鈴の音(すずのね) ~小説版
人には。
身に付けた技や手に入れた道具を使ってみたいという欲求がある。
それは「自分は、優れた技術、あるいはいい道具を持つ者であると確認して優越感を味わいたい」というだけの理由であって、ことの善悪とは関係ない。
ある能力が善いことに使われるか悪いことに使われるか。それは、ホンの些細な環境の違いで決まってしまう。たとえ殺傷に関するものであろうとも、技術や道具そのものに善悪は無い。それが善いことだったのか悪いことだったのかは、すべてが終わってから第三者が決めることになる……単なる感情を根拠に。
午後の日が差し込む、休日の電車内。
ラッシュ時と比べたらガラガラとも言えるが、都内を走る路線の車内では、座席がほとんど埋まっており、つり革につかまっている利用客も少なくなかった。
座席の片隅に、腕を組んで居眠りしている男がいる。
年のころは、見た感じ50過ぎ……いや、もしかすると老けて見える30代かもしれない。薄笑いを浮かべているような口元と、小柄だが敏捷そうな体、古ぼけた上着、気力のなさそうな空気、手入れの行き届いてない頭……それらの組み合わせがなんだかちぐはぐで、この男の年齢を判りにくくさせていた。
と言ってもそれほど目立つ男ではない。どこにでもいる疲れた中年という雰囲気だ。
男は気分いいのか悪いのかもわからない薄笑いを浮かべながら居眠りを続けている。
別に珍しくもない。こんな男はどこにでもいるから、乗客もまったく気にしてる様子は無い。
……よく見ると目の上に小さな傷跡がある。そして、男の右手首には極彩色の細い紐で、小さな鈴が結びつけられていた。この年齢の男に鈴はちょっと珍しいだろう。
が、どちらもよく見れば気がつくという程度で、注目されるほどの目立つ特徴でもない。
その近くに、派手な服装の集団が立っていた。若い連中だ。
「マッジ~? ウケルー!」
「ぎゃははは!」
若僧どもは大声でしゃべっている。1人は携帯で話し、1人はタバコに火までつけた。
正直、うっとおしい。しかし車内が混んでいるわけでもなく、また乱暴な雰囲気を漂わせた若者たちということもあってか、誰も抗議の声は漏らさない。
男も、ちらっと迷惑そうに目をあけただけで、何も言わずまた居眠りに戻った。
電車は、加速していたと思うとすぐに減速し始めた。都市部では駅と駅の間が1kmと離れていないところもある。
せっかちな若者たちはもう扉へ向かう。その途中で、男の前を通った。
そいつらの一人の尻ポケットから、皮ザイフが飛び出しているのが見えた。
居眠りしていた男は……まだ眠っているように見えたが、薄目をあけてその財布を見た。
ふと、右手の鈴が、リン……と小さな音を立てた。
気にする人は誰もいない。が、男は何かを恥じたかのような仕草で腕を組みなおし、自嘲の苦笑だけ口元に漏らして、狸寝入りを続けた。
ハコ師・鈴の音。本名・鈴木則義。前科一犯。
ハコ師とは、電車内を縄張りとするスリ師。そう、この男は逮捕歴もあるスリ師なのだ。
鈴木は、眠っているフリをしながら心の中の葛藤との戦いを終えた。
あいつらは隙だらけだった。以前なら迷わずに抜いただろう。しかし……
バシュゥゥゥ……。
扉が開き、やかましい若僧の集団は、やかましい笑い声を響かせながら降りていった。入れ替わりに、薄汚れたコートをひっかけている、白髪の男が乗ってきた。
背が高く肩幅も広く、がっしりした骨格。眼光が鋭く……言い方を変えると目つきが悪い。どことなく威圧感のある空気をまとっている。
白髪の男は、なにやらきょろきょろと周囲を見回す。空いた席を探しているようにも見えるが、鈴木はそっと目をあけて、心の中で呟いた。
「(わざとらしいよ、ダンナ)」
噴き出しそうになる笑いを我慢していると、白髪の男がようやく鈴木に気付いたような顔で振り向いた。
「よう。鈴の……鈴木じゃねえか」
「どうも、西垣のダンナ」
西垣と呼ばれた白髪の男は、ちょうど空いていた鈴木の隣に腰をおろす。
「まだ『シゴト』してんのか?」
「とんでもない。執行猶予中ですよ? それに……」
