エルディオルス外伝――黎明期の魔族――
闇が渦巻いている。そこに横たわる空気はひどく淀み、穢れを芳醇に湛えて器物を侵す。
光の住まう場所なき地の底、ひたすら下へと続くこの暗黒の空間を、魔物たちは奈落と呼ぶ。闇の果ての果て、暗黒から生まれた魔物をも蝕む奈落は、彼らにとっての牢獄である。
邪神ワイズドシーユに創り出され、人類に牙をむく魔物。彼らに自我はなく、ただ造物主の命令に従う盤上遊戯の駒でしかない。
しかし、例外はあらゆるものに存在する。創造主の一部であり、かりそめにも神と呼ばれるワイズドシーユにあっても、それは逃れられぬ定め。時に生まれる自我を持つ魔物を、かの神は失敗作と呼んだ。
そしてそれら失敗作が集められ、処分を待たされる場所。それが奈落だ。牢獄というより、処刑場という表現のほうが、あるいは正しいかもしれない。
その奈落の中層部。奈落にあっては比較的建造物の体を持つ一角に、それは繋がれていた。
限りなく黒に近い青のローブを羽織り、同じ色のとんがり帽子をかぶった人型の異形。しかしその顔は狐そのものであり、手や足もまた、鋭い鉤爪がのぞくところは、明らかに人間とは異なる。身体も随分と大柄だ。
時術師と人間から呼称されるその魔物は、普通ならば身体をすっぽり覆うローブを着崩し、両腕を露出させてマントのように羽織っている。口には、この不毛な奈落でどこから調達したのか、長い楊枝をくわえている。
そうした通常とは異なる風貌は、ひとえにこの魔物が自我を持っていることの証左である。自我を持ち、個性を獲得した彼ら失敗作は、こうして他とは異なるということをあけっぴろげに主張する。それは、自分が没個性化された大群の中に溺れたくないという、精一杯の抵抗と言えた。
と。
魔物は自らに近づく気配を感じて顔を上げた。うごめく闇の彼方に、影が見える。その姿を見極めようと、それはすう、と目を細めた。
「……お前さんは」
現れた影に、魔物は思わず口を開いた。その拍子に、くわえられていた楊枝が落ちる。
闇から抜け出てきたそれは、巨大な四足の竜だった。全身は昏い緑色のうろこで覆われ、鞭にもなりそうな長い髭をたたえている。
「なんでェ、アドラメレクの旦那じゃあねえかい。びっくりして損しちまったなァ」
それを見た魔物は、くくく、と小さく笑うと、楊枝を拾い上げて口にくわえなおした。
「……なんだ、とはご挨拶だな」
一方、アドラメレクと呼ばれた竜はぎらりと鋭い瞳を魔物に向けた。それは、闇で塗り固めたようなどす黒い赤さをしている。
「そりゃあ、あっしら奈落に落とされた連中からしたら、旦那は怖い看守様だ。思わずにはいられねえってもんよ」
「相変わらず口の減らぬ奴だ。……まあよい。今日はお前と押し問答をするために、わざわざ降りてきたわけではない」
「へえ? そいつぁどういう風の吹き回しかね?」
「星王トーカリウスが、お前との面会を希望している……上がるぞ」
「へっ? トーカリウス様が? あっしに?」
星王トーカリウス。それは、人間界へ侵攻する魔物たちの王であり、邪神ワイズドシーユが創りあげた中でも傑作と言われる魔物の一体である。
そしてすべての魔物は、トーカリウスの命令に服する義務を持つ。自我を持たない一般の魔物ならば何も反応はしないだろうが、この魔物は自我を持つ。神に次ぐ最高位の魔物から直々にお呼びがかかったとあれば、驚くのも無理はない。
「どういう風の吹き回しだィ? あっしはてっきり、処分の日取りが決まったとばっかり……」
「知らぬのか? ここ最近、落とされている連中が減っているのを」
「そうなんで?……そう言われてみりゃあ、そんな気もするがね」
「トーカリウスが、失敗作をすべて自軍に組み込んでいるのだ……」
「……はあ? そりゃまた、なんで」
魔物にとって、アドラメレクの答えは理解不能だった。
彼ら自我を持つ魔物は失敗作なのだ。神から直々に不要とされ、ただ朽ちる時を待つだけの存在。それは彼自身も自覚している。
だからこそわからない。星王トーカリウスといえば、神の意思の体現者でもあるはずなのに……。
