12.仏教と書
今回も敬称は省かせていただきます。
前回の表具でも少し書きましたが、日本では書と仏教は密接な関係にあります。
仏教よりも先に、漢字は日本に伝来していたそうですが、仏教が伝来してから、書道は急速に発展していったようです。
飛鳥時代、奈良時代に写経が盛行し、国家事業として写経所まで設けられ、分業で制作されたそうです。
今でも、信心深い方は写経をされたことがあるのではないでしょうか?
私は全く信心深くないですが、最初に師事していた先生がお寺の住職をしておられました。
そして、先生のお孫さんと仲良くさせていただいている御縁で、そこのお寺で一文字写経をさせていただきました。
ちなみに、我が家が属している宗派とは違いますが……。
こちらのお寺は、真言宗です。
真言宗は能書家(書における高度な技術と教養を持った人のこと)としても有名な弘法大師、空海によって開かれました。
空海は日本書道界の祖として、嵯峨天皇とともに二聖と呼ばれたり、また橘逸勢を加えて三筆とも呼ばれたりしています。
空海から最澄に宛てて書かれた「風信帖」、空海から灌頂を受けた人の歴名が記された「灌頂記」は、臨書の教材としてもよく使われます。
ちなみに、「灌頂」とは、頭頂に水を灌いで悟りの位に達したことを証する儀式や師が弟子に対して行い、仏位の継承を示す儀式のことを言うそうですが、空海の「灌頂記」の方は、一般の人々に仏縁を結ばせるために壇に入らせ簡単な作法を授ける「結縁灌頂」のことみたいです。
書の話から外れますが、私の宗教観と言いますか、宗教に対する姿勢みたいなものを少し書きます。
私は便宜上、浄土真宗の門徒に属していますが、心から信じて信仰しているわけではありません。
歴史や文化などの学問としてや、建造物、彫刻、絵画や書、音楽などの芸術としての宗教は面白くて好きですが、信仰心は希薄です。
ただ漠然と、八百万の神様や仏様を敬っているだけです。
自分の都合の良いように神の存在を作り、崇めている、そんな気がします。
私は、特定の神を必要としていません。
信仰する気もありません。
辛いときに、心の拠り所となるものがあれば何でもいいのです。
人でも物でも神でも仏でも幽霊でも妖怪でも。
ただ、人に迷惑をかけることはしたくありません。
私は宗教の押し売りは大嫌いです。
天の邪鬼な私は、押し売りされると嫌いになります。
その人がそれを信仰するのは自由です。
布教するのも自由です。
でも押し付けられるのは不快です。
「これを信仰したら救われますよ」
「これを信仰したら幸せになりますよ」
「これを信仰しないなんて可哀想」
みたいなのは、腹が立ちます。
ほっておいて欲しいです。
だって、特定の宗教に縋らなくても十分幸せですから。
たとえ不幸になったとしても、特定の宗教に縋ることはないと思います。
そこまでの生への執着も死後への執念も無いですから。
一応、全く無いというわけではなく、宗教に縋ったり、自分にとっての大切なモノを犠牲にしたりしてまでの執念はないということです。
あくまで私の考え方です。
あまりこの考え方は推奨しません。
本当はもっと生に執着した方が良いと思うので……。
多分その方が健全な気がします。
話を戻します。
写経ですが、現在よく写経されるのは、「般若心経」、正式名称「般若波羅蜜多心経」と呼ばれる、大乗仏教の空、般若思想を説いた経典です。
本文は、僅か三百字足らずですが、中々に興味深い内容です。
解釈本も沢山出ています。
私は信仰心は薄いですが、仏教の用語は結構好きな言葉が多いです。
特に「有り難し」は、とても良い言葉だと思っています。
「ありがとう」の語源ですね。
自分の書作品でも、仏教の用語を書くこともあります。
信仰心が薄いと言いつつも、「私の思考はどこか仏教寄りかもしれないなぁ」と、これを書いていて思いました。
仏教と書は切っても切れない関係なので、仕方のないことかもしれません。
嫌なわけではないですよ。
お読み下さり、有り難うございます。
考え方は変わる可能性がありますので、さらっと読み流して下さい。
どうでもいい話ですが、ここに登場したお寺の友人宅では、クリスマスにフライドチキンを食べたりしていたそうです。
他の宗教にも寛容な、とても日本人らしいご家庭ですよね。




