ナナ外伝 ――親愛なる魔王様―― 上
王都は遥か南東の洋上。成都ブリュークスハイムも水神郷レンデフェルンからもまた距離のある、ジグドシャルナ大陸のほぼ中央部にその村はある。
街道からは少し離れているため、人の往来はあまりない。来客と言えば、街道沿いの宿場からあぶれた人くらい。寒村と言って差し支えない。
村の名は、シェラムルといった。
何も住人は、好き好んでこんなところに村を建てたわけではない。街道沿いには、あまりいい井戸が掘れなかったのだ。加えて、人を大勢住まわせるに足るだけの木材が得られる森が、すぐそこにある。確かに人の出入りは少なく、経済的な活動は小さい。国としても、さほど重要な地点というわけでもない。
とはいえ、住めば都という。この村に住む者は、別段ここでの暮らしに強い不満があるわけではなかったし、不満があるものは、歩いて数日程度の、ブリュークスハイムやレンデフェルンへ自主的に移る。ここは、そうした村だった。
そんなシェラムルに、いつの頃からか忌み子の噂が広がるようになった。どんな禁忌でも、躊躇なく犯す不届きもの。それはほどなくジグドシャルナ大陸、ひいては海峡を越えてガリュフェニス大陸にも伝わっていた。
いつの間にかそこには尾ひれがつき、王都クレセントにたどり着くころには、おぞましい化け物が住まう村、とまで大きくなっていた。
この噂のせいで、シェラムルを訪ねる人はほとんどいなくなった。誰だって命は惜しい。そんな村に行くくらいなら、野宿のほうがマシ、ということなのであろう。
そのシェラムルのほぼ中央。村の重要な農業水源であるシェーラ池のほとりに、一人の少女がいた。
ややウェーブがかかった髪の色は金。肩までかかるその髪はあまり手入れがされていないのか、多くの毛先はほつれた糸のようになっている。だが、それよりも何よりも目を引くのは、彼女の瞳だ。
それは、透き通った紫色をしていた。やや青みがかったそれは神秘的な煌めきを放ち、アメジストと比べてもなお、彼女の瞳に軍配が上がるだろう。
少女の名は、ナナ。彼女こそ、シェラムルから発した忌み子の噂の元凶であり、張本人である。
彼女には、人とは違う特技があった。それは――。
「……あ」
太陽の光が乱反射する池の上を飛んでいたスズメが、タカに捕まった。スズメはもがくが、タカの鋭い爪が食い込んだ身体は、ほとんど動かない。
とっさにナナは、やめたげてよお、とつぶやいた。
「……っ」
その瞬間だった。タカが、拘束を解いてどこかへ飛び去ってしまった。解放されたスズメは、それこそハトが豆鉄砲を喰らったような、面食らった表情のまま、タカとは反対のほうへ飛んでいく。
「……また……やっちゃった……」
ナナがつぶやく。
そう、これこそ彼女の特技だった。
彼女が口にしたことは、現実になる。必ず、ではない。しかし半分くらいは、現実となる。それがどんなことであれ、関係ない。彼女がそうしたいと言えば、彼女の意思に関係なく、多くは現実になってしまう。
この特異な能力は、シェラムルでは忌避された。当然と言えば当然である。
有用に使おうと思えば、いかようにでもできる能力だが、悪い方向へ使えば、これほど恐ろしい能力は類を見ない。
たとえば、彼女が一言、「死ね」と言ったら、どうなってしまうのか?
結果は想像に難くない。相手は、恐らく死ぬだろう。そして村人たちは、何よりもそれを恐れた。
気づけばナナは、村の誰からも相手にされず、ただ忌み子と後ろ指を指されるようになっていた。彼女が、捨て子だったことも影響している。
彼女を拾った神父一家。村で唯一の知識人である一家の者は、彼女を暖かく迎え入れてくれた。だがそれでもなお、いや、そうだからこそ、彼女は恩人たちに対して申し訳ないと思っている。
結果、ナナは誰にも心を開かず、誰からも心を開かれない、ひどく臆病な性格に育った。
そしてナナは、今日も自分に唯一許された席である、池のほとりの古株に腰を下ろす。あてどもなく、ただ景色を眺めるだけの毎日。それだけが、彼女が一日にすべきとされたことだった。
ある日、ナナがいつものようにシェーラ池を訪れると、そこには先客がいた。腰に手を当てて、まるで仁王立ちの様相で、いつもナナが座っている古株に立っている。そして、じっと池を眺めている様子だった。まだ太陽は完全に目を覚ましていない朝。普通、この時間帯に暇を持て余している人間など、滅多にいるものではないのだが。
けれども、その先客に声をかけられるほどの、小さな勇気すらナナは持ち合わせていなかった。物心ついてからずっと、蔑まされて生きてきたのだ。すべての人間が、彼女にとって恐ろしい何かだった。
だから、彼女は声をかけることもできず、ただ先客の背中を見つめることしかできなかった。
その先客は、小柄だった。ナナもまた、決して長身とは言えないが、それでも年頃の女として、恥ずかしくないくらいの背丈はある。だが、今彼女の目の前でその人物は、古株に上がってようやくナナと同じくらいになるかならないか、といったくらい。降りてしまえば、頭二つとは言わないが、一つと半分くらいはナナより小さいだろう。
背には、その背丈にあったサイズのマント。黒を垂らしこんだような、薄暗い青の生地がそよ風に揺れている。
「……いつまでそこに突っ立ってるつもりなのさ?」
声をかけられず、観察に徹していたナナは、その声に思わずびくりと身体を硬直させた。目の前の先客が、口を開いたのだ。
その声は、風に揺れる鈴のように透き通っていながら、どこかなまめかしい色を帯びている。そっと身体を撫でられるような感覚を覚える、妖しい声音だった。
「ボクに用があるの? だったら、何か言えばいいのに」
そして、声と共にその主が振り返った。
輝いていると錯覚させるほど、陽光を乱反射させる翠緑の髪がさあ、っと揺れる。そして、それと同じ、翠緑の瞳がゆっくりとナナの顔を見据えた。
「ぁ……」
美しい少年だった。ともすれば少女かと思ってしまう艶やかな姿は、うら若い少年が持つ独特な、両性具有の魅力をたたえている。ナナは、思わずその顔を見つめてしまった。普段、人の顔を見るなんて怖くてできやしないのに。
「……ボクの顔に、何かついてる?」
ナナのその様子に、少年がにや、と笑いながら小首をかしげた。両目の下に描かれた逆三角形の赤い模様も、端を歪めて笑っているようにも見える。
その声に、ナナはようやく我に返った。先ほどまでとは打って変わり、顔を伏せて、あちこちに視線を泳がせる。
「……ぇ、あ、ぅ……」
家族以外と言葉を交わすのは、どれだけぶりだろう。ナナは、自分でも驚くくらい、何も言葉が浮かんでこなかった。ただ、小さく首を振ることしかできず、情けなくなってくる。
「……んっと。別にそういうわけじゃない、のかな?」
「…………」
改めてかけられた問いに、ただ頷く。口が壊れてしまったような気分だった。
「口下手な奴だなあ。いいけど、別に」
「…………」
「この村の人?」
「…………」
頷く。
「そっか。この池に用があるわけ?」
「…………」
もう一度。
「ふうん。お邪魔だったかな。ごめんね」
「…………」
今度は、首を振る。
「……ホントに話すの苦手なんだね。苦労してる?」
「…………」
――硬直。
「あはは、今度はリアクションもなしかあ。ううん、いいよそれ以上考えなくって。無茶なこと聞いたのはわかってるから」
くすくす、と楽しそうに笑い、少年は古株から降りた。やはり、ナナの胸元くらいまでしかない。ずいぶんと小柄な少年だった。
「それじゃ、ボクは行くよ。ごめんね、邪魔して」
「…………」
すぐ隣を、少年がすり抜けていく。どう反応していいかわからず、あれこれと考えているうちに、彼の姿はあっという間に遠くに行ってしまっていた。