が、そんな魔物の言葉を心底鬱陶しそうに払いのけると、アドラメレクは魔物を繋いでいた鎖を踏み砕く。
「……我らが知るとでも思うか。疑問があるなら、トーカリウスに直接聞け」
それを受けて、魔物はひょいと立ち上がると伸びをした。
「やれやれ、生まれて以来初めての自由だねェ。しっかし、いいんですかい旦那。地獄の尚書長といえど、立場はトーカリウス様よりは下なんじゃあありやせんかい?」
「黙れ。行くぞ」
短く言って魔物に一瞥をくれると、アドラメレクは闇の力をほとばしらせる。すると周囲を一際濃い闇が湧き上がり、二体を包み込んだ。
その闇が晴れたあと、そこには誰もいなかった。まるで、最初からそこに何も存在していなかったかのように。
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邪悪が充満する奈落の上には、かつて妖精界で聖なる御子を祀るためのものだったの神殿がある。大いなる月を崇め、月に祝福された神の申し子を奉じる月子殿。
しかし今そこに、神聖さはない。神や御子に捧げられたものはみな破壊され、魔物が徘徊し、各所に殺戮の跡がいくつも折り重なっている。邪神ワイズドシーユが復活したその日、妖精界から吸い込まれたこの場所は、もはや暗黒に塗り替えられた邪神殿でしかないのだ。
それでもかすかに残る光の中が嘆くように瞬くそこに、少年が一人たたずんでいる。
肩にかかる髪は月に愛されたものの証、美しい緑色に輝いている。上半身を砕かれた女神像を見上げるその瞳もまた翠緑で、それはさながら満月のよう。
袖なしの服から伸びる白い腕はか細くはかなげであり、美しく整った顔と相まって、少年特有の、両性具有の美が輝きすら覚えるほど発散されている。
見るものが見れば、彼を月の子と判断するかもしれない。だが、そんな美少年が背負っているオーラはどこまでも黒く、彼が魔に属するものであることは明白だ。
そんな少年の後ろに、闇が現れた。濃い闇が煙のようにゆらゆらとうごめいている。
そして少年がそちらに振り返った時には既に闇はなく、そこにはアドラメレクと狐頭の魔物が立っていた。
「や、ご苦労さん」
それを見て、少年はにっこり笑って二体の魔物に歩み寄る。
「……後は好きにするがいい」
少年に見上げられたアドラメレクは、しかしぎろりとその顔をにらむと、それだけ言って立ち去ってしまった。
その後ろ姿を見送りながら、少年は肩をすくめる。
「相変わらず嫌われてるなあ。ネロリアスの周りとはどうもそりが合わないね。……まあいいや、早速本題に入ろうか」
「へい」
少年に見つめられて、魔物は姿勢を正した。
「名乗る必要はないかもしれないけど、一応言っておくね。ボクはトーカリウス。星の魔王をしている。よろしくね」
「へい」
トーカリウスを名乗った少年に、魔物は目を見張った。まさか、こんな子供が魔王だとは夢にも思わなかったからだ。
その体内に宿す闇は極めて大きく、確かに魔王を名乗るに相応しい実力を秘めていることは魔物にも理解できたが、彼の姿はあまりにも人間に酷似していた。このように魔王を創った邪神の意図が、まるで読めなかった。もっとも、彼のような失敗作にそれを勘案する権利など、与えられていないのだが。
そんな魔物の心中を察したのか、トーカリウスは口に手を当ててくすくすと笑う。
「よく思われるよ。いいんだ、ボクが魔物っぽくないのはボクが一番知ってる。気にしないでよ」
「はあ」
「話を戻そう。単刀直入に言うね。君をボクの配下に加えたい」
「へえっ!?」
その申し出は、魔物にとってあまりにも唐突で、またまったく予想していなかったものであった。そのため、思わずおかしな声が口をついて出た。同時に、くわえていた楊枝がまたしても地面に落ちる。
一方のトーカリウスは、魔物の反応が予想通りだったのか楽しそうに笑った。
「あははは、これ言うとホントにみんなびっくりするね。そんなに意外かなあ? ていうか、事前にある程度話は行ってると思うんだけどなあ」
「いや……それはもう……その、あっしらにしちゃあ、信じられねェ話って言いやすか……」