鈴木は右手首を見せた。鈴の音が小さくリーン、と聞こえた。
「このとおり。私ゃあ引退したんですから。」
西垣はその鈴を見てから、クックッと笑って言葉を返す。
「『鈴の音』と通り名で呼ばれた凄腕が、今や『鈴付きネコ』かい。でも、ま、仮に引退めてなかったとしても、俺達にゃ言えねえやな」
西垣は苦笑いしながら、胸ポケットの手帳を軽くしまい直した。黒い手帳に、金色で独特のマークと「警」の字が見えた。
「(あいかわらず、おっかねえ牽制会話だな。でも叩いたって、無いホコリは出やしませんよ)」
薄ら笑いを浮かべながら鈴木も、心の中は見せない。
顔は笑っているが目は笑っていない西垣……この男は私服警官だ。そろそろ定年も近いが、ずっと現場一筋でやってきて、半年前に鈴木に手錠をかけた刑事でもある。
「そういや会社も辞めたそうだな」
警察に自首した犯罪者をいつまでも雇っておくほど人のいい経営者は少ない。どうしても辞めざるを得なくなるだろう。親方日の丸で生きてきた西垣にそのへんの機微はよくわからない。
「で、どうしてるんだ、今?」
鈴木はそっけなく答える。
「失業保険でなんとか食ってます」
「よくねえなあ。まだ働けねえ歳でもないだろ」
余計なお世話の世間話に、電車のクラクションが混ざった。
半年前。
この路線のある駅で、ラッシュ時に自殺騒ぎが起きた。ホームから電車に飛び込んだようだ。
電車がホームの途中まで入って止まっている。
ダイヤは大きく乱れ、ホームには不機嫌な表情で通勤中の人々が溢れていた。
その中に鈴木もいた。当時は沿線の小さな会社に勤めており、まあ無いよりはマシという程度の給料を受けとっていたのだ。
鈴木は、このころもやる気の無い薄笑いを浮かべた表情で、通勤者の群れの中に溶け込んでいた。
周囲の無駄話の声が聞こえる。
「何も電車に飛び込まなくてもねえ……」
「死ぬのは勝手だけど、迷惑かけないでほしいもんです」
線路のほうを見ると、毛布をかけられた担架が上げられてくる。ふと、左手が毛布からはみ出た。腕時計をしている。
さほど高級品というほどでもないが……なぜか鈴木の脳裏で、その腕時計が印象に残った。
「らっしゃっせ~」
やる気のなさそうな店員の声に迎えられ、西垣が入ってきた。場末のラーメン屋だ。
鈴木は
「(帰るタイミングを失ったな)」
と思った。顔をあわせるなりそそくさと帰るのはちょっと怪しい。
「(ちょっと世間話でもしてから行くか)」
そう思って、片手で西垣に挨拶した。西垣も鈴木に気付く。
「珍しいところで会ったな、『鈴の音』」
そう語りかけながら、作り笑いを浮かべて隣へ座った。
天気、時事、などとうでもいい会話がポツリ、ポツリと交わされる。
西垣は煙草を取り出して火をつけた。
食後ならともかく、食事前のタバコは舌の感覚を鈍らせるから奨められたものじゃない。けれどこんな店では文句を言う者もいない。
鈴木はなんとはなしにTVの方へ目を向ける。ニュースが流れていた。
「……で飛び込み自殺があり、数十万人の足に乱れが出ました。死亡した男性は、会社を解雇されたばかりで、遺書によりますと消費者金融で借りた現金をスリとられたとあったことから、警察はこれが自殺の動機とみて調べています。では次のニュース。」
「(あ、さっきのか……)」
ボーッとニュースを見ているうち、西垣が話し続けていることに気づく。
「おめえは証拠を残さねえなあ、何をやっても。」
いまのニュースのことを話しているらしい。
「でもあそこはおめえの縄張りだ。きっ絡んでると思うんだがな。まあ、いつかは尻尾を掴んで……」
「西垣の旦那」
突然、鈴木が遮った。そして、天気予報が始まっているTVの方を向いたまま、ポツリとつぶやく。
「自首ってのは……どういう手続きがいるんですか?」
西垣はぽかんと口を開け、指のタバコを取り落とした。
車輪の線路の継ぎ目を通る音が断続的に響く。
半年前……自首し、形式的な裁判があって、執行猶予つきの刑を受けた。そうして『ハコ師・鈴の音』はこの世から消えた。その後には、会社をクビになった『失業者・鈴木則義』が残った。