「…………」
少年は、一切振り返らなかった。しっかりとした足取りで、ぐんぐん行ってしまう。小さくなるその後ろ姿を覆い隠すように、青いマントが揺れている。
「……なん、だったのかな……」
少年が角を曲がって家の陰に隠れてから、ナナはようやくそうつぶやいた。そして、崩れ落ちるようにしてその場に座り込む。思っていた以上に、緊張していたらしい。
「……誰……だろ……?」
当然の疑問にナナがたどりついたのは、ようやく落ち着いて、いつものように古株に座ってからだった。
「いたいた」
「……!?」
それからしばらくして、不意に後ろから声をかけられてナナは驚きながら振り返った。
「や。さっきぶり」
振り返れば、そこには先ほどの少年がいた。そんなことを言いながら、ひらひらと手を振っている。
「……っ、!? ……」
「そう驚かなくってもいいじゃない。確かに気配は消してたけど」
「…………」
少年は、いたずらっぽくくすくすと笑った。いかにも、してやったという感じだ。
だが、彼の次の言葉に、ナナはもっと驚くことになる
「隣いい?」
「えっ?」
思わずそんな声が出た。少年の意図することが理解できなくて、何度も瞬きする。
「くすくす……そう驚かないでよ。もっと驚かせたくなるじゃないか」
「へ、ぅ、あ」
「他意はないよ。隣に座ってもいいか、って聞いたんだ」
「う……うん……」
いいかな、と首をかしげて見せる少年に、ナナはまた思わず、頷いた。頷いてから、自分が他人と会話したことに気付いて、内心更に驚く。
そんな彼女の心中を知ってか知らずか、少年は遠慮なくナナの……というよりは古株の隣に腰を下ろした。草がかさかさと鳴る。ナナは古株に座っているので、ただでさえ身長差のある二人の視線は、かなりずれている。
「お前が忌み子だね?」
「……っ!?」
だが次の少年の言葉に、ナナは息を呑んだ。この見知らぬ少年がなぜそれを知っているのか、という疑問からではない。また、直接的な暴力を受けることになるのか、という恐怖心からだ。
自身の能力が忌避され続けて久しい。ほぼ物心がついた時からずっと、ナナは周囲から虐げられて生きてきた。今回もまた、そうなるのか、と。そんな恐怖が彼女をねっとりと包み込む。
その様子は、外から見てもわかりやすい反応だったのだろう。少年は、苦笑しながら首を振る。
「言っとくけど、思考を読んだわけじゃないよ。その辺にうろついてた奴に聞いたのさ」
「…………」
「……それに、何も取って食おうってわけじゃないから。そんなに怯えないでよ」
「……ほ……ほん、とう……?」
「そうさ。ま、そんなに怯えられたら食べたくなっちゃうかも、ね?」
「……っ」
くすくすと笑いながら言う少年の笑顔は、どこかすごみがあった。先ほど驚かせようと思っていた時の笑い方とは違う。美しくも蠱惑的な瞳が、ぎょん、とナナを見つめている。身体がこわばって、動かなくなるのを感じた。
「あはは、冗談だよ。そんなことしない」
不意に、少年はえへらと笑った。それまで漂っていた恐ろしげな雰囲気は一瞬にして消え失せ、見た目通りのかわいらしい笑い方に変わる。
「…………」
そうは言われても、すぐにそうですかと頷けるほど、ナナは純粋ではなかった。何年もの間虐げられてきたのだ。相手の言うことは、簡単に信じられない。
「……からかうつもりだったんだけどな。逆効果、か」
「…………」
「ごめんよ。驚かせて、悪かった。ボクはシフォン。忌み子の噂が気になって、調べに来たんだ」
そう名乗って、少年は手のひらを開いて見せた。それからおもむろに立ち上がると、恭しく頭を下げる。
「本人から、直接真偽のほどを聞きたいんだよ。話を聞かせてくれないかな?」
そして、そう付け足した。
その所作は優雅で、シフォンの育ちの良さをうかがわせた。微笑み、ナナの返事を待つ顔は、先ほどの圧迫的な笑みを忘れてしまいそうなほど、穏やかだ。
「…………」
「ダメ、かな?」
「……す、少し、なら……」
「ありがとう」
たどたどしいナナの返答に、シフォンはにっこりと笑った。
満面の笑みとは、こういう笑い方を言うのかもしれない。ナナは、少しだけうらやましい気がした。
「じゃあ、さっそく聞くんだけど。レンデフェルンで聞いた噂だと、シェラムルの忌み子はとてつもなくおぞましい闇の力で、世界の真理を捻じ曲げてしまう化け物、って話だったんだけどさ?」
「…………」
人の噂とは、まったくうまく伝わらないものだ。しかし、自分はそんなものではないと心中で叫びながらも、ナナは間違ってはいないなあ、とも思ってしまう。
確かに自分は、言葉を口にすることで世界の真理を捻じ曲げてしまう。化け物と言われても致し方ないほど、簡単に。
だがそうは言っても、自分がそこまで大仰な存在だとも思っていない。本当にそんな存在ならば、この小さな村の人々に虐げられるだけで終わってはいないはずだ。
「その顔は、違う、って顔だね。うん、所詮噂なんてそんなものさ。実際のところ、どこまで何ができるのさ?」
「……えっと……」
興味津々といった様子で続きを促すシフォンに、ナナは何度も口ごもり、言葉を間違えながらも、説明する。
こんな話し方で、しっかり意図したことが伝わっているのか何度も不安になったが、シフォンはナナを責めることもなく、ただ静かにじっと話を聞き続けていてくれた。おかげで、最後のほうは緊張も薄れてきて、どもったりすることも減った。
「……という、わけ、なんだけど……」
「ふうん、なるほどね。よくわかったよ」
説明をし終わったナナに、シフォンは何度も頷いていた。意図していたことは、おおむね伝わったらしい。ほっと胸をなでおろすナナだった。
「なるほどなあ……それで忌み子か。んー、人間はホントに正体のわからないものに怯えるんだね。理解はできるけど、でもいくらなんでもこれは……」
一方、シフォンは一人で何やらしきりに得心した顔でぶつぶつとつぶやいている。その意図するところはナナにはよくわからなかったが、まっすぐ彼女に向けられた視線には、普段感じたことのない色が含まれていて、どうすればいいかと思ってしまう。好奇と侮蔑の視線なら、ただじっと耐えればいいと経験でわかってはいるのだが、こんな見られ方をされるのは初めてだったのだ。
そして何より、彼はナナのことを恐れる様子がない。口ぶりから言って、理解していないわけでもなさそうなのに。ナナには、それが何より疑問だった。
「あ、あの……」
「ん?」
「……こ……」
「こ?」
「こ、……怖く……ない、の……?」
だから、思わずそう聞いた。忌み子だと知れば、誰もが恐れるはずだから。
だが、ナナの考えとは裏腹に、シフォンは少し面食らったかと思えば、不意に笑い出した。何がなんだかわからず、ナナはおろおろするばかり。
「ああごめん……ごめん、何もバカにしてるわけじゃないんだ」
まだ笑いの余韻を残したまま、シフォンが口を開く。
「ただ、ボクが考えもしなかったこと聞かれたから、ついさ」
「……?」
言葉の意味がわからず、首をかしげる。
「怖くないか、だなんて。わけわかんないよ。なんで怖がる必要があるのさ?」
「…………」
「そんな神聖な力を怖がるなんて、ありえないよ。人間界で一番神に近い力じゃないか」
「……え……?」
「わかんない、って顔だね。教えてあげるよ。お前のその力の正体は、夢幻魔法。想像を現実のものとして創造する魔法だ」
「む、げん……?」
聞いたことがなかった。そして、説明されてもよくわからない。