「そうなのかな? そうなのかもしれないね。やっぱりみんな、そう言うもんね」
「…………」
「どうしてかって言うとね?」
トーカリウスは慣れているのだろう。魔物が呆然とする中、手際よく説明を始める。
「ボクはね、失敗作って言われてる君たちみたいな魔物が一番軍で必要だと思うんだよね。君たちは自分で考えて行動することができる。敵と大勢で戦う時に、それは一番大事なことだって思うんだ」
その言葉に、魔物は言葉を失う。魔王の意図が、よくわからなかったのだ。
失敗作こそ最も必要。その思想は、創造主たる邪神ワイズドシーユとは正反対の考え方だった。また、星王トーカリウスとは対を成す月の魔王、ネロリアスの思想とも真逆である。
ワイズドシーユをはじめ、意思ある魔物たる邪神の幹部たちは、みな自我を不要のものと考えている。彼らが求める部下は、手下は、彼らの意思の通りに動き、彼らが死ねと命じればその場で死ぬ、そうした存在だったのだ。
だが……目の前の少年魔王、トーカリウスはそれを真っ向から否定した。
「命令通りに動く手駒。それはそれで、もちろん重要だとは思うよ。自我が邪魔になるってことも、もちろんあると思うさ。命のやり取りをする戦争だもんね。でもね、それだけだと困るんだ。
たとえば、人間と戦をしている最中にボクが主に呼び出されて現場を離れている間に、世界の子が軍勢に加勢したらどうなると思う?
高確率で、うちの軍は負ける。なぜなら、考えることを知らないから。恐れることを知らないから。ボクたち魔物にインプットされた、人間を殺すという本能に従って世界の子に無理な突撃をして、あたら無駄に死ぬだろう。
それじゃあ、意味がないんだよ」
魔王は続ける。
「だからボクは、自分で考えることができる部下が必要だと思うんだ。ボクや主が直接命令を下さなくても、その時の状況を見極めて行動できる。策を練り、冷静に人間を見て、逃げる必要があるときは逃げることができる。
そういう存在が、ボクたち魔物には絶対的に足りてない。ボクはそう思ってる。
……だからね?」
そこで一息ついて、トーカリウスはうっすらと笑った。対する魔物は、ごくりと唾を飲む。
「ボクは、君が欲しい。君の力を、ボクに貸してほしい」
「な……」
魔物はもう一度言葉を失った。
力を貸してほしい。この魔王は、そう言ったのか。失敗作と言われ、奈落に堕とされ、ただ死を待つのみだった自分に。
いや、彼の言い分はなんとなくわかった。だが、自分のようにさしたる力もない魔物に、創造主の最高傑作の一つが言うこととは、思えなかった。
だが、それでも。
魔物は多少回転には自信のある頭を、必死に回転させる。
この魔王は、そうだ。自分を必要としてくれている。それこそ、失敗作でしかなかった自分を。それは、この上なく名誉なことであり――そして、この上なく幸運なことなのではないか。
彼はさらに考える。この申し出を断ったとして、自分に何ができる。どうせまた、あの暗い奈落に押し戻され、漫然と死ぬまでの時間を浪費するだけだろう。ならば、それならば――。
「……ほ、本当に、あっしの力が役に、立ちますかいね……?」
魔物は、もう一度生唾を飲み込んで、絞り出すように問うた。
「さあ……それは蓋を開けてみないとわからないよ。君次第、とも言える」
魔王の返事は、至極まっとうなものだった。そりゃあそうかと、魔物は目を伏せる。が、魔王は続けた。
「……でも、ボク個人としてはさ。君が役に立たないなんてことはないって、そう思ってるよ」
続いたその言葉に、魔物は目を点にして顔を上げる。
「何より、君をこのままここで死なせるほうが、よっぽどボクにとっては損失だ」
魔王は……トーカリウスは笑っていた。穏やかな笑みでありながら、どこか妖艶な笑み。幼くもありながら性的で、また強いカリスマを感じる圧倒的なオーラ。そんな彼が、静かに手を差し出した。月の人間と同じ、四本の指。
それを魔物は、思わず握った。握る以外にないとも思えた。
それは……魔物が力を込めれば壊れてしまいそうなほど華奢だった。人間も、これほどかよわく、そして、――そして、恐ろしいものなのだろうか。魔物は漠然と思った。
だが。
そんなことよりも彼は、たった一つ、己のうちに息づいていた『心』が、生まれて初めての感情に満たされていることを、しっかりと感じ取っていた。
それが何かはわからない。だが、それがなぜかは確信をもって理解できた。
彼は。そう、失敗作の彼は、初めて誰かに必要とされた。ただそのことだけが、彼の心を満たすのだ。
だから言う。答える。
「この命、この身体! 星王トーカリウス様にお預けいたします!」
その答えに、トーカリウスはにっこりと笑った。満足げな笑みに、魔王の風格はなかった。ただ、年相応の子供のように無邪気な、とても嬉しそうな笑み。
だが、すぐに元の邪悪な姿へと戻ると、彼は目の前にひざまずく魔物の頭にそっと手を置く。
「君の言葉、覚悟、確かに受け取ったよ。この星王トーカリウス、主より授かったシフォンの名において、君のすべてを預かり、そして君のすべてを守ると誓おう!」
「はっ!」
「そして今、君に名を授ける! 盟約に従い、その魂を満たす名を! 汝、エルディオルス!」
その宣言を受けて、魔物――エルディオルスはようやく、今この瞬間に自分が「生まれた」ことを悟った。
主たる存在から真名を授けられて、確たる自己が築かれる音を魂で聴く。
――ああ……あっしはまだ、生まれてすらいなかったんですね。
そして思う。自分を完成させてくれた、目の前の魔王。自分の存在は、すべてこの方のためにあるのだと。
創造主たる邪神ではなく、この、美しく儚く、そして小さくて巨大な魔王のためにあるのだと。
彼は、エルディオルスは、声高らかに応える。
「このエルディオルス! 身命を賭しまして、トーカリウス様にお仕えさせていただきます!」
今この時、彼はまさに誕生した。魔物から、一つの生命として。
この後彼は、星王トーカリウスの四天王に仕える参謀として腕を振るうことになる。そして……主上の君と仰ぐ魔王の身を救うため、その命を散らすのだ。
魔物は、死んだらその肉体ごと消滅する。残るのは、いくばくかのコインだけ。そして自我持ちの魔物が死んだとき、そこにあった魂がどうなるかは当時、不明だった。だからこそその死は、何よりも疑いようのない完全なる消滅と言えた。
だがそれでも、その死の間際においてもなお、彼は幸せだったと、胸を張れた。たった二年弱の人生が、極めて幸福に満ちていたと、誇ることができた。
なぜなら……彼がその命を捨てた時、彼は見えたのだ。敬愛するかの魔王が、自分のために涙を流してくれたことを……。
◆エルディオルス(Eldhiors)
星と月の間に渦巻く狭間で造られた、初期の魔族の一人。
生年不詳、没年後クレセント暦二千五百八十二年とされる。
その軍事思想から、自我持ちの失敗作を重視した星王トーカリウスこと、初代新月王シフォニアに請われその軍門に入る。
星王四天王、水のサクリフィキウムの参謀として活躍し、サクリフィキウムの戦死後は星王城の防衛責任者として、メルシェン教国の神殿騎士団相手に一歩も劣らぬ軍略を見せた。
しかし戦争の混乱の中、シフォニアの代理としてやってきたネロリアスの命をことごとく無視したため、軍紀違反として奈落に再度堕とされる。
その後、同じく奈落に堕とされたシフォニアの助命を嘆願するため奈落を脱走、当代世界の子、グロウとクルーティらと共にシフォニアを救出。
この時自らの魂をいけにえに捧げたため、ここで死亡する。
その死をシフォニアは強く悼み、誰よりも涙を流したと伝えられる。
その詳細が現在も判明しているのは、新月王シフォニアが自ら名付けた魔族すべてを記憶し、その生きざまを記録として残しているからである。
そしてまた、私はエルディオルスが死ぬ瞬間に居合わせた人間……すなわちクレセント三十六世の、その当日の日記を幸いにして入手することができている。
彼、エルディオルスは、伝承通りの男であった。それを知ることができたのは、歴史を紐解く碩学として、冥利に尽きるものである。
筆、コルファ・クレイアス