「なんであのとき自首したんだ?」
西垣が、「暇つぶしのおしゃべり」といったような、あまり興味なさそうな顔で言う。
「ホトケ心か?」
「ホトケ心?」
鈴木は鼻で笑う。
「生き馬の目を抜く東京ですよ。スリに遭うのは油断してるから。抗議のつもりで自殺したんなら、お門違いです」
鋭い横目を、西垣は鈴木に向ける。
「じゃあ、なぜ…?」
彼がいきなり自主したことに、西垣は疑いを抱いている。悪人が急に改心の情を見せたときは、突然善人になったなんて訳ではなく、何か魂胆がある……経験上、彼にはそういう確信があった。
だが鈴木はそんな視線も気にしていない様子だ。反対側の窓を流れていく町の景色をながめながら、
「さあ……疲れた、からですかねぇ」
と漏らしただけだった。
この表情からは、何も解からない。魂胆があったとしても、今ここでわかるようなものじゃない。西垣は諦めてため息をついた。
「疲れたから……か」
西垣は無意識でコートのポケットに手を伸ばす。指に煙草が挟まっていた。
そのとき。リー…ン、と鈴が鳴った……ような気がした。
口元に手を持ってきた西垣は、指に挟んであったはずのタバコがなくなってることに気がついた。
そのタバコは、鈴木の右手にあった。
「ダンナ、電車では禁煙。」
プァァァン……またクラクションが響き、対抗車両が轟音を残し通り過ぎていった。
西垣はいろいろとカマをかけてきたが、あの日から、少なくとも財布は抜いてない。何を突つかれても出るボロなんかない。
適当に言い訳して彼と別れ、適当な駅で降りた鈴木は、気晴らしに歩き回ることにした。
夕闇が迫る中、背中を丸め、繁華街を抜けて通い慣れてない小道へと入っていく。
すると……パチンコ屋の裏手で、一人のオドオドしたサラリーマン風の男が4人組の若僧に囲まれて連れて行かれる姿を見た。
若僧どもは暴力的な空気を漂わせ、男を威圧している。
「(やれやれ…暴力で金を奪うなんて、美しくねえなあ、最近の若ぇやつらは…)」
ため息をつき、横目で見ながら通り過ぎようとした。が、鈴木の目が一瞬、鋭くなる。
連れて行かれる男の手に、腕時計が見えた。
半年前、担架からはみ出た左手に嵌っていたものと、同じ時計だった。
鈴木の足が止まる。薄ら笑いが消えた。
4人がニヤニヤしながら男を取り囲んでいる。男はおびえて真っ青になっていた。
殴られることに慣れていない人間は、暴力的な空気に簡単に屈してしまう。痛い思いをするのが嫌だからだ。逆に言えば、暴力的な空気を見せればたいていの人間を屈服させることができる。
他人を屈服させることは快楽となる……闘争本能だ。本来は原始人の男たちが狩猟をするために必要な本能だったのだが、それを有効に使う方法のあまりない現代では、どうしても違う形でその欲求を解消するしかない。
競争、スポーツ、仕事、ゲーム、ギャンブル、窃盗、そして対等なケンカ……その楽しさにハマる理由の多くは、勝って他者を見下せる快感にある。だがそれらにはまだルールがあり、負ける覚悟も必要だ。いや、トータルで見れば負けることのほうが多い。トーナメント大会なんかだと優勝者以外の全員が敗北するし、ギャンブルは親が儲かるようになっているからそれ以外の参加者はほとんどが負けることになる。
そんな中で、負ける心配のほとんど無いものが、集団による一人への暴力だ。保証された勝利で他人を見下す楽しみ……これにハマッた奴が、暴力行為をくり返すようになる。戦利品が期待できるとなればなおさら。
この4人も、そんな暴力ジャンキーに見えた。
おびえた男は、若僧どもに言われるがまま、財布を差し出そうとする。そのとき……
ドン、と、若僧の一人の肩に鈴木がぶつかった。
「おっと、ごめんよ」
リン! と鈴の音が聞こえる。そのまま、鈴木は足早に去ろうとした。
「……おい、まてよオッサン!」
若僧が声を低くして怒鳴る。
その瞬間、鈴木は走り出した。その手には、これみよがしに革財布が握られている。
「俺のサイフ!」
「待て!!」
路地を疾走する鈴木。その後を4人が追う。