「夢幻魔法は、大樹の女神ユシェーラの力を借りて発動する魔法だ。世界の四大要素である夢の力を使う、とても珍しくて特殊なものなんだよ。術者の思い描いたものを実現する、一言で言ったら夢をかなえる魔法だ。普通の魔法と違って、文字通り『魔法』な代物さ。口で言ったものしか発現しない辺りは、たぶん単純に技術不足なんじゃないかな」
「…………」
「それにね。夢をかなえるって言っても、無条件でできるわけじゃない。どんなものでも対価が必要だ。今お前が所有してるマナの量じゃ、ボクに致命傷は与えられないよ。だから、ボクがお前を怖がる理由なんて何もない」
「…………」
「わかって……もらえてないみたいだね。まあいいよ、わからなくっても。とりあえず、ボクにはお前を怖いなんて思えないし、その辺にいる普通の人間と何も変わらない。そこだけわかってもらえればいいよ」
彼の説明は、あいにくと学のないナナには理解しづらいものだった。ただそれでも怖くないと、普通の人間と何も変わらないと、そう言われたことが嬉しかった。家族にしか言われたことのない言葉が、何より身に染みた。
「……あ、ありがとう……」
「うん、どういたしまして」
ナナに即答して、シフォンがくす、っと笑う。その笑顔が、ナナにはまぶしく見えた。だがそれについて、気の利いたセリフが出てくるような、柔軟な感性はあいにく持ち合わせていない。
何を言えばいいだろう。失礼じゃないだろうか。迷惑じゃないだろうか。そんなことばかり考えてしまって、結局何も言えない。
そして遂には、会話が途切れたのを見て、シフォンが立ち上がる。
「……じゃ、ま、こんなトコかな」
「え……」
「んー……、くぁ。忌み子の真相もわかって、用事は済んだからさ」
背伸びをして答えるシフォンの顔に、悪びれた様子はなかった。まるで無邪気な猫のようだ。だが、それが余計ナナに一抹の寂しさを感じさせる。
「もう、……行っちゃう、の……?」
「うん。元々、忌み子のことを知るために来ただけだからね」
「……そ、そう……」
「ちょっと期待外れだったけど、まあいい暇つぶしにはなったよ。付き合わせて悪かったね」
「そ……そんなことない」
それは偽らざるナナの本音だった。久しぶりに、本当に久しぶりに、人と会話をした。とても短い時間だったが、それでも彼女にとって、楽しい時間だった。
「そんなこと、ない……。た、楽しかった、……」
「そ? それならいいんだけど」
言いながら、シフォンが歩き出す。朝と同じように、ナナのすぐ脇をすり抜けていく。
その様子が途方もなく切なく感じられて、ナナは思わず彼の腕に手を伸ばしていた。
「……あの……っ」
しかし、その手は彼の腕をつかむことなく、途中で止まる。まったく、情けなくなるくらい臆病だった。
「ん。どうかした?」
「そ、その……あの……」
「うん」
「……ま、……また……き、来て、くれない、かな……」
そして、ようやく口にした言葉すら、だんだん小さくなる。最後のほうは、自分でも何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。
本当に、どれだけ他人を気にしているんだと嫌になる。もしかして、自分は世界で一番会話のできないやつなのではないかとすら思えてくる。
けれど、どうしても考えてしまうのだ。自分が口にしたことは、現実になってしまう。仮にならなくても、その一言、一言で、他人を傷つけてしまうのではないか、と。
「どうかな」
しばらくして、シフォンが口を開く。どこか楽しそうに、くすくすと笑いながら。つりあがった口の端から、とがった犬歯が顔をのぞかせている。
「あはははは、お前はわかりやすいなあ。そんな残念そうな顔するなよ」
「……っ」
そんなにわかりやすい顔をしたんだろうか。ナナは思わず両手で頬を押さえる。少しだけ、普段より熱い気がした。
「そうだね……暇があれば、来てもいいよ」
「ほ、ホント?」
「うん。その代わり、いつ来るかはボクにもわかんないよ」
言いながら、シフォンが踵を返す。マントが、ふわりと広がった。
「気が向いたら、そのうち来るさ」
「う、うん……」
「それじゃ、機会があったらまた会おう」
「あ、……う、うん」
そして、シフォンが歩き出す。その歩みはやはり、外見からはとても想像できないほど早かった。ナナが立ち上がる間もなく、ぐんぐんその姿が小さくなっていく。だが、決して走っている様子はない。
ほどなくして、彼の姿が完全に見えなくなった。景色に溶け込んだかのように、不意に。いや、消えた、という表現のほうが近いだろうか。
「また……」
会えるだろうか。もしも会えたら、どんな話ができるだろうか。
ナナは、その頭の中で考え続けた。
それから数日が経った。
相変わらず、ナナは池のほとりでたった一人で座っていた。養い親の手伝いができればいいのだが、彼はこの村の神父であり、村人からの尊崇を集める存在である。そんな彼の職場に自分のような忌み子がいれば、その仕事に支障が出るのは間違いない。
こんな自分を、ずっと嫌な顔一つせずに育ててくれた両親に、迷惑はかけられない。だからナナは、今日も池のほとりに座り続ける。
と。
そんな彼女の後ろに、一人の少年が現れた。
肩までかかる翠緑の髪はあまりにも優美で、見るものを魅了する。くりくりとした丸い瞳は、月をそのままそこに落とし込んだかのようだ。
シフォンである。だが、彼が現れたことに、ナナはまだ気づいていない。ただ、池の中をただようドジョウの行方を眺め続けている。
そんな彼女のすぐ真後ろに立つと、シフォンは少し息を吸い込んで、大きな声と共に彼女の肩をたたいた。
「わっ!」
「きゃああっ!?」
そしてナナは、その突然のことに、悲鳴と共に古株から転げ落ちた。後ろに立ったシフォンにまったく気づいていなかったのだから、その反応は至極当然といえる。
彼女が振り返ってみれば、シフォンは苦笑しながら頭をかいていた。
「ごめんごめん、そんなに驚いてくれるなんて思わなかったよ」
「し……、し、シフォン、くん……」
「うん、久しぶり。大丈夫?」
「あ……う、うん……」
困ったような顔で差し出されたシフォンの手を取って、ナナは立ち上がる。少し、ひんやりとした手だった。
「き、来て、くれた……んだ……」
「暇だったからね。部下と話してるのもそれはそれで有意義だけど、たまには他とも、ね」
「…………」
「どうかした?」
「あ、……その、ぶ、部下、って……? シフォンくん……何、してるの……?」
「ああ」
ナナの問いに、シフォンは肩をすくめた。それから、ナナに座りなよ、と促しながら、自分もその場に座り込む。
ナナは言われるまま、草の上に腰を下ろした。いつもとは違う感触が、尻に伝わってくる。たまにはこういうのもいいかな、とも思えた。先日よりシフォンの目線が近い分、会話もしやすいかもしれない。
「普段は……そうだな、部下を率いて各地を転戦してる。でも最近は、遺跡の発掘をしてたよ。それも大体終わったけどさ」
「……じゃ、じゃあ、シフォン、くんは……騎士様、なの?」
「騎士か……騎士とはまた違うかなあ。似たようなものかもしれないけど」
「で、でも。え、偉い人、なのよね……?」
「それはそうかな。まあでも、気にしないでよ。今は仕事してるわけじゃないからね」
「そ、そう……?」
それでも、やはり気にしてしまう。所詮、自分は小さな村の、一人の村人に過ぎないのだから。
しかしそんな風に見られるのが嫌なのか、シフォンはなおも首を振る。しかめた顔を隠すことなく、いいから、と言い続けている。
「そんなに気になるなら、いっそ命令しようか? 普通に接しろ、って」
「え、えええ……」
そんな命令は聞いたことがない。思わず口が開いた。
だがそこまで言うのなら、とも思った。きっと、身分などは気にしない性質なのだろう。貴族にも、そういう人がいるのかもしれないと思えば、なんだか少し、見たこともない上流階級の世界が、近づいた気もした。
「それはそうとさ」
「う、うん……?」
ナナが話を受け入れたのを見計らって、シフォンが話題を切り替える。それに相槌を打って、ナナはちらりと彼の顔を見た。
相変わらず、幼くも整った顔立ちだ。きめ細かい肌は白く、絹織物を彷彿とさせる。よほど手入れがしっかりしているのか、それとも単純に若いからか。それはナナにはわからなかったが、少なくとも彼女には、自分のほうがよっぽど汚れている気がして、負けた気分になる。
「すっかり忘れてたんだけど、ボク、お前の名前を聞いてないよ。いつまでもお前、じゃ相手しづらいし、名前教えてくれない?」
「……あ、ぁ、う、うん……」
そういえば、と心の中と実際とで、二重に頷く。
確かに、ナナはまだ名乗っていない。両親以外に名前で呼ばれることなどないので、まるで違和感もなかった。
「え、ええと、えと」
「面白い名前だね」
「へ? ……、あ!? ち、ちが、違うよ、そうじゃなくて!」
「くすくす……冗談だってば。うん、話の腰折ってごめんよ。それで?」
「え、っと……な、ナナ……」
「ナナ、か」
「…………」
改めて名前を呼ばれるというのは、存外気恥ずかしいものだった。どう答えていいのかわからず、とりあえす頷くナナ。
「珍しい名前だね。同じ音が連続するって、あんまり聞かない気がする」
「そ、そう、なの……?」
「少なくとも、ボクが聞いてきた中では初めて、かな」
「そう、なんだ……」
「少なくとも、だよ。実際どうなのかは知らないさ。それより……」
「?」
差し出された手を見て、ナナは首をかしげた。それを見て、シフォンがまたくすくすと笑う。
そして笑うや否や、彼はその左手でナナの左手を取った。それが意図するところがわからなくて、今度は面食らうナナ。
「……もう、わからないかなあ。よろしく、だよ」
「……ぁ、う、うん……」
「あははは、面白いなあ、ナナは。いちいち反応が楽しみだよ」
「ふ、う、うううー……」
「あははははははっ。ごめんごめん。さ、ほら、改めて。よろしくね、ナナ」
「う、う、うん……よ、よろしく……」
握手。その行為の意味を実感しながら、ナナは頷いた。
日が暮れていく。焼けきった赤色を残しながら、太陽が星に変わり始めている。今宵は青と赤がほぼ半々のようだ。
そんな太陽と星の交代劇を見ながら、ナナはため息をついた。疲れた、とか、参った、とか、そういうつもりでしたわけではない。いつもよりもあっという間に、すごい速度で一日が終わったからだ。
できるなら、このまま時間が止まって、ずっと話をしていたかった。
「……一日も終わりだね」
「…………」
シフォンの言葉にも、ため息交じりで頷くだけだ。
こんな楽しい一日は、どれくらいぶりだろう。少なくとも、物心ついてからの記憶には、ないような気がした。
「それじゃあ夜になるし、ボクはそろそろ帰ろうかな」
「えっ?」
だが、立ち上がったシフォンの言葉に、ナナは耳を疑った。
帰る。今、帰ると言ったのか?
「い……い、今、から?」
信じられなくて、思わず聞いていた。
これから日が暮れて、夜になる。夜になれば、街道はほとんど様子が分からなくなる。今日は雲が少ないので、ある程度開けていれば見えないこともないだろうが、一人で夜道を行くのは危険だ。ましてこの物騒な昨今、夜は魔物の活動もより活発になる。
「うん、そうだよ」
しかし、聞き間違いではなかった。ナナの問いに、シフォンはあっけらかんと答えた。
「ひ、一人、で?」
「うん。なんで?」
「だ……、だって、あ、危ないよ……」
最寄りのレンデフェルンでも、歩いていけば数日はかかる。ブリュークスハイムとなれば、さらにもう二日か三日は増えるだろう。道中の野宿は仕方がないとして、何もわざわざ夜に出立しなくてもいいだろうに。
「危ない、か……そうか、普通、そう考えるのかな」
ナナの言葉に、シフォンは目からうろこと言わんばかりに頷いている。完全にそうした発想がなかったらしい。
「と、泊まってったほうが……」
「そうだねえ……でも、ボクお金持ってきてないよ」
「えっ」
「泊まるつもり、なかったからさ。だから帰……」
「う、うち、大丈夫だよ」
「うん?」
思わず言ったナナだったが、言ってから、何を言ってるんだと、自分の目を丸くする。その目の前で、初めて彼女に言葉を中断されたシフォンが、同じように目を丸くしている。
その様子に、考えるよりも早く、口が動いていた。
「あ、ああ、あの、その……う、うち、教会、だから。お金がない人とか、宿屋に泊まれなかった人とか、よく、泊めるし……だ、だから、その、よ、よかったら、よかったらなんだけどっ。と、泊まって、いかない、かな……」
「……言い切ったね。珍しいこともあるもんだ」
「…………」
まったくそうだと、心の中で何度も首を縦に振る。これだけ長くしゃべれるなんて、自分でも驚きだった。
「いいよ、その頑張りに免じて泊めてもらおうかな。でも、ちょっと待ってて」
「?」
言いながら、シフォンはナナに背を向けると、右手から何やら魔力をほとばしらせた。それは黒く、既におおむね太陽から星への役者交代が済んだ今、ほとんど宵闇に溶けてしまっていて、具体的なことは背中越しではよく見えない。
しかしほどなくして、その魔力の奔流の中に、人影が浮かび上がった。それははっきりと誰の顔、と認識できないほどにはおぼろで、ナナはすぐにそれがどんなものか考えるのをやめた。
「オルトゥス? うん、ボク。そっち、どう?」
『申し訳ありません、特に進展はございません。毎度ながら、破壊するわけにはいきませんからねえ……』
その黒に浮かび上がった人影のものらしい声が、聞こえてくる。それはシフォンの、どこか心をくすぐる鈴のような声音とは違い、地面の奥底から湧き上がってくる地鳴りのように低い声だ。
「にしても、いつも以上に手こずるね。やっぱり、凍土は難しい?」
『はい。ウェルリースと一見同じに見えますが、あそこは水のすぐ近くの地層、今回とはかなり条件が違います。レスレクティオでは目立ちすぎて敵に気付かれますし……サクリフィキウムが生きていれば、もう少し早くできたのでしょうが』
「……もういない奴のことを言ってもしょうがないよ。オルトゥス、焦らずベストを尽くせ。何かあったら、すぐに報告を」
『御意』
何の話をしているのか、まるで見当がつかなかった。土がどうの、水がどうのという単語の一つ一つは理解できるのだが、それが何を意味しているのかは不明だ。
そもそも、シフォンがオルトゥスなる人物と会話しているこの状況も、よくわからない。魔法なのだろうが、なんだか普通の魔法ではないような気がして、ナナの肌は粟立ってならなかった。
「それでね、オルトゥス。実はさ……ちょっとシェラムルに滞在しようと思うんだけど、いいかな?」
『シェラムルに……? あそこは戦略上、重要な場所とは思えませんが……』
「うん、それはそうなんだけどさ。ちょっと面白い奴がいてさ。しばらく付き合おうと思うんだ」
この意味するところは、さすがにナナでも理解できた。面白い奴、というのは考えるまでもなく自分のことだろう。
そんな風に思われるのは初めてだ。シフォンと一緒にいると、まったく初めてづくしで、人生の長さに反して経験の少ないナナの感覚は、麻痺してしまいそうだった。
「それで物は相談なんだけどさ……ボク、しばらくそっち空けていい? 見つかるまではボクがいなくてもいいでしょ?」
『……わかりました。確かにトーカリウス様は、長く主のために働き続けてまいりました。たまには、ゆるりと羽を伸ばされるのもよろしいでしょう』
「あはは、話がわかる部下を持って嬉しいよ」
『ありがたきお言葉……』
「じゃあオルトゥス、レスレクティオにも伝えといて。そっちは二人に任せる。何かあったら、遠慮なく呼んで。飛んで帰るから」
『御意』
その言葉を最後に、黒い魔力の中におぼろに浮かんでいた人影は消えた。だがそれでも、そのオルトゥスなる人物の声はしばらく、木霊のような響きを伴って、残っている。
ほどなくして魔力そのものも、シフォンの手のひらから消えた。そして彼は、それを見届けた上でゆっくりと振り返る。
「……あはは、いろいろと聞きたそうな顔してるね」
振り返ってすぐに、苦笑するシフォン。そしてナナが思っていたことを言うより早く、続きを口にする。
「今のは一種の魔法さ。遠くにいる奴と話をする、っていうね。さっきのはオルトゥス、ボクの部下の一人だよ」
「……そ、そう、なんだ……」
「で、本題。外泊と休暇の許可出たよ」
「え、あ」
「だから、しばらくお邪魔させてもらおうかな、って。いいかな?」
「う、うん!」
微笑むシフォンに、ナナは大きく頷いた。いろいろな感情が、胸中にあった。いつもならそこにあるのは、負の感情だけなのに。しかし今日は、逆。
「えと、こ、こっち、だよ」
「うん、案内よろしく」
そうして二人は、連れ立って日の暮れたシェラムルを少しの間歩く。
家と家の距離はかなり離れている。が、それでも隣の家が見えないほど離れてはいない。ぽつり、ぽつりと続く灯火の光が、物寂しさと共に並んでいる。その光の一つ一つに、それぞれの暮らしがある。
そんな家々を縫うようにして、二人は歩く。村の光景はあまり見たことがないのか、シフォンはもの珍しそうにそうした様子を眺めていた。
「し、シフォンくん、あそこ……あそこが、あたしの家……」
「へえ」
間近に迫った自宅、兼教会を示したナナに、シフォンが嘆息を漏らした。
それは、この小さな村にあって、唯一の二階建ての建物だった。その上にはさらに鐘楼があり、小さいながらも鐘が揺れている。壁にあしらわれた彫刻や彩は決して華美ではないが、神をまつるため、信仰を集めるため、ささやかながら丹精込めて建てられたであろう雰囲気に満ちていた。
「……教会って、どこも立派なものだけどさ。ここは周りに家があまりないから、随分と立派に見えるね」
「う、うん。やっぱり、そう見える、かな……?」
「かなり、ね。でもそれにしても、きれいにしてあるし、いい建物じゃないかな。ボク、その手の神様って信じてないけど」
「……そう、なの?」
「うん、信じてない。……いや、存在するってのは知ってるから、ある意味で信じてはいるのかな。信仰の対象ではない、という意味で信じてないっていうか……」
「おや?」
あごに手を当てて、考え込みながら歩いていたシフォンのつぶやきを遮るように、前方から男性の声が振ってきた。
二人がそちらに顔を向ければ、白い簡素な服に身を包んだ初老の男性が、教会の扉から顔を出していた。胸元には金色の十字架が下げられており、彼が聖職者であることは深く考えるまでもないだろう。
その男性の顔を見て、ナナは彼に走り寄ると、その太い腕の中に飛び込んだ。
「お義父さん、ただいま」
「ああ、おかえりナナ。今日は遅かったね、ちょうど探しに行こうかと思っていたところだ」
「ごめんなさい、心配かけて……」
「いいんだよ。……ところで、そちらは?」
男はナナを抱きとめながらも、後ろで二人を見上げているシフォンに気付き、そちらに視線を移した。
目を向けられたシフォンは、ナナが紹介するより早く一歩前に歩み出ると、ぺこりと頭を下げる。
「初めまして。ここに来れば泊めてもらえるって聞いてね」
「はい初めまして。私はここの神父をさせていただいております、ディーズというものだ」
「お、お義父さん、えっと、シフォンくんね、お金持ってないみたいで……その、と、泊めてあげられないかなって」
「なるほどなるほど」
ナナに、頭をなでる形で応じながら、ディーズはシフォンの前に立つ。そして腰をかがめて、彼と同じ目線にしてからにこり、と微笑んだ。
「シフォン君、と言うんだね」
「うん」
「宿屋のような気の利いたおもてなしはできないが、それでもいいかな?」
「構わないよ。雨風がしのげるだけで十分さ」
「いい子だね。……さ、二人とも中にお入り。ご飯にしよう」
立ち上がるディーズに背を押される形で、ナナとシフォンは教会に足を踏み入れる。そしてすぐそこにいた、これまた初老の女性に迎えられた。
ディーズと同じく、金色の十字架を首から下げている。彼女もまた、聖職者だろう。
「おかえり、ナナ。……あら、お客さん?」
「ただいま、お義母さん」
「ああ、お客さんだ。ララ、準備を頼むよ」
「はい、わかりました」
ディーズの言葉に微笑みながら頷くと、ララと呼ばれた女は、奥へと入っていく。三人も、彼女を追う形で教会に連結された居住スペースへと移動する。
「ララ、か。なるほどなあ」
その道中、シフォンが妙に納得した表情でつぶやいたのを見て、ナナは首をかしげた。
「……何が……?」
「んー? いや、ナナの名前はあのララって人から取ったんだろうな、って思ってさ」
「ははは、その通りだよ」
シフォンの言葉に、ディーズが答える。
「ちょっと安直だったかな?」
「いいんじゃない?」
「う……うん、あたしも、気に入ってる、よ」
「ははは、ありがとう」
笑いながら鼻の下をしきりにこするディーズ。どうやら、照れているらしい。そんな純朴な様子は、少年がそのまま大きくなったかのようだ。
「それに、似合ってるしね」
だが、そんなディーズを尻目に、そんなことを言いながらシフォンが流し目をくれるので、ナナは思わずどきりとした。
廊下にかけられた燭台の灯りに照らされる瞳は、昼間、太陽の下で見るのとはまた違う。躍るような炎を抱いたそれはひどく魅惑的で、身体の感覚が溶けてしまいそうな気にさせる、妖しい美しさにあふれている。
ナナがそれに射抜かれたのは一瞬だったが、それからしばらく、彼女は動悸が止まらなかった。それくらい、彼の瞳は妖しく、艶やかだった。魅入られる、というのは、まさにこういうことだろうかと、ナナはうっすら考えるのだった。
それからどのようにして床に就いたかは、あまり覚えていない。気づけば鶏が夜明けを告げる声を聞いており、窓から差し込む日差しをぼんやりと見つめていた。
眠気はあまりない。ただ、寝起き独特の気だるさにしばらく身を任せて、身体が動くようになるのを待つ。その傍らで、昨日のことを考える。
シフォンを名乗る、美貌の少年。子供らしからぬ落ち着いた言動は、彼が見た目通りの少年だと思うには、少し違和感があった。それに、あの誘惑するかのような瞳も、とても子供には思えない。
しかし、そんな彼が、自分を普通の人間と同じように接してくれる。それが何より、ナナにとっては嬉しかった。 そこまで考えて、彼女はベッドから身を起こした。今、シフォンは何をしているだろう。そう考えると、自然と体が動いていた。
一階まで下りれば、既にパンケーキが焼けるいい匂いが漂っている。食堂まで行けば、普段より一人分多い朝食の準備に追われるララが、かまどの火加減を調整していた。ディーズの姿はない。が、外から定期的に聞こえてくる芯の通った音から、恐らくはいつも通り、朝の日課である薪割だろう。
「おはよう、お義母さん」
「あら、おはよう」
「……シフォンくん、は?」
「あの子なら、外で水浴びしているわ」
「みず、あび?」
予想していなかった答えに、思わず目が丸くなる。だいぶ温んできたとはいえ、まだ春は遠い。朝に水浴びをするなんて、ナナにとってにわかには信じがたい話だった。
「裏手にいるはずよ。せっかくだしナナ、呼んで来たら? そろそろご飯ができるわ」
「……う、うん」
「ついでにディーズさんも呼んできてくれるかしら?」
「わかった」
料理に追われるララの背中に返事をして、ナナは食堂を後にした。
勝手口から教会の裏手に出れば、そこには大きな一本松がある。そのすぐそばで、予想通りディーズが斧を振るっているのが見えた。
「おはよう、お義父さん」
「ああ、おはようナナ」
返事と共に斧が振り下ろされ、薪が割れる小気味いい音が響いた。既にある程度動いているのだろう。ディーズの額には、うっすらと汗がにじんでいる。
「そろそろご飯できるって」
「そうか。わかった、ありがとう」
「シフォンくんは……?」
「ああ、彼なら井戸のほうにいるよ。ほら」
ディーズに差されたほうを見れば、なるほど確かに、石組みの井戸枠を挟んだ向こうにあの美しい月色の髪が見えた。
「ありがと、お義父さん」
「ああ、どういたしまして」
ディーズに手を振って、井戸へ向かう。向かうと言っても、すぐそこだ。ナナは、手を振って近づきながら、シフォンに向かって声をかける。
「シフォンくーん」
ただ、その声はあまり大きくはなかった。日ごろから声を発する習慣があまりないナナにとって、離れたところにいる相手に声を張り上げる行為には、まったく縁がないからだ。
しかし、シフォンにはしっかり届いたらしい。彼は、井戸桶を片手に持ったまま、こちらに振り返った。
ナナは、そんな彼に思わず足を止める。
「ああ、ナナ」
そう言う彼の姿は、ひどくなまめかしく、艶やかだった。濡れそぼった髪は、ただでさえ光を魅せる月色を一層際立たせている。水が滴る肢体はどこまでも白く、しかし冷水で刺激された裸体がほのかに紅潮している様子は、実に耽美だ。
「おはよう」
そう言われるまで、ナナはシフォンのそんな姿に見とれていた。ようやく我に返り、慌てて頷き返す。
「う、う、うん、おはよう……」
「どうかした?」
「う、ううん、な、なんでも、ないよ……」
首を傾げるシフォンに、ナナは髪を振りまく勢いで首を振る。
それ以上、近づけそうになかった。近づいたら、井戸枠で隠れたシフォンの身体がすべて見える形となる。子供とはいえ、他人の裸を見るのは気が引けたし、何より彼の身体をすべて見てしまったら、なんだか自分がどうにかなってしまうような気がした。
「さ、寒く、ない、の?」
「全然。いつもしてることだし。……ナナもする? すっきりするよ」
「あ、あああ、あたしは、遠慮、しとく……」
だがシフォンは、どこまでも屈託がなかった。朝でまだ少し気が抜けているのか、その表情はどこか柔らかい。そっか、とつぶやくと、改めて桶の中の水を頭からかぶった。
いつもしているとは言っても、絶対寒いはずだと、内心ナナは叫んだ。見ているだけで、こちらが寒くなる光景である。
夏場は確かに水浴びもするが、夏の井戸水は冷たいので、それほど頻繁に水浴びをする習慣はナナにはない。いや、ナナに限らず、この村の住人全員に、そうした習慣はないと言っていい。
「ん。ふい。あー気持ちよかったー」
自分がしているわけでもないのに寒気を感じて震えるナナを尻目に、シフォンは手早く身体を拭いて、服を着始めていた。
そういえば、彼が着ていた服は袖がない。今もそうだ。しかもマントを除けば、重ね着をしているわけでもない。彼は先天的に寒さには強いのかもしれない。
「どうかした?」
「…………」
着替えを終えたシフォンが、近づいてきて言う。上目遣いに覗き込んでくる緑の丸い瞳が、どこまでも透き通っている。そこに潜り込めたなら、彼の心の奥にまで行けるのではないか。そう、思わせるほどに。
「……なんでも、ないよ」
「ふうん? 今朝のナナはちょっとヘンだな」
否定はできなかった。ただ、言い訳が許されるなら、それはシフォンのせいだと言いたかった。その一挙手一挙動が、心をとらえて離さないのに。
「おーい、二人ともー」
そんな二人に、ディーズの声が飛んできた。そちらを見れば、彼は先ほどまで割っていた薪をひとくくりにまとめた束を両手に持って、こちらを向いている。
「ご飯ができたそうだよー。食事にしようー」
「はーい」
彼に手を振って、ナナは歩き出す。隣に、シフォンが並んだ。
「……シフォンくん、甘いものって、食べられる?」
「大好きだよ。何が出るのかな?」
「えっと、冬はね、ジャムを作りおいてある、から……パンケーキがほとんど、かな」
「へえ。それは楽しみだ。イチゴかな? ミカンかな?」
「……どっちも外れ」
「違うの? じゃあ、答えを楽しみにしとくよ」
そう言って無邪気に笑うシフォンの顔を見て、ナナは胸が高鳴るのを覚えた。ディーズに追いついて三人になってからも、その感覚が消えることはなく、しばらくその高鳴りに、彼女は少し、困惑するのだった。
朝食を済ませれば、もうナナにすることはない。いつもなら、礼拝堂に入るディーズとララを見送ってから、シェーラ池に向かう。
しかし今日は、シフォンが二人の仕事を見たいと言うので、母屋に繋がる通路から、こっそりと様子をうかがうことになった。
教会で生活してはいるが、なんだかんだでナナも、彼らが具体的にどういうことをしているのかは知らない。よい機会だとも思えた。
「天におわします全知全能の神よ……」
祭壇の前に立ったディーズが、祝詞を捧げている。その内容は、さすがに聞き覚えがあった。ナナの記憶が確かならば、聖書の冒頭の一節だったはずである。
ディーズの後ろには、彼の祝詞に合わせて数人の男女が祈りを捧げている。一日を教会からという、敬虔な信者たちで、その顔はナナも知っている。傍らには、ララが寄り添っていた。
「……なるほどね、これがヴィーノの教えってやつか。実際に見聞きするのは初めてだ」
「……あたしも、かも……」
小さく開けた扉の隙間から様子をうかがうようにして、二人はささやきあう。
「冗長で面倒だなあ。言葉そのものに意味があるとは言っても、所詮姿を見せたことのない神に捧げようっていうんだから、どれが正しいのかわからないんだろうね」
「…………」
「……大体わかったよ。付き合わせて悪かったね」
「う、ううん、そ……そんなこと……」
「悪いついでに、もう一ついい?」
「……?」
「本が読みたいな。知識階級の二人なら、ある程度蔵書は持ってるでしょ?」
「本……」
その申し出は、ナナにとってまったく予想だにしないものだった。そもそもナナ自身、読み書きは堪能ではないので、ディーズが持つ神学書や魔導書は、彼女には難しい。だから、そうした習慣は身に着かなかったのである。
しかしシフォンは、さすがに人を率い、上に立つ人物ということだろうか。その見た目とは裏腹に、知識に対する欲求はとても旺盛なようだ。そしてそれを満たすことができるだけの知識が、しっかり備わっている。
上流階級の人は違うなあ。それが、最終的にたどり着いたナナの感想だった。
「……ひょっとして、他人には見せられない?」
ナナが考えている間の沈黙を、シフォンは何か規則があると思ったようだ。首をかしげながら、顔を覗き込んでくる。
「へ、ち、……違う、よ……」
「本当に?」
「……ん、うん……本なんて、……気に……したことなかった、から……」
シフォンの顔が近い。自分に向けられた月色の視線に、身体が熱くなる。ナナは、それを振り払おうと踵を返した。
「こ、こっち……」
とはいえ、案内するほど離れているわけではない。食堂の隣なのだから、数十歩も歩けば到着する。
扉の造りは食堂とほぼ同じだが、食堂との違って普段は扉で閉ざされている。たった二人で教会をきりもりしなければならないから、ディーズたちがここを使うことはなかなか多くない。
しかし、だからと言って鍵がかかっているわけでもない。都の王立図書館などに比べれば、ここに保管している書物などは、盗難を気にするほどの代物ではないということなのだろう。
「ここ、だよ……」
重苦しい悲鳴を上げながら、扉が開かれる。その瞬間、ほこりが舞い上がって二人を出迎えてくれた。
「……全然使われてないんだなあ」
その熱烈な歓迎に顔をしかめながら、シフォンは人差し指を小さく振った。
するとそよ風が吹き、ほこりから二人を守りながら、そのまま窓に向かって誘導していく。魔法だろうか。ナナは、思わず変な声が出た。
ほどなくして、書斎に積もっていたほこりは一掃されたようだ。むせ返るような嫌な臭いが、嘘のように消え失せていた。
「えっと、……ま、ど……あ、あった……」
そして、ナナが雨戸まで締め切られた窓を開け放てば、新鮮な風と共に、太陽の光が差し込んできた。一気に室内が明るくなる。
そこは、小さいながらも壁一面が書架となった立派な書斎だった。棚の大半はしっかりと本で埋まっており、古いものから新しいものまで様々のようだ。
「……へえ、結構あるじゃないか」
「う、うん……でも、その、難しい、よ……?」
雨戸を開けた状態にして窓を閉めながら、振り返る。数えるほどもこの光景は見ていないが、ナナにとっては圧倒されるほどのものだった。
その前で、シフォンが腕を組んでいる。顔が動いているので、棚の本を順繰りに眺めているのだろう。
邪魔はしたくなかった。だからナナは、彼のすぐ後ろに立って、彼が本を取るのを待つことにする。
「……あ」
ほどなくして、シフォンはめぼしいものを見つけたらしい。不意にそう声を上げると、隅のほうの、古びた本だけが治められた書架に近づいた。そして、その上のほうの棚から、一冊の本を引っ張り出す。
傍目から見ていて、彼の身長では絶対に届かないと思ったが、それは杞憂だった。届かないどころか、彼は軽々と跳躍してあっという間に天井近くまで舞い上がると、しばらく空中に滞留して、簡単に目的のものを取ってしまったのだ。出番のなかった梯子が、切なそうに沈黙している。
一体何が起きたのか、ナナにはさっぱりだった。魔法だということは理解できる。できるが、その魔法をどうしたらこのような使い方ができるのか、見当もつかない。月に愛されている彼だからこその芸当なのだろう。
「見てよナナ、随分と貴重なものがあったよ」
そんなナナをよそに、シフォンは楽しそうな声と共に、今し方手にした本の表紙をナナに見せてきた。
「……?」
だが、貴重と言われたそれに記された文字が、ナナには読めなかった。汚れていたり、欠損しているわけではない。単純に、文字そのものが見覚えのないものだったからだ。一部は見知った単語もあったが、それでも読めたのは、「私」「見た」の二語だけだ。
そんな彼女の様子を見て、シフォンはああ、とだけ言うと、彼女を近くの机にいざなう。そのままシフォンには幾分大きい椅子に腰かけると、机の上に、先ほどの本を置いた。
ナナは、そんなシフォンに黙って付き従う。彼の後ろに立てば、本の中身がナナに見えるように、こちらに示してくれていた。
「これはね、『私が目撃した夢幻魔法に関する記述と考察』って書いてあるんだよ。著者が見た、夢幻について書いてあるんだと思う」
「…………」
「夢幻は、神域に住む世界樹の一族にしか使えない、極めて稀有な魔法だ。それについて記された本が神域の外にあるなんて、相当な値打ちものだと思うよ」
「そう、なんだ……?」
見た目からは、とてもそうは見えない。聖書などに比べると装丁は粗末であり、どちらかといえば、日記のような手軽な雰囲気すらある。
「……後クレセント暦千二百三十一年銀狼の輪十八日著す、か。確か、今は二千五百八十三年だっけ? 前回の直後くらいに書かれたんだね。年代ものだなあ」
だが、シフォンは珍品に出会えたからか、うきうきした様子でその本を眺めている。ナナにはどうしても、そんな大昔のものが貴重には思えなかったのだが、彼の様を見る限り、そんなことはおくびにも出せない雰囲気だ。
「見てよナナ、書き出しもすごいよ。『邪神討伐のため、共に旅した夢幻の君。神域に帰ってしまった彼を偲び、これを記す』だってさ。歴史どころか神話だね、これは」
「邪神……」
「いるよ。魔物だっているだろ? それより……ほら、夢幻魔法がいろいろ載ってるよ」
シフォンが記述を読み上げながら繰るページの端々には、絵が載せられている。それらは決して写実的なものではないが、なんとなく、その注釈や説明が読めなくても、どういうものかがうかがい知ることができた。
ナナが見ただけで理解ができたのは、炎が壁のようにせりあがっているもの、巨大な氷の刃が魔物を薙ぎ払っているもの、いかずちが雨のように降り注いでいるものくらいだったが、それでもそれらが、普通の魔法とは違いすぎる規模のものなのだと理解するには十分だった。
自分にも、これらと同じことをするだけの力があるのだろうか、と考えてみる。しかし、仮にできたとしても、結局忌み子として扱われることには変わりないのだろうな、とも思った。そう思うと、無性にやるせなさがこみ上げてくる。
「何もそう気にしなくていいじゃないか」
「え……」
シフォンの声に思わず顔を上げる。そこには、こちらに顔を向けたシフォンがいた。
「ナナは気にしいだなあ。どうせ、ホントに自分が夢幻使いなら、どうしてこんなに差があるんだろう、とか考えてるんだろ? で、どっちにしても虐められるのかな、とかさ」
「…………」
図星だ。ナナは、口をつぐむ。そして、何をどう言えばいいのかわからず、ひたすらおどおどする。
「言わなくてもわかるよ。ナナは顔に出やすいから、わかりやすいもん」
だがそれすらもシフォンは見透かして、そう言った。やれやれ、とでも言いたげに小さな肩をすくめながら。
「ぅ……」
「気にしたってどうしようもないじゃないか。いや気にするのは仕方ないにしてもさ。ありもしない自分の姿を想像して、その想像で落ち込むって、ばかばかしいって思わない?」
「…………」
その通りだ。その通りなのはわかっている。わかってはいるが、それでもその考え方は、シフォンのように強い人間の発想だと、ナナには思えてならなかった。
ずっと、自分の価値を認めてもらえなかった空しさ。ずっと、自分を否定され続けてきた苦しさ。そんな負の感情は、さらなる負の感情を生み、連鎖を起こす。そんな連鎖に陥った人間には、後ろを向くことで精一杯なのだ。
だが、そんな思いを爆発させることなど、ナナにはできない。気持ちがどれだけそれを訴えても、無意識のうちにそれを押しとどめてしまう。
周りに迷惑をかけてしまうから。言ったら、本当になってしまうから。
「……それにナナ。ナナは夢幻の血族だ。あんまり、自分の悪い姿考えないほうがいいよ。それが本当になっちゃうかもしれない」
「……っ」
「だから、とりあえず自分はすごいんだって、そう思っとけばいいよ。そうしたら、もしかして夢幻が発動して、本当にすごい自分になれるかもしれないじゃない?」
「…………」
「夢って、そういうものじゃないのかな? そういう意味での夢、という概念はボクにはよくわからないけどさ」
そう締めくくって、シフォンは本に目を戻した。
彼の言うように、思い続けていれば実現するだろうか。口にし続けていれば、あるいはその可能性も……。
「…………」
いいや、という否定は、胸の内だけで終わる。
自分は、幸せになる資格なんてない。なってはいけない。
その思いは、もはや拭い去れないだろう。心のどこかで望んではいても、抑圧された経験がそれを許せないから。
ちら、とシフォンに目を向ける。彼は、もはや完全に本の世界に没入していた。その美しい瞳をさらに輝かせて、目の前の新しい知識に夢中になっている。
素敵な姿だな、と思えた。うらやましくはない。彼の、そうした姿が見られるだけで、なぜかそれでいいような気がした。
ナナは、シフォンの邪魔にならないように、部屋の隅に移動すると、本棚を背にして座り込んだ。そして、椅子の背もたれにすっぽりと隠れてしまった彼の後姿を考えながら、彼が口を開いてくれるのを待つのだった。
ひんやりとした風を受けて、ナナは目を覚ました。どうやら、床に座ったままうたた寝をしてしまったようだ。
身体を起こそうとして、彼女は自分に毛布がかけられていることに気がついた。自分の部屋にあるものではない。普段自分が使っているものは、もう少し粗末だ。これは、客室で使っているもののはず。
そこまで考えて、彼女は前に目を向ける。椅子に隠れてしまって見えない小さな姿を思い起こす。
もしかして、彼が? そう思って、声をかける。
「……し、シフォン、くん……?」
しかし返事はなかった。まだ本に没頭しているのだろうか。
ナナは、少し痛む節々をさすりながら立ち上がると、そっと椅子の中を覗き込んだ。
「…………」
そこには、胸に本を置いたまま、背もたれに身体を預けて寝息を立てているシフォンがいた。
その姿は普段の彼とは比べ物にならないくらい無防備で、毒気のない寝顔はかわいらしい少年そのものだ。だが、少しだけ乱れた翠緑の髪が鼻筋から頬にかけてかかる様はどこかなまめかしく、妙な感情を覚えそうになる。
ナナは首を振った。なぜそんな感情が首をもたげたのかわからない。わからないが、とにかくその気持ちを振り払うようにして、首を振った。
それから彼が胸に抱いた、開きっぱなしになっている本に目を向ける。その表紙は、先ほど見たものとは違う。何冊目かはわからないが、少なくとも自分がうっかり寝ている間に、最初の一冊は読み終えたのだろう。
こうしてシフォンの姿を眺めると、改めて不思議な子だと思えた。時折人をからかってみたかと思えば無邪気に笑い、かと思えば深い知識と見解を持ち合わせていて、大人顔負けの冷静さは見習いたいほど。魔法にも極めて秀でているように見えるし、もしかしたら、武術にも堪能かもしれない。
そうしてよくよく考えれば、ナナは彼のことをほとんど知らない。知っているのは名前くらいで――いや、そもそもその名前すら、もしかしたら本当の名前ではない可能性もある。
数日前に会ったばかりの、見知らぬ少年。ナナにとって、シフォンはそういう存在のはずだ。
けれど、と心の中で首を振る。
そんな他人でしかない彼を見ていると、少しずつ鼓動が大きくなっていくのを感じる。その現象が何を意味するのかわからないまま、それでも彼ともっと話がしたいと、せめて友達になりたいと、そう思うナナだった。
「…………」
起こそうかどうするか少し考えて、無理に起こさないことにした。自分に掛けられていた毛布を、シフォンにかける。
が。
「きゃ……っ!?」
シフォンに近づいた瞬間、ナナは腕をつかまれて一気に引き寄せられた。そして、喉元に冷たい何かが当てられる。
「…………」
「…………」
呼吸をすれば息がかかるくらいすぐ目の前に、シフォンの顔があった。開かれた瞼から、宝石のような美しい瞳がナナを見据えている。
早鐘のようにどくどくと胸が鳴るのを感じた。彼が近くにいるからではない。あまりにも突然の出来事に、心底驚いたからだ。
喉元に当たっているのは、どうやらシフォンの指らしい。指のはずだが、刃物を当てられたような気がして、息が詰まった。
しばらく二人は、そうしてまるでにらみ合うようにして硬直していた。だが不意にシフォンが表情を崩すと、ナナは毛布越しに彼に抱きとめられる。
「!?」
せっかく静まりかけていた動悸が、また一気に加速する。状況が読み込めなくて、頭の中がどうにかなりそうだった。
「……もしかしなくても、ボク寝てたよね」
「…………」
シフォンの問いにも、ろくに答えられなかった。ただぎこちなく頷くだけで精一杯だ。
「ごめん、ナナ。癖なんだ。寝てる時に接近されると、無意識に攻撃しちゃうんだよね」
「…………」
「危うく喉かっさばくトコだった。よかった途中で気付けて」
「……!?」
不穏な言葉に、背筋が凍るかと思った。思わず飛びのこうともがく。しかし、身動きは一切できなかった。ナナの身体を抱えたシフォンの腕の力は、その細腕からは想像できないほどに強く、ナナをとらえて離さない。
「悪気はないんだ……完全に反射的に動いちゃうんだよ」
「ふひゃ……っ」
「ごめん、言い訳だね。ホント、ごめん……」
「ひ、ん……!」
なぜか、シフォンはナナを離してくれない。それどころか、耳元でささやくように話しかけてくる。彼の吐息を感じるたびに、身体の奥から全身がうずく感覚が湧き上がってきて、思わず声が出てしまう。
「し、……し、ふぉん、くん……」
「ん?」
「……、は、恥ず、かしい、……」
「……え、なんで?」
「な、なんで、って、……、……」
決死の覚悟で言ったというのに、ナナの意図は伝わらなかった。いつもなら、こちらの表情から考えていることを当ててくるくせに。
それとも、これもからかわれているのだろうか。シフォンの考えていることは、とても読めそうにない。
「…………」
「えーっと、ごめん?」
本当に悪気はなかったようだ。シフォンは首をかしげながら、ナナの身体から手を放す。ようやく身体を起こしてシフォンから距離を取ったが、それでもまだ彼はすぐ目の前にいる。ナナは高鳴る胸の鼓動を抑えきれず、荒い息をついた。
「……っ」
「えっと。なんか、うん、ホントごめん。大丈夫? 顔、真っ赤だけど」
「…………」
あまり大丈夫ではなかったが、とにかく何度も頷く。胸に手を当ててみれば、胸が破裂してしまうのではないかと思えるほどの激しい拍動が、手に伝わってくる。
しばらく、シフォンは黙っていてくれた。何か言うでもなく、何かをするでもなく、ただ静かにナナが落ち着くのを待っていた。
じっと見つめられているのは慣れていないし、何よりあんな蠱惑的な瞳で見つめられたら、また胸が高鳴ってきそうだったが、目を閉じて深呼吸を繰り返すことで、なんとかそれを乗り切る。
「はい。無理しちゃダメだよ」
ナナが落ち着いたタイミングを見計らって、シフォンは二人を薄皮一枚で隔てていた毛布をかけてきた。そのまますっぽりとナナの身体を覆いこむ。
「……ありがとう……」
「ん」
だいぶ、シフォンの近くにいることにも慣れてきた。ただ、やはり少しだが動悸は感じる。
「……あ、の、……さ。……これ、シフォンくん、が……?」
「うん、寝ちゃってたから。ナナの部屋がどこかわかんなかったから、ボクの部屋にあったの使ったけど」
「あ、あり、がとう……」
「どういたしまして」
薄く微笑んだシフォンの顔が、たとえようもなくまぶしく感じた。彼の優しさが、そうやってにじみ出ているような気すらした。
「……ナナ、外の空気吸おうか。本はしばらく置いとこう」
「う、……うん」
そして二人は、連れ立って書斎を後にする。
向かうのは、いつもの場所だ。シェーラ池のほとりにたたずむ、大きな古い切り株。
道すがら周りから向けられる視線は、いつにも増して痛い。よそ者と忌み子の組み合わせだ。排他的になりがちなこの小さな村では、仕方がない。
しかしそれでも、隣にシフォンがいてくれるだけで、そんな心の痛みなど気にならないくらい、彼の小さな身体が頼もしかった。
この気持ちは、なんなのだろう。
ナナは池に着くまでの間、そんなことを考えながらずっとシフォンの姿を見つめていた。
思ってた以上に長くなったので、分割して投稿します。
続きはもう少しお待ちください。