の紙を消費してきたのか、考えるのも嫌です。
私には、それだけ沢山の紙と墨と年月、練習量が必要でした。
要領が悪いんです。
「字は体を表す」と前にも書きましたが、私の書く字は「固い」とよく言われます。
頭でっかちで頑固、それが字に表れているようです。
無心で書くのが良いと言われていたりしますが、本当にそれが良いのでしょうか?
どうしても私は、常に自分にとっての一番の表現を考えながら書いてしまいます。
それが、作品に良く作用することもありますし、迷いとなって表れ、悪く作用することもあります。
ですが、それが「私らしさ」なのではないかと思っています。
大先生方は、魅せる技というものを持っておられます。
長年の経験から得た技術力と知識、そして兼ね備えたセンスや勘。
それらをフル活用して、計算して書いていると思います。
なので、本当の意味での無心で書いていることはないのではないかという気がします。
それから、漢字や調和体の作品を書く時、篆刻、刻字の作品を彫る時に特に注意しなければならないことがあります。
それは書体を揃えるということです。
公募展に出品する時は、漢字や調和体に楷書の作品は殆どありません。
調和体で多いのは、行書寄りの作品だと思います。
読めることを大切にしているようです。
漢字だと、行書から篆書まで様々ですが、二文字以上書く時、行書と草書を合わせたり、同じ篆書でも、甲骨文と金文を合わせたりしてはいけません。
もっと細かく言うと、同じ行書でも王羲之(人名)の書風と空海(人名)の書風を合わせた作品を書くというようなことはしてはいけないという、暗黙のルールみたいなものがあります。
公募展に出品する時は、それぞれで受賞しやすい作品傾向みたいなものがあるみたいですけれど、私はあまり良く分かっていないので書けません。
私は取り敢えず、自分の書きたい字を書いています。
それで、先生に心からやめた方が良いと言われた時だけ変更します。
私の考え方ですが、今は兎に角、受賞は二の次で、色々な種類を書いて勉強し、技術と知識を吸収する時期だと捉えています。
そのために、敢えて難しい文字や書体を選んだりします。
今の自分に足りないものに敢えて挑戦するのです。
その成果が、目に見えて分かるようになるのには何年もかかります。
ですがそうやって着実に経験を積むことによって、作品に奥行や深みが感じられるようになっていくのだと思います。
凡人の私には、花を咲かせ、実を結ぶまでには、沢山の養分が必要なのです。
書は、たった一文字の作品でも、その文字がその表現に至るまでの物語があったりします。
それを色々と想像しながら、鑑賞するのも面白いかもしれません。
お読み下さり、有難うございます。
ちなみに、「かな」も専門外なのでよく分かりませんが、おそらく書体を揃えるというところは同じだと思います。
紀貫之(人名)の書風と藤原行成(ふじわらのゆきなり/こうぜい)(人名)の書風を合わせて書いたりはしないと思います。たぶん。
あと、最後にもう一つ言っておきます。
作品を書く時は、ものすっごくお金がかかります。
書写、習字をするだけだとそんなにお金はかかりません。
作品を書く時は、そういう覚悟も必要になります。