鈴木はちらりと後ろを見た。すでにあのサラリーマンの姿は見えない。そして、4人全員が鈴木を追いかけている。
効率を考えれば1人か2人が残ってあの男から財布を取り上げたほうがいいはずだが、そんな頭はないんだろう。怒りにまかせて追いかけてきている。
鈴木の口元にまた薄ら笑いが戻った。
が……
行き止まり。
路地はそこで終り、カギのかけられたビルの裏口があるだけだった。
鈴木は荒い息をしながら立ち止まる。
すぐ後ろから走る足音が近づいてきた。
膝。足。それから拳。
次から次へと、鈴木の顔や背中に叩き込まれる。
「オラオラ!!」
「ふざけんじゃねえぞ、スリ野郎っ!」
鈍痛と衝撃で頭がクラクラする。呼吸も苦しくなり、膝に力が入らなくなった。ふらりとバランスを崩せば、今度はそっちから拳が頬に叩き込まれる。
膝をついてしまうと、今度は胸へ踏みつけるような蹴りを食らった。
もう、意識がかすれつつある。
けれど、鈴木は満足していた。別に金が欲しかった訳じゃない。
「(ホトケ心? ちがうよ。美しくないものを見たくなかっただけさ。もういいや、適当なところで倒れてやる……)」
そのとき、若僧たちの後ろから、
「こらっ、ガキども! なにやってんだ!」
と怒鳴り声が聞こえた。
路地へ、目つきの悪い白髪の男がやってくる姿が見える。
「(……西垣のダンナ?)」
その暴力的なオーラに圧倒されそうになりながらも抵抗して、若僧の一人がスゴんで見せる。
「何だよ、てめえはよ!」
「こういうもんだ」
西垣は胸ポケットから手帳を出した。黒い表紙に金色の文字で「警察手帳」と書かれている。
「おまえらみんな、集団暴行の現行犯……」
「やべぇっ!!」
西垣の言葉が終わるのを待たず、4人は顔を引きつらせて一斉に逃げ出した。それは、西垣も呆れたほどの素早い反応だった。
西垣は4人を追いたそうなそぶりを見せたが、ふと思い直し、座り込んでる鈴木に手を差し出した。
「世話のかかる奴だ、ほれ」
鈴木は口元の血を袖で拭って見上げる。
「(別れたフリして見張ってやがったな)」
助けられたことには違いない。が、不快だった。理不尽な不快さだとはわかっているけれど、それでも不快は不快だ。
鈴木は不服そうに呟いた。
「助けてくれたあ言ってませんが?」
「怪我人ほっといてあいつらを追いかけるわけにいかないだろ。」
そう答えて西垣は鈴木を立たせる。そして鈴木の服の汚れをはたいてやりながら、
「落ちたもんだなぁ、凄腕のスリ師が……やっぱ鈍るかい?」
と、なぜか残念そうに言った。その言葉に、鈴木は薄笑いで応えただけだった。
「それにしても困ったぜ。どうせ知らねえやつらなんだろ? おめえ一人じゃ調書もろくに……」
唾でも吐きたそうな表情でこぼす西垣に、鈴木は右手を出し、
「そうですか。じゃ、ほら」
と何か渡した。
リーンと右手首の鈴が鳴った。
西垣の手の中にあったのは、カード入れ……開けてみると、クレジットカードや免許証が入っている。免許証の写真は、さっきの連中の一人だ。
西垣は血相を変え、
「鈴の音、てめえっ……!」
と鈴木の襟首を掴んだ。
「おおっと! 私は落とし物を届けただけですよ?」
睨みつけてくる西垣の視線を、鈴木は薄笑いで受け止めた。そして降参の仕草のように胸の前に両手を出して見せる。
また、リー…ン、と鈴の音が聞こえた。
西垣は溜息をつき、視線を落とした。そして鈴木の襟から手を離す。
服の乱れを直している鈴木に背を向け、西垣はポケットから煙草を取り出した。
「鈴の……鈴木。一杯、飲ませてやる、つきあわねえか?」
煙草に火をつけてから振り向いた西垣の目に、敵意はもうなかった。
鈴木はゆっくりと深呼吸してから、いつもの薄ら笑顔で答える。
「いいですよ。オゴリならつきあいます」
そう言って、先に歩き出した。そして
「給料日ですか? 今日はずいぶん裕福なようで」
と、後ろに向かって何かを抛る。
西垣の手に飛んできたそれは、膨らんだ札入れだった。
「あっ、俺の……てめえっ!!」
怒っていながらもどこか嬉しそうな西垣の声に、リー…ンと鈴の音がひとつ、重なった。
~~~ 「鈴の音